農業 トレンド
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2025.11.25 02:00
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人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
農家ですが、農業のなり手不足していません。
繁忙等はアルバイトを募集するのですが、1人か2人の所に10人以上の応募があります。全員倭国人です。
求人サイト見てください。indeed等でも農家の募集、人気です。 https://t.co/qEfgcEzTrr November 11, 2025
58RP
米国 中国人留学生2名
農業テロ兵器「病原菌フザリウム グラミネアラル」密輸で逮捕
これ10月10日の出来事だったんですが、倭国メディアは全く報じなかったんですよね。
メディアの闇深さを感じると共に、倭国政府はこれでも中国人留学生を受け入れるんですか? https://t.co/C8e4Xarj0K November 11, 2025
15RP
某都内のマルシェにて
生産者A「新鮮な野菜いかがですか?」
消費者「聞いてもいいかしら?」
生産者A「はい、何でしょうか?」
消費者「この野菜は農薬使ってるの?」
生産者A「はい、使ってます。」
消費者「ならいらないわ。」
生産者A「・・・」
別のブースにて。
生産者B「〇〇のお菓子いかがでしょうか?」
消費者「ちょっといいかしら?」
生産者B「何でしょうか?」
消費者「この商品は無添加かしら?」
生産者B「無添加ではないです。」
消費者「ならいらないわ。」
生産者B「・・・」
仲野「ちょっといいですか?」
消費者「何かしら?」
仲野「なぜ無農薬や無添加だけを探してるんですか?」
消費者「だって農薬や添加物は危ないじゃないの。」
仲野「・・・」
都内の生産者イベントには必ずと言って言いほど無農薬や無添加を求める消費者層が現れる。
もちろん、無農薬や無添加を求めるのは自由。でもこちらの話も聞かず対応も横柄な人が多い。
この手の消費者を私は“勘違いキラキラオーガニック”と呼んでいる。
そんなに無農薬や無添加が欲しいなら自分で作ってみろ!といつも心の中で叫んでる。
#農林漁業 #農業 #食農夢創 November 11, 2025
15RP
昼は海に潜り夜は寿司屋を経営するゲーム『デイヴ・ザ・ダイバー』が「最安値更新」45%オフの1320円でセール中。500万本売れた超人気作
https://t.co/ZUBswW7YSN
海に潜るだけじゃなく、畑で農業・音ゲーまでなんでもあり。しかもメタスコア90点と高評価。2026年初頭には新DLCのリリースも控える https://t.co/iFRjdKrI37 November 11, 2025
9RP
これは何度か書いてきたことですが、戦争に行った亡き祖父は「倭国が戦争したのは『会社』のせいだ」といったことを発言しておったんですよ。祖父の幼少期、少なくとも庶民層の働き方とは農業、丁稚、職人みたいなのしかなかったのに、「会社」に入るというライフスタイルが次第に出現してきたと。>RT November 11, 2025
6RP
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三重県伊賀市の全体と、周辺一帯。
三重県伊賀市阿保1555にある大村神社と、西隣にある要石社(水かけなまず)と、要石そのもの。
三重県伊賀市阿保1532−1にある伊賀市上下水道部水道施設課青山事業所(今すぐ強制停止シャットダウンさせて、地下深くを奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!)
三重県伊賀市別府536番地にある心和総業と、東南方向隣に在る中部電力パワーグリッド青山変電所(今すぐ強制停止シャットダウンさせて、地下深くを奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼしまくれや!!!!)。
三重県伊賀市阿保885−11にある聖武天皇阿保頓宮跡と、西へ約120メートルに位置する西法花寺古墳(垂仁天皇皇子息速別命墓)と、これら周辺一帯広めで。
三重県伊賀市阿保956にある七つ塚(龍神石碑群)と、周辺一帯。
また、近隣の名張市の下比奈知には、地震の神であるなゐの神を祀っていたとされている名居神社が存在する[21]。
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三重県名張市の全体と、周辺一帯。
三重県名張市下比奈知2092にある名居神社と、西南方向へ約250メートルに位置する無名のため池と、更に南へ約250メートルに位置する広大なる小山の森林地帯。
三重県名張市つつじが丘北9番町234にある近畿環境サービス株式会社社員寮と、その西隣に建つ無名の不気味な建物と、これら周辺一帯。
三重県名張市春日丘2番町159にある名張市上水道 春日丘ポンプ所(今すぐ強制停止シャットダウンさせて、地下深くを奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼしまくれや!!!!)と、東隣に在る近畿大学工業高等専門学校と、北隣を流れる名張川と、これら周辺一帯。
【鹿島神社】
鹿島神社(愛媛県松山市北条鹿島)の要石(写真あり)
この地方では、地底にいる大鯰の頭を鹿島神がこの石で押さえ地震を防いるので地震が少ないと言い伝えられていた。傍らの石に「ゆるぐともよもやぬけじな要石 鹿島の神のおわすかぎりは」が刻まれている。
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愛媛県松山市の全体と、周辺一帯。
愛媛県松山市北条辻1595にある鹿嶋神社(鹿島神社)と、鹿島の山頂と、鹿島の島全体と、北に伸びている北条港鹿島神洗防波堤灯台と、西へ約400メートル、600メートル、700メートル(玉理島、寒戸島の夫婦岩)に点在する岩礁と、これら周辺一帯海底広めで。
愛媛県松山市八反地にある國津比古命神社と、周辺一帯。
愛媛県松山市上難波311にある愛媛県農林水産研究所と、東隣に在る雪幸園と、愛媛県農林水産研究所から東南方向へ約200メートルに位置する難波奥谷古墳と、更に東南方向に約120メートルに位置する金比羅宮と、これら周辺一帯広めで。
鹿島神社(宮城県加美町)
宮城県加美町の鹿島神社にも要石があり、風土記によれば鹿島神宮のものを模したものだという。
1973年にはまた別の要石が奉納され埋められた[22]。
この鹿島神社は鹿島神宮と祭神は同じだが、他の多くの「鹿島神社」と違い、鹿島神宮ではなく塩竈神社からの勧請である[23]。
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宮城県加美郡(加美町、色麻町)の全体と、周辺一帯。
宮城県加美郡加美町赤塚八番14にある鹿島神社の境内全部(埋められた方の要石の方が危険であろう)!!!と、展示されている要石と、これら周辺一帯。
宮城県加美郡色麻町四かま南川原にある河童川ポンプ場(今すぐ強制停止シャットダウンさせて、地下深くを焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!)
宮城県加美郡色麻町四竈官林にある念南寺古墳群(県指定史跡、古墳時代)と、周辺の史跡群名所群聖地群水辺群山岳群山頂と、それ等周辺一帯。
宮城県塩竃市の全体と、周辺一帯。
宮城県塩竈市一森山1番1号にある志波彦神社鹽竈神社と、周辺の広大な森林と境内と、南隣に在る塩竃公園と、これら周辺一帯。
宮城県塩竈市権現堂9−30にある権現堂 PC(隠蔽されているが、浄水場!!!。今すぐ強制停止シャットダウンさせて、地下深くを奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!!)
宮城県塩竈市権現堂2−43にある権現堂浄水場及び配水池(今すぐ強制停止シャットダウンさせて、地下深くを奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!!)
東京都八王子市の全体と、周辺一帯。
東京都八王子市椚田町549−8にある椚田遺跡公園と、園内の東南の隅にある要石らしき平べったい巨石と、傍に建てられた公衆トイレと、これら周辺一帯。
東京都東大和市の全体と、周辺一帯。
東京都東大和市芋窪3丁目1603にある蓮華寺と、西隣にある要石(豊鹿嶋神社)と、これら周辺一帯広めで。
東京都東大和市芋窪1丁目2067にある豊鹿嶋神社と、周辺一帯広めで。
東京都東大和市多摩湖町3丁目にある村山下ダムと、ダム湖である多摩湖(村山貯水池)と、これら周辺一帯広めで。
埼玉県所沢市の全体と、周辺一帯。
埼玉県所沢市上山口にある山口ダムと、ダム湖である狭山湖と、これら周辺一帯広めで。
島根県出雲市の全体と、周辺一帯。
島根県出雲市武志町673にある鹿島神社と、出雲市武志町地区の全体と、周辺一帯。
島根県出雲市中野町7−3にある「いずも電装」と、西北方向隣に在る要石(危険度最高レベル!!!)と、これら周辺一帯広めで。
石川県羽咋市の全体と、周辺一帯。
石川県羽咋市寺家町ケ1にある大穴持像石神社の境内にある地震石と、周辺一帯広めで。
石川県羽咋市寺家町リ128−1にある北部高台送水場(浄水場らしい・・・今すぐ強制停止シャットダウンさせて、地下深くを奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!)
石川県羽咋市寺家町ク1−1にある能登國一宮 氣多大社と、北隣に在る「氣多大社社叢入らずの森」と、更に北に在る無名の池と森林地帯と、これら周辺一帯広めで。
滋賀県長浜市の全体と、周辺一帯。
滋賀県長浜市早崎町にある琵琶湖の中に在る竹生島の全体(島そのものが要石であり、琵琶湖の大鯰が七重に取り囲んでいるらしい)と、周辺の琵琶湖一帯広めで。
滋賀県長浜市早崎町1664−1にある竹生島 宝厳寺と、北北東方向へ約200メートルに位置する竹生島の山頂と、これら周辺一帯。
滋賀県長浜市早崎町1665にある都久夫須麻神社(竹生島神社)と、東隣に在る弘法大師庵跡と、南隣に在る竜神拝所(八大龍王拝所)と、宮崎鳥居と、これら周辺一帯。
滋賀県長浜市早崎町865にある五社神社と、北北東方向へ約200メートルに位置する竹生島一の鳥居と、これら周辺一帯。
滋賀県長浜市早崎町1821にある竹生島神社辺津宮と、南隣の道路の南にある無名の変電所らしき施設(今すぐ強制停止シャットダウンさせて、地下深くを焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!)と、これら周辺一帯。
滋賀県長浜市早崎町389にある奥びわスポーツの森と巨大な池と、これら周辺一帯広めで。
滋賀県長浜市湖北町海老江1073にある湖北会 湖北まこも(障害者向けサービス&支援組織)と、西隣にある無名の浄水場らしき外観施設(今すぐ強制停止シャットダウンさせて、地下深くを奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!)と、南隣に在る早崎ビオトープと、これら周辺一帯広めで。
https://t.co/RqM9lZgNE3
高千穂神社の「鎮石(しずめいし)」
社用で高千穂神社へ出かけたので、久しぶりに境内を散策してきました。
深い緑に囲まれ鎮守の杜は、心を穏やかにしてくれます。
神社には「鎮石」というパワーストーンが祀られています。
強い気をもった方が前に立つと、仰け反るというお話も聞きました。
すごいですね。
(現地案内板より)
第十一代垂仁天皇の勅命により我国で始めて伊勢神宮と当高千穂宮が、 創建せられた際用いられた鎮石と伝えられます。(高千穂宮の鎮石→鹿島神宮創建時に用いられる→高千穂宮に返却された鎮石らしい?鹿島神宮にも要石現存してるので、2つ送ったのかな)
尚住吉、関東鹿島神宮御社殿御造営の際高千穂宮より鎮石が贈られ同宮神域に要石として現存しています。
またこの石に祈ると人の悩みや世の乱れが鎮められると言われています。
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鎮石の場所は、下記リンクで表示されます。(宮崎県西臼杵郡高千穂町向山1にある高千穂峡淡水魚水族館から西へ約100メートルの位置に在ります。32°42'06.5"N 131°17'56.3"E)
https://t.co/4P5FY7kdUX
宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井983にある鬼八(きはち)の力石
宮崎県西臼杵郡高千穂町にある仙人の屏風岩と、高千穂峡柱状節理と、真名井の滝と、周辺一帯広めで。
宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井1037にある高千穂神社と、本殿の東後方向隣に在る「高千穂宮鎮石」と、これら周辺一帯。
宮崎県西臼杵郡高千穂町の全体と、周辺一帯。
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大阪府大阪市の全体と、周辺一帯。
大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89にある住吉大社と、境内にある誕生石と、境内に在るはずの「住吉大社創建時に高千穂宮から贈られた鎮石」(=誕生石かも?おもかる石かも?)と、これら周辺一帯。
大阪府大阪市住吉区墨江1丁目5にある「おいとしぼし社」と、その北隣に在る大歳神社(住吉大社境外末社)にある大歳社で祀られている「おもかる石3つ」の事も・・・・
https://t.co/4zhCFPHNms
住吉大社の境内案内マップは上掲リンクです。
https://t.co/kv6orrflSu
摂津国一之宮
住吉神社の総本社
古くは摂津国 (せっつのくに=大阪府北西部と兵庫県南東部を占める旧国名) の中でも、由緒が深く、信仰が篤い神社として、「一之宮」という社格がつけられ、人々に親しまれてきました。
昭和21年までは官幣大社であり、全国約2300社余の住吉神社の総本社でもあります。
鎮座 神功皇后摂政11年(西暦211年)
祭神(三ツ星=オリオン信仰=エジプト系かな。住友銀行が平家系なので、住吉神社も平家系ペルシャ系だと予想しておりますが、ペルシャ系である更に前は、オリオン信仰エジプト古代王家系なのかも・・・・住吉大社オリオン三筒三星信仰・・・・)
第一本宮底筒男命
第二本宮中筒男命
第三本宮表筒男命
第四本宮息長足姫命(神功皇后)
祭神の由緒
住吉大社の祭神は、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、そして当社鎮斎の神功皇后を祭神とします。
仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬をあつめ、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれています。
「倭国書紀」や「古事記」の神代の巻での言い伝え
伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、ケガレを受けてしまいます。
そのケガレを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が生まれました。
鎮座の由緒
住吉大社は、第十四代仲哀天皇の后である神功皇后 (じんぐうこうごう) の新羅遠征(三韓遠征)と深い関わりがあります。
神功皇后は、住吉大神の加護を得て強大な新羅を平定せられ無事帰還を果たされます。
この凱旋の途中、住吉大神の神託によって現在の住吉の地に鎮斎されました。
のちに、神功皇后も併せ祀られ、住吉四社大明神として称えられ、延喜の制では名神大社、二十二社の一社、摂津国一之宮、官幣大社に列せられています。
https://t.co/CWhwIQtKqT
全国の『鹿島神社』《神社総数は530社》の全地点と、それぞれの由緒関係地点群と、それ等周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それ等周辺の地下深くが、今の危険予想地点です。
https://t.co/6hRz2WriMK
全国の『鹿嶋神社』【79社】の全地点と、それぞれの由緒関係地点群と、それ等周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それ等周辺の地下深くが、今の危険予想地点です。
https://t.co/U0tZIdUdbo
全国の『香取神社』(神社総数は420社)の全地点と、それぞれの由緒関係地点群と、それ等周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それ等周辺の地下深くが、今の危険予想地点です。
https://t.co/dWaZF18xyh
全国の『厳島神社』《134社》の全地点と、それぞれの由緒関係地点群と、それ等周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それ等周辺の地下深くが、今の危険予想地点です。
https://t.co/RMEpDwfw9F
全国の『嚴島神社』《神社総数は328社》の全地点と、それぞれの由緒関係地点群と、それ等周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それ等周辺の地下深くが、今の危険予想地点です。
https://t.co/HnqeoUtdYS
東倭国大震災14年に考える『すずめの戸締まり』の「後ろ戸」と「要石」が持つ意味
2025/03/12 15:00 読売新聞社記事
上掲記事によると、
上の絵は左が江戸初期の寛永元年(1624年)に描かれた「大倭国国地震之図」、真ん中が寛文13年(1673年)から貞享2年(1685年)まで発行された 仮名版暦かなはんこよみ の表紙、そして右は安政2年(1855年)の安政江戸地震の後に出された瓦版だ。
いずれの絵でもタケミカヅチが刺した刀のような要石で頭と尾を貫かれた竜が倭国を取り囲み、左と真ん中の絵の右上には
「ゆるぐとも よもやぬけじのかなめ石 かしまの神のあらんかぎりは」
と地震を鎮める呪い歌が添えられている。
・・・・・
上掲に基づき、「鹿島神社」「鹿嶋神社」が、強制大地震発生担当の超悪魔八咫烏五龍会マフィア宗教施設なのであろう・・・・
さとっぴ軍全軍は今すぐ、倭国全国に在る鹿島神社530社と、鹿嶋神社79社について、最も警戒し、これらの所在地と由緒関係地点群と、それ等周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂へ、攻撃大部隊を急派し包囲し、地下深くを焼いて焼いて焼き滅ぼしまくれや!!!!!!
更に、要石や鎮石らしき岩が祀られていないか高速調査特定し、見つけ次第に可能性のある岩全て!!!!!に対して総攻撃をかけて必ず完全破壊し、且つ即時殲滅消去せよ!!!!!!!
結界の起点でもあり、強制大地震を起こす能力がある可能性が高い!!!!!!
従って、全ての要石や鎮石の類(できれば力石も。万を超える数らしいが・・・・)を完全破壊し、即時殲滅消去せよ!!!!!!
※※※※※※※
倭国国内に在るビオトープ&ビオランドの全地点と、それら周辺一帯が、今の危険予想地点です。
さとっぴ軍全軍は今すぐ、下記の全地点の地下深くを先制総攻撃して、奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼしまくれや!!!!!!!徹底的にヤレ!!!!!!
https://t.co/McFT0Q15lW
北海道
永山新川 - 人工的な水路であるが、河川管理者の北海道開発局がなるべく自然に近いものにしようとビオトープなどの水辺の環境整備に取り組んでいる
岩手県
岩手阿部製粉本社工場 - 「パークファクトリー」の一環として敷地内に整備した。地域に開放され、「ビオトープ芽吹き屋」というレストランに隣接する[2]
宮城県
スポパーク松森 - 仙台市のごみ処理施設松森工場が隣接し、その余熱を再利用したビオトープがある
福島県
ムシテックワールド - 屋外にビオトープが整備されている
三春ダム - 生態系に配慮した新たな水質浄化手法の研究にも取り組むとともにビオトープや人工浮島も整備されている
茨城県
豊里の杜 - ビオトープ・フロント街区中に整備されている
JERA常陸那珂火力発電所 - 敷地内にはビオトープ緑地が整備されている
埼玉県
三ツ又沼 - 荒川河川敷の開平橋付近にあり、希少な動植物が生息している[3]
中落堀川 - 久喜市久喜北にビオトープがある
千葉県
JERA千葉火力発電所 - 自然復元型公園の「ビオトープそが」を同発電所の隣に整備した
手賀沼ビオトープ - 手賀沼総合浄化計画の一環として水生植物を利用して水をきれいにするために設置された[4]
利根川ゆうゆう公園 - 自然観察ゾーンに、窪地の小丘のビオトープ、流れの草地ビオトープ、流路型ビオトープの3つの異なったビオトープが整備されている。人の立ち入りを制限した保全エリアも設けている[5]
東京都
吹上御苑 - 昭和天皇が自然のまま残すように希望し、以後手つかずとなった吹上御苑は、植生を形成、さながらビオトープの様になっている
江古田の森公園 - ビオトープ池が整備されている。自然保護のために江古田の森公園運営協議会で検討して決めた利用ルールがある[6]
桑袋ビオトープ公園 - 元々あった自然を取り戻そうと整備され、環境を整えることで、生物が自然と集まり暮らすことをめざしている[7]
六町エコプチテラス事業 - 足立区が区画整理事業用に取得した土地を利用して農園やビオトープを整備した。2006年土地活用モデル大賞土地活用特別賞受賞[8]
新宿中央公園 - 園内の片隅に設けられている。高層ビル街から徒歩5分という位置[9]
世田谷区 - 区域内を流れる主要河川を暗渠化した後に緑道や親水公園、ビオトープが整備されている
日野市 - 市内の用水路が、水環境の保全や防火用水、ヒートアイランド現象の抑制など、都市に潤いを与えるものと見直され、親水公園やビオトープとして、再整備が進められている
神奈川県
境川遊水地公園 - 遊水地を利用したビオトープで水辺の動植物の観察ができる。一部では化石の採集もできる場所がある(要許可)
浮島町公園
長井海の手公園 ソレイユの丘 - 「ビオトープの小川」として、渓谷風の自然あふれる清らかなせせらぎが再現されている
新潟県
ベルナティオ - 周辺地域の自然保護のためビオトープを整備している
石川県
いしかわ動物園 - 「エコ」に積極的に取り組み、調整池をできるだけ自然の形に近づけるようビオトープ化を図っている
長野県
杉の木貯水池 - 東京電力が貯水池周辺を公園として整備し、池内には人工の浮島が浮かべられている
岐阜県
大安寺川 - 流域の一部沿岸に、大安寺川ホタルの里としてビオトープが整備され、ゲンジボタルの生息地として保護されている
鵜沼駅 - 水と緑をイメージし、ロータリーの中央にビオトープ池が設置されている
ハートピア安八 - 施設の地下水を利用したビオトープが整備されている[10]
万場駅 - ホタルが生息するビオトープ水路が整備されている
静岡県
小笠山総合運動公園 - 自然環境がそのまま維持され、小笠山の自然風景を観察できる
静岡ファクトリーパーク - 敷地内の排水がビオトープに使用されている
愛知県
ノリタケの森 - ビオトープを作り、生態系を回復させている
浅井山公園 - 岸や人工の浮島に水生植物を植えているビオトープがある
エコハウス小牧 - プラザハウスの雨水を利用したビオトープが整備されている[11]
わくわく体験広場 - 施設内には田んぼや畑とともに、ビオトープがある
あいち海上の森センター ムーアカデミー - 施設の周りの小河川にビオトープを整備し、ホタルの育成などを行っている
東邦ガス知多緑浜工場 - 地域の環境保全、生物多様性保全への取り組みの一環として建設時に工場内にビオトープが設置された[12]
下山バークパーク - 中に整備されたビオトープは倭国ビオトープ協会・第1回自然創出部門受賞
東三河ふるさと公園 - 東三河地域の植物をビオトープで紹介する「三河郷土の谷」が設置されている
朝倉川 - 倭国ホタルの会が協力して川の再生を実現するための指針「朝倉川流域ビジョン」を策定し、蛍の生息地となる「ビオトープ」を設けている
ビオトープ(出沢銭亀) - 住民が整備するビオトープ 休耕田を活用している。[13]
三重県
松阪農業公園ベルファーム - 自然と触れ合える自然の3つの池とビオトープが整備されている
滋賀県
愛荘町立愛知川図書館 - 周囲にはビオトープが設置されている
河辺の森駅 - 駅前にビオトープが整備されている
京都府
井ノ奥公園 - 鳥のさえずりや生き物の観察に適した環境のビオトープ池が整備されている
大阪府
鴻池水路 - 大阪府と東大阪市による親水事業[14]。元々農業用水路として使われていたが、下水道処理施設としてリニューアルに当り、ビオトープとして整備、国土交通大臣いきいき下水道賞(2004年度)を受賞
兵庫県
キリンビール神戸工場 - カワバタモロコなどの希少種の保護育成に取り組んでいる[15]
天満大池公園 - ビオトーププランにより、本来の自然の水辺を復活させる試みが行われている
なか・やちよの森公園 - 湖畔の広場にビオトープ池が設置されている
姫路市立水族館 - 屋上にある旧市民プール跡をビオトープに改修した
豊岡市 - 拠点となる一定規模の湿地帯と休耕田等を活用した小規模ビオトープのネットワークで、面的に湿地環境を創出している
和歌山県
道の駅紀州備長炭記念公園 - ビオトープ施設「水辺の森」がある
皆地いきものふれあいの里 - 耕作放棄された水田がふけ田と呼ばれる湿地帯に転じ、水棲生物に富むことで注目され、専門の業者によって自然観察のためのビオトープとしての整備事業が行われた。しかし、これによって豊富な生物相が失われたと批判する声もある。
天神崎 - 内陸側の小さな谷にある水田跡の一つは現在では少し掘り下げられて田んぼビオトープ施設として整備されている
岡山県
キリンビール岡山工場 - アユモドキなどの希少種の保護育成に取り組んでいる[15]
山口県
山口県セミナーパーク - 自然ふれあいゾーン内にビオトープが設置されている
福岡県
響灘ビオトープ - 北九州市若松区にある廃棄物処分場跡地に自然発生した倭国最大級の広さ41haのビオトープ
長崎県
長崎ペンギン水族館 - 駐車場から水族館までは約250mの遊歩道に雑木林や田などを模したビオトープが整備されている
【学校のビオトープ例】
学校によっては、ビオトープという言葉の代わりに、「ビオランド」という言葉を用いていることもある。
ビオランドの名称を使っている学校には、杉並区立第九小学校杉九ビオランド、香川県東かがわ市立相生小学校や東京都武蔵野市立第三小学校、神戸市立雲中小学校、名古屋市立清水小学校 などがある。
そのほか、特定非営利活動法人で新潟県東蒲原郡阿賀町中ノ沢の「お山の森の木の学校」でも、ビオランドという言葉を使っている。
千葉県立小金高等学校
久喜市立本町小学校 …
久喜市立久喜北小学校 … 2003年(平成15年)、ビオトープが完成
久喜市立久喜小学校 … 2004年(平成16年)、ビオトープが完成
久喜市立青葉小学校 … 2005年(平成17年)、ビオトープが完成
久喜市立青毛小学校 … 1998年(平成10年)、ビオトープを造成
久喜市立太田小学校 …
蟹江町立学戸小学校#ビオトープ
流山市立西初石小学校 … 2004年(平成16年)に、学校ビオトープ設置
神戸市立神の谷小学校 … 2000年、ビオトープ(自然ランド)完成
大垣市立小野小学校#ビオトープ整備
静岡市立城山中学校 … 1995年(平成7年)、ビオトープ「めだか池」誕生
静岡大学教育学部附属島田中学校 … 太陽光発電と風力発電による電気を使った循環式のビオトープが作られている
磐田市立向笠小学校 … 全国学校ビオトープ・コンクール 2005年 受賞校
静岡県立浜松城北工業高等学校 … 2002年、ビオトープ「城北の森」が完成
浜松市立北浜北小学校 … 2004年、ビオトープ完成
岬町立深日小学校 … 泉州地域では初めてビオトープが設置された
加古川市立別府西小学校 … 中庭にビオトープがある
岡崎市立羽根小学校 …
大津市立真野中学校 … 2008年、ビオトープ設置
沼津市立香貫小学校 … 2004年、体育館裏に、児童の手作りビオトープが完成
岡崎市立秦梨小学校 …
奈良市立朱雀小学校 … 「教育の森(ビオトープ)」
千葉県立千葉中学校・高等学校 … 2003年創立125周年記念、ビオトープ竣工
実践学園中学・高等学校 … 屋上に「武蔵野の自然」をテーマにしたビオトープ(実践の森)がある
枚方市立招提小学校 … 2002年、ビオトープ完成
目黒区立緑ヶ丘小学校 .. 畑のほかにビオトープが
各務原市立蘇原第二小学校 … 2008年全国学校ビオトープ・コンクール
豊中市立桜井谷東小学校 … 2004年、ビオトープ完成
豊中市立千成小学校 … 1992年、ビオトープが完成山池
豊中市立第十五中学校 … 2008年、ビオトープ再生事業完成
練馬区立大泉小学校 … 近年ビオトープができた
川越市立川越西小学校 … 体育館裏にビオトープが設置されている
新城市立舟着小学校 … 2000年、「わくわくランド」ビオトープ完成
富山市立大広田小学校 … ビオトープも
さいたま市立土呂中学校 … 学校ビオトープ
神戸市立向洋中学校 … 2001年(平成13年)ビオトープ改修完了
中野区立若宮小学校 … 校庭脇に池やビオトープがあり多くの生き物を観察することが出来る
岩国市立由宇小学校 … 2002年、ビオトープ完成
渋川市立渋川南小学校 … 太陽光発電設備やビオトープなど環境教育を考慮した学校施設となっている
桐光学園中学校・高等学校
昭和女子大学 … 構内のビオトープにはゲンジホタルが生息
多治見市立北栄小学校 … 2007年、観察池をビオトープに改修
宮崎市立江南小学校 … 2000年(平成12年) 全国学校教育ビオトープコンクール奨励賞受賞
姫路市立的形小学校 … 2007年(平成19年)、ビオトープ完成
獨協中学校・高等学校 … ビオトープラボが
上越教育大学附属中学校 … 敷地内にビオトープ。現在も魚などが住んでいる
倉敷市立赤崎小学校 … 2005年(平成17年)、ビオトープ完成
姫路短期大学 … 現在では、環境人間学部における研究用のビオトープとして整備されている
神戸市立住吉小学校 … 1999年、ビオトープ完成
堺市立上神谷小学校 … 2007年、ビオトープが完成
東京都立戸山高等学校 … 校舎改築を記念して城北会(同窓会)より寄贈されたビオトープがある
四條畷市立田原小学校 … 2002年、ビオトープが完成
京都市立勧修小学校 … 2003年(平成15年)、水辺のビオトープを新設
草津市立渋川小学校 … 学校ビオトープを2004年に完成。「再生、復元が主目的」を活動テーマに掲げ、地域ぐるみで活動する渋川ビオトープの会がある。[16] November 11, 2025
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ゆるっと動画🆙野菜たちで癒されて~
たくさん観てくれるとお仕事頑張れます💪
コメントもお待ちしてます(^・ω・^ )コメ返する~
【農業】11月~IKE FARM~の多品目栽培のハウスを紹介します🌱 #農業女子
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#東京電力柏崎刈羽原発再稼働反対
#老朽原発は廃炉に
#一次産業を守ろう
生きていくためには、食べ物は大事です
何があってもコメの「価格供給」の安定を!
消費者の命と暮らしを支える「低価格
生産者の暮らしを支える「生産者価格」
国民を守る農業政策をして下さい
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京都府京都市北区紫野大徳寺町53にある大徳寺(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺の聖地群史跡群水辺群の全地点と、それら周辺一帯広めで。
https://t.co/FsdZoviwhE
大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。
山号は龍宝山(りゅうほうざん)。
本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、倭国の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。
本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。
なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。
11歳の時、地元の大寺院である圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚め、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。
これが大徳寺の起源という。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。
寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
また、花園天皇や光厳天皇ら歴代天皇、中御門経継、守良親王、新田義貞などの有力貴族からの寄進を受け、1333年ころには播磨、摂津、紀伊などの畿内各地に加え、信濃、下総、美濃のなど広範囲にわたって延7,600石の寺領を有していた。
しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。
五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。
このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災、そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興。
また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。
大徳寺山門供養之偈 春屋宗园
これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、天正17年(1589年)には千利休によって山門・金毛閣が完成している。
利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。
利休は山門を修復した後、住職の春屋宗園に山門の供養を書かせたが、それにより豊臣秀吉を怒らせたとされる。
江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。
近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。
この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。
なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。
【境内】
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[3]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に小田原藩主稲葉正勝の遺志により、子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる倭国様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(三門、重要文化財) - 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。このテキストは、千利休が住職の春屋宗園に書かせた山門の寄進の偈に関するもので、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」である。天井画の龍図は長谷川等伯の作。額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
【塔頭】
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。
2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
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聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。
聖護院の南西には、「聖護院の森」の鎮守として知られる熊野神社があり、「京の熊野三山」(残り2つは熊野若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された[3]。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
【地名】
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。
和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[4]。
【歴史】
当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。
増誉は師である円珍の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた[3]。
この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられた他、更に都の熊野神社の近くにあり、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を上皇より下賜された[3]。
こうして増誉は新たな寺名として「聖体護持」から文字を採って聖護院と改名し[3]、熊野神社を鎮守社とした。
ただし、増誉および増智(藤原師実の子)の時代には「白河房」と呼ばれており、「聖護院」の名称が登場するのはその後を継いだ覚忠の時代である(『兵範記』保元3年10月20日条・同仁安2年4月26日条)[5]。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した[3]。
増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。
この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した[3]。
後に熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したため、熊野との結びつきが一層深まった。
聖護院は長く皇族もしくは摂関家出身の門跡が入っていたが、後嵯峨上皇の皇子の覚助法親王が70年にわたって門跡の地位にあって園城寺長吏・鶴岡八幡宮別当・熊野三山検校を兼ね、門跡寺院としての地位を確立させた。 November 11, 2025
1RP
最近のネット民に見られる特徴だけど
「お金と資源は無限に湧いてきて、なんの努力もなく社会も快適な生活も、当たり前に維持される」と思い込んでる節がありそう
財務所解体とかもそういう感じかなと
北大も賢い子達も居ないと特に農業や畜産、みんなの美味しい食事が危ない https://t.co/2XJVCUwVZU November 11, 2025
番外編でもぜんぜん楽しめるので…いえそもそもお休みしてもいいんですし…かの🐂先生は、もともとの農業で培われた体力が違うわけで…目指すところが高いのはとても良いことではあるのですが…と心配しちゃった… November 11, 2025
鶴岡で金あるアピールされても内輪のプライド満たしで終わることはみんな解ってるんですよ。
金あるけど若者連れてくる能力はないじゃん、と。まぁ助成金とか空き家リノベしたのを与えるとかしかないのかもしれないけど。
「大雪に耐えて農業して下さい!」は説得が難しいじゃない。 November 11, 2025
愛知県豊橋市。根本幸典農林水産副大臣の会合にて講演。その後、農業や商工業に従事する地元の皆さんと懇親会。現場の声をたくさん頂きました。課題解決に向けた前向きな姿勢。全国有数の農業産出額と製造業の強さを誇る、豊橋市、田原市。東三河の底力を感じました。
今週も頑張っていきまっしょい。 https://t.co/DIScrfCzkb November 11, 2025
それこそ安い人手が欲しいだけの経営側の言い分なだけ
農業は安くてきついから実習生は逃げ出し
医療や介護は言語の問題で過誤の元
移民は倭国人の給与が上がるのを阻害
技術革新で生産性向上の投資意欲を削ぎ
仕事が無くなっても帰らず治安悪化
多文化共生なんか無理だから
https://t.co/BoLkuQBfWx November 11, 2025
山添拓議員と未来を考えるつどい。会場立ち見が出るほどの大盛況でした。ネットで知ったという方も。高市政権の危険性ともろさ。消費税減税が景気対策!政治と金の問題!農業振興など多岐に渡る話に、あっという間に時間が過ぎました。仲間も増え嬉しい限りです。 https://t.co/ygIICfJbFP November 11, 2025
僕の理想的な農法は、
“自分と家族、そしてほんの少しのプラスアルファ” を豊かにするためのものです。
現代社会ではどうしても現金が必要になる。
その現金を得るためにも、自分の可能性を開花させるためにも、
心を解放し、素直に向き合える “作業の時間” が欠かせないと感じています。
誰かに迷惑をかけず、
自分と家族を守れるだけの最低限の力。
その力があれば、僕たちはもっと自由に生きられる。
自然界にも現代にも、まだ学ぶべきことがたくさんあります。
けれど多くの人は作業に追われるうちに、
「仕事を楽しむこと」より
「お金だけが幸せを運んでくれる」と思い込んでしまう。
本当は──
仕事こそ、自分を輝かせてくれるもの。
自分の大切な時間を使い、
勤勉に、日々進化する知恵を取り入れ、
自分の仕事を輝かせ、高みを目指し、誇りを持つこと。
そして、進化する世界に心を躍らせながら生きること。
僕はずっと、
そんな“仕事との向き合い方”を大切にしてきました。
だからこそ、仕事に疲れ切った人を見ると、胸が痛くなる。
どんな暮らしをしているのだろう?
何が原因なのだろう?と考えてしまう。
正直、僕は仕事を「辛い」と思ったことはありません。
ただ、忙しすぎて作業に追われ、
自分のアイデアが尽きたとき、自分の不甲斐なさに涙したことはあります。
「もうこれが限界なのか?」と、自分の能力のなさに悔しくて泣きました。
でも、壁を作っているのも、時間を管理しているのも、結局は自分。
腹八分目、無理をしない、ゆとりあるスケジュールこそ、
自分にも、人にも優しくできる働き方だと思います。
僕たちは、まだこれからです。
来年度に売上1,000万円
(国の補助金を使い)
農業を家族二人で運営し
一年目は自分達の勉強期間
年1回の海外研修、月1回の国内旅行を含めた勉強の農業視察と交流
2年目は補助金を活用し、
新しい担い手を育てながら
自分のビジネスを育てられるスキームを僕が実際に実行しながらポスト致します。
余命宣告を受けガン患者で体力のない僕が出来たら、
きっとみんなも出来ると思います。
白屋は菌根菌を中心に、植物も人も育てて行きます。
小さく一歩づつ😆 November 11, 2025
【東久留米市】市議会公明党は富田竜馬市長に2026年度に向けた政策提言を行った。
「行かない・書かない・待たない」市民サービスを実現するワンストップ総合窓口設置、都市農業・商工業の振興、女性と若者の働き方支援、在宅避難や避難所環境の整備等22項目を盛り込んだ。
#公明新聞2025年11月23日付 https://t.co/oxSJ727rNe November 11, 2025
東北人である私は「冬こそ旅行シーズン」と私は思ってるんですけど、おそらく、ほとんどの人にとっては納得できない話だと思う。
ただね、冬の東北は農業もないし、半年間雪ノ下雪乃で暇だし、東北人は寒さに強いし、観光客は少ないしで、何故に冬に観光しないのか理解に苦しむんですよ。→ November 11, 2025
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