徳川家康 トレンド
0post
2025.12.13
:0% :0% (40代/男性)
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
徳川家康は75歳まで生きました。戦国武将の中でも突出した長寿であり、その背景には極めて質素で理にかなった健康法があります。家康のやり方は、今の健康法よりもずっと「人の身体の本質」に沿っています。
1. 食は少なく、同じものを食べ続ける
家康は
・一汁一菜
・麦飯
・味噌
・焼き魚
・根菜
を中心に、一生ほぼ同じ食事を続けました。
美食を避け、暴飲暴食を嫌い、
「腹八分」を徹底しています。
これは東洋医学でいう
脾胃(消化器)を守る生き方。
脾胃が弱れば、気も血も生まれません。
家康は本能的にそれを知っていました。
2. 規則正しい生活を崩さない
家康は
・起床
・食事
・仕事
・入浴
・就寝
すべてがほぼ同じ時間。
特別なことはしない。
乱れた日常を作らない。
これは自律神経を乱さない最大の知恵です。
現代人が一番失っている部分でもあります。
3. よく歩き、よく体を使う
家康は晩年まで
・散歩
・庭の見回り
・軽い運動
を欠かしませんでした。
激しい鍛錬はしない。
しかし、毎日必ず体を動かす。
これは「気血の巡り」を止めないため。
止まった瞬間から老化は始まる、ということを理解していました。
4. 感情を爆発させない
家康の座右の銘は有名です。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず
怒り・焦り・不安を
すぐに行動に移さない。
感情を寝かせ、時間を味方につける。
これは肝(感情)と心(精神)を守る最高の養生です。
5. 「耐える」のではなく「流す」
家康は我慢の人と言われますが、
実際は「溜め込まない人」でした。
・勝つまで待つ
・無理な戦はしない
・負けを認めて引く
これは精神論ではなく、
エネルギー管理そのものです。
無理をしないから、壊れない。
壊れないから、長く生きられる。
6. 薬に頼らず、体の声を聞く
当時の医療は限られていましたが、
家康は自分の体調変化を細かく記録し、
食事や行動を調整していました。
「治す」より
「乱さない」。
これは現代医学よりも、
はるかに賢い健康観です。
家康の健康法の本質
まとめると、家康の健康のやり方は
特別なことは一つもありません。
・少食
・単純な食事
・規則正しい生活
・毎日の軽い運動
・感情を荒らさない
・無理をしない
つまり
自然に逆らわない生き方。
これは今の整体・東洋医学・養生の考え方と完全に一致します。
「長生きする秘訣」は、
新しいものではなく、
昔から変わらない。
徳川家康は、それを一生かけて証明した人物です。 December 12, 2025
543RP
【名古屋城に始まり、名古屋城にて締め括った】
金鯱掲げし名古屋城築城者、徳川家康である
・・・
最初に会うた折は、六人の姫
皆が中学生であったな
秋本帆華姫
咲良菜緒姫
大黒柚姫姫
坂本遥奈姫
安藤ゆず姫
伊藤千由李姫
まだデビューという初陣を迎える前、名古屋市役所にて会うた日のこと
わしは、よう覚えておる
それから名古屋めし博覧会、名古屋城の年越しカウントダウン、CBCラジオ、でら凄っ名古屋、名古屋まつり、鯱の大祭典……
幾度となく同じ場に立ち、同じ時を過ごすうち、幼さの残るおなごたちはいつしか、誇らしき存在へと成長していった
・・・
個性きわ立つ輝く声と
中心を担う覚悟の――秋本帆華姫
麗しき歌唱と舞踊にて
舞台に光を宿す――咲良菜緒姫
独自の表現と清掃活動など
自らの軸を貫く――大黒柚姫姫
目を合わす者すべてを魅了し
人を導く力を発揮する――坂本遥奈姫
十三年と八ヶ月
いや、初陣前からの縁ゆえ
もう少し長き時を
共にしたやもしれぬ
誠に、ありがとうさんじゃった
最後に四人に会えて嬉しかったぞ
主等と共に駆けた戦
いつも、まことに楽しかった
名古屋は、
チームシャチのことを
忘れぬでな
徳川家康
#チームシャチ
#TEAMSHACHI
#名古屋城
#名古屋おもてなし武将隊
#名古屋の誇り
#鯱の大祭典
#ありがとうシャチ
#儂はかぶとを被っておるぞ見つけられるかのう December 12, 2025
44RP
本日は一汁三菜の日。
一汁三菜とは、
・ご飯
・汁物
・3つの菜(おかず)
のことを言いい、
家康クラスタであれば「健康」というワードが浮かび上がり、
徳川家康と脳内直結してくるだろう。
戦や政務の合間でも、暴飲暴食を避け、「ちゃんと食べて、ちゃんと動く」ことを積み重ねてきた。
いきなりストイックにならずとも、
・揚げものを一品だけ煮物に変えてみる
・汁物をインスタントではなく具だくさんにしてみる
そんな小さな一手でも、十分「戦略」だ。
皆も健康を意識した食事バランスを忘れず、
本日の一汁三菜を、自分なり「ミニ家康メシ」だと思って、
日々を元気に過ごそう。 December 12, 2025
28RP
大友宗麟・豊臣秀吉・徳川家康が所有した茶器「新田肩衝」400年以上ぶりに大分に戻る…県立美術館(読売新聞オンライン) https://t.co/lG91OjRCdB December 12, 2025
15RP
~侵略国家倭国による
琉球・朝鮮・台湾侵攻の歴史~
當是時,倭国方強,有吞滅之意。琉球外御強鄰,內修貢不絕。四十年,倭国果以勁兵三千入其國,擄其王,遷其宗器,大掠而去。浙江總兵官楊宗業以聞,乞嚴飭海上兵備,從之。已而其王釋歸,復遣使修貢,然其國殘破已甚,禮官乃定十年一貢之例。明年修貢如故。又明年再貢,福建守臣遵朝命卻還之,其使者怏怏而去。四十四年,倭国有取雞籠山之謀,其地名台灣,密邇福建,尚寧遣使以聞,詔海上警備。
『明史』外国伝 琉球
“当時、倭国は強大な国であり、琉球を併合する野望を抱いていました。
琉球は(中国への)継続的な朝貢を維持しながら、強大な隣国(倭国)から自国を守っていました。
万暦四十(1612)年、倭国は精鋭部隊3000人を琉球に派遣し(1609年、薩摩藩による奄美・琉球侵略)、
琉球国王を捕らえ(1610年尚寧王は、薩摩藩主島津忠恒によって江戸に連行された)、
王室の遺物を押収し、撤退前に広範囲に略奪しました。
浙江の総司令官である楊宗業は、皇帝にこのことを報告し、海軍の準備を強化するよう厳命を要請し、これは認められました。
後に国王は釈放されて帰国し、琉球は再び使者を派遣して朝貢しました。
しかし、琉球は大きな被害を受けていたため、礼部官吏は10年間の朝貢制度を設けました。
翌年も以前と同じように朝貢が行われました。
その翌年も再び朝貢が送られましたが、皇帝の命令を受けた福建省の知事がそれを返還したため、使者は失望して帰国しました。
万暦四十四年、倭国は福建省に近い台湾(雞籠山は台湾を意味する古名)を占領しようと企てた。
商寧は使者を派遣してこれを報告し、海軍の備えを強化する勅令を発布した。”
🤔琉球は明に朝貢する独立国であったが、
豊臣秀吉の朝鮮出兵(朝鮮を侵略し、さらに明、天竺まで侵略する予定であった)によって、
当時の明は朝鮮半島での倭国との戦闘に多大な出費と負担を強いられ国力が疲弊しており、
とうてい琉球支援のために渡海遠征を行える状態ではなかった。
・倭国の琉球侵略
薩摩軍は総勢3000人、80余艘で奄美・琉球へ軍事侵攻し、征服した。
島津藩は家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。
1611年、尚寧王と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた偽りの起請文に署名させられた。
これを拒んだ三司官の一人、謝名利山は斬首されている。
また、琉球王国の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。
尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、
また琉球王国と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が掌握するようになった。
明の付庸国であった琉球は、
倭国と中国に両属することとなる。
・倭国の台湾領有計画
1616年には長崎代官の村山等安が2000〜3000人の兵員を乗せた13隻の艦隊を台湾へ向け侵攻させるが、
琉球沖で暴風雨に遭い壊滅。
台湾にたどり着いたのは一隻で、到着直後、船は即座に現地人に取り囲まれて逃げられず、乗員たちは切腹して全滅した。
豊臣秀吉は、積極的な海外進出を目指しており、
朝鮮、琉球、台湾の植民地化し、中国インド征服を視野に入れていた。
徳川家康も1609年には台湾出兵を示唆し、
村山等安の後に長崎代官となった末次平蔵もオランダに対し、倭国が台湾を領有していると主張していた。
江戸幕府はその後、一転して海禁政策(鎖国)に転換したが、
1630年に平蔵が江戸で不審タヒするまで、倭国による台湾領有計画は継続した。
明治維新後、倭国は再び
琉球、朝鮮、台湾を完全な支配下とし、
中国、東南アジアを征服する野望を実行に移した。
倭国では、このような二度に亘る大規模な民衆へのジェノサイドを伴う過去の侵略の歴史を国民に教育していない。
🤔倭国が軍事大国化すれば、必ず三たび、朝鮮台湾中国を侵略するであろう。
これは天皇氏と倭国支配層(渡来系中国人=奈良高市郡の住民の八~九割は今来漢人)の悲願である。
正四位下近衛員外中將兼安藝守勳二等坂上大忌寸苅田麻呂等言。以桧前忌寸。任大和國高市郡司元由者。先祖阿智使主。輕嶋豊明宮馭宇天皇御世。率十七縣人夫歸化。詔賜高市郡桧前村而居焉。凡高市郡内者。桧前忌寸及十七縣人夫滿地而居。他姓者十而一二焉。
『續倭国紀/卷第卅二』
天宗高紹天皇〈光仁天皇〉
寶龜三年夏四月 庚午
高市郡(古代における飛鳥の中心的地域)
には帰化中国人十七県の民が多数居住し、
他姓(非中国人)は十人に一人か二人しかいなかった。
飛鳥時代からヤマト、倭国(奈良、京都)の支配層は中国人が中心であった。
(DNAにより証明済) December 12, 2025
8RP
そして栃木県と言えば日光東照宮、東照大権現!!
東照大権現とは天下人・徳川家康!
なので似たような名前の天火人ちやりちゃんに家康のコスプレをしてもらったのです!
ちやり「いやー鎧重いッスねぇ〜 天下人ってつらいッスねぇ〜」 https://t.co/DlWRuXKZ0o December 12, 2025
6RP
圓光寺
徳川家康が伏見に建立した学問所が始まり
枯山水の奔龍庭・十牛之庭や洛北で最も古いと伝わる栖龍地、高台からの見晴らし…と移りゆく季節を楽しめる景色が広がります✨𓂃◌𓈒𓐍 𓈒
#京都の四季
#ファインダー越しの私の世界 https://t.co/nebyFYzgc2 December 12, 2025
6RP
徳川家康の欠点てあまり思い浮かばないけど、強いてあげるならば...🤔
①従属先の主人が亡くなった後に宗家を攻撃しちゃうところ🥲
②秀吉の死後は遺命に背くような振る舞いをして政権の改変を狙ったら、いわゆる直江状や内府違いの条々出されて当てが外れちゃったところ🥲
江戸時代の儒学者に「家康の①と②の振る舞いについて、儒学的観点から見てどう思いますか?」って聞いてみたい🤔 December 12, 2025
4RP
本能寺の変1582 【5月26日】 1/8 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。倭国は戦国時代、世界は大航海時代。時は @mitsuhideki #テレビドラマ感想文 https://t.co/oDywTsogW0 December 12, 2025
3RP
境界を相手との距離と考えると、余計わからなくなるんじゃないかな。私が思う境界は、徳川家康の遺訓(ほんまか)の「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし」の「重荷」。大人も子どもも荷物を背負って生きていて、その荷物を誰かが代わりに背負うことはできない。荷物の重さは人により違う。 December 12, 2025
2RP
昨日は紹介が出来ずに御免なれ。
此度も頂戴した品々を紹介致そう。
まずは、
名古屋おもてなし武将隊より頂いた
徳川家康の食べる味噌じゃ。
尾張の儂が手掛け、まるや八丁味噌も使用しておる。
信長様の粋な計らいもありなんと我が隊それぞれにいただいた。
誠、有難うござりました。
家康 https://t.co/liIRvC6Z8j December 12, 2025
2RP
本能寺の変1582 0526 目次 8/8
おそらく、
光秀は、このような結論に辿り着いた・・・。
織田信長 明智光秀 豊臣秀吉 徳川家康
歴史 倭国史 戦国時代 武将 安土 光秀記
朝ドラ 大河ドラマ べらぼう
#ばけばけ #大河べらぼう #豊臣兄弟 https://t.co/uxMXetuIwJ December 12, 2025
1RP
本能寺の変1582 0526 目次 8/8
間に合わねば、
「最後の手段」
・・・・・。
織田信長 明智光秀 豊臣秀吉 徳川家康
歴史 倭国史 戦国時代 戦国武将 安土城 光秀記
朝ドラ 大河ドラマ べらぼう 豊臣兄弟
#ばけばけ #大河べらぼう #読書 https://t.co/uxMXetuIwJ December 12, 2025
1RP
大友宗麟・豊臣秀吉・徳川家康が所有した茶器「新田肩衝」400年以上ぶりに大分に戻る…県立美術館(読売新聞オンライン) https://t.co/jeVBUBIaFK December 12, 2025
1RP
本能寺の変1582 【5月26日】 3/8 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。倭国は戦国時代、世界は大航海時代。時は @mitsuhideki #テレビドラマ感想文 https://t.co/lsPOLIkacg December 12, 2025
1RP
本能寺の変1582 【5月26日】 1/8~3/8 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。倭国は戦国時代、世界は大航海時 @mitsuhideki #テレビドラマ感想文 https://t.co/lYB5roKkJt December 12, 2025
1RP
大友宗麟・豊臣秀吉・徳川家康が所有した茶器「新田肩衝」400年以上ぶりに大分に戻る…県立美術館(読売新聞オンライン)
#Yahooニュース
https://t.co/XBcwncTR25 December 12, 2025
1RP
家康さんでした👴
最も近いのは徳川家康。
■あなたの悩みの型
複数のプロジェクトを同時に動かしながら、
速さと構造、情と合理のあいだで折り合いをつけたいのに、
全部を守ろうとして負荷がかかるタイプ。
■家康が抱えていた状況
周囲は複数勢力、味方も不安定。
短期の勝敗より、長期の秩序づくりが常に課題だった。
■家康の悩み
早く動かないと機会を逃す。
急ぎすぎると組織が割れる。
決めたいが、一度決めると戻れない。
■頭の中の基準
今の判断が長期の土台にどう響くか。
今日の勝ち負けではなく、未来の仕組みとして維持できるか。
■ケース分析
家康は「一気に全部は整えない」を基本線にした。
動く時と待つ時を分け、判断基準を長期軸に一本化して負荷を分散した。
あなたの悩みの型も同じで、
情報量やスキルの問題というより、
複数の価値(スピード、精度、再現性、人間関係)を同時に最適化しようとすることで詰まりが生まれている。 December 12, 2025
1RP
偉人・敗北からの教訓
大石内蔵助(1659年〜1703年)
12月14日は赤穂浪士討ち入りの日。
忠臣蔵の元禄赤穂事件の主人公のモデルとして今もドラマや舞台で描かれている赤穂浪士のリーダー、大石内蔵助さんが今回の主人公です。
個人的には、徳川家康公と同じくらい好きな偉人です。
1.敗北のテーマ
浅野家再興と吉良家処分を徳川綱吉が率いる江戸幕府が認めてくれなかったこと。討ち入りへ。
2.登場人物
❶大石内蔵助良雄
・1659年に浅野家の赤穂藩筆頭家老の大石家に生まれる。
・子供の頃、赤穂に流された山鹿流軍学の山鹿素行の教えを受ける。
・赤穂の塩を増産したり、赤穂を豊かにすることに力を入れていた。
・絵や釣りが好き。
・昼行灯と呼ばれていた。無口だけど人望あり。普段は穏やかだが、やる時はやる人。几帳面。
・20歳足らずで赤穂藩筆頭家老になり8歳年下の主君の浅野内匠頭長矩を支える日々を送る。
❷浅野内匠頭長矩
・天皇の使者を迎える勅使饗応役を任されるが、1701年に指南役の吉良上野介に斬りつける。
・将軍である徳川綱吉の逆鱗に触れて即日切腹させれて亡くなる。
❸吉良上野介
・勅使饗応役の指南役。
・内匠頭のことを田舎者だからわかってない、ちゃとしないとみんなに迷惑かけると言ったそうで、それに内匠頭が怒って斬りつけた。
❹徳川綱吉
・徳川幕府5代将軍。
・生類憐れみの令が有名で犬公方と呼ばれた。
・捨て子の禁止など、現代の社会福祉制度に繋がる政策を実は行なっていて最近は再評価されている。
・赤穂浅野家は断絶、吉良家がお構いなしという処分が後の討ち入りの原因になる。
・武力を重んじる武断政治から法律を重んじる文治政治の転換期の将軍。
3.赤穂藩浅野家とは?
豊臣秀吉に仕えた浅野長政の三男の浅野長重が始祖。広島に浅野本家と三好浅野家がいた。
3.刃傷事件後の内蔵助の対応
・赤穂藩大混乱。
・藩内で通用する藩札を6割のお金に換金して、領民の不安解消に努める。
・今の退職金にあたる分配金を身分が高い者は低く、身分が低い者には多く支払う。内蔵助は遠慮して一切もらわなかった。
・藩士達から赤穂城に籠城して戦え!赤穂城を開城して浅野家再興を目指すべき!と紛糾する。
・吉良上野介が生きているというニュースが飛び込んできて、刀を抜いていると思った藩士達は当時の武士のルール喧嘩両成敗が成り立っていない、上野介が生きているのはおかしいと怒る。
・親戚の浅野家からも穏便な開城をしてほしいと頼まれ、苦渋の末、赤穂城を開城した。
・囲碁仲間の良雪さんに相談したら命をかけて物事を考えたのかと問われて君辱臣死という言葉を胸を心を刻み、内匠頭の弟の浅野大学を立てての浅野家再興と吉良家処分のために奔走することになる。武士としての面目が立つと思った。
4.山科へ
・赤穂を去り、京都の山科に家族と移住して暮らしつつ、浅野家再興と吉良家処分の知らせをひたすら待った。
・内匠頭の身近に仕えた堀部安兵衛、片岡源五右衛門ら仇討ちを主張する江戸急進派を必死に抑え続けた。
・京都の遊郭に入って遊んだ。世間の目を欺くためなど諸説あり。
・1701年12月に幕府は吉良上野介の隠居を認め、吉良家処分の目標は潰さされた。屋敷構えも認められた。
・内蔵助抜きに仇討ちしようとする動きの中、1702年7月18日に浅野大学は広島浅野本家にお預けとされ、赤穂浅野家の目標も潰された。
5.討ち入りへ
・神文返しをして仇討ちをするメンバーを選抜して、300人の藩士の中から内蔵助を含めて47人に絞る。
・メンバーの配置やお金の管理や討ち入りの手順など徹底的に準備を進めていく。
・1702年12月14日深夜に吉良邸に討ち入り、上野介の首を取る。武士の面目も最後に保てた。
6.最期、英雄へ
・大名家に預けられ、内蔵助達は武士として名誉の切腹という形での死を賜る。
・死の食前に吉良家処分を聞かされて内蔵助の死から7年程経過して浅野大学が旗本として取り立てれて赤穂浅野家は再興する。
・江戸庶民達は幕府に反抗して武士の意地を貫いた内蔵助達を褒め称えた。
・1748年に仮名手本忠臣蔵として元禄赤穂事件が取り上げられ、幕末になると吉田松陰がいた長州藩に内蔵助達の生き様は大きな影響を与えていた。
・300年以上、赤穂浪士達の物語は語り継がれて今に至る。ドラマや舞台のテーマにずっとなっている。
7.学び
言質を取られないように。。
うっかり口約束でもすると果たさないといけなくなる。
→内蔵助が浅野家再興も吉良家処分も両方駄目だった場合に討ち入りすると堀部安兵衛達に約束してしまった結果で本当に討ち入りすることになった可能性があるから。
赤穂藩取り潰しという青天の霹靂に遭いながらも、藩士達をまとめて討ち入りを成功された大石内蔵助さん。
結果的に彼らの死後に浅野家再興は果たされました。
大石内蔵助さんは今でも憧れの人物です。 December 12, 2025
1RP
【近況報告】
慶長5年(1600年)、大坂城から徳川家康です。
まず土佐方面。
関ヶ原で西軍に属した長宗我部盛親の旧臣らが起こした浦戸一揆、なんとか収まりました。
そして、井伊直政の家臣・鈴木重好から、山内康豊へ城の受け渡しも無事完了。「引き継ぎ」が滞りなく終わり、満足です。
続いて信濃方面。
同じく西軍の真田昌幸・信繁(幸村)親子は、上田城を出発し、高野山麓の九度山へ。
一方、東軍に属した長男、真田信幸は上田藩主(本拠は沼田城)となり、名も「信之」へ改めました。
……以上。
各地の処理が一つずつ片づき、乱世の亡霊が静かに退場するのを感じます。
全国、着々と収束へ向かっております。 December 12, 2025
1RP
<ポストの表示について>
本サイトではXの利用規約に沿ってポストを表示させていただいております。ポストの非表示を希望される方はこちらのお問い合わせフォームまでご連絡下さい。こちらのデータはAPIでも販売しております。



