出崎統 トレンド
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2025.11.26
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出崎統に関するポスト数は前日に比べ25%減少しました。男女比は変わりませんでした。本日話題になっているキーワードは「うるか」です。
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アニメでいえば、富野由悠季が頻々にやる。例えば、印象的な富野セリフのほとんどは、観客には決して明かされない登場人物の過去の経験や語られない内面で育てられたらしい何かが根拠になっている(所謂バックストーリーよりもっと曖昧な、その人物の人生の雲のようなもの)。観客は噛み砕いた説明をうけることなく、なんやようわからんがコイツはそういうやつらしいなという形で人物を理解しなければならない立場に追い込まれる。それは現実の人間関係に似ており、自分なりの能動的な解釈をしない限りそのひとを理解することはできないし、しかと正しい理解になるとは限らない。現実と同じく、人間は謎のままで観客はそれに耐えねばならないし、観客個人の「人生の謎」と登場人物たちの謎が共振する瞬間を捉えにいかねばならない。この原理はセリフだけではなく人物の行動、エピソードの展開にも活用されている。けれども、それが富野作品のえもいわれぬリアリティや、登場人物たちの人生の謎と自分の人生の謎が共振した時に得られる他にない楽しみ、満足感のベースにある。
こういうのはやる場所、適用する要素は違えど、また富野ほど頻々でなくとも、高畑勲もやる。出崎統もやる。宮崎駿はほとんどやらない(やる場所を慎重に計算して限定的にやる。ただし千と千尋以降はこの限りでない)。
実写映画では枚挙にいとまがない。とはいえ、現代的な三幕脚本の構造理論がコモディティ化した後は事例は減っているのではないかと思う。
アートフィルムでは常態というか、「映画外」「プロット外」の根拠を取り込みうるかが勝負という時期が長かった。それだけが、映画が映画の外側の世界と出会う方法であり、メディアの提示する閉じられた額縁の中で安全な現実逃避を提供するエンターテイメントの方法では不可能なことだったから。
映画の、映像の方法的世界観が大量に消費・蓄積されて観客の側も多様な方法を受け入れ可能なリテラシーがあり、それを前提にエンターテイメント映画との技法的な相互乗り入れが浸透した現在では、表面的な根拠を映画内・プロット内に確保し平易な連続性を担保した構造のもとで外部的な根拠を多層的に有するという企みが平均的、普通に選択しうる選択肢になっているように思う。この多層化はエンターテイメント映画でも逆の流れで起こっていて、スーパーヒーロー映画でも見えていない要素を感じさせ、劇的要素として活用し、エンターテイメントを観にきた観客が受け入れ可能な単純なプロットに現代的で複雑なテーマを持ち込み、奥行きのあるドラマの味わいを彫り込むことが可能になっている。
細田守も、とりわけおおかみこども以降ではそういった現代的な方法論や境地を目指し、採用しており、だからこそ毀誉褒貶が激しくなってきたのだと思う。
これは基本的には方法論の問題で、細田がその方法論を捨てる必然性は全くない。この方法論を細田の求めるレベルで活用可能な人材が得られない限り、他に脚本家を入れなければならない理由もない(入れられない)。
クリストファー・ノーランですらこれをやっており、これをやっているからこそああいう映画を作れ、かつヒットさせられているのだから、ノーランがうまくやっている程度にはもっとうまくやれる工夫がもうひとこえ必要なのでは?くらいだと思う。 November 11, 2025
1RP
映画『 #トリツカレ男 』、歌劇パート。
70年代・出崎統や杉野昭夫を思わせるタッチ、自在に時間・空間や動き・質感を制御・開放。
アニメならではの、自在闊達なデフォルメ・省略・注力の魅力。
逆に、映像では画面に表出するものが全てを表し、舞台演劇のように観客の想像力を働かせにくいのが難か… https://t.co/Iv1RSrtVfC November 11, 2025
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