戦後80年 トレンド
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2025.11.24〜(48週)
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今回の高市さんの発言をきっかけに、改めて気付かされたことがある。
それは――
中国やアジア諸国にとって、倭国の戦時期の記憶は“歴史上の出来事”ではなく、今も政治や感情に影響を与える“深いトラウマ”だということ。
倭国人の多くは「戦後80年」「もう過去の話」と感じがちだけど、
アジアでは“加害者への記憶”が世代を越えて受け継がれている。
そしてそこに、今の緊張感や政治不信、国家アイデンティティの問題が複雑に絡んでいる。
だから、高市さんのように踏み込んだ言い方をすると、
「倭国がまた領土的野心を持ったのか?」
「占領・支配の感覚が残っているのか?」
という恐怖や警戒心が、瞬時に呼び起こされる。
これは、戦争加害の感覚を持たない現代の倭国人には、なかなか実感しにくい部分。
もちろん、倭国にも「防衛しなければならない」という切実な事情がある。
でもそれと同時に、アジアとの信頼関係を丁寧に維持することこそが最大の防衛なんだよね。
なぜなら、
・倭国が軍事的に動けば周辺国は“構造的な恐怖”で過敏に反応する
・その反応を世界も見ており、評価に直結する
・ネトウヨ式の敵視・挑発は「戦争記憶の傷」を再びえぐるだけ
だから。
倭国がアジアから警戒されればされるほど、
防衛どころか孤立リスクが高まる。
だからこそ本来、倭国人はもっと自覚したほうがいい。
「戦後80年」ではなく、
“加害者としての80年”であり、
“トラウマを抱える国に囲まれている80年”だということを。
歴史の現実を理解し、周辺国との信頼を積み上げること。
それこそが、強さでもあり、倭国の安全保障でもあるはず。 December 12, 2025
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愛子さまは、戦後80年にあたって激戦地ペリリュー島に関する映画の上映会に。戦後70年の時、祖父母の上皇ご夫妻が島を訪問されたことをきっかけに作られた映画です。上映前には、中村倫也さんや同い年の俳優・板垣李光人さんらと交流されました。
https://t.co/Us0EtklPcA December 12, 2025
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「政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません」「歴史に学ぶ重要性は、我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません」。石破前首相の戦後80年所感を改めて読んだ。高市首相の誕生を見越し、警鐘を鳴らしていたかのような所感だ December 12, 2025
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【ご報告】
この度、日弁連主催の憲法ポスターに応募していましたがありがたいことに入選しました🐙やったー!!!嬉しみの舞、みんな見てねー!
倭国弁護士連合会:戦後80年企画「第2回憲法ポスター展~あなたの願いをポスターに~」入賞作品が決定しました! https://t.co/1orujudaJp @jfbasnsより December 12, 2025
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C国🇨🇳政治と関係ない倭国のアニソン歌手、民間イベントのライブ中に電源切って追い出す
倭国🇯🇵原爆ランプを「かわいいランプかっちゃった。どう思う?」と被爆者嘲弄投稿したaespaニンニン、謝罪ゼロで戦後80年の節目の年に国民の受信料強制徴収のNHKに紅白出場OK
すごいなこの違い、震えが走るわ https://t.co/TYHxYLjIZd https://t.co/6XzjOhRpsC December 12, 2025
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単独ご公務が続き頼もしい敬宮愛子さま。
太平洋戦争の激戦地パラオ・ペリリュー島を題材にした映画のチャリティー上映会に、戦後80年の節目、慰霊の旅を経験された敬宮愛子さまが臨まれたことは、より深い意義を帯びたと思う。
#敬宮愛子内親王殿下 https://t.co/zbNldJkAdp December 12, 2025
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今月、高市首相と国会で、戦後80年の教訓などについて質疑をいたしました。その部分の抜粋です。ご覧ください。戦争体験者がほとんどおられなくなり、戦争へのハードルが下がっているように感じます。 https://t.co/aNMGxTh02R December 12, 2025
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敬宮さま💗
落ち着いたスタイルは
戦争を取り上げたチャリティー視聴の為
次世代へつなぐ大いなる力✨
#敬宮愛子内親王殿下
#チャリティー視聴
#映画鑑賞
#ペリリュー
#戦後80年 https://t.co/McKgO8fpL5 December 12, 2025
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ドクター・中松の戦後80年所感(その39)
そして8月15日、拡声器が鳴って、全員は第二種軍装を付け練兵場に集合すべしというスピーカーが鳴った。第二種軍装とは、夏用の正式な正装である。そして練兵場に集まると、天皇陛下のお言葉が流れてきたが、東京から遠い舞鶴なのでラジオがよく聞こえない。
終わった時も上官が「陛下が今おっしゃったように今後も頑張れ」と、私達全員もこれからもっと頑張るぞということで、倭国が負けたなど一切思ってなかった。
そして翌日からひきつづき猛訓練が続いた。私は海軍に入って関心したことは、その教授陣が立派であるということであった。例えば文学では芥川龍之介が教授だし、理化学についても民間のレベルより遥かに高いレベルの授業だった。しばらくして民間の舞鶴の街の方から、どうやら倭国は戦争に負けたんじゃないかという噂が入ってきた。
そこで海軍機関学校は何をやったかというと、猛烈な勉強を始めたのである。ただちに座学の勉強、物理、化学、国学、地理学その他、すべてに渡って猛烈な量と猛烈な深さで連日の座学が行われた。ここらへんもやはり、海軍の教育レベルの高さであろう。
つまり、これから海軍をやめてシャバに行くには、さらにもっともっと深い教養をつけさせ倭国を支える人材を育成するという方針だったと思う。
そして、私はハンモックNo.1の証明書と学習証明書をもらって舞鶴駅から東京に向かったのであるが、残念ながら貨車しかなくて、貨車に乗って、しかも運悪く雨が降ってきて、一晩中、雨に濡れながら東京に着いた。
そして、久しぶりの我が家について、玄関をノックすると私の母が出てきた。私は母に言った。「ただいま帰りました。」と敬礼すると母は驚いた顔で私を見上げて「どなたさまですか」と言った。
それもそうだろう。出発の時に75cmしかなかった胸囲が108cm以上の巨大な体になって、大男となって、ヌッと玄関から入ってきたのであるから。
家に入って廊下を甲板掃除と見立てて、一生懸命、縁側を磨いて綺麗にした。しかし舞鶴から東京まで貨車で一晩中雨に打たれたせいもあって、赤痢にかかったらしく、急遽、近くの海軍病院に入院することになった。
これが私の終戦の日の、終戦の頃の、そして故郷に復員した日の状況である。
ところで私の家のそばの柿の木坂にアメリカ帰りの祖父が家を建てたのである。この祖父は私のためにボートを浮かべる池を庭に作ってくれたり、それから私のつくった飛行機を一緒に飛ばしに行ったりしてくれたのだが、真珠湾攻撃で親戚全員が祖父の家に集まって、勝った勝ったと言って、喜んだときにその祖父はぽつりと「倭国は負けるよ」ということを言った。祖父が長年アメリカに住んでいた経験から言ったのだろう。
その後、祖父が亡くなり、私の復員後祖母が亡くなった。終戦の後で霊柩車もなく、私が祖母の遺体をリヤカーに積んで、私がリヤカーをひいて火葬場まで祖母を運んで行った。そして、昔から飛行機を一緒に飛ばしに行ってたい従兄弟の文也ちゃん(東大医学部卒業の医師)も一緒についてきた。そうすると向こうから水兵が五、六人、ざわざわと話しながら歩いてきた。そして、すれ違おうとしたとき、私はとっさに「敬礼せんか」とその水兵たちにかけ声をかけて、その水兵たちは一斉に挙手の敬礼をした。その時、私の胸には将校生徒の錨のマークが光っていた。
つまり、何を私が言わんとするかというと、終戦後、何か月も経っているのに、倭国の軍律、軍の規律はまだ残っていて、いかに倭国の軍隊は規律があったかということを私はしっかりと感じたのである。
(つづく) December 12, 2025
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ドクター・中松の戦後80年所感(その37)
海軍の検査はこれだけではない。
憲兵が家に来て士族か平民かを確認に来た。
昔は侍は士族、侍以外は平民というように、戸籍がわかれていた。そして海軍将校は士族しかなれなかった。私のうちは直参旗本なので士族という戸籍になっていた。だから憲兵がチェックしてもOKだった。
体格検査も通り、筆記試験も通り、憲兵の試験も通り、
これでめでたく入学したのだが、東京から舞鶴まで満員鈴なりの電車に母はついて来てくれた。そして校長に私のことをよろしく、と頼んで帰って行ったのはさすが、わが母である。
やがて猛訓練が始まった。その最初は姓名申告と言って自分の名前を言うのであるが、ここでまず顔をゲンコツでぶん殴られる。このぶん殴られ方は陸軍と海軍で違っていて、陸軍は平手やスリッパで顔を殴られるが、海軍は非常に合理的で、先ず「股を開け、歯を食いしばれ」と命令される。これは顔を殴られた時に唇など口内を切ることを防止するためである。
話しはちょっと飛ぶが戦後、私の会社に元三井物産にいた西尾という人間を部長として引き抜いた。この西尾のお父さんは陸軍の最高幹部である教育総監をしていた。したがって当時最も安全な地域は倭国が一回も負けたことがないC戦線であったので、息子の西尾はC戦線に配置された。戦後某放送局がC戦線で敗走する倭国兵と出鱈目な番組を流したり、現在もC国は倭国に勝った戦勝記念日をやっているのは、どこで勝ったのか不思議である。
なぜならS軍は倭国に負け続けているし、K軍は長征と称して北に逃げ続けていたからである。
さて西尾の話に戻るが、行列させられてビンタ打ちを前からやっていくのだが、西尾のところでスパッとビンタ打ちが止まった、と西尾自身が私に話している。つまりお父さんに言いつけられることを恐れたのであろう。
ところで私に対する海軍でのゲンコツは、起床動作から始まり、歯磨き、階段の上り下り、練兵場への駆け足など、全てにおいて呼び止められ鉄拳制裁をくらった。その数は一日三十発を下らなかった。その後、発光信号によるモールス信号や五省の斉唱などを経て一日が終わるが、そして昼間は海軍独特のカッター訓練、つまり両手の指で囲む位の太さのオールを力いっぱい漕ぐ訓練や、朝の6時から夜の6時までぶっ通しの水泳訓練、民間では5mしかない高跳び込みの台が海軍では10mあり、そこから飛び込む訓練など猛烈な肉体訓練と午前中は民間より高度な座学、例えばメンデレーエフの周期律表を麻布では全部覚えられなかったが、海軍機関学校の教授法が巧みで全部覚えられるようになったし、数学ではダイバージョンを充分理解出来るようになったし、肉体も頭脳も極めて高度なレベルで鍛えられた。
(つづく) December 12, 2025
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敬宮愛子さまと俳優の板垣李光人さんは同い年なんですね。直近のラオス公式訪問を含め、この映画のテーマに沿う戦後80年節目に慰霊の旅に同席した敬宮さまの凄まじいご立派なご活躍に、同世代も誇らしいでしょう✨
#敬宮愛子内親王殿下 https://t.co/6T4untQfWb https://t.co/KSsJHB9hLZ December 12, 2025
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ドクター・中松の戦後80年所感(その38)
終戦の頃、つまり8月というのは、通常ならば夏の休暇で自分の家に帰るといのが例年だが、終戦の年はそのことも許されなかった。
前年には許されていて、私のいた麻布の講堂に近所に住んでいた千田くんのお兄さんが真っ白い第二種軍装を来て、小さい背を弓のように伸ばして、「第三号生徒千田」と言って、大きな声で名前を言っていたことを思い出す。これは海軍で姓名申告といって、入学の時に必ず言わされるものである。
ところで終戦のときの8月に故郷に帰ることを許されず、代わりに相撲訓練が行われた。
そして、その相撲の行司は私をかねてから睨んでいた一号生徒が務めた。なぜその一号生徒に私が睨まれたかというと、東京から来た青白い男である私が生意気だと見たのであろう。
そして、東京から来た私の唯一の同僚は当時、倭国一の薬メーカーの御曹司の星くんであった。そして、星くんは何にもしないのに殴られていた。なぜ殴られていたかというと、彼の顔は普通にしていても笑っている顔に見えたからである。
海軍では絶対笑ってはいけない、泣いてはいけない。だから星くんはいつも何もしないのに殴られていた。
そして、笑ってはいけない例として、機関学校に落語家が慰問に来たが、落語家が一生懸命笑わそうとしても、聞いてる生徒は絶対に笑わない。だから落語家はがっくりして帰っていった。
それはともかく、相撲では地方から来た真っ黒な筋肉隆々の者などが占めていた。しかも海軍の相撲は技を使ったり、うっちゃりをすることは卑怯であるということで、技は全て使えなかった。
しかし、私はこれら全員を負かしたのである。例の私をいじめていた一号生徒はこんな東京の青白いやつがこんな全員を打ちまかすとは驚いたもんだということで、私は海軍横綱になった。
海軍の相撲は技を使ったり、うっちゃりをすることは卑怯であるということで、技は全て使えなかった。いずれにしても、その相撲大会からあとはその私をいじめていた一号生徒の態度はガラッと変わって、私をいつも可愛がってくれるようになった。
これ以外に私は足が速いということでラグビーのウイングの選手になって放課後まで練習をする。
(つづく) December 12, 2025
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「戦後80年企画 第2回憲法ポスター展~あなたの願いをポスターに~」の入賞作品が決定しました!
たくさんのご応募、ありがとうございました。
掲載画像(各部門金賞受賞作品)のほか、入賞者の作品をぜひご覧ください。
https://t.co/24WRjVoEm0 https://t.co/V5VeyxVkRb December 12, 2025
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戦後80年の今年、中公選書より新版2冊が揃いました。
📘佐藤誠三郎 松崎哲久『新版 自民党政権』
📘原彬久『新版 戦後史のなかの倭国社会党』
「55年体制」を代表するふたつの政党は、戦後倭国にとってどのような存在だったのか。いまなお鮮烈な分析に圧倒されます。ぜひご併読ください。 https://t.co/M8J9VbvZ9Y December 12, 2025
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@hanamarufarm 今年戦後80年の節目の慰霊の旅で、天皇皇后両陛下に同行されたのも、両陛下のご意思を受け継ぐ思いを行動で示されていたと思います。 December 12, 2025
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第5章 停滞期から令和のホラーブームへ 2000~20年代 平成期の怪談文芸ルネッサンス、現代ホラーの新しい波、モキュメンタリーとホラーの未来 など
という構成で戦後倭国80年のホラー文学史を辿ります。戦後80年にぶつけるつもりでしたが執筆が遅れて81年後になっちった。1月発売、予約受付中。 December 12, 2025
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上っ面の間延びした台本読むだけ
国内で起きた大火被災者へのお見舞いの気持ちも表さない皇族はいらない
【全文】秋篠宮さま60歳誕生日を迎えての会見 戦後80年平和継承への思い、悠仁さまの自炊生活など明かす 皇族数の減少に「全体的な公的な活
#Yahooニュース
https://t.co/NdNNNUmPdv December 12, 2025
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@ykabasawa 謝罪しなくて良いです。
何故悪くもないのに謝るんですか?
あなたは自分の家族にもなんだか周りの雰囲気が悪いからとりあえず謝罪しなさいと言うんですか?
仲が悪いのに無理に戦後80年も付き合った結果です。お互い嫌いなのに無理していたということで脱中国、脱倭国致しましょう。 December 12, 2025
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@tweetsoku1 「変わり果てた姿」が何かも解らないほどに変わり果てた倭国か
愛子様の御祖父様
“戦後80年に際し倭国の行った戦争の加害面を考えるべき” https://t.co/t1vBKyxfWp December 12, 2025
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在職中から「戦争体験の継承」を訴え、実際に講話活動を始めた長峰由紀さんにインタビューしました。私の質問に丁寧に答えていただき、あっという間に2時間超。ラジオリスナー冥利に尽きる取材でした。
取材に当たっては、TBSラジオ澤田記者@nankuru_akabekoに長峰さんを紹介してもらいました。ありがとうございました。
【戦後80年】元TBS長峰アナ、被爆証言の伝承者に◆「今に続く話」永六輔さんら遺志継ぐ#取材班インタビュー:時事ドットコム https://t.co/YpuvmmJQLe December 12, 2025
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