武田信玄 トレンド
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2025.12.08 13:00
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【戦国の合戦】
中部地方の合戦
永正3年〜永禄12年(1506〜1569)
〚8〛稲葉山城攻め ‐ 信長・美濃を手中にする‐
織田信長 vs 斎藤龍興
◆ 東美濃で敵対する城を攻略する 信長
信長の美濃攻略は思うようには進まなかったが
永禄5年(1562)には 三河の 松平元康(徳川家康)と 同盟を゙結び 東方に対する脅威をなくして 同6年には それまで居城としていた 清州城から、濃尾平野の中央部にそびえる 小牧山 に居城と城下町を新たに建設して美濃攻略の足場としました。
まず 犬山城主であり、信長の一族で敵対していた 織田信清 に対して その家臣を調略で味方に引き入れ包囲しました。
さらに 翌、永禄7年には
犬山城から木曽川を隔てた美濃側の
鵜沼(うぬま)城
猿喰(さるばみ)城
を 攻略しました。
続いて、信長に属した
佐藤紀伊守 の居城・加治田城 に対する付城として
斎藤軍が築いた 堂洞(どうほら)城 を猛攻のうえ、落城させました。
この 堂洞城の合戦では 『信長公記』の著者として知られる 太田牛一 が見事な矢戦を行って、信長から褒美をあたえられています。
しかし、稲葉山城の攻略は 依然として進みませんでした。
永禄8年(1565)には
苗木(なえき)城主・遠山氏の息女を養女として 甲斐武田信玄の子・勝頼に嫁がせる約束を取り付けるなどと、しだいに信長は
東美濃を中心に支配力を強めていったのです。
—続ー December 12, 2025
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