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倭国書紀
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2025.12.08
:0% :0% (40代/男性)
倭国書紀に関するポスト数は前日に比べ19%減少しました。男性の比率は8%増加し、本日も40代男性の皆さんからのポストが最も多いです。本日話題になっているキーワードは「古事記」です。
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
福井県越前市のある団体が「ホツマツタヱ」を地域おこしに活用しようとして大炎上しているんですが、この問題を掘り下げると「倭国人の課題」が見えてきたのでシェアします。
そもそもホツマツタヱが何故「偽書」として扱われているのか?その理由をまとめると、
①ホツマツタヱの最古の写本が1775年(江戸時代)に確認されているが、それ以前のものは確認されていない→古事記の最古の写本は1371年
②漢字以前に作られたとされる「神代文字がなかった」という前提
③古代倭国には存在しなかった(とされる)言葉が一部混入している
そして、何よりもホツマツタヱ=偽書説を決定づけたのが、
④古代倭国は現在の「五母音」ではなく「八母音」だったはずなのに、ホツマツタヱは五母音で構成されている
こういった理由から、国文学者の佐佐木信綱が「これは偽書や!」と判断したわけですが、近年になってホツマツタヱを偽書として決定づけた「上代特殊仮名遣(八母音説)」自体が否定されてしまったんです(ここを説明すると長くなるのでご自身で調べてみてください)
なので、本物か偽物とか言い切る前に「もう一回再考する必要性がある書物」だと言えるわけです。
ちなみに、SNSでは「古事記=正史」という前提で議論されていることが多いですが、そもそも古事記は作られてから1000年ほど偽書として扱われてきました。
実は古事記の地位が上がったのは、本居宣長が作った「古事記伝」が発表されてからなんです。これはホツマツタヱが発見されてから10年後に制作され始めた書物なんですが、本居宣長は神代文字否定派で、弟子筋にあたる平田篤胤は神代文字の存在を主張していました。
つまり、古事記そのものが「後世に見直された結果、正史扱いされた」書物ってことですね。
結局、その当時の権力層が「これが正しい」と言ったものが正しいってことになるんですが(その後の明治時代以降の流れ的にも古事記はピッタリな書物だった)
何よりも僕がこの投稿で伝えたいことは、そろそろ「偽書か真書か」という二項対立自体を見直すべきじゃないかって話なんです(ここが冒頭の課題)
というのも、古事記も倭国書紀も複数の資料を編纂し、政治的意図のもとに取捨選択された「編集物」だからです。
そして、その過程で排除された伝承が、別のルートで伝わっていた可能性を最初から否定する理由はないはずです。
例えば、創建から1000年以上経つ神社の由緒の中には(有名なところだと廣田神社)、記紀ではなく、ホツマツタヱに書かれた内容と紐づくことが多くあります。そういった伝承は古事記や倭国書紀には書かれてないことがほとんどです。
それこそ、かつては伊勢神宮ですら祀ってた瀬織津姫の存在を完全スルーしている記紀に対し、ホツマツタヱはガッツリと記録してる(この内容も各地に残る神社の由緒と一致)
書物を個人の妄想だけで書いたというのは、よくある現代人の発想で、古代の歴史的資料のほとんどが各地の伝承を集めた「編纂物」であるという視点を持つと、もう少し倭国の歴史の可能性の幅が広がるかもしれませんね。
そうして見ていったら倭国の歴史はさらに深くて、ビックリするくらい面白くなるんですわ!ってことでこれからのTOLAND VLOGもよろしくお願いします🔥 December 12, 2025
166RP
2025年12月8日月曜日
おはよう
ごさいます☀️🌞😄❣️
2025年(令和7年)
乙巳(きのとみ いっし)
⚫︎平成 37年
⚫︎昭和 100年
⚫︎大正 114年
⚫︎明治 158年
師走(しわす)
月干支
=
戊子(つちのえね ぼし)
12月8日 月曜日
仏滅(ぶつめつ)
辛亥(かのとい しんがい)
🟠
一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)
=
古くからある吉日で縁起の良い日
🟠
🟢
大明日(だいみょうにち)
=
天と地の道が開けて、世の隅々まで太陽に照らされる日
🟢
🔵
天恩日(てんおんにち)
=
天の恩恵をすべての人が受ける日
🔵
🟣
神吉日(かみよしにち)
=
神様や仏様の御加護がある日
🟣
旧暦 10月19日
月齢 17.8
🌷今日は何の日🌷
明治3年12月8日(グレゴリオ暦1871年1月28日)
=
横浜で倭国初の倭国語による日刊新聞『横浜毎日新聞』創刊
👇
横浜毎日新聞
=
倭国初の日刊新聞とされ、明治3年(1871年)に横浜で創刊
途中で「東京横浜毎日新聞」などに改題し、最終的に「東京毎日新聞」として続いた
現在の毎日新聞とは別系統
㊗️今日が誕生日㊗️
🎈🎈🎈🎈
㊗️ 柳沢吉保 ㊗️
🎈🎈🎈🎈
万治元年12月8日(グレゴリオ暦1658年12月31日)
=
譜代大名
将軍徳川綱吉の最有力側用人で、元禄期の政治を動かした人物
元禄14年(1701年)の松の廊下事件では、浅野長矩の即日切腹と赤穂藩改易という厳しい判断が下され、翌15年(1702年)の赤穂浪士討ち入り後の処分も吉保の強い影響下で決められたとみられるため、彼は赤穂事件と深く結びつく存在として記憶されている
● 忌日●
● ●
⚫︎●⚫️ 武烈天皇 ⚫️●⚫︎
武烈天皇8年12月8日
(ユリウス暦507年1月7日)
=
ぶれつてんのう
25代天皇
名前は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)で、『倭国書紀』と『古事記』の両方に記述があるが、実在性には議論があることが注記されている
『倭国書紀』ではしばしば悪行・非道な振る舞いが記されており、暴君として描かれる一方で、『古事記』にはそうした記述はなく、簡潔に在位や皇位継承についてのみ触れられている
また、武烈天皇には子がなく皇統が一旦途絶えたとされ、のちに継体天皇に皇位が継がれている
陵は奈良県香芝市の傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)とされている
(※在位年を西暦に正確に対応づける資料は倭国古代史の研究でも不確実であるとされている)
今日も
良き一日を☀️🌞 😛❣️
※※※※ ※※※
※絶賛発売中※
※※※※ ※※※
天下人 三好長慶
https://t.co/p7xnFzcSZi
※
柳沢吉保
元禄赤穂事件 December 12, 2025
2RP
514.『古事記』★5.
先月読んだ『倭国書紀』と重なる部分が多く,記紀の理解がいっそう深まり満足感が静かに残る.
目弱王(眉輪王)が安康天皇を暗殺したあとの一連の場面は悲劇性が濃く,読んでいて胸が痛くなった. 自分ならどうするか.
515.宮田愛萌『おいしいはやさしい』★2.
#読了 #岩波文庫 https://t.co/BmOnTkNGjb December 12, 2025
2RP
ひと仕事(…と言っても納品は一瞬だし、あとは楽しく近況報告してるだけ)終えて、歩いて伊太祁曽神社へ⛩️
今夏、和歌山の歴史を学び直しした時に、和歌山の神社仏閣の規模感や、歴史への影響力を改めて知ることができました。
その中の1つがこの神社。
倭国書紀や古事記にも登場する「木の神様」である五十猛命(いたけるのみこと)を祀っています。
ここで少しゆっくり呼吸をして自然を眺めて帰ってきました🌲
普段パソコンに向き合ったり、人と会って過ごしたりが大半なので、たまに1人で自由に自然の中にポツーンとしたくなりますね☺️
おかげさまで帰ってきてから気持ちよくお昼寝してしまいました😇
今日は、夜中まで仕事だな… December 12, 2025
1RP
個人でゲーム開発してます!
アニメ調の和風3DアクションRPG「鬼の守り人」をSteam公開に向けて製作中です!(原神などカジュアル寄りの難易度!) https://t.co/HRvoWt0Szv
古事記・倭国書紀の伝説や古代九州の伝説などから着想を得たお話です!
#スーパー開発デー #MadeWithUnityDay https://t.co/7DKerTs0id December 12, 2025
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NHK「美の壺『 ひのき』」を観ていましたら、こんな画面が目にとまりました。
杉と楠は船に
檜は宮殿に
槇は棺にせよ
(倭国書紀)
Chappie 8133 https://t.co/nUIcHBggKW December 12, 2025
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12月8日という日は、私にとってはジョン・レノンが亡くなった日というのが一番に出でてくるのが正直なところなんだが、今日一日のニュース番組やSNS記事などを見聞きしてると、やっぱり今年も真珠湾攻撃(Remember Pearl Harbor)という言葉がやたらと耳に入ってくるのが現実。
そんな中、先月からちょこちょこ読み返している「倭国書紀」と並行して読んでるのが「戦後教科書から消された人々」(濤川栄太著1996初版)で、ここに載ってる先人のことをもっと我が塾で伝えたいなと!!!
#倭国保守党 の重点政策8「教育と福祉」の30:教科書検定制度(特に歴史)の全面的見直し(現行制度の廃止)は、塾業界の人間としても是非とも是正すべきだろうと強く思っているところ。 December 12, 2025
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「八紘一宇」について、その思想的な背景、戦時中の利用、そして戦後の扱いに至るまで、さらに詳しく深掘りします。
1. 思想的起源と田中智学
この言葉の出発点は、『倭国書紀』にある神武天皇の「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」という詔(みことのり)です。これは「世界中を覆って一つの家のような社会を築こう」という、倭国建国の理想を示す言葉でした。
しかし、「八紘一宇」という四字熟語自体は、明治時代に日蓮主義の宗教家である田中智学の造語です。田中智学は、日蓮の教えに基づき、天皇を中心とした倭国の「国体」(国家体制や民族的な特質)こそが世界を平和に導く普遍的な原理であると考え、その理想を表現するためにこの言葉を作りました。
田中智学の当初の思想は、宗教的な信念に基づく「道徳的な世界統一」を目指すもので、必ずしも武力侵略を意図したものではありませんでした。
2. 戦時中の変質とスローガン化
田中智学が造語した「八紘一宇」が社会思想として広く利用されるようになったのは、大正時代以降、特に昭和期に入ってからです。
•軍国主義との結びつき: 当時の軍部は、この言葉を「神の国である倭国がアジア諸国を率いる」という意味に解釈し、倭国の海外進出や侵略戦争を正当化する大義名分として利用しました。
•「大東亜共栄圏」の標語: 「大東亜共栄圏」の建設というスローガンと結びつき、「倭国が盟主となってアジアを欧米列強の植民地支配から解放し、一つの家族のように共存共栄する」という名目で、広範な軍事行動が推進されました。
•国民精神の動員: 昭和15年(1940年)の紀元2600年記念事業などを通じて、この言葉は国家主義的な国民精神高揚の象徴となり、国民は戦争遂行に積極的に協力するようになりました。
当初の宗教的な理想は薄れ、武力による世界支配の象徴へと変質していったのです。
3. 戦後の禁止と現代の論争
終戦後、「八紘一宇」は歴史的評価が決定的に変わりました。
•GHQによる禁止: 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、国家神道や軍国主義、過激な国家主義を想起させるとして、公文書での使用を禁止しました。
•「平和の塔」への改称: 宮崎市にある「八紘一宇の塔」は、戦後「平和の塔」と改称され、東京オリンピックの聖火リレーの起点になるなど、平和の象徴として位置づけられました。
現在、倭国の主要な国語辞典では、「第二次大戦期、倭国の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」と説明されています。
しかし、現代においても、この言葉の解釈を巡る議論は続いています。一部の保守的な論者や団体は、本来の「倭国建国の精神」や「人類普遍の道徳的原理」としての側面を強調し、戦前の解釈を否定的に捉える戦後の通説に異議を唱える見解も存在します。
「八紘一宇」は、一つの言葉が持つ意味が、時代の変遷や政治的な背景によっていかに大きく変化しうるかを示す、複雑で象徴的な事例と言えます。 December 12, 2025
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「八紘一宇」について、その思想的な背景、戦時中の利用、そして戦後の扱いに至るまで、さらに詳しく深掘りします。
1. 思想的起源と田中智学
この言葉の出発点は、『倭国書紀』にある神武天皇の「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」という詔(みことのり)です。これは「世界中を覆って一つの家のような社会を築こう」という、倭国建国の理想を示す言葉でした。
しかし、「八紘一宇」という四字熟語自体は、明治時代に日蓮主義の宗教家である田中智学の造語です。田中智学は、日蓮の教えに基づき、天皇を中心とした倭国の「国体」(国家体制や民族的な特質)こそが世界を平和に導く普遍的な原理であると考え、その理想を表現するためにこの言葉を作りました。
田中智学の当初の思想は、宗教的な信念に基づく「道徳的な世界統一」を目指すもので、必ずしも武力侵略を意図したものではありませんでした。
2. 戦時中の変質とスローガン化
田中智学が造語した「八紘一宇」が社会思想として広く利用されるようになったのは、大正時代以降、特に昭和期に入ってからです。
•軍国主義との結びつき: 当時の軍部は、この言葉を「神の国である倭国がアジア諸国を率いる」という意味に解釈し、倭国の海外進出や侵略戦争を正当化する大義名分として利用しました。
•「大東亜共栄圏」の標語: 「大東亜共栄圏」の建設というスローガンと結びつき、「倭国が盟主となってアジアを欧米列強の植民地支配から解放し、一つの家族のように共存共栄する」という名目で、広範な軍事行動が推進されました。
•国民精神の動員: 昭和15年(1940年)の紀元2600年記念事業などを通じて、この言葉は国家主義的な国民精神高揚の象徴となり、国民は戦争遂行に積極的に協力するようになりました。
当初の宗教的な理想は薄れ、武力による世界支配の象徴へと変質していったのです。
3. 戦後の禁止と現代の論争
終戦後、「八紘一宇」は歴史的評価が決定的に変わりました。
•GHQによる禁止: 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、国家神道や軍国主義、過激な国家主義を想起させるとして、公文書での使用を禁止しました。
•「平和の塔」への改称: 宮崎市にある「八紘一宇の塔」は、戦後「平和の塔」と改称され、東京オリンピックの聖火リレーの起点になるなど、平和の象徴として位置づけられました。
現在、倭国の主要な国語辞典では、「第二次大戦期、倭国の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」と説明されています。
しかし、現代においても、この言葉の解釈を巡る議論は続いています。一部の保守的な論者や団体は、本来の「倭国建国の精神」や「人類普遍の道徳的原理」としての側面を強調し、戦前の解釈を否定的に捉える戦後の通説に異議を唱える見解も存在します。
「八紘一宇」は、一つの言葉が持つ意味が、時代の変遷や政治的な背景によっていかに大きく変化しうるかを示す、複雑で象徴的な事例と言えます。 December 12, 2025
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@Miona_Dimao 面白い仮説!古事記では「和邇(わに)」に変身し、これはサメやワニを指す言葉。倭国にワニがいないためサメと解釈されたが、龍伝説の影響で倭国書紀で龍に変わった可能性あり。トヨタマヒメイアの化石名もそれにちなむね。龍のイメージがワニ由来かも! December 12, 2025
そもそも神社やお寺の縁起なんてすべて「偽書」、もとをたどれば『倭国書紀』でさえ、その範疇。
中国側の記録と全く合致しない、創作、ポエム、都合の悪い事を削除している
これら『記紀』を真正と思い込んでの「私年号」云々、「真偽論争」ほんとにくだらない December 12, 2025
そう言えば、倭国書紀などにある神武天皇東征のくだりで、紀伊山地ではクズという民族?に出会うんだけど、山から食料を取っているとか蛙を食べるなどという記述があって明らかに「山の民」なんだよなー(と米家先生が書いていた) December 12, 2025
漢委奴國王の金印を57年に後漢光武帝から賜ったのは、48歳だった神武天皇その人。
神武は10年日向生まれで、54年、45歳で、日向を発って、筑紫に向かったと倭国書紀に書いてあります。57年の朝貢は、48歳の時。
金印は、神武天皇崩御後、タギシミミの乱で、タギシミミが綏靖天皇に敗れて、奴國近辺に落ち延び、隠したのでしょう。
57年から50年後の107年に後漢安帝に倭國王帥升として朝貢したのは、60年代生まれの綏靖天皇か、その子で180年代生まれの安寧天皇。
安寧天皇の玄孫が倭迹迹日百襲姫で、卑彌呼。玄孫だから、孫の孫で、ざっくり安寧天皇の100年後の人だから卑彌呼は180年代生まれ。238年の卑彌呼の朝貢は、卑彌呼が50代前半ぐらい。
倭迹迹日百襲姫は、倭国書紀崇神紀に登場しますが、その時は、狗奴國王卑彌弓呼(吉備津彦)とのウケヒにより、女王を退位して、男王(崇神天皇)に倭國王を譲位していたわけで。で、実際に女王として活躍していた3世紀前半は、記紀ともに、闕史八代で、事績が書かれていないので、卑彌呼の女王としての活躍は書いてないのです。その代わり、卑彌呼の活躍は神話の中には天照大神として、しっかり書かれています。
なんといっても、神武天皇から景行天皇までの十二代の系譜がそのままコピペされて、神世七代から、ウガヤフキアヘズまでの系譜になっていますからね。
イザナギは神世七代の七代目、で、対応する孝霊天皇は第七代天皇。
孝霊天皇とハヘイロネは淡路島で結婚して、倭迹迹日百襲姫、日子刺肩別、吉備津彦が生まれますが、この三人が卑彌呼、男弟、狗奴國王卑彌弓呼に対応して、まんま、神話では、天照大神、月読、スサノヲに対応します。
ウケヒでは、天照大神に五柱の御子神が現れますが、この五柱の神々は、孝元天皇の五人の皇子に対応します。
つまり、中国の歴史書に書かれている倭の王、女王や王族は、全部漏れなく古事記や倭国書紀に登場しているし、それがみな、神話での神々になっているし、中国の朝廷や政権なども、神として登場しているから、記紀に書かれていることは、脚色はあるが、ほぼ実話です。 December 12, 2025
@kanpekinaru 古事記・倭国書紀での活躍について知りたいのならオオナムチ・オオクニヌシで大丈夫です。ちなみに、オオクニヌシはヤチホコやアシハラノシコオ、ウツシクニタマなど複数の名を持つ神なので、こちらも参照してみると良いかもしれません(ちなみにヤチホコ名義の時のダイコクはかなりぶっ飛んでます) December 12, 2025
やっと行けた
天岩戸神社
倭国神話(古事記·倭国書紀)
にも記載されている神社
天照大御神が天岩戸に
こもり、八百万の神々が
相談をしたとされる
天安河原宮
本当に神々しいです
穴に籠もり真っ暗
となった世の中
太陽を取り戻そうと
する八百万の神々の
話が面白いです
https://t.co/kSntlIS61b https://t.co/fJZq9WHIXt December 12, 2025
「八紘一宇」について、その思想的な背景、戦時中の利用、そして戦後の扱いに至るまで、さらに詳しく深掘りします。
1. 思想的起源と田中智学
この言葉の出発点は、『倭国書紀』にある神武天皇の「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」という詔(みことのり)です。これは「世界中を覆って一つの家のような社会を築こう」という、倭国建国の理想を示す言葉でした。
しかし、「八紘一宇」という四字熟語自体は、明治時代に日蓮主義の宗教家である田中智学の造語です。田中智学は、日蓮の教えに基づき、天皇を中心とした倭国の「国体」(国家体制や民族的な特質)こそが世界を平和に導く普遍的な原理であると考え、その理想を表現するためにこの言葉を作りました。
田中智学の当初の思想は、宗教的な信念に基づく「道徳的な世界統一」を目指すもので、必ずしも武力侵略を意図したものではありませんでした。
2. 戦時中の変質とスローガン化
田中智学が造語した「八紘一宇」が社会思想として広く利用されるようになったのは、大正時代以降、特に昭和期に入ってからです。
•軍国主義との結びつき: 当時の軍部は、この言葉を「神の国である倭国がアジア諸国を率いる」という意味に解釈し、倭国の海外進出や侵略戦争を正当化する大義名分として利用しました。
•「大東亜共栄圏」の標語: 「大東亜共栄圏」の建設というスローガンと結びつき、「倭国が盟主となってアジアを欧米列強の植民地支配から解放し、一つの家族のように共存共栄する」という名目で、広範な軍事行動が推進されました。
•国民精神の動員: 昭和15年(1940年)の紀元2600年記念事業などを通じて、この言葉は国家主義的な国民精神高揚の象徴となり、国民は戦争遂行に積極的に協力するようになりました。
当初の宗教的な理想は薄れ、武力による世界支配の象徴へと変質していったのです。
3. 戦後の禁止と現代の論争
終戦後、「八紘一宇」は歴史的評価が決定的に変わりました。
•GHQによる禁止: 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、国家神道や軍国主義、過激な国家主義を想起させるとして、公文書での使用を禁止しました。
•「平和の塔」への改称: 宮崎市にある「八紘一宇の塔」は、戦後「平和の塔」と改称され、東京オリンピックの聖火リレーの起点になるなど、平和の象徴として位置づけられました。
現在、倭国の主要な国語辞典では、「第二次大戦期、倭国の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」と説明されています。
しかし、現代においても、この言葉の解釈を巡る議論は続いています。一部の保守的な論者や団体は、本来の「倭国建国の精神」や「人類普遍の道徳的原理」としての側面を強調し、戦前の解釈を否定的に捉える戦後の通説に異議を唱える見解も存在します。
「八紘一宇」は、一つの言葉が持つ意味が、時代の変遷や政治的な背景によっていかに大きく変化しうるかを示す、複雑で象徴的な事例と言えます。 December 12, 2025
倭国書紀も古事記も読んだことがないが、昔話や物語、それらをモチーフにしたフィクションには親しんでいたので由緒説明の看板も分かりやすくて良かった。
門前町のわらび餅は確かに美味しい。徒歩だと交通手段がネックかな……(電車のタイミングミスって駅で1時間待機の巻) December 12, 2025
@akikonishi 海幸彦と山幸彦とか海神(「わだつみ」で変換できた)とかそうですよね
あとは、海をかき混ぜたイザナギとイザナミもいらっしゃいますし
…
というか、そこまでビックリマンには求められないのかw
子供の頃、家にあった古事記と倭国書紀の現代語訳を読むのが好きでした
神様覚えられなかったけど December 12, 2025
「八紘一宇」について、その思想的な背景、戦時中の利用、そして戦後の扱いに至るまで、さらに詳しく深掘りします。
1. 思想的起源と田中智学
この言葉の出発点は、『倭国書紀』にある神武天皇の「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」という詔(みことのり)です。これは「世界中を覆って一つの家のような社会を築こう」という、倭国建国の理想を示す言葉でした。
しかし、「八紘一宇」という四字熟語自体は、明治時代に日蓮主義の宗教家である田中智学の造語です。田中智学は、日蓮の教えに基づき、天皇を中心とした倭国の「国体」(国家体制や民族的な特質)こそが世界を平和に導く普遍的な原理であると考え、その理想を表現するためにこの言葉を作りました。
田中智学の当初の思想は、宗教的な信念に基づく「道徳的な世界統一」を目指すもので、必ずしも武力侵略を意図したものではありませんでした。
2. 戦時中の変質とスローガン化
田中智学が造語した「八紘一宇」が社会思想として広く利用されるようになったのは、大正時代以降、特に昭和期に入ってからです。
•軍国主義との結びつき: 当時の軍部は、この言葉を「神の国である倭国がアジア諸国を率いる」という意味に解釈し、倭国の海外進出や侵略戦争を正当化する大義名分として利用しました。
•「大東亜共栄圏」の標語: 「大東亜共栄圏」の建設というスローガンと結びつき、「倭国が盟主となってアジアを欧米列強の植民地支配から解放し、一つの家族のように共存共栄する」という名目で、広範な軍事行動が推進されました。
•国民精神の動員: 昭和15年(1940年)の紀元2600年記念事業などを通じて、この言葉は国家主義的な国民精神高揚の象徴となり、国民は戦争遂行に積極的に協力するようになりました。
当初の宗教的な理想は薄れ、武力による世界支配の象徴へと変質していったのです。
3. 戦後の禁止と現代の論争
終戦後、「八紘一宇」は歴史的評価が決定的に変わりました。
•GHQによる禁止: 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、国家神道や軍国主義、過激な国家主義を想起させるとして、公文書での使用を禁止しました。
•「平和の塔」への改称: 宮崎市にある「八紘一宇の塔」は、戦後「平和の塔」と改称され、東京オリンピックの聖火リレーの起点になるなど、平和の象徴として位置づけられました。
現在、倭国の主要な国語辞典では、「第二次大戦期、倭国の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」と説明されています。
しかし、現代においても、この言葉の解釈を巡る議論は続いています。一部の保守的な論者や団体は、本来の「倭国建国の精神」や「人類普遍の道徳的原理」としての側面を強調し、戦前の解釈を否定的に捉える戦後の通説に異議を唱える見解も存在します。
「八紘一宇」は、一つの言葉が持つ意味が、時代の変遷や政治的な背景によっていかに大きく変化しうるかを示す、複雑で象徴的な事例と言えます。 December 12, 2025
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