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弁論術
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2025.12.08〜(50週)
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【新刊情報】
人前で話す人、文章を書く人の必携書
『基礎から学ぶ修辞学 心を動かす〈説得〉の技法』
R・N・S・トッピング=著|大久保ゆう=訳
https://t.co/6EWd5ik91Z
「論理(ロジック)」だけでは人の心は動かない。
「修辞学(レトリック)」を駆使すれば必ず伝わる!
ロゴス(理路)によって主張を整え、聞き手を引き付けるパトス(感情)を働かせ、エトス(人間性)をもって言葉の芯を支えていく。
古代ギリシャ時代から変わらない「明晰に伝える」「楽しませる」「心を動かす」ための26のルール。
【巻末には練習問題を収録】
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「彫刻家のねらいは、さすが彫刻家だと思わせることにある。言葉巧みな者のねらいは、よもや言葉巧みだなどとは思わせないことにある」
──G・K・チェスタトン
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言葉の力で人の心を動かし、相手の行動を引き出す──
そのための技術を体系的に解き明かすのが、本書で扱う〈修辞学〉です。
アリストテレスの時代から一貫して、修辞学の核心は〈説得〉にありました。
本書は、小説や脚本といった創作の場面のみならず、ビジネスにおける交渉やスピーチ、学校での発表、討論など、あらゆる領域で応用可能な普遍的原理を、26の明快なルールとして整理しています。キケロ、アウグスティヌス、シェイクスピア、エラスムス、リンカーン、ディケンズ、チェスタトン、C・S・ルイスらの言語技法を参照しながら、古代の弁論術に培われた知見と文学・思想の伝統を手がかりに、「明快に、そして効果的に伝えるための技術」を丁寧に解説します。
例えば、本書では、
◎説得を支える三要素(ロゴス・パトス・エトス)の働かせ方
◎文章構成の組み立て方
◎論理的誤謬を見抜き、回避する方法
◎読者や聴衆の感情に届く言葉の選び方
など、修辞学のエッセンスを豊富な実例とともに具体的に示しています。
話すことや書くことを生業とする人にとっては、常に手元に置いておきたくなる指南書として、
学生にとっては発表やレポート作成の確かな支えとなる一冊です。
〈伝えること〉、〈楽しませること〉、〈心を動かすこと〉──
言葉をめぐるあらゆる実践に寄り添う、説得技法の本格的かつ親しみやすい入門書が待望の邦訳。 December 12, 2025
62RP
あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。
コリント人への手紙 第一 1章12節
(質問)
なんでこうなっちゃったんでしょう?
(回答)
コリントの教会で起きていたこの分裂は、現代風に言えば「派閥争い」や、ある種の「推し活(誰のファンか)」のような状況が教会内で過熱してしまった結果です。
「なぜこうなってしまったのか?」という背景には、当時のコリントという都市の文化や、人間の心理的な要因が大きく絡んでいます。
主な理由は以下の3点に整理できます。
1. 当時の「哲学者・弁論家」文化の影響
当時のギリシア文化(特にコリント)では、哲学や修辞学(弁論術)が非常に人気でした。
人々は、雄弁で知的な指導者を「スター」のように崇拝し、「私はあの先生の弟子だ」と言って自分のステータスを誇る風潮がありました。
彼らはその世俗的な価値観をそのまま教会に持ち込んでしまい、使徒たちを「神のしもべ」としてではなく、「自分の好みの哲学者やスター」として見てしまったのです。
2. それぞれのリーダーの「特徴」と支持層の違い
信徒たちは、自分の背景や好みに合わせてリーダーを選んでいました。
* 「私はパウロ」派(創設者支持層)
理由:
パウロはこの教会の開拓者(生みの親)です。
「やはり創業者が一番だ」と考える人々や、パウロが強調する「信仰による義(自由)」を重んじる異邦人クリスチャンたちが中心だったと考えられます。
* 「私はアポロ」派(インテリ・弁論好き層)
理由:
アポロはアレクサンドリア出身の知識人で、非常に弁舌が巧みでした(使徒の働き18:24)。
パウロの話術はそれに比べると素朴だったため、「もっと知的で洗練された説教が聞きたい」という知識層や、ギリシア的な知恵を好む人々がアポロに惹かれました。
* 「私はケファ(ペテロ)」派(伝統・ユダヤ系層)
理由:
ケファはイエスの一番弟子であり、エルサレム教会の柱です。
ユダヤ教の伝統や律法を重んじるユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人の使徒であるパウロよりも、「本流」であるペテロに権威を感じていました。
* 「私はキリスト」派(独善的な層?)
理由:
一見もっともらしく聞こえますが、これは「人間のリーダーなんていらない、私はキリストと直結している」と主張する、ある種の霊的エリート意識を持ったグループだったのではないかと言われています。
他のグループを見下すためにこの言葉を使っていた可能性があります。
3. 霊的な未熟さとプライド
パウロは後に、この騒動の原因は「肉に属する人(霊的に未熟な状態)」だからだと指摘しています(3章)。
彼らは「誰につくか」によって自分の優位性を競い合っていました。
「私の先生の方が優れているから、私の方が偉い」というプライドと競争心が、キリストの体である教会を引き裂いてしまったのです。
○結論として
彼らは、「指導者はみな、キリストという土台の上に建てる協力者にすぎない(神の畑の耕作人にすぎない)」という視点を見失っていました。
目が「キリスト」ではなく、「人間の能力やスタイル」に向いてしまったことが、この分裂の原因でした。(了) December 12, 2025
プラトン『ゴルギアス』岩波文庫。
弁論術が立身出世の必須の条件だった古代ギリシアにおいて、人々の功利主義への傾倒や功利主義の一形態となっている弁論術のあり方を批判し、人間の生き方とはどうあるべきかを説く対話篇。ソクラテスは弁論...
#読了
https://t.co/85ahBLPKPl December 12, 2025
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
コリント人への手紙 第一 1章27節
(質問)
愚かで弱いものを選び、知恵ある者や強い者を恥じ入らせる、神様のご意図は何でしょうか?
(回答)
なぜ神様はあえて「愚かなもの」「弱いもの」を選び、この世で力ある者たちを「恥じ入らせる(自分たちの無力さを悟らせる)」必要があったのでしょうか。
聖書の文脈や神学的背景から、主に3つの意図が読み取れます。
1. 人間が「自分自身」を誇らないようにするため
この箇所のすぐ後の29節には、その直接的な理由が記されています。
「これは、だれも神の御前で誇ることのないためです。」(1章29節)
もし神様が、能力の高い人、清廉潔白な人、知恵のある人だけを選んで救いや使命を与えたとしたら、その人は「自分に価値があるから選ばれたのだ」と自分の力を誇ってしまうでしょう。
* 人間の誤解:
救いや神の愛は、努力や才能に対する「報酬」だと勘違いしてしまう。
* 神の意図:
神との関係は、人間の功績ではなく、一方的な「恵み(プレゼント)」によるものであることを明確にする。
「自分には誇れるものがない」と自覚している弱い者こそが、純粋に神の恵みを受け取り、感謝することができるからです。
2. 「力」の源が人間ではなく、神にあることを示すため
パウロは、後の章(コリント第二 4章7節)で、私たち人間を「土の器」に例えています。
壊れやすく価値の低い器の中に、素晴らしい宝(福音・神の力)が入っていると言うのです。
あえて弱く、不完全な人間を用いることで、「その素晴らしい結果は、その人の能力によるものではなく、神の力が働いたからだ」ということが誰の目にも明らかになります。
* 強い者:
自分の力で成し遂げたと見なされがちです。
* 弱い者:
その人を通して偉大なことがなされた時、人々は背後にある「神の力」を見ざるを得なくなります。
3. この世の価値観(知恵)を覆すため
当時のコリント(ギリシャ文化)では、「人間の知恵」「哲学」「弁論術」こそが最高のものとされていました。
しかし、神様が用意した救いの方法は「十字架」という、当時の常識からすれば「愚かで、弱く、恥ずべき処刑方法」でした。
神様は、人間が築き上げた「強さこそ正義」「知恵こそ光」という価値観を根底から覆そうとされました。
* 恥じ入らせるとは:
単に恥をかかせることではなく、「自分の力や知恵には限界がある(=自分は神ではない)」と悟らせることです。
* 人間の賢さが、神の愚かさ(十字架の愛)には到底及ばないことを悟らせ、真の謙遜へと導くための愛のムチとも言えます。
○まとめ:
クリスチャンへの慰めと希望
この「神様の意図」は、現代を生きるクリスチャンにとっても大きな希望です。
私たちはしばしば、「もっと強くならなければ」「もっと賢くならなければ、神様に愛されない/役に立たない」と考えてしまいがちです。
しかし、この聖句は、「あなたの弱さや欠けこそが、神様の力が働く場所(キャンバス)になる」と教えています。
自分の弱さを認めることは、神様の強さを体験するための入り口なのです。(了) December 12, 2025
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
コリント人への手紙 第一 1章22節
(質問)
これはどういう意味でしょうか?
(回答)
この聖句は、使徒パウロがコリントの教会に対して、「人間が期待する救い主の姿」と「実際に神が用意された救い(十字架のイエス)」との間に大きなギャップがあることを説明している箇所です。
当時の文化的・宗教的背景を知ると、この言葉の深意がより明確になります。
以下に詳しく解説します。
1. 「ユダヤ人はしるしを要求し」の意味
ここでの「ユダヤ人」は、伝統的なユダヤ教的価値観を持つ人々を指します。
* 「しるし」とは:
目に見える奇跡、天からの超自然的な証明のことです(例:モーセが海を割ったような力ある業)。
* ユダヤ人の期待:
彼らは、救い主(メシア)が来るときは、圧倒的な神の力でローマ帝国などの支配を打ち破り、輝かしい奇跡を行う「強い王」であると信じていました。
* つまずきの石:
そのため、「十字架につけられて無力に死んだイエス」という姿は、彼らにとって「神に呪われたローマ帝国の敗北者」に見え、受け入れがたい「つまずき」でした。
2. 「ギリシア人は知恵を追求します」の意味
ここでの「ギリシア人」は、当時の異邦人(非ユダヤ人)社会、特にヘレニズム文化の知的・哲学的な人々を指します。
* 「知恵」とは:
哲学的な論理、理性、レトリック(弁論術)の美しさです。
彼らは論理的に納得できる説明や、知的な洗練さを求めました。
* 彼らの期待:
神的な存在とは、不滅で、理知的で、超越しているべきだと考えていました。
* 愚かさ:
そのため、「神の子が罪人として十字架で処刑される」という話は、彼らの理性や哲学からすれば、あまりに非論理的で荒唐無稽、取るに足らない「愚かな話」に聞こえました。
3. パウロが伝えたかった核心
この節の直後(23-24節)で、パウロはこう続けます。
「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。(中略)召された者にとっては、ユダヤ人にもギリシア人にも、キリストは神の力、神の知恵なのです。」
つまり、パウロは以下のことを主張しています。
* 人間の基準の否定:
人間が求める「力(しるし)」や「賢さ(知恵)」の延長線上に、神の救いはなかった。
* 神の逆説(パラドックス):
人間には「弱さ」や「愚かさ」に見える「十字架の死」こそが、実は人間の罪を解決する本当の「神の力」であり、最高の「神の知恵」であった。
○まとめ
この聖句は、「人間は自分の定規(奇跡や理屈)で神を測ろうとするが、神の救いは人間の常識を超えた方法(十字架の愛)で現された」ということを意味しています。(了) December 12, 2025
知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
コリント人への手紙 第一 1章20節
(質問)
博識なパウロだからこそ言える言葉ですね。
(回答)
その通りですね。
ただ単に学がない人が「学問なんて役に立たない」と言うのと、当時の最高峰の教育を受けたパウロがこの言葉を語るのとでは、その意味合いと重みが全く異なります。
ご指摘の通り、パウロが「博識(最高レベルの知識人)」であったからこそ、この逆説が強烈な説得力を持っているという点について、少し掘り下げてみたいと思います。
1. パウロが持っていた「この世の知恵」
パウロがいかに当時の「エリート」であったかを確認すると、この言葉の凄みがより増してきます。
* 最高の教育:
当時のユダヤ教における最高権威、ラビ・ガマリエルのもとで厳格な教育を受けていました(使徒の働き 22:3)。
* 多文化への造詣:
ヘレニズム文化の中心地の一つであったタルソ出身であり、ユダヤの律法だけでなく、ギリシア哲学や修辞学にも通じていました。
* ローマ市民権:
生まれながらのローマ市民権を持つ、社会的地位の高い人物でした。
つまり、パウロはこの聖句に出てくる「知恵ある者」「学者」「論客」というタイトルのすべてを、本来ならば自分のものとして誇ることができた人物です。
2. コリントという都市へのメッセージ
この手紙が送られた「コリント」という街の背景も重要です。
当時のギリシア(コリント)の人々は、哲学や弁論術(レトリック)を何よりも好み、「知恵」を愛することを誇りとしていました。
パウロは、彼らが崇拝しているその「人間の知恵」や「弁論の巧みさ」と同じ土俵に立てる能力を持っていながら、あえてそれを否定しました。
「神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」
これは、知性が無意味だと言っているのではなく、「人間の知恵の限界」を悟った知性人の叫びとも言えます。
どれほど人間が哲学を積み上げても、論理を尽くしても、「十字架につけられた救い主」という神の愚かさ(人間の目には愚かに見える救いの方法)には到底たどり着けないことを、彼は痛感していたのでしょう。
3. 「すべてをちりあくたとみなす」潔さ
パウロは別の箇所(ピリピ人への手紙 3章8節)で、自身の華々しい経歴や知識を、キリストを知る知識に比べれば「ちりあくた(ゴミ)」だと語っています。
彼が博識であればあるほど、「自分の知識」と「神の啓示」との間にある埋められない距離を、誰よりも深く理解していたのだと思われます。
○まとめ
「博識なパウロだからこそ言える」という視点は、この聖句を味わう上で非常に重要な鍵ですね。
自分の持っている武器(知恵や知識)が最強だと信じていた男が、それよりも遥かに偉大な「神の知恵(十字架)」に出会ったときの衝撃と謙遜が、この一節には込められているように感じます。(了) December 12, 2025
@AkimotoThn ムリ無理ムリ!絶対に無理!
政治的手腕無し・政治的見解無し・政治的視野無し
政治的な能力は皆無で、政策は何一つ献策無し
頭悪い人が引っかかる程度の弁論術では無理
支持率が1%を超えてないのに何言うやら
次の選挙では、議員になってない可能性の方が高い
妄想や夢見てないで現実を見ろ! December 12, 2025
小説 新人間革命6巻 遠路の章より引用
ソクラテスも対話の名人だった。彼の哲学は、人びととの対話のなかで、輝きを放っていった。
私たちも最高の生命哲学をもっているのだから、人びとの心の深海を照らすような、幸福への深い対話、激励をしていかなければならないね」
一行は、それから、アクロポリスと谷を挟んで南西にある、ムセイオンの丘(別名フィロパポスの丘)の麓に向かった。
そこには、哲人ソクラテスが投獄されたと伝えられる牢がある。
それは、剥き出しの岩壁の下にある、鉄格子のついた小さな岩穴であった。
この薄暗い牢で、高齢のソクラテスが、約一カ月もの間、処刑の日を待っていたのかと思うと、伸一の胸は痛んだ。
アテネは民主主義の源流の地であった。また、多くの哲学者が活躍する理性の街であった。
そして、ソクラテスは、″万人の中で最も賢い人″といわれた当代随一の知者であり、″正しき人″であった。
にもかかわらず、いや、むしろ、それゆえに、彼は人びとから嘲られ、誤解され、中傷され続けた。
その最後は、まったく無実の罪によって、死刑にされたのである。
伸一は、そこに、人間という世界の、暗き業ともいうべき不条理を、深く感じていた。
――紀元前三九九年、ソクラテスは告訴される。その罪状は、大要、国家の認める神々を認めず、青年に害毒を与えているというものであった。
訴えたのは、メレトスという無名の男であったが、その黒幕は、政治家のアニュトスという人物であったといわれている。
また、ソクラテスが訴えられた背景として、ソフィスト(詭弁家)たちの存在も見逃せない。
ソフィストとは、当時流行の、論争を事とする似非学者である。
彼らは賢者であるかのように振る舞い、どんなことでも論争のネタにし、自分が優位に立つための弁論術を若者に教え、金を取っていたのである。
ソフィスト(詭弁家)にとっては、何が真実であるかも、そして、何が人間の人生や幸福にとって大事かも関係なかった。
ともかく、博学を装い、白も黒と言いくるめて、相手を打ち負かし、自分の主張が正しいと信じ込ませることが狙いとなっていた。
彼らは、多くの若者たちの人気を集める一方で、伝統を重んじる市民たちからは危険視されていた。
ソクラテスは、彼らソフィストが、人生の本質については、実は全く無知であることを見破っていた。 December 12, 2025
@paultommie 論理国語の登場により修辞学も含まれると思っていたのですが…
倭国の国語教育は弁論術に対して忌避感があるように感じるのですが、気の所為でしょうか December 12, 2025
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