平安時代 トレンド
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2025.11.21
:0% :0% (40代/男性)
平安時代に関するポスト数は前日に比べ53%減少しました。男女比は変わらず、本日も40代男性の皆さんからのポストが最も多いです。本日話題になっているキーワードは「倭国」です。
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
敦博特別展「つるがのみほとけ」もあと9日となりました。展示替え済最終形態の展示をお楽しみください。
舞﨑区でお祀りされている聖観世音菩薩立像は小像ながら平安時代後期らしいお姿です。未開敷蓮華を摘まむ姿は比叡山横川中堂本尊観音像を手本とするもので、似通った模刻が各地に存在しています。 https://t.co/9cdmaRJ2P5 November 11, 2025
10RP
無料・限定100席🎫
#源氏物語 #琵琶 #和楽器 #倭国文化 #平安時代 #XR #メタバース #没入体験 #メディアアート #拡張現実 #丸の内 #東京イベント #千代田区 #無料イベント #東京観光 #デート #文化体験 #TokyoEvents #JapaneseCulture #XRExperience https://t.co/SHb1IZImiC November 11, 2025
4RP
#廬山寺
紫式部の邸宅跡と伝えられています。とても静かで、平安時代のお庭の感じを再現した #源氏庭 を本堂の前で見て、ゆったりとした時間が過ぎました。 https://t.co/5NyLvGz45a November 11, 2025
3RP
先週末は過ごしやすい陽気☀️
昨夜は急に走り易い冬モード❄️
①②平野神社⛩️
→平安時代より桜を植樹
→魁(さきがけ)桜は京都のお花見の始まりを知らせる桜🌸
③妙覚寺
→雨のため雨宿りさせて頂きました☂️
→本堂は京都府指定有形文化財✨
④四条大橋
→寒いけどおるね☺️
🌌夜ランニング18㎞ https://t.co/75AtCiA5K8 November 11, 2025
2RP
@finalvent この考察によればほとんどの沖縄県民の祖先は平安時代までに九州から琉球列島に移住した人たち。
だから沖縄方言も日琉祖語を共通とするものだし、水田稲作もその時に九州から持ち込まれた。
文化的にも遺伝集団の近似性においても沖縄は倭国だといえます。https://t.co/xIJatxzxCh November 11, 2025
2RP
【「源氏物語」、制約からの創造性】
平安時代、宮廷に仕える女性であった紫式部。
彼女の立場は決して自由なものではありません
でした。
しかし、その制約された環境の中で、
彼女は自身の類稀なる文才を武器に、
千年読み継がれる不朽の名作『源氏物語』を
書き上げました。
彼女にとって「書くこと」は、単なる慰みや
仕事ではなく、自己表現そのものであり、
内なる情熱を解放する手段だったのでしょう。
宮中での人間観察や複雑な感情の機微を、
物語という形で昇華させたのです。
天職とは、与えられた環境で不満を言うこと
ではなく、その中で自分だけの表現方法を
見つけ出し、価値を創造することなのかも
しれません。
「時間がない」「才能がない」「環境が悪い」…
私たちはつい、できない理由を探してしまい
がちです。
しかし、紫式部が示したように、制約は
時として、創造性を爆発させる起爆剤と
なり得ます。
あなたがいるその場所で、
あなたにしかできない表現はありませんか?
あなたが持つ知識や経験、感情を、
文章、デザイン、企画、あるいは人との対話と
いった「形」にしてみる。
その創造的な営みこそが、あなたを天職へと
導く第一歩になるはずです。 November 11, 2025
2RP
川崎市・川崎大師
(金剛山金乗院平間寺)
全国で初詣参拝者がベスト5に入る川崎大師
皆さん何処から参拝に来るのか❓正月は凄い人
川崎大師に来ると
何故か門前で甘酒を飲んでしまいます😛
でも平日の夕方に行くと空いてます
創建は平安時代1128年
私の勤務地が川崎なので
大師には良く行きます https://t.co/Z9VW14fiLB November 11, 2025
2RP
遣唐使船が難破しまくったのは、板材の接合に釘をつかってないから。
8~9世紀の中国の構造船は、釘と板組みで外洋航海が可能だったし、倭国の弥生時代から伝統の倭船は、刳舟(丸木舟)に側板を組み合わせた準構造船で、これまた頑丈なものだった。
が、朝鮮半島では、釘を使わずに構造船を作っていて、遣唐使船も釘を使わない朝鮮半島式だった。沿岸航海なら釘がなくても良かったが、外洋航海では無理。
だから、遣唐使船はかなり頻繁に難破した。
基本的に、倭国列島の海洋民は、縄文早期からの刳舟と、縄文晩期末からの刳舟に側板の準構造船で、琉球から東シナ海、黄海、倭国海を我が海にしていたが、7世紀ごろから、構造船を採用し始めてから、白村江での敗戦などさんざんな状態が続いている。奈良時代、平安時代になると、かつて海洋民だったとは思えないほどに海洋民として力を失っている。
沖縄とかは、伝統の準構造船を使い続けたから、海洋民としてなりたったのだろう。 November 11, 2025
2RP
「誰もが美人になれる」と喧伝しながら、同時に「広告には“美人”しか採用しない」という態度をとる美容業界。アクセルとブレーキを同時に踏むその欺瞞がよくわかる。→「現代の論理は、美人の範囲を広げようとする。逆に、不美人の範囲をせばめていく。極端ないいかたをすれば、こういうことになる。不美人なんかどこにもいない、女はみんな美人になれるんだ、と。つまり、だれでも美人になり得ると言い切ることで、容姿に劣等感をもつものを、なぐさめようとする」
「美人」観は、時代とともに変わってきた。平安時代にはふくよかで切れ長の細い目の女性が人気だったという話はよく聞くけれど、明治以降ですら「美人」観はかなり変化している。
明治時代は「美人排斥論」が主流だった。身分制が崩壊し、自由恋愛が少しずつ広まる中で、美貌によって玉の輿に“ありつける”女性が増えた。そのさまを社会はバッシングしたのだ。ちなみにこの時は、病的な、線の細い幽霊のような目鼻立ちを美人としていた。
次に、大正から第二次大戦までの期間。この時は社会階層の平準化が進行し、「美人罪悪論」は次第に力を失い、「美人」は肯定される方向へ変化する。健康、表情、知性、労働についての美人観が反転し、美人の定義が拡散していった。
そして、戦後である。美人の定義はさらに変更され、先天的な美貌は軽視されがちになり、健康美、表情や知性美、誠実さといった後天的修養が美人の条件であるという方向へと進んでいった。と、書くと良い感じのように思えるが、実際は、これは建前。本音ベースで見れば、ますます時代時代の美人観がもてはやされ、本音と建前は乖離していったのだ。その果てが、冒頭の惨状である。
井上章一『美人論』朝日新聞出版@asahibunko November 11, 2025
1RP
「倭国の和菓子は江戸時代にほぼ完成した」という認識は、概ね真実であると言えます。江戸時代の平和な社会情勢と砂糖の普及により、和菓子の種類や技術が飛躍的に発展し、現代に伝わる多くの和菓子の原型がこの時代に確立されました。
真偽
真実である理由:
•平和と技術発展: 江戸時代は戦乱が収まり、経済が安定したことで、職人たちが菓子づくりに専念できる環境が整いました。
•砂糖の普及: 当初は貴重品だった砂糖が、長崎貿易や国内でのサトウキビ栽培により徐々に流通し、菓子作りに多用されるようになりました。
•多様な菓子の誕生: 大福、桜餅、柏餅、今川焼き、羊羹、煎餅など、現代の食卓でもおなじみの大衆的な和菓子の多くがこの時代に生まれました。
•京菓子と江戸菓子の競合: 京都の公家文化の中で洗練された「京菓子」と、江戸の町人文化の中で発展した「江戸菓子」(上菓子)が競い合い、技術と意匠が高められました。
由来・歴史・推移
和菓子の歴史は、江戸時代以前からありますが、その発展は段階的でした。
•縄文時代: 木の実を加工したものが和菓子の原型とされる。
•平安時代: 中国(唐)から伝来した「唐菓子」が供物として使われ、倭国最古の餅菓子「椿餅」なども食べられていた。
•鎌倉・室町時代: 中国からの禅僧によって「点心」がもたらされ、饅頭や羊羹の原型が登場した。
•安土桃山時代: ポルトガルなどからの「南蛮菓子」(カステラ、金平糖など)が伝来し、卵や砂糖の使用が広がるきっかけとなった。
•江戸時代: これまでの技術・文化の集大成として、砂糖の普及により本格的な「和菓子文化」が花開いた。季節感を取り入れた美しい生菓子(上生菓子)や、庶民向けの多様な駄菓子が誕生し、和菓子のスタイルが確立された。
栄養価
江戸時代の和菓子の栄養価は、現代の和菓子とほぼ同様に、主に糖質が中心です。
•主な原料: 小豆(餡)、米粉、小麦粉、砂糖、水飴、寒天などの植物性素材が基本。
•特徴:
◦バターやクリームなどの動物性脂肪が少なく、比較的低脂質である。
◦小豆の餡には食物繊維や、ビタミンB1・B2、鉄分、カリウムなどのミネラルが含まれる。
◦主成分が糖質(砂糖、でんぷん質)であるため、脳のエネルギー源として即効性があり、疲労回復に役立った。
江戸時代、特に砂糖が貴重だった初期には、庶民にとって和菓子は特別な日の贅沢品や、栄養補給源として価値がありました。後期になると屋台などで手軽に買えるようになり、人々の生活に根ざしたエネルギー源となりました。 November 11, 2025
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「倭国の和菓子は江戸時代にほぼ完成した」という認識は、概ね真実であると言えます。江戸時代の平和な社会情勢と砂糖の普及により、和菓子の種類や技術が飛躍的に発展し、現代に伝わる多くの和菓子の原型がこの時代に確立されました。
真偽
真実である理由:
•平和と技術発展: 江戸時代は戦乱が収まり、経済が安定したことで、職人たちが菓子づくりに専念できる環境が整いました。
•砂糖の普及: 当初は貴重品だった砂糖が、長崎貿易や国内でのサトウキビ栽培により徐々に流通し、菓子作りに多用されるようになりました。
•多様な菓子の誕生: 大福、桜餅、柏餅、今川焼き、羊羹、煎餅など、現代の食卓でもおなじみの大衆的な和菓子の多くがこの時代に生まれました。
•京菓子と江戸菓子の競合: 京都の公家文化の中で洗練された「京菓子」と、江戸の町人文化の中で発展した「江戸菓子」(上菓子)が競い合い、技術と意匠が高められました。
由来・歴史・推移
和菓子の歴史は、江戸時代以前からありますが、その発展は段階的でした。
•縄文時代: 木の実を加工したものが和菓子の原型とされる。
•平安時代: 中国(唐)から伝来した「唐菓子」が供物として使われ、倭国最古の餅菓子「椿餅」なども食べられていた。
•鎌倉・室町時代: 中国からの禅僧によって「点心」がもたらされ、饅頭や羊羹の原型が登場した。
•安土桃山時代: ポルトガルなどからの「南蛮菓子」(カステラ、金平糖など)が伝来し、卵や砂糖の使用が広がるきっかけとなった。
•江戸時代: これまでの技術・文化の集大成として、砂糖の普及により本格的な「和菓子文化」が花開いた。季節感を取り入れた美しい生菓子(上生菓子)や、庶民向けの多様な駄菓子が誕生し、和菓子のスタイルが確立された。
栄養価
江戸時代の和菓子の栄養価は、現代の和菓子とほぼ同様に、主に糖質が中心です。
•主な原料: 小豆(餡)、米粉、小麦粉、砂糖、水飴、寒天などの植物性素材が基本。
•特徴:
◦バターやクリームなどの動物性脂肪が少なく、比較的低脂質である。
◦小豆の餡には食物繊維や、ビタミンB1・B2、鉄分、カリウムなどのミネラルが含まれる。
◦主成分が糖質(砂糖、でんぷん質)であるため、脳のエネルギー源として即効性があり、疲労回復に役立った。
江戸時代、特に砂糖が貴重だった初期には、庶民にとって和菓子は特別な日の贅沢品や、栄養補給源として価値がありました。後期になると屋台などで手軽に買えるようになり、人々の生活に根ざしたエネルギー源となりました。 November 11, 2025
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「倭国の和菓子は江戸時代にほぼ完成した」という認識は、概ね真実であると言えます。江戸時代の平和な社会情勢と砂糖の普及により、和菓子の種類や技術が飛躍的に発展し、現代に伝わる多くの和菓子の原型がこの時代に確立されました。
真偽
真実である理由:
•平和と技術発展: 江戸時代は戦乱が収まり、経済が安定したことで、職人たちが菓子づくりに専念できる環境が整いました。
•砂糖の普及: 当初は貴重品だった砂糖が、長崎貿易や国内でのサトウキビ栽培により徐々に流通し、菓子作りに多用されるようになりました。
•多様な菓子の誕生: 大福、桜餅、柏餅、今川焼き、羊羹、煎餅など、現代の食卓でもおなじみの大衆的な和菓子の多くがこの時代に生まれました。
•京菓子と江戸菓子の競合: 京都の公家文化の中で洗練された「京菓子」と、江戸の町人文化の中で発展した「江戸菓子」(上菓子)が競い合い、技術と意匠が高められました。
由来・歴史・推移
和菓子の歴史は、江戸時代以前からありますが、その発展は段階的でした。
•縄文時代: 木の実を加工したものが和菓子の原型とされる。
•平安時代: 中国(唐)から伝来した「唐菓子」が供物として使われ、倭国最古の餅菓子「椿餅」なども食べられていた。
•鎌倉・室町時代: 中国からの禅僧によって「点心」がもたらされ、饅頭や羊羹の原型が登場した。
•安土桃山時代: ポルトガルなどからの「南蛮菓子」(カステラ、金平糖など)が伝来し、卵や砂糖の使用が広がるきっかけとなった。
•江戸時代: これまでの技術・文化の集大成として、砂糖の普及により本格的な「和菓子文化」が花開いた。季節感を取り入れた美しい生菓子(上生菓子)や、庶民向けの多様な駄菓子が誕生し、和菓子のスタイルが確立された。
栄養価
江戸時代の和菓子の栄養価は、現代の和菓子とほぼ同様に、主に糖質が中心です。
•主な原料: 小豆(餡)、米粉、小麦粉、砂糖、水飴、寒天などの植物性素材が基本。
•特徴:
◦バターやクリームなどの動物性脂肪が少なく、比較的低脂質である。
◦小豆の餡には食物繊維や、ビタミンB1・B2、鉄分、カリウムなどのミネラルが含まれる。
◦主成分が糖質(砂糖、でんぷん質)であるため、脳のエネルギー源として即効性があり、疲労回復に役立った。
江戸時代、特に砂糖が貴重だった初期には、庶民にとって和菓子は特別な日の贅沢品や、栄養補給源として価値がありました。後期になると屋台などで手軽に買えるようになり、人々の生活に根ざしたエネルギー源となりました。 November 11, 2025
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沖縄県島尻郡伊平屋村の公式ホームページによる歴史説明に出てくる全キーワード関連地点群と、それら周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂あたりが、今の危険予想地点です。
https://t.co/tNjA9gSN50
伊平屋の発祥
伊平屋は、数千年前から人も住みついていた古い島です。
島全域は、沖縄の最北端の地点に散在せる列島で、大昔から伊平屋島といわれていたのは、島の面積の大きさから取って伊平屋島と唱えられたといいます。
その内、伊平屋島・野甫島の伊平屋地方二島と伊是名島・具志川島・屋那覇島・屋の下島・降神島の伊是名地方五島、両地方合せて、「伊平屋の七離れ」と呼ばれていました。
島の呼び方は色々と古書に記され、いぢへな(伊是名)えひや(伊平屋)伊瀬名(伊是名)恵平也(伊平屋)。
また、支那の冊封使が伊平屋島を葉壁山と称し金箔の書掛軸を与えられました。
由緒ある島
伊平屋は、倭国史、琉球史にかかわりの深い島として知られています。
江戸時代の学者藤井貞幹は『神武天皇の母玉依姫は、海宮(あまみ)の玉依彦の娘、豊玉姫の妹で、海宮とは、琉球国の恵平也(伊平屋)島』と唱えています。
琉球史においては琉球五王統のうち第一王統の祖先、屋蔵大主が伊平屋に住み、第二尚王統の尚円王は、伊是名島に産れ、二王統の発祥の島として賞讃されています。
尚円王が王位につかれてから、その姉君を、伊平屋アンガナシとして、神職を与えて、島の根神の統治にあたらせ、尚円王の即位後も王発祥の地として、毎年もち米とうるち米の玄米を粒選らび、各三斗づつ御初米として献上。
それが昭和六年まで続いていました。
戦前の伊平屋
明治12年の廃藩置県により、琉球藩が廃止され、沖縄県として倭国国の制度のもとスタートすることになりました。
明治42年4月1日村制施行、「伊平屋島」を「伊平屋村」、「伊是名島」を「伊是名村」と改称。
間切が村となり、これまでの村が字になりました。
当時の字は、我喜屋、島尻、野甫、田名、田名から分割した前泊の五字でした。
伊平屋村役場は、伊是名村字伊是名に置かれ、初代村長に島尻出身の諸見守蔵氏が任命され村行政を施行しました。
村役場が伊是名島に設置されていたため、諸会議、役員吏員、一般民衆の不利不便は想像を絶するものがあり、村議会に分村問題を提起も取り上げ採択されず、民衆は苦境になげく状況が続きました。
しかし、分村熱はますます高まり、大正5年伊平屋島(後島)有志が伊是名村との分村請願書を沖縄県に提出。
伊平屋においては「分村期成会結成会」も結成され、住民の意向をうけた村議会、村当局も国、県に請願したことで、分村が実現の方向に進み県当局、県議会の調査決議を経て、ついに昭和14年5月23日、内務省令により分村許可、百有余年の懸案であった伊平屋島(後島)住民の嘆願が実現のものになりました。
昭和14年7月1日、伊平屋村誕生、初代村長に諸見清吉就任、伊平屋尋常小学校内に事務所を設置。
行政運営は財政が脆弱なため幾多の困難を余儀なくされたが、村民一丸となり、離島苦解消のため航路船の購入、昭和15年5月に住民の奉仕汗の結晶により新庁舎が完成し、行務を執いました。
昭和16年5月17日不運にして庁舎失火により建物、書類一切を全焼、分村後の大きな損失を被ったが国、県の指導に従い援助を経て対策を講じ、行政事務の充実を図りましたが、県より経済更生村に指定され、その主旨に従い村民を督励して増産体制をとり、米作、養蚕、さとうきび甘薯等の生産強化により、昭和 16年4月1日農林省主催の全国米作共進会で沖縄県より米作増産の一等賞に表彰され、自給自足が可能な村として称賛されるまでになりました。
戦中の生活と米軍上陸
昭和16年12月8日大東亜戦争勃発。
物資統制令により、米作農家に増産体制の強化と割当配給制、強制供出米を徴収され(昭和20年終戦時まで続く)、流通機関も絶え苦難な戦争中の生活を余儀なくされ、戦況はますます激化の一途をたどっていました。
昭和19年には、本村も始めて空襲され田名集落で数棟焼失、同年6月3日、突如米軍機動部隊が当村に上陸し、空中射撃や艦砲射撃により、40余名の村民の犠牲者と全て焼土に化し米軍占領統治となり、米軍使役労務に強制従事させられる。
同年11月22日米軍が、伊平屋から引き揚げたことで村民収容解除され、田名より各集落へ復帰し戦後の混乱期の生活が始ました。
戦後の伊平屋
昭和21年、沖縄諮詢会の時代米軍の施政権下にあって地方行政の改正と変遷を経て自治の進歩と諸産業も斬次進展し、生活も進歩していきましたが、まだまだ幾多の困難な問題があり、占領施政権から脱却して本土復帰の運動が高まり、昭和47年5月15日念願の本土復帰になり、諸制度が適用されています。
昭和46年1月15日国務大臣山中貞則ご来村、沖縄復帰担当大臣村内ご視察、村の要請を快諾、離島苦解消のため野甫橋架橋建設を決断され村民に公約、実現の糸口となり、昭和47年10月より調査実施、同49年より工事施行、同54年6月19日夢の架橋野甫大橋が開通し野甫島が道路により結ばれ利便となる。
村は復帰後の新しい制度に適用するため、総合計画基本構想を設定(昭和52年12月23日)に基づき農林水産業の基盤整備、道路、建設、環境整備、航路交通の整備、空港設置要請、教育施設等の整備に同52年より着手、同55年、過疎振興計画の策定適用によって、補助事業を積極的に促進し、整備を推進している状況であるが財政が脆弱のため自主財涯に乏しく困難な財政運営を余儀なくされているが地域住民の定住と生活の安定のため生産基盤の確立と諸産業振興を図るため諸事業を選択して推進しています。
伊平屋村、伊是名村が分離、分村して、平成元年7月1日を以て50周年の時代の節目を迎え、幾多の困難と世代変遷を経て早カされた当局先輩諸氏村民の労苦に対し敬意を表し、一層行政の高率と地域住民福祉向上を図るため分村50周年記念事業として鉄筋コンクリート2階建、役場庁舎の建設、21世紀に向けて活力ある「快適で豊かな生産活動が出来る村づくり」を目指して推進しています。
沖縄県島尻郡伊是名村の説明に出てくる下記全キーワード関係地点群と、それら周辺一帯の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂あたりが、今の危険予想地点です。
https://t.co/tGHOCX68HM
伊是名村(いぜなそん)は、沖縄県の北部、沖縄本島(本部半島)の北方約35kmに位置する伊是名島とその周辺に位置する無人島で構成される村[1]。
島尻郡に属す。
歴史
琉球国王第二尚氏の始祖・尚円(金丸)の生まれた島として知られ、2015年には尚円生誕600周年祭が行われた。
沖縄貝塚時代の前半(縄文時代にあたる)時期の遺跡が多く、特に貝塚時代前半の伊是名貝塚からは竪穴建物や土器などがみつかっている。
また、北側にある具志川島遺跡群ではオオベッコウガサガイ製の腕輪(貝輪)をはめた人骨が県内で初めて発見された。
琉球王国においては、伊是名島および伊平屋島は琉球王統発祥の地として王府直轄領とされた。
この経緯から1896年(明治29年)に県内において郡制度が施行された際、かつての王府領や聖域も多い沖縄本島南部と同じ島尻郡に属され、現在に至る。
2008年(平成20年)度決算における実質公債費比率が自治体財政健全化法における早期健全化基準を超過したため、翌年度より財政健全化団体となっている。
人件費削減と船舶運航事業への繰出削減などにより総額4,600万円を捻出し、2011年(平成23年)度までに実質公債費比率が早期健全化基準を下回ることを目標としている。
2015年、新しいフェリーが就航した。
2021年(令和3年)10月から11月にかけて、福徳岡の場の噴火で生じた軽石が沿岸部に漂着。
フェリーが接岸できなくなり、ガソリンなどの生活物資が不足する影響が出た[3]。
医療
施設名の後にある括弧書きは字名である。
沖縄県立北部病院附属 伊是名診療所(仲田)
時間外診療および医師不在時は伊是名村役場に連絡することとしている。
民間救急ヘリコプター(ドクターヘリ)「MESHサポート」
村内の4箇所(内花、仲田、諸味)がランデブーポイントに指定されている[7]。
【港湾】
仲田港
内花港
飛行場
伊是名場外離着陸場
MESHサポートのランデブーポイントに指定されている。
伊是名場外離着陸場と沖縄本島など他の島を結ぶ定期航空路線は現存しない。
【名所・旧跡】(いずれも危険度最高レベル!!!!)
(写真は、伊是名玉陵、サトウキビ畑ごしに見た伊是名城、みほそ所=尚円王生誕の地)
二見ヶ浦海岸
伊是名玉陵
伊是名城跡
尚円王生誕地
尚円王御庭公園
銘苅家住宅
伊是名村ふれあい民俗館
※※※※※※※※
下記は引き続き、最も危険なエリアです!!!!地下世界を徹底的に焼いて焼いて焼き滅ぼし、トドメも念入りに刺しまくって、さとっぴ軍が地下世界の全てを完全制覇征服占領支配せよ!!!!!!
斎場御嶽
https://t.co/gQn34Q84L3
斎場御嶽(せーふぁーうたき[1]/サイハノうたき)は沖縄県南城市知念にある史跡。
15世紀-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽であるとされる。
「せーふぁ」は「最高位」を意味し、「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ほどの意味となり、これは通称である。
正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」という。
御嶽 (沖縄)(うたき)
https://t.co/aBhccFevLI
御嶽(うたき)は、琉球神道における祭祀などを行う場所である。
「腰当森(くさてぃむい)」、「拝み山」などともいう。
概要
琉球王国(第二尚氏王朝)が制定した琉球神道における聖域の総称で、それ以前はさまざまな呼び名が各地方にあった。
「うたき」という呼称は主に沖縄本島とその周辺の島々のものであるが、16世紀まで琉球に属していなかった宮古地方では「すく」、八重山地方では「おん」(石垣島、竹富島、西表島)・「うがん」(新城島、西表島)・「わん」(黒島、小浜島、新城島)・「わー」(波照間島)等と呼ばれる(近年では「うたき」と呼ばれることもある)。
信仰上の位置
御嶽は琉球の神話の神が存在、あるいは来訪する場所であり、また祖先神を祀る場でもある。
地域の祭祀においては中心となる施設であり、地域を守護する聖域として現在も多くの信仰を集めている。
琉球神道では神に仕えるのは女性とされるため、王国時代は完全に男子禁制だった。
現在でもその多くが一定区域までしか男性の進入を認めていない。
形態
御嶽(国営沖縄記念公園)
御嶽の多くは森の空間や泉や川などで、島そのものであることもある。
御嶽によっては空間の中心にイベあるいはイビ石という石碑があるが、これは本来は神が降臨する標識であり、厳密な意味でのご神体ではない(ご神体として扱われているところも多い)。
宮古や八重山地方では、過去に実在したノロの墓を御嶽とし、そのノロを地域の守護神として祭っていることが多く見られる。
大きな御嶽では、「神あしゃぎ(神あしゃげ、神あさぎ)」と呼ばれる前庭や建物といった空間が設けられていることがある。
これは信仰上、御嶽の神を歓待して歌ったり踊ったりするための空間である。
語源は「神あしあげ(神が足をあげる場=腰を下ろす場)」と考えられている。
御嶽やグスクにある鳥居
御嶽やグスクの入口に鳥居が設置されているものが、現代も沖縄県内に多く残っている。
近世琉球までの御嶽にはそもそも無かったものと考えられている(ただし、察度王の代に神仏習合の形で倭国神道の神々を勧請した波上宮などは当初から鳥居を供える)。
これは、明治維新から琉球処分以降の「皇民化政策」による神道の施設となった結果であると説明され、県社建立や「一村一社」構想により、県内各地の御嶽やグスクが神社として再編されていった[1][2] 。
例えば今帰仁城跡は1930年(昭和5年)に鳥居が設置されたが、2000年(平成12年)11月30日に登録された世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」を構成する施設となって以降、景観保護上の観点で2003年(平成15年)に撤去された。
しかし、本島北部の名護城や、伊平屋島の田名神社、伊江島の阿良御嶽など、倭国領以降に設置された鳥居が未だに残っているものもある。
また、先島諸島(宮古・八重山)では、特に撤去しようとする動きもなく、そのままになっているのがほとんどと言われる。
倭国本土で現存する最古の鳥居は、平安時代のものであり歴史は古いが、鳥居が必ずしも本土神道式の神社を象徴するものとは限らない。
そもそも奄美・琉球(沖縄)における神社は、世持神社のように1936年(昭和11年)ながらも沖縄県有志総出で琉球偉人を祀る神社(郷社)建立に走った例もある。
徳之島における「神社」のように、鳥居が立っていて「神社」と呼ばれていても必ずしも本土のような手水舎、神殿や拝殿がある訳でもなく、ただ沖縄の御嶽のように小屋や祠、はたまた石だけが置かれているものも多く、奄美古来のグスク(あるいはモリ、ハラ)、古の風葬墓跡や拝所などが判然とせず、聖地と見なされている状況である[3]。
起源
斎場御嶽の大庫理(ウフグーイ)
御嶽はもともと古代社会において集落があった場所と考える説が有力である。
その証左として、御嶽の近くから遺骨が見つかる例が少なくない。
これは、祖先崇拝であることに強く関係していると考えられる。
また、多くの川や泉が御嶽もしくはそれと同格の扱いをされているが、これは保水力の乏しい琉球石灰岩からなる沖縄県周辺の土地性などから、古代社会では水源が神聖視されたためと考えられる。
グスクには拝所が存在するものも多いが、このことから、グスクは元々は御嶽を中心にした集落であったものが発展し、城砦化したと指摘する説がある。
また、首里城、玉城城など、城そのものが御嶽とみなされていた城もある。
現代における実情
現代も琉球の信仰は地域に根付いており、御嶽はその信仰の中心となる場所として、地域に手厚く保護されているものも多いが、放棄され、存在自体不明のものもある。
著名な斎場御嶽や園比屋武御嶽のように観光資源化している御嶽もあるが、それはどちらかといえば稀な例であり、多くの御嶽は、現在も地域の人々(女性)や、そこを管理するノロによって維持されている。
御嶽はほぼ年間を通してたびたび行われる地域の様々な祭事の中心となるばかりでなく、東御廻りや今帰仁上りなどの巡礼地として崇められているものもある。
また、米軍による土地接収や、発掘調査や開発にともない立入が禁止または制限されたほか、破壊された御嶽もある。
一例として、首里城敷地内にあった十御嶽のいくつかは、かつては現在の首里城再建以前には信仰者が来訪することができたが、同城の再建などの整備にともない立入の制限または有料観覧区域となったり、埋め立てられるなどした地域がある。
【主な御嶽】
以下に、信仰上重要かつ著名な御嶽を列挙する。
なお、琉球王国時代の古い集落についてはおおむね集落ごとに1箇所以上の御嶽があると考えてよいが、当時から現在にわたって存在する集落の場合は御嶽もまた残っていると考えられることから、以下はごく一部の例示である。
【琉球開闢九御嶽】
琉球の神話では、日の大神(天にある最高神、日神、天帝)が開闢の神アマミキヨ(アマミク)に命じて島作りをさせた。
アマミキヨはこの命を受け、沖縄本島を作り、そこに9つの聖地[4]7つの森[5]を作ったとされる。
現在では、アマミキヨによって作られた聖地のうち7つが、琉球開闢九御嶽として語り継がれ、琉球神道においてもっとも神聖な御嶽として位置づけられている。
このうち王国の祭政一致体制において最重視された御嶽は、斎場御嶽である。
聞得大君の就任式などはこの御嶽で行なわれた。
現在の斎場御嶽からは、アマミキヨ降臨の聖地である久高島が遥拝できるが、これは王国時代の史料には記録されていない。
また国王就任に際しては、君手摩(きみてずり)が安須森御嶽に現れ、5つの御嶽を順に巡り、最後に首里真玉森御嶽に現れるという。
以下、アマミキヨが作ったとされる順番に列記する。
安須森御嶽(あすむぃうたき):国頭村辺土
クボウ御嶽:今帰仁村今帰仁グスク内
知念森 : 南城市知念
斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念
薮薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城
雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城、玉城グスク内
クボー御嶽(くぼーうたき):南城市知念(久高島)
首里森御嶽(しゅいむいうたき):首里城十嶽の一つ
真玉森御嶽(まだむいうたき):首里城十嶽の一つ
このうち、首里真玉森御嶽は沖縄戦と首里城改築工事による整備で失われており、県によって敷地内への侵入は禁止されている。
【東御廻りの御嶽】
園比屋武御嶽、石門の後方
現在も行われている聖地巡礼である東御廻り(あがりうまーい)は、太陽の昇る東方を、ニライカナイのある聖なる方角と考え、首里からみて太陽が昇る東方(あがりかた)といわれた玉城、知念、佐敷、大里にある御嶽を巡るものである。
起源は国王の巡礼と考えられており、以後時代が下るに従い、士族、民間へと広まった。
現在では、士族の流れを汲んでいる門中(むんちゅー:男系血族)を中心に行われている。
巡る御嶽は門中によって多少異なるが、起点の園比屋武御嶽から以下の順に巡るのが一般的である。
園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき):首里城外
与那原親川(よなばるうぇーがー):与那原町
御殿山(うどぅんやま):与那原町
場天御嶽(ばてぃんうたき):南城市佐敷
佐敷上グスク(さしきうぃぐすく):南城市佐敷
テダ御川(てぃだうかー):南城市知念
斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念
友利ノ御嶽(とむいのたけ):南城市知念知念グスク内
知念大川(ちねんうっかー):南城市知念
ミントングスク(みんとぅんぐすく):南城市玉城
仲村渠樋川(なかんだかりひーじゃー):南城市玉城
アイハンタ御嶽(あいはんたうたき):南城市玉城
藪薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城
ヤハラヅカサ:南城市玉城
潮花司(すーぱなつかさ):南城市玉城
浜川御嶽(はまがーうたき):南城市玉城
浜川受水走水(はまがーうきんじゅはいんじゅ):南城市玉城
雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城玉城グスク内
玉城祝女殿内(たまぐすくぬんどぅち):南城市玉城
志堅原仁川(しちんばるじんがー):南城市玉城
【今帰仁上りの御嶽】
現在も門中を中心に、今帰仁一帯の聖地を巡礼するものが今帰仁上り(なきじんぬぶい)である。
起源は定かではないが、琉球王国王統発祥の地である伊是名島、伊平屋島を擁する旧北山国領と、その首府があった今帰仁には、士族のルーツも多くあることが理由ではないかと考えられる。
巡る御嶽や経路は門中によって多少異なる。
主な御嶽は以下の通りである。
カラウカー:今帰仁グスク内
火の神の祠:今帰仁グスク内
テンチギの御嶽(カナヒヤブ。開闢2番目に作られた御嶽):今帰仁グスク内
ソイツギの御嶽:今帰仁グスク内
クボウ御嶽:今帰仁グスク内
阿応理屋恵祝女殿内(あおりやへのろどぅんち):今帰仁村
今帰仁祝女殿内(なきじんのろどぅんち):今帰仁村
供のカネー祝女火の神(とぅむなはーにーのろひぬかん):今帰仁村
今泊の親川(えーがー):今帰仁村
中城(仲尾次)祝女殿内(なかぐすくのろどぅんち):今帰仁村
今泊の津屋口墓(ちぇーぐちばか):今帰仁村
諸志の赤御墓(あかうばか):今帰仁村
池城墓(いちぐすくばか):今帰仁村
大北墓(うーにしばか:または按司御墓/あじうはか):今帰仁村
百按司墓(むむじゃなばか):今帰仁村
ティラガマ:今帰仁村
勢理客祝女殿内(じっちゃくのろどぅんち):今帰仁村
【先島諸島の御嶽】
先島諸島には王国の支配を受ける以前からの聖地が多くあるほか、八重山列島では司の墓が御嶽となっている例が多く見られる。
八重山列島では御嶽のことを「おん」、「わん」と呼ぶ。以下に主なものを列挙する。
【宮古諸島】
漲水御嶽(ぴゃるみずうたき、はりみずうたき)
宮古島(宮古島市)。宮古島を作った神・古意角(こいつの)と姑依玉(こいたま)の二神を中心として、水を司る「竜宮神」、宮古島を守護する「子方母天太」等の神々が祭られており、島内最高の霊場として島の人々の信仰を集め、その周りをめぐる石垣は、1500年のオヤケ赤蜂の乱の戦勝記念として仲宗根豊見親が奉納したと伝えられている。
島尻元島(しまじりもとしま)
宮古島(宮古島市平良字島尻)。奇祭「パーントゥ・プナハ」の中心となる一帯にある。
大主御嶽(ウパルズ御嶽、ナナムイ)
池間島(宮古島市)。大主神社(標準語風の名称)ともいう。宮古島に住んでいる人々の運命を司る神「うらせりくためなうの眞主(まぬす)」を祭る御嶽。池間島から移民した人々が伊良部島、字西原にも新しく同名の御嶽を建立した。現在でも池間島にルーツがある人々から信仰を集め、この御嶽を中心として、多くの神事が行われている。
大神御嶽(おおがみうたき)
大神島(宮古島市)。秘祭「祖神祭(うやがん)」の中心となる御嶽。
【八重山列島】
真乙姥御嶽(まいつばおん)
石垣島(石垣市)。王府のオヤケアカハチ軍征討に縁のある祝女を祭った御嶽。
美崎御嶽(みしゃぎおん)
石垣島(石垣市)。沖縄県の有形文化財・史跡に指定されている。
群星御嶽(んにぶしおん/んにぶしうたき)
石垣島(石垣市)。奇祭「マユンガナシ」の中心になる御嶽。
西塘御嶽(にしとうおん)
竹富島(竹富町)。西塘を祀る御嶽。沖縄県の史跡に指定されている。
国仲御嶽(ふいなーおん/くになかうたき)
竹富島(竹富町)。園比屋武御嶽から勧請された八重山で唯一の王府縁の御嶽。
三離御嶽(ふなふら/みちゃーりおん/さんりうたき)
西表島(竹富町古見(クン))。請原御嶽とともに、秘祭アカマタ・クロマタ・シロマタ祭の中心になる御嶽。
十山御嶽(とぅやまうがん)
与那国島(与那国町祖納)。
【奄美群島】
奄美群島にもノロ制度はあるが御嶽と呼ばれる拝所は存在していない。
ただし「アマンデー」(奄美嶽、海見嶽)と呼ばれる、斎場御嶽と似たものが存在する。
また「拝み山」と呼ばれる山や、「立神」と呼ばれる類するものもある。
厳島神社や高千穂神社という名称でありながら実際には御嶽と思われる拝所が多く存在する。
薩摩藩の統治時代に神社に移行したものと考えられる。
京都府福知山市の全体と、周辺一帯。
京都府福知山市大江町佛性寺にそびえる大江山(=千丈ヶ嶽)の山頂(標高832メートル)と、周辺一帯の聖地群史跡群水辺群の全地点と、それら周辺一帯が、今の危険予想地点です。
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大江山ニッケル鉱山とがあったらしいので、大江山と鳩ヶ峰と鍋塚山と鬼の岩屋と「大江山航空管制塔」までの5連山の全体の地下深くと、周辺一帯広めで。
京都府福知山市大江町北原303−1にある鬼嶽稲荷神社と、鬼の洞窟の中全部と北原遺跡と、「鬼嶽不動尊」と「不動の滝」と、酒呑童子供養碑と、これら周辺一帯広めで。
京都府福知山市大江町佛性寺にある鳩ヶ峰の山頂(標高746メートル)と、鍋塚の山頂(標高762.7メートル)と、これら周辺一帯広めで。
京都府福知山市大江町仏性寺909にある倭国の鬼の交流博物館(河守鉱山の施設群の跡地)と、周辺にある源頼光一行山伏像、大江山グリーンロッジと公衆トイレ、平成の大鬼瓦、酒呑童子の里・体育館、テニスコートと、その西南方向そばにある大江山 酒呑童子の里と、河守鉱山坑口跡と、更に西にある千丈ヶ滝、「大聖不動明王」と「明王の滝」「千丈ヶ原 子安地蔵」と、これら周辺一帯。
京都府福知山市大江町佛性寺951にある鬼のモニュメントと、西隣にある大江山グリーンロッジグラウンドと、これら周辺一帯。
京都府福知山市上佐々木にそびえる三岳山の山頂(危険度最高レベル!!)と、南へ約300メートルに位置する三嶽神社と、三岳山の祠と、その西方向へ約60メートルに位置する行者神社と、其処から南に連続して連なる十七地蔵の全地点と、その末の麓にある金光寺と祠と桜と紅葉と山門と、これら周辺一帯。
京都府福知山市上紺屋30にある厳の郷(出口なお生家)と、周辺一帯広めで。
京都府与謝郡伊根町の全体と、周辺一帯。
京都府与謝郡与謝野町の全体と、周辺一帯。
京都府与謝郡与謝野町与謝にそびえる赤石ヶ岳の山頂(標高736メートル)と、周辺一帯の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それら周辺一帯が、今の危険予想地点です。
京都府与謝郡与謝野町滝にある中華人病没者供羪塔と、北隣に在る梅崎稲荷神社と鳴滝不動明王と、これら周辺一帯。
京都府与謝郡与謝野町滝941にある加悦鉄道 倭国冶金工業大江山鉱山 鉱石積込場跡と、旧大江山ニッケル鉱山製錬所煙突と、滝グラウンドゴルフ場、トロッコ広場と、これら周辺一帯広めで。
京都府与謝郡与謝野町滝にある権現宮と、東隣に在る与謝野鉄幹歌碑と、高浜虚子句碑と、更に東へ約150メートルに位置する与謝野町立江山文庫 (短歌と俳句の資料館)と与謝野晶子歌碑と、これら周辺一帯広めで。
京都府与謝郡与謝野町金屋1603にある比丘尼城本丸跡と、南隣に在る金屋比丘尼城跡と、これら周辺一帯広めで。
京都府宮津市の全域と、周辺一帯。
京都府宮津市小田にある大江山航空管制塔(標高740メートル)とハンググライダー広場と、西へ約250メートルに位置する鬼の岩屋(標高686メートル)と、これら周辺一帯。
京都府京丹後市の全体と、周辺一帯。
兵庫県養父市大屋町横行にそびえる氷ノ山の山頂(標高1509メートル)と、周辺一帯広めで。
大本教(おおもと おほもと)
https://t.co/zAIVODi1J3
本部梅松苑:京都府綾部市本宮町1-1
天恩郷:京都府亀岡市荒塚町内丸1番地
東光苑:東京都台東区池之端2-1-44
霊場
沓島(めしま)・冠島(おしま)[4][5][6]
→
京都府舞鶴市の全体と、周辺一帯広めで。
京都府舞鶴市野原にある冠島(おしま)と沓島(おしま)の島全体と、周辺海底一帯広めで(危険度最高レベル!!!)。
https://t.co/Gd6HFMIkAk
京都府綾部市の全体と、周辺一帯。
京都府綾部市若竹町8−1にある綾部市役所と、周辺一帯広めで。
京都府綾部市本宮町16−1にある本宮山の山頂と、北隣に在る旧岡花家住宅(木の花庵)(大本教本部)と、金竜海という庭園と「大八洲の岩戸の中(危険度最高レベル!!!)」と、金水明(危険度最高レベル!!!)と、大本本部梅松苑と、みろく殿(祖霊社・万霊社)、緑寿館(大本教教主公館)、長生殿(本殿)などの宗教関係地点群と、これら周辺一帯広めで。
京都府綾部市田野町笹谷にそびえる四尾山の山頂(標高287.1メートル)と、西北方向へ約330メートルに位置する配水場と、これら周辺一帯広めで。
京都府綾部市田野町田野山1−15にある綾部市斎場と、周辺一帯広めで。
京都府綾部市田野町才ケ首にある天王平奥津城(出口なお、出口王仁三郎墓)(危険度最高レベル!!!)と、彩霞苑という墓地と、これら周辺一帯広めで。
京都府綾部市野田町井根山にある井根山秋葉神社と、野田城跡と、これら周辺一帯広めで。
京都府綾部市西原町平井にある釈丈ヶ嶽城跡(標高270メートル超)と、周辺一帯広めで。
京都府綾部市鷹栖町にそびえる猪才山城跡(標高264メートル)と、周辺一帯広めで。
京都府綾部市上野町藤山にある杵ノ宮・九鬼霊神社と、周辺一帯広めで。
京都府綾部市於与岐町宮谷にそびえる弥仙山(みせんざん)の山頂(標高664メートル)と金峰神社(弥仙山奥宮)と、西北方向へ約120メートルに位置する大岩磐座と、更に西へ約100メートルに位置する於成神社(弥仙山中の宮)、於成寺古跡、修練の滝の不動明王と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!!)。
京都府亀岡市の全体と、周辺一帯。
京都府亀岡市稗田野町佐伯向山97にある源義経の腰掛岩と、周辺一帯。
京都府亀岡市荒塚町内丸1にある天恩郷と、北隣に在る無名の池と南郷公園と、西隣にある亀山城趾と大本本部と宣霊社と、南隣に在る大本みろく会館と、これら周辺一帯広めで。
京都府亀岡市荒塚町内丸1番地にあるIRUHA(イルーハ)事務所と、周辺一帯広めで。
京都府亀岡市曽我部町穴太の全域と、周辺一帯。
京都府亀岡市曽我部町穴太東ノ辻46にある穴太寺と、周辺の多宝塔などの聖地群史跡群水辺群と、西隣にある佐川印刷 亀岡グラウンドと、これら周辺一帯。
京都府亀岡市曽我部町穴太口山にある穴太城跡(標高167メートル)と、周辺一帯広めで。
京都府亀岡市曽我部町穴太柳原7−1にある蘇州園悠久亭平和・友好の鐘と、公衆トイレと、亀岡運動公園の全体と、これら周辺一帯広めで。
京都府亀岡市にある高熊山ご座所と、北へ約150メートルに位置する丁塚山の山頂(標高357メートル)と、これら周辺一帯。
京都府亀岡市稗田野町佐伯岩谷にある高岳城跡と、周辺一帯。
京都府亀岡市本梅町平松車谷にそびえる朝日山の山頂(標高460メートル超)と、周辺一帯広めで。
京都府亀岡市稗田野町佐伯岩谷ノ内院ノ芝にある大正池の池底と、西隣にある神蔵寺と、これら周辺一帯広めで。
大阪府豊能郡能勢町吉野にある関西電力送配電能勢変電所(今すぐ強制停止シャットダウンさせろ!!!!その地下深くを奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!!トドメも念入りにヤレ!!!)
東京都台東区の全体。
東京都台東区池之端2丁目1−44にある大本東京本部と、東方向すぐにある不忍池の全体と、不忍池ボート場、不忍池辨天堂、上野東照宮、五條天神社・花園稲荷神社と、これら周辺一帯広めで。
東京都文京区の全体。
兵庫県姫路市家島町真浦にある上島灯台と、高台の平地にあるらしい斎場と神祠と、上島の全体と、海岸にあるらしい「岩の洞穴」と、周辺海底一帯広めで。
https://t.co/Gd6HFMIkAk
神島(かみしま)は兵庫県高砂市の西南海上、約10キロに位置する無人の小島で、綾の聖地から西南(坤・ひつじさる)の方角に位置します。
大正5年6月25日(旧5月25日)、出口王仁三郎聖師と出口直日三代教主をはじめ一行60人は、3隻の船に分乗し神島に上陸。聖師を先頭に生い茂る矢竹を切り開いて進み、高台の平地を斎場にしました。
聖師は竹で弓矢を作り、東北(艮・うしとら)と西南(坤)の空に向かい弓を射る型をして四方を祓い、神祠(ほこら)に坤の金神を鎮祭し、その神祠を捧持して帰途に就きました。
28日、綾部の龍宮館に神霊を奉迎。その意義は艮の金神と坤の金神のご対面にあると解されています。 November 11, 2025
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ラジオ「#なるほど歴史講座 」
今夜21:30~OA‼
FMたいはく(78.9MHz )
『アマテラス?誰? 倭国最高神が無名だった平安時代』
え?マジで😳??
(出演: #小川さなえ :東北大学 #加藤諭 教授 :多摩大学 #高橋恭寛 准教授)
サイマル放送・シンプルラジオ各種アプリ🆗
#歴女 #フリーアナウンサー https://t.co/NfNMt0iLGT November 11, 2025
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@Deserter_04 なんか江戸時代にはヤバいヤバい言ってたりコンプリートボックス売ってたりコスプレしてたり女体化二次創作作ったりって聞いた事はあるけど平安時代からミーム使ってたとかマジで何にも変わらねえな倭国人 November 11, 2025
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た脹相さんが、
平安時代からの人々が紡いできた『和歌』という倭国の歌を元にして出来た遊びをいい笑顔で興じているという、彼のある種の人らしさが見えた気がしてぐちゃったのかもしれないと思ってた。
あんな無表情で人生ゲームしてた人がですよ。いろはがるたでなく百人一首っぽいチョイスも最高 November 11, 2025
1RP
登拝道磐座(1)29奈良県桜井市 三輪山登拝口と山ノ神遺跡と三光の滝の3ポイントのほぼ中間に立地。三光谷の入口に位置し、登拝口から徒歩約10分の地点。禁足地
登拝道磐座(2)29奈良県桜井市 三輪山三光の滝から尾根を約15分登った山腹に、杉の巨木と共に注連縄の結界が張られた岩石群が存在。中津磐座に相当するものか。禁足地
登拝道磐座(3)29奈良県桜井市 三輪山(2)地点から5分ほど登った路傍にあり、人工的に小石を配して磐境状に仕立てた祭り場。賽銭が捧げられている。置銭・投銭祭祀
奈良県禁足地
登拝道磐座(4)29奈良県桜井市 三輪山視界の開けた広めの尾根を登り、傾斜がやや急になる坂の途中に露岩群があり、注連縄を張られている。禁足地
登拝道磐座(5)29奈良県桜井市 三輪山坂を登りきって、山頂やや下方の登拝道に注連縄の巻かれた磐座。二重に注連縄が巻かれている。(5)(6)(7)は互いに近接。禁足地
登拝道磐座(6)29奈良県桜井市 三輪山坂を登りきって、山頂やや下方の登拝道に注連縄の巻かれた磐座。(5)(6)(7)は互いに近接。禁足地
登拝道磐座(7)29奈良県桜井市 三輪山坂を登りきって、山頂やや下方の登拝道に注連縄の巻かれた磐座。(5)(6)(7)は互いに近接。禁足地
白山29奈良県桜井市辻眞言律宗巻向山奥不動寺のすぐ北にそびえる岩山。一面が岩盤露出していることから白山の名が付いたものと思われるが、神聖視・祭祀の痕跡は見られない。頂上が岩山
ダンノダイラの「磐座」29奈良県桜井市出雲ダンノダイラ急斜面の山肌に露出する岩崖を主体とし、岩崖の上にある2~3体の岩にも供献皿や注連縄が残されている。麓の出雲村の十二柱神社にはかつて社殿がなく、この「磐座」を拝む場だったという。年に一度出雲村の人々がダンノダイラへ登り飲み食いや相撲をして遊ぶという風習があったという、
天壇29奈良県桜井市出雲ダンノダイラマウンド頂部に集石が存在。冬至の日に天帝をまつるために設けた祭壇という説があるが真相不明。近代以降の命名
素盞鳴神社 岩石群29奈良県桜井市慈恩寺 素盞鳴神社本殿背後に露岩があり「磐座」ではないかとされるが由来不詳。
石神29奈良県桜井市忍坂 忍坂坐生根神社背後にある神体山の宮山に「石神」と呼ばれる約20個の自然石が存在するという。A
金剛寶磐石/磐座/大磐石29奈良県桜井市初瀬 長谷寺長谷寺本尊の十一面観音菩薩の土台に使われている岩石。天平元年(729年)8月15日の夜、突如「金剛寶磐石」が土の中から現れ、磐石には仏像をしつらえるにふさわしい足跡形の穴があったことから、ここに十一面観音菩薩を立てたといわれる。BABC突如出現した岩石仏菩薩を安置するにふさわしい自然石が突如出現する。
奈良県岩石表面に印・痕・模様が残る
ふく石29奈良県桜井市初瀬 長谷寺長谷寺本願院が江戸時代に製作した「初瀬山之図」に記載された岩石。所在未特定。今現在確認がとれていない岩石
気比神29奈良県桜井市初瀬 長谷寺『長谷寺密奏記 裏付』(13世紀頃成立)に「十一面堂東北石座御」とある。所在未特定。今現在確認がとれていない岩石
気多神29奈良県桜井市初瀬 長谷寺『長谷寺密奏記 裏付』(13世紀頃成立)に「同方南石座御」とある。所在未特定。今現在確認がとれていない岩石
宝幢神29奈良県桜井市初瀬 長谷寺『長谷寺密奏記 裏付』(13世紀頃成立)に「十一面堂西南石座御」とある。所在未特定。今現在確認がとれていない岩石
宝語神29奈良県桜井市初瀬 長谷寺『長谷寺密奏記 裏付』(13世紀頃成立)に「同方北石座御」とある。所在未特定。今現在確認がとれていない岩石
見廻不動尊29奈良県桜井市初瀬岩崖。弘法大師が長谷寺の参籠を終えて笠山へ向かう途上ここで見かえり、ここは金剛界・胎蔵界の深理が顕現した霊場であるから、入山する者は心を定め清めなければならないと述べ、山の守り神である須彌山王の上に不動明王の御形を彫ったという。A山の入口に不動明王をまつり結界とする。
奈良県BCA
菅原道真の腰掛石29奈良県桜井市初瀬与喜天満神社の御旅所。菅原道真扮する狩衣装束の老人が腰掛けていたという岩石。切石のような形状で後世創設された可能性がある。CB休み石・腰掛石
泊瀬石29奈良県桜井市初瀬かつて滝蔵神社の近くに毘沙門天を祀る祠があり、ある時この上に雷が落ちて毘沙門天の宝塔が初瀬川に流れ落ちたが、この岩石に引っかかって止まったので、この岩石を泊瀬石と呼んだという。EC
女岩(女男岩)29奈良県桜井市初瀬 与喜天満神社愛しく撫でると心のかどがとれるという岩石。BBDなでたりさすったり抱きついたりする
男岩(女男岩)29奈良県桜井市初瀬 与喜天満神社愛しく撫でると心のかどがとれるという岩石。BBDなでたりさすったり抱きついたりする
山神遥拝所29奈良県桜井市初瀬 与喜天満神社与喜山・与喜天満神社の遥拝所とされる岩石。BA
奈良県BBA
八王子社29奈良県桜井市初瀬 与喜天満神社八王子社の祠の下に存在する岩石。BABC
鵝形石29奈良県桜井市初瀬 与喜天満神社天照大神が降臨したという岩石。BABA
奈良県C
沓形石29奈良県桜井市初瀬 与喜天満神社春日大明神あるいは天児屋根命が降臨したという岩石。BABA
奈良県C
掌石29奈良県桜井市初瀬 与喜天満神社太玉命が降臨したという岩石。BABA
奈良県C
千度まいり石29奈良県桜井市初瀬 与喜天満神社千度参りの際の礼拝石。BBA
与喜山 A地点北西岩石群/磐座29奈良県桜井市初瀬 与喜山/天神山2基の石灯籠を従えて玉垣の後ろに控える岩石。塔のように大きく三段から構成される岩石で、高さ3.1mを測る。
与喜山 A地点南東岩石群29奈良県桜井市初瀬 与喜山/天神山A地点北西岩石群から南東へ10mほど進むと、急斜面に高さ2~3mの岩々が多く露出している。
与喜山 B地点下方岩石群29奈良県桜井市初瀬 与喜山/天神山1962年に杉髙講が奉献した鳥居・灯籠・狛犬などが残る尾根先端の露岩群。
与喜山 B地点上方岩石群29奈良県桜井市初瀬 与喜山/天神山B地点下方岩石群から尾根を少し登るとスパッと鋭角的な輪郭を持つ立石が存在。
与喜山 C地点岩石29奈良県桜井市初瀬 与喜山/天神山天神山北側から登る登山道の入口東側に立地。石祠がまつられている背後に露岩がある。
与喜山 D地点岩石群29奈良県桜井市初瀬 与喜山/天神山山頂尾根の南端に立地する東西隣り合わせの2体の岩石。西側の巨岩は高さ2~3m、幅5mほどの単体の横長石。東側の巨岩は、小さめの岩石が2個横並びになっていて、その上に支石墓の掌石のごとく高さ2m・幅5mほどの巨石が乗っかかっている構造を有する。
陽神29奈良県桜井市初瀬 与喜山/天神山『長谷寺密奏記 裏付』(13世紀頃成立)に「伊弉諾尊也。東山腰石座御。南。」とある。所在未特定だが、A地点南東岩石群の可能性がある。BAB今現在確認がとれていない岩石
陰神29奈良県桜井市初瀬 与喜山/天神山『長谷寺密奏記 裏付』(13世紀頃成立)に「伊弉冉尊也。東山腰石座御。北。」とある。所在未特定だが、A地点北西岩石群の可能性がある。BAB今現在確認がとれていない岩石
光神29奈良県桜井市初瀬 与喜山/天神山『長谷寺密奏記 裏付』(13世紀頃成立)に「月弓尊也。東山北谷石座御。上。」とある。所在未特定だが、B地点上方岩石群の可能性がある。BAB今現在確認がとれていない岩石
雨神29奈良県桜井市初瀬 与喜山/天神山『長谷寺密奏記 裏付』(13世紀頃成立)に「同谷石座御。下。」とある。所在未特定だが、B地点下方岩石群の可能性がある。BAB今現在確認がとれていない岩石
賀茂大明神29奈良県桜井市初瀬落神『長谷寺密奏記 裏付』(13世紀頃成立)に「河中大石座御」とある。賀茂の雷神が瀧蔵権現から毘沙門天の宝塔を奪い取り去る途中でこの川中の岩石に落ちたという。下の屏風岩と同一物の可能性もある。初瀬ダム建設により水没。BABA今は存在しない岩石別の神から宝塔を奪い取った雷神が落ちた岩石。
奈良県BABC
屏風岩29奈良県桜井市初瀬落神高さ4.8mの三角形状の岩石に宝篋印塔と梵字の線刻がなされ、頂部に祠をまつっていたという。天落神六社権現の1つ。戦の時に塀代わりに使われたともいう。初瀬ダム建設により水没。BABC今は存在しない岩石
奈良県BAC
落神 山側斜面の岩盤29奈良県桜井市初瀬落神高さ97cmの宝篋印塔を刻んだ岩盤で、天落神六社権現の1つ。初瀬ダム建設により水没。BAC今は存在しない岩石
天落神六社権現 岩石祭祀事例29奈良県桜井市和田 天落神六社権現初瀬ダム建設により水没した岩石群を偲び、和田地区に遷座した天落神六社権現の境内に新たにまつられた宝篋印塔を刻んだ岩石。CB水没した岩石祭祀の場を偲んで、新たに清浄な岩石に宝篋印塔を刻んで遷座先にまつる。
弥勒菩薩石仏29奈良県桜井市瀧倉 瀧蔵神社境内にまつられた弥勒菩薩の石仏。A
観音屋敷29奈良県桜井市瀧倉 瀧蔵神社大小の岩石群が散在している場所。神聖視有無不明。
中谷休憩所 岩石祭祀事例29奈良県桜井市瀧倉 瀧蔵神社中谷休憩所という鞍部に存在する、注連縄の巻かれた岩石の割れ目から樹木が生えた事例。詳細由来不明。岩石割れ目から樹木、またはその逆
瀧蔵神社 岩石祭祀事例29奈良県桜井市瀧倉 瀧蔵神社拝殿の前に注連縄を巻かれた岩石。詳細由来不明。
猿田彦之命29奈良県桜井市小夫猿田彦之命の神名が表面に刻まれた岩石。人工的に築かれた石檀の上に置かれており神聖視されたことは確かだが、詳細由来不明。
八つ岩/八ッ岩/八箇岩/八龍王八箇石29奈良県天理市長滝町日の谷素戔男尊に斬られた八伎大蛇が八つの蛇となって天に昇り、水雷神となって聚雲の神剣に付き従って降臨した際の岩石という。朱鳥元年(686年)6月、石上神宮神主の布留宿邑智が「東の高山に神剣が発光して八つの竜が座す」という夢を見たので翌日に現地へ行ったところ、霊石八箇があり、傍らに現れた小童の口から「この地に降臨して人々を守ろうと思う」という神託があったため、出雲建雄神社を造ってまつった。BAA生き物が石化したもの八岐大蛇が八つに分裂して降臨した姿とも、八岐大蛇が降臨した岩石ともいう。
奈良県BABA突如出現した岩石
奈良県CA最初の一回だけ磐座機能
天狗岩29奈良県天理市長滝町日の谷八つ岩の近くに残るという地名。今現在確認がとれていない岩石
九頭神社 岩石29奈良県天理市長滝町 九頭神社本殿の背後にある岩石。神聖視有無不明。
八龍王八箇石29奈良県天理市 大国見山八伎大蛇が素盞鳴命に八つ裂きされたのが天から落ちてきた名残の岩石群。日の谷の八つ岩との関連性は不明。
大阪山口神社 岩石群29奈良県香芝市穴虫 大阪山口神社本殿の背後にある露岩群。神聖視有無不明。
石光山 岩石群29奈良県御所市元町 石光山触ると火が出るといわれている巨岩群。隣接して祠がまつられている。山名の由来の可能性もある。石組・石室状の構造を持つものもあるが自然・人為含めて不明点が多い。石光山古墳群の群集墳の合間に存在する。祟り伝承
奈良県岩石から煙・光・火・気などが出る
奈良県古墳が近接
唐笠山 十一面観音29奈良県御所市朝町 唐笠山大穴持神社の鎮座する唐笠山の山頂近くにある露岩。岩石表面に十一面観音が線刻されているという。A
平群石床神社/岩神29奈良県生駒郡平群町越木塚 平群石床神社旧社地里山の裾に露出する岩壁。石床という名と立地から元は磐座だった可能性があり、江戸時代の絵図には岩神と書かれていることから、後世に石神に変化したと考えられる。陰石として女性の病や下半身の病に霊験がある。BABA磐座から石神に変化し、社殿なしのまま神社としてまつる。
奈良県A
神籠石/神護石29奈良県生駒郡平群町越木塚 石床神社拝殿の奥に置かれている岩石。詳細由来不明。
舟石/船石29奈良県生駒郡平群町三里 宮山延喜式内船山神社の祭神が降臨した時に乗った船とされる3体の船形石。CA物品が石化したもの
陽石29奈良県生駒郡平群町三里 船山神社麓の現・船山神社境内に置かれた立石。宮山中腹の中ノ宮(船山神社旧社地)から移設したものという。原位置から移動伝承
夫婦岩/天狗岩/三間石山巨石遺構29奈良県生駒郡平群町櫟原字三石3体の巨岩を中心に大小の岩石群が群集。現在、3体の内の2体に、多数の木の枝が岩に立てかけられている。『住吉大社神代記』の中の、住吉大神が母木里(東大阪市豊浦町付近)と高安国(大阪府八尾市付近)の境に置いた「諍石」に該当するという説がある。岩石に多数の木の枝を立てかける。
十三塚 祭壇状石組29奈良県生駒郡平群町福貴畑塚の手前に、岩石を用いて方形に囲った遺構。区画内に何らかの祭祀具を置いたものと推測されるが確証はない。築造時期は江戸中期以前といわれるが特定できていない。
十三峠地蔵菩薩29奈良県生駒郡平群町福貴畑峠の道標の横に立てられ、明和2年(1765年)の製作の石仏。A
両童子岩29奈良県吉野郡天川村 大峯山高さ約10mの2体の立岩。修験者が一方に登り、その後もう一方に飛び移る修行をする場。BCE巨岩に登り、別の巨岩に飛び移る修行。
子安石30和歌山県新宮市阿須賀 阿須賀神社子安社としてまつられる岩石。子宝安産を祈願する人々が、王子が浜から白石を拾い子安石に奉納して願掛けをする。A可動的性質
和歌山県BBC
蓬莱山遺跡30和歌山県新宮市阿須賀 蓬莱山山中の上オンビ・下オンビと称する場所から、自然石を壁として利用し、その前面三方に石を組み合わせた石室遺構が見つかり、そこから平安~室町時代の御正体194枚や経塚関係遺物(経筒片・経石など)が出土。他に弥生時代の土器、古墳時代の手づくね土器・滑石製模造品も出土。BCD経塚関係山中の自然石を利用して石室を作り、それを経塚とする。
千引岩/千引の岩/宮井戸遺跡30和歌山県新宮市蓬莱かつて海岸の小島だったとされる場所で、飛鳥行人が祭祀していた場所ともいい、黄泉道守命をまつる宮井戸社があった。弥生土器と一字一石経が出土し、千引岩の表面には鎌倉時代あるいは室町時代の「キリーク(大威徳明王)」「カーンマーン(不動明王)」の梵字が刻まれている。A
白玉稲荷神社30和歌山県新宮市蓬莱社殿に接して3体の球状の巨岩が存在。
ゴトビキ岩/琴引岩/神倉山遺跡30和歌山県新宮市神倉 神倉山神倭国磐余彦が熊野に上陸して最初に祈願した霊地「天磐盾」の上部、あるいは、高倉下命が高甕雷神から神剣を授かった場所、さらには熊野三所大神が最初に地上に降臨した場所といわれる巨岩。岩の裾部から中世の経塚群や弥生時代の銅鐸などが出土した。BCC経塚関係司祭者が座す場所でありながら、神が降臨する場所でもある。銅鐸と経塚の伴出。
和歌山県BABA
和歌山県BCD
鏡石(那智の七石)30和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 熊野那智大社大門坂に所在。七石
唐斗石(那智の七石)30和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 熊野那智大社大門坂に所在。七石
平石(那智の七石)30和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 熊野那智大社実方院跡に所在。七石
三ッ石(那智の七石)30和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 熊野那智大社珍重庵右横に所在。七石
烏石(那智の七石)30和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 熊野那智大社熊野那智大社の遥拝所奥にある岩石。神倭国磐余彦の道案内をした八咫鳥が石化したというもの。C七石
和歌山県生き物が石化したもの
和歌山県秘匿されている岩石
笈掛石(那智の七石)30和歌山県東牟婁郡那智勝浦町熊野那智大社と青岸渡寺の間に所在。七石
降石(那智の七石)30和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 青岸渡寺宿坊の尊勝院の裏庭に所在。天から落ちてきたという岩石。七石
和歌山県可動的性質
河内様/河内神社/清暑島30和歌山県東牟婁郡古座川町古座川に浮かぶ小島で、島全体が河内神社としてまつられている。島頂に一枚岩が存在。古座川の川神をまつる場所。BABC禁足地7月の河内祭では、河内様に古座川の清水(潮)を奉納する。
西の倉30和歌山県東牟婁郡古座川町河内様の上流にそびえる岩山。EC
重畳山30和歌山県東牟婁郡串本町橋杭岩と同じ成因による岩脈が残る山。山内に重畳山神社・神王寺と石仏群が存在。EC
橋杭岩30和歌山県東牟婁郡串本町串本の沖から紀伊大島に向かって立ち並ぶ岩の列。太古のマグマによって形成された岩脈が、黒潮の浸食で削られたもの。弘法大師あるいは太吉という村の正直者が一晩で架けようとした橋脚の跡と伝えられる。C
和歌山県EC
高塚の森30和歌山県東牟婁郡串本町潮岬潮御崎神社の神域とされる森。マウンドと露岩群があり、応神天皇の侍従の墓と伝えられ、かつて小祠があったという。マウンド南西に列石・土堤・平坦地形が指摘され、測量調査が実施される。また、夏至に平坦地形からマウンドを望むと、露岩群から太陽が上ってくることが確認され、高塚の森は太陽祭祀の場だったとする説が出されたが、そのことを裏付ける文献記録や遺物の存在に欠ける。夏至の日に、平坦地からマウンドの露岩の頭上に日の出の太陽を望む太陽祭祀の可能性が指摘されている。
盃岩30和歌山県東牟婁郡串本町潮岬 旭之森神功皇后が酒宴を催した際に杯を置いたという岩石。C
阪田山遺跡 環状配石遺構30和歌山県西牟婁郡白浜町阪田山腹斜面に自然露出の岩盤が広がり、その下方に弧状列石、焚火址2ヶ所・環状配石を検出。環状配石遺構は、大小の砂岩16個を直径約1mの環状に配置され、配石の内側からは臼玉約2000点の他、包含層上部からは有孔円板・剣形製品・勾玉・管玉が偏って出土した。環状配石は祭祀具配置空間を明示する遺構あるいは祭祀終了後の廃棄場所を区画する遺構だった可能性がある。BCD環状配石の内外で土砂の種類、遺物の出土点数に差がある。配石内に遺物があまりに多量ということと、臼玉とそれ以外の遺物に出土位置の差が見られるため、祭祀具配置・埋納・廃棄跡など様々な機能が推測される。
和歌山県DB
阪田山遺跡 弧状列石30和歌山県西牟婁郡白浜町阪田岩盤の下方斜面に弧状・壇状に配された岩石群。自然の露岩の可能性もある。
阪田山遺跡 岩盤30和歌山県西牟婁郡白浜町阪田遺跡における祭祀対象と推測されている岩盤。遺跡中最も最高所の斜面に立地。
かろと石30和歌山県田辺市秋津川僧が石を煮て食べ、行をしてから岩石の中に入り、そのまま出なかった。これをかろと石と呼ぶ。BCE岩石の中に籠る
和歌山県BAC
白山 岩石群30和歌山県有田郡有田川町 白山田殿丹生神社の裏山である白山の中腹に、数十mはあろうかという巨岩が屹立し麓から仰ぐことができる。磐座ではないかという説があるが、歴史的に裏付ける明確な資料が確認できない。白山自体は神聖視されており、山頂に白山神社が鎮座。
タテリ岩/一の宮(岸宮遺跡)30和歌山県紀の川市貴志川町岸宮山頂にある高さ5.5mの蛇紋岩。康平6年(1063年)、ここに最初に宮を建てて一の宮と称したとの貴志川八幡宮の社伝がある。CA
中宮/中の宮/上の宮(岸宮遺跡)30和歌山県紀の川市貴志川町岸宮康平6年(1063年)に一の宮を設けた30年後、山腹に遷座して上の宮と称したといわれる場所で、多くの自然石が群集している。周辺一帯の自然石の上面や岩陰から奈良時代~平安時代の和鏡・鐸形銅製品が見つかっている。CA
岸宮中宮遺跡 環状配石遺構(岸宮遺跡)30和歌山県紀の川市貴志川町岸宮中宮の自然石の群れの西に隣接。20数個の角礫を直径約1.5mの環状に巡らせた遺構で、石同士は粘土で固定され、配石内部は石敷きがされていた。1mほど東からは常時湧水を溜めていた井戸遺構を検出。周辺一帯から奈良時代~平安時代の和鏡・鐸形銅製品・魚形銅器・滑石製有孔石製品・土師器・須恵器・黒色土器・瓦器・緑柚陶器などの遺物が出土。
岸宮中宮遺跡 敷石遺構(岸宮遺跡)30和歌山県紀の川市貴志川町岸宮環状配石遺構の西に隣接。周辺一帯から奈良時代~平安時代の和鏡・鐸形銅製品・魚形銅器・滑石製有孔石製品・土師器・須恵器・黒色土器・瓦器・緑柚陶器などの遺物が出土。
前庭/庭園/石組(岸宮遺跡)30和歌山県紀の川市貴志川町岸宮 貴志川八幡宮社殿前の石段脇にある岩石群。安土桃山時代の製作の庭園とされているが、山裾の磐座に手を加えたものとする説もある。EC
七福の庭30和歌山県和歌山市 和歌山城紀州徳川藩祖の徳川頼宣が、紀州藩の隆盛を祈念して1621年(元和7年)に作った石庭。七福神が船に乗っている様子を岩石に擬して配置したもの。かつて本丸御殿の中央にあったが1923年に現在地に移転した。BBC原位置から移動伝承人工的に信仰対象の岩石を製作・奉献して守護神にする。
和歌山県A
弁財天山30和歌山県和歌山市 和歌山城南かつて和歌山城敷地内にあったとされる岩山。麓には紀州徳川勧請神社・子供観音があるほか、山の神の石碑が残されている。頂上が岩山
後醍醐天皇お腰掛けの岩31鳥取県西伯郡大山町御来屋後醍醐天皇が腰掛けた岩石。この岩石に船をつないでおくと流されることはないという。CC休み石・腰掛石
産石31鳥取県米子市橋本 阿陀萱神社天から落ちてきた岩石で、産石神社を建ててまつったという。A可動的性質
金鶏石31鳥取県米子市上新印 圓福寺箱と蓋の2つから構成される岩石構造物で、中には金の鶏(鳩とも)が入っており、元旦に泣いて福を与えてくれたという。かつて別の場所の寺にあり、小僧が開けてしまい金鶏は逃げてしまったので、和尚は逃げてしまった現在地に寺と金鶏石ごと移転したという。BAC黄金の何かが隠されているという伝説
鳥取県EC原位置から移動伝承
赤猪岩31鳥取県西伯郡南部町寺内 赤猪岩神社倭国神話で大国主命を焼き殺した猪岩を土中に封印し、その上に大きな蓋石と玉垣を施し禁忌とした。EA可動的性質不敬の岩石を土中に埋め、蓋石で封じ込める。
鳥取県BBB禁忌が厳しい
越路遺跡31鳥取県鳥取市越路宮丸山立地は麓近くの丘陵斜面。地表下約0.5-1mの辺りで、大ぶりの板石の下から銅鐸1出土。今は存在しない岩石
影石31鳥取県鳥取市用瀬町 三角山三角山頂上の三角山神社周辺に存在する自然石。
重石31鳥取県鳥取市用瀬町 三角山三角山頂上の三角山神社周辺に存在する自然石。
富士石31鳥取県鳥取市用瀬町 三角山三角山頂上の三角山神社周辺に存在する自然石。
天狗石31鳥取県鳥取市用瀬町 三角山三角山頂上の三角山神社周辺に存在する自然石。
万灯石31鳥取県鳥取市用瀬町 三角山三角山頂上の三角山神社周辺に存在する自然石。
双履石31鳥取県鳥取市国府町宮下 宇倍神社武内宿禰が亡くなる前に残したといわれる草履の石化したもの。地中に竪穴式石槨が眠っていることが分かり、古墳石材の一部ということが判明した。C物品が石化したもの
鳥取県遺物・遺構の再利用
岡益の石堂31鳥取県鳥取市国府町岡益安徳天皇陵と伝えられる石造遺構。石檀の上に板石で側壁を造り、中心にエンタシス調の石塔を立てた構造物。製作年代、元来の用途共に不明。聖者が亡くなった場所
羽衣石31鳥取県東伯郡湯梨浜町 羽衣石山天女が水浴びをするため自らの羽衣をかけていた岩石。裾に天女をまつる祠を設けている。C
安産岩31鳥取県東伯郡東郷町宮内 宮内倭文神社難産に苦しんだ妊婦が宮内倭文神社に祈願したところ、この岩石の前で安産したという。以降、安産の霊験を持つ岩石として信仰される。A
春日シヌン谷遺跡32島根県八束郡東出雲町春日シヌン谷露岩群の裾から手捏土器など出土。平野部からかなり奥まった丘陵斜面に位置するが、露岩群の近くに住居址状のテラス4ヶ所検出。今は存在しない岩石
座王さん32島根県松江市鹿島町佐陀本郷 恵曇神社恵曇神社祭神の磐坂日子命が腰掛けたという岩石。C休み石・腰掛石
志谷奥遺跡32島根県松江市鹿島町佐陀本郷字志谷奥高さ1.5mほどの2体の巨石の1.5mほど離れた場所の地中の下層から銅鐸2点、上層から銅剣6点が整然と出土。今は存在しない岩石
元宮/磐座32島根県松江市八雲町熊野 天狗山出雲国一宮熊野大社の元宮と伝えられる山頂付近の露岩群。現在は毎年5月に供物を捧げる元宮祭が行なわれている。BA
島根県CA
犬石32島根県松江市宍道町 石宮神社大国主命が狩りをしていた犬が石化したもの。C生き物が石化したもの
猪石32島根県松江市宍道町 石宮神社大国主命が狩りをしていた猪が石化したもの。C生き物が石化したもの
女夫岩さん/宍岩さん/女夫岩遺跡32島根県松江市宍道町白石2体の巨岩を中心とし、手前に石壇を有する遺跡。古墳時代中期・後期の土器、近世・近代の遺物が出土。石壇も近世・近代のものと推測される。『出雲国風土記』の猪石の候補地。
真玉/真玉さん/願い石32島根県松江市玉湯町 玉作湯神社湯山主之大神(大己貴命)としてまつられてきた自然の丸石。近年「願い石」と呼ばれ、「叶い石」を使った信仰が生まれる。A近代以降の命名願い石に水をかけて、その後、叶い石を願い石に当てると、願い石の霊力が叶い石に分け与えられ、お守りの石になるという。
島根県BBD
叶い石32島根県松江市玉湯町 玉作湯神社神社で販売している小石。この小石を願い石に当てると、願い石の霊力が叶い石に移り、自分のお守りになるという。近年考案された祭祀。BBD近代以降の命名願い石に水をかけて、その後、叶い石を願い石に当てると、願い石の霊力が叶い石に分け与えられ、お守りの石になるという。
御守石32島根県松江市玉湯町 玉作湯神社勾玉の原石。別の場所に保管されていたが、近年の「願い石」信仰を受けて境内に移設されて名付けられる。BD近代以降の命名
夫婦岩32島根県雲南市大東町須賀 八雲山山腹に立地する、須賀神社の奥宮とされる3体の巨岩を中心とする岩石群。それぞれ須佐之男命・奇稲田比売命・清之湯山主三名狭漏彦八島野命をまつる。BAC
島根県CA
大岩32島根県雲南市加茂町岩倉大岩の下には金鶏がおり、大晦日にだけ鳴き声を出し、それを聞いた者は巨万の富を得ることができるという。EC黄金の何かが隠されているという伝説
矢櫃神社 岩石群32島根県雲南市加茂町岩倉矢櫃神社の旧社地の背後に露出する岩石群。岩倉の地名の元ともいわれるが詳細由来不明。
成長石32島根県雲南市三刀屋町多久和 飯石神社ある日突然天から落ちてきた岩石といい、日に日に岩石が大きくなるので、村人達が神様として神社を建ててまつったのが飯石神社の始まりという。明治時代の遷宮工事の際、この岩石の周辺から古墳時代の須恵器片が出土した。A突如出現した岩石
島根県岩石が満ち欠け・増減・出産する
島根県可動的性質
岩坪/岩坪さん/岩坪明神32島根県出雲市東神西町 那売佐神社川床の岩盤に甌穴が開いたもの。神が生まれた時に産湯に使ったという。甌穴は普段砂で埋まっているが、旱魃の時に砂を掘り出して雨乞いすると雨が降るという。C岩穴・窟甌穴に埋まった砂を掘り出すと雨が降る。
島根県BBD
烏帽子岩/石神32島根県出雲市多久町 大船山『出雲国風土記』に記載された楯縫郡神名樋山の石神。日照りの時に雨乞いをすると必ず雨が降るという。A
小石神32島根県出雲市多久町 大船山『出雲国風土記』に記載された、楯縫郡神名樋山の石神の周囲に群集する百余の小石神。この一帯及び付近の滝壺から古墳時代の土師器片が発見されている。A石神の周囲に付き従って百余の小石神の存在が記載される。
島根県BD
命主神社遺跡32島根県出雲市大社町 出雲大社命主神社は出雲大社の境内摂社。江戸時代の社殿改修時、社殿背後の大岩の下から弥生時代の銅戈4点、ヒスイ製勾玉が出土した。今は存在しない岩石
首岩32島根県出雲市佐田町反辺 多倍神社素盞鳴尊が退治した鬼の首を地中に埋め、地表に岩石で蓋をして封じたもの。この岩石に触れると鬼の血が付くといわれている。BBB岩石から血が出る鬼の首を埋めて岩石で蓋をして鎮める。
島根県C
上方林遺跡32島根県仁多郡奥出雲町下横田字上方林丘陵斜面において配石遺構が2ヶ所で出土し、近くに須恵器大甕・金銅製金具、土馬などが配置されていたと報告されている。今は存在しない岩石
大神岩/窟32島根県飯石郡飯南町 琴引山『出雲国風土記』に記載された飯石郡琴引山の窟。内部に所造天下大神の御琴と記載された石の亀裂がある。BCA岩穴・窟神の琴を納めた窟がある。
島根県BAC岩石表面に印・痕・模様が残る
烏帽子岩/石神32島根県飯石郡飯南町 琴引山『出雲国風土記』に記載された飯石郡琴引山の石神に比定されている巨岩。他にも周囲に巨岩があるため異説もある。A
婆石32島根県邑智郡邑南町作木下の爺石に毎年米一粒ずつ近づいており、爺石に接すると近くの江川が大海になるという。EC岩石が動く
爺石32島根県邑智郡邑南町江平下瀬上の婆石に毎年米一粒ずつ近づいており、婆石に接すると近くの江川が大海になるという。EC岩石が動く
水枕石33岡山県新見市大佐上刑部人が亡くなると、川から拾ってきた石を枕飯の横に置く。BBB可動的性質人が亡くなると、川から拾ってきた石を枕飯の横に置く。
岡山県BBC November 11, 2025
1RP
経岩26京都府京都市山科区修行僧がこの岩石の上で経を読んだという。道路工事を請けて一部損壊したという。BCE岩石が改変されている仏僧が岩石の上で読経する。
陰岩(陰陽岩/岩屋殿/奥之院)26京都府京都市山科区大宅中小路町 岩屋神社岩屋神社信仰の発祥といわれる石座。麓に社殿が建てられるまで栲幡千々姫命をまつっていた。陰岩の窪みにたまる水は霊水として信仰されたが、現在この水は枯れている。BA岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
京都府CA
陽岩(陰陽岩/岩屋殿/奥之院)26京都府京都市山科区大宅中小路町 岩屋神社岩屋神社信仰の発祥といわれる石座。麓に社殿が建てられるまで天忍穂耳命をまつっていた。BA
京都府CA
琵琶石26京都府京都市山科区四ノ宮在地町 諸羽神社人康親王が琵琶を弾きながら座っていた岩石。隣接する岩坐には注連縄と賽銭箱がある一方、琵琶石には全くないため祭祀・神聖視の段階には入っていないと考えられる。EC
岩坐26京都府京都市山科区四ノ宮在地町 諸羽神社立板状の岩石。由来不詳。C
影向石26京都府京都市山科区日ノ岡夷谷町 日向大神宮高さ約1mの立石。由来不詳。
天の岩戸26京都府京都市山科区日ノ岡夷谷町 日向大神宮人工的に穴を掘った洞穴。内部には戸隠神社の祠がまつられており、岩戸くぐりをすれば開運厄除という。CB胎内くぐり
京都府BBD
京都府BAC
かへし石/力石26京都府京都市伏見区深草鳥居崎町 藤森神社3個の岩石。京都所司代の巡検時に、この岩石をひっくり返しながら拝殿から鳥居まで転がした。氏子が持ち上げて力自慢をしたともいう。BBD可動的性質重い岩石を持ち上げたり転がしたりして、その力を誇示する。
京都府力石
京都府岩石を持ち上げられるか、軽くなるか重くなるか
大岩26京都府京都市伏見区深草向ヶ原町 大岩神社男女二人の神がそれぞれが重い病気にかかった際に、互いの献身的な看病によって病を治したことから、土地の者がその徳をたたえて神社を造り、大岩を男の神としてまつったという。A神々が偉業を成し遂げたので、村人が神社を造ってまつる。
小岩26京都府京都市伏見区深草向ヶ原町 小岩神社男女二人の神がそれぞれが重い病気にかかった際に、互いの献身的な看病によって病を治したことから、土地の者がその徳をたたえて神社を造り、小岩を女の神としてまつったという。A神々が偉業を成し遂げたので、村人が神社を造ってまつる。
奥社 立石26京都府京都市伏見区深草 伏見稲荷大社稲荷山を遥拝するための奉拝所とされる立石。BAA
京都府BBA
おもかる石26京都府京都市伏見区深草 伏見稲荷大社2基の石灯籠の頂部に乗る空輪。石灯籠の前で祈願をして、その後におもかる石を持ち上げた時、予想していたより重ければ願いは叶わず、予想よりも軽ければ願いは叶うという。BBD岩石を持ち上げられるか、軽くなるか重くなるか岩石を持ち上げて、予想よりも重いか軽いかで占う。
京都府可動的性質
御饌石26京都府京都市伏見区深草 稲荷山酒を注いだ素焼き土器70枚を御饌石の上に供え、神に生産豊穣を祈るという「山上の儀」が行なわれる。御饌石の前には、祭祀を行なう神職者専用の台座石が設置されている。BCD台座石の上に神職が座り、酒を注いだ素焼き土器70枚を御饌石の上に供える。
京都府BCC
剱石26京都府京都市伏見区深草 稲荷山人の丈より高いもので、緑がかった剱状の岩石。御剱社の社殿内にあり、剣に似た形状なので、鍛冶・金物関連の霊験を持つ岩石として信仰される。A秘匿されている岩石
雷石26京都府京都市伏見区深草 稲荷山昔ここで激しい雷が落ち、神が呪文を唱えこの岩石に雷を縛り封じたという。古くからの神跡として神聖視される。BBB聖者が与えた霊石神が雷を岩石に封じ込める。
力お大明神26京都府京都市伏見区深草 稲荷山祠の横に露岩あり。詳細は調査不足につき不明。
大岩大神26京都府京都市伏見区深草 稲荷山岩盤を大岩大神としてまつる社。A
稲荷下社神蹟26京都府京都市伏見区深草 稲荷山かつて、神を迎えて祭りを行なったとされる場で、伏見稲荷大社が定める正式なお塚。現在、神蹟であることを示す標石が設置されている。BCA古来の神蹟であることを明示するために標石を置く。
稲荷中社神蹟26京都府京都市伏見区深草 稲荷山かつて、神を迎えて祭りを行なったとされる場で、伏見稲荷大社が定める正式なお塚。現在、神蹟であることを示す標石が設置されている。BCA古来の神蹟であることを明示するために標石を置く。
稲荷上社神蹟26京都府京都市伏見区深草 稲荷山かつて、神を迎えて祭りを行なったとされる場で、伏見稲荷大社が定める正式なお塚。現在、神蹟であることを示す標石が設置されている。BCA古来の神蹟であることを明示するために標石を置く。
長者社神蹟26京都府京都市伏見区深草 稲荷山かつて、神を迎えて祭りを行なったとされる場で、伏見稲荷大社が定める正式なお塚。現在、神蹟であることを示す標石が設置されている。BCA古来の神蹟であることを明示するために標石を置く。
荷田社神蹟26京都府京都市伏見区深草 稲荷山かつて、神を迎えて祭りを行なったとされる場で、伏見稲荷大社が定める正式なお塚。現在、神蹟であることを示す標石が設置されている。BCA古来の神蹟であることを明示するために標石を置く。
田中社神蹟26京都府京都市伏見区深草 稲荷山かつて、神を迎えて祭りを行なったとされる場で、伏見稲荷大社が定める正式なお塚。現在、神蹟であることを示す標石が設置されている。BCA古来の神蹟であることを明示するために標石を置く。
御膳谷神蹟26京都府京都市伏見区深草 稲荷山かつて、神を迎えて祭りを行なったとされる場で、伏見稲荷大社が定める正式なお塚。現在、神蹟であることを示す標石が設置されている。BCA古来の神蹟であることを明示するために標石を置く。
お塚26京都府京都市伏見区深草 稲荷山岩石に神名を刻み山中に立てることで、神と参拝者の交流場としたもので、幕末・明治以降に参拝者個々人が設けた。山中に約1万基存在。BAA山中に、神名を刻した岩石を置き、自分だけの神を迎える場とする。
冠石26京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町鳥羽上皇が鳥羽離宮を整備した時、この岩石の上に冠を置き、これを中心に設備を整えたという。EC
雷石26京都府京都市南区東九条札辻町 宇賀神社天から降ってきた岩石。あるいは、神から怒られた雷が、2度と雷を起こさないために石化したという岩石。BBB生き物が石化したもの雷を落とすなと神に怒られたので、石化する。
寛算石26京都府京都市南区西九条蔵王町筑紫国安楽寺の僧・寛算が、死後雷と化して京に禍をもたらした後、この地に落ちて石化したという岩石。後世、歯の治癒に霊験があり「歯神さま」としてまつられる。EA生き物が石化したもの神前に竹箸を供え、その箸で食事をすると歯の病に効果があり、お礼に代わりの竹箸を供える。
京都府BBB祟り伝承
京都府A
仙遊石26京都府京都市東山区 来迎院山仙人が降臨してここで遊んだという。数個の自然石からなり、その前に供物台を置いている。宮内庁陵墓管理地につき立入禁止という。C禁足地
恋占いの石/めくら石26京都府京都市東山区清水 地主神社同じ形状をした2つの岩石が距離を離して置かれている。目をつぶり、片方からもう片方までうまく辿り着いたら恋愛成就するという。岩石表面に銘板を埋め込んでいる。BBD岩石が改変されている目をつぶって、ある岩石から別の岩石へ歩いて占う。
子授け石26京都府京都市東山区 三島神社約150年前に地中から出てきた2つの岩石。陰陽の形状をしており、これを撫でた手でお腹をさすると安産という。BBDなでたりさすったり抱きついたりする岩石をなでた後に、自分の体をさする。
念仏石/鐘代わり石/カンカン石26京都府京都市東山区 青龍寺/伽羅観音本堂前に大小2つの岩石があり、天から降ってきた隕石という。勤行に際して鐘の替わりにこの石を叩いて念仏の調子をとったという。金属音が鳴る。諸願成就の霊石としての信仰もある。BE岩石に損傷を加える行為岩石を念仏の鐘代わりに叩く。
京都府BBD岩石から音声が聞こえる
縁切り・縁結び祈願石26京都府京都市東山区 安井金毘羅宮中央に亀裂が入り、下部に円形の穴を持つ岩石。縁結び・縁切りの願いを書いた形代を岩石に貼り付けて願掛けする。BBD岩穴・窟岩石に願い事を書いた形代を貼り付ける。
瓜生石26京都府京都市東山区林下町 知恩院知恩院が作られる以前から存在していたという岩石。一夜にして瓜生石に瓜のつるが繁り、実がなったという。これは祇園の牛頭天王が瓜生石の上にも降臨したからだとも、感神院新宮の神札が置かれていたのでその神威によるともいう。瓜生石の地中には、二条城への抜け道が隠されているという。BABAどこか遠い場所とつながっている岩石に一夜にして瓜の実がなる。それは岩石の上に牛頭天王が降りたとも、神札が置かれたともいう。9/14の丑の刻に、神列が瓜生石の周りを三回回る「れいけん」という祭祀が行なわれる。
京都府BABB岩石の周囲を回る
影向石26京都府京都市東山区林下町 知恩院勢至堂向かって右側の崖下の岩盤。法然が臨終を迎えた時、加茂明神がこの石の上に降臨したと伝えられる。BABA聖者が亡くなった場所
慈鎮石/慈鎮坐禅石/和尚石26京都府京都市東山区林下町 知恩院慈鎮(慈円)和尚の座禅石。元々は山門の前にあったが天和年間(1681~1684)に現在地へ移され、庭園の一角を彩る庭石となった。BCC原位置から移動伝承和尚の座禅石を庭石に転用する。
京都府C
京都府EC
二十五菩薩の庭26京都府京都市東山区林下町 知恩院知恩院所蔵「阿弥陀如来二十五菩薩来迎の図」をモチーフに作られた石庭で、石が仏菩薩、植え込みが来迎雲を表している。EC
三尊石26京都府京都市東山区林下町 知恩院方丈庭園の奥にある山亭庭園の北西隅に配された庭石。阿弥陀三尊を表現するという。EC
仏足石26京都府京都市東山区林下町 知恩院大理石の仏足石で、直立してある。C
修学院守禅庵遺跡/修学院磐座26京都府京都市左京区修学院守禅庵比叡山の登山口に存在する岩石。岩石の手前から359点の18世紀の土師器皿片を採集。一部には煤が付いていたという。現在、岩石手前には竹に紙垂が付けられた玉串が立てられている。火が絡む祭祀山裾の岩石の手前に、一部煤の付いた土師器皿を置く。
熊谷直実腰掛石26京都府京都市左京区大原勝林院町武士で法然の弟子となった熊谷直実が腰掛けた岩石。EC休み石・腰掛石
紫雲石26京都府京都市左京区黒谷町 黒谷金戒光明寺霊地を求めていた法然がこの岩石の上で念仏を唱えると、紫雲が広がり光が差し込んだことから、この地に寺を開基した。BCC
京都府C
白川子安観世音26京都府京都市左京区北白川鎌倉時代製作の巨大な石仏。白川女が商いを行なう時は、事前にここに花を供えるという。A女商人が商いを行なう前に石仏に花を供える。
弁慶背競石26京都府京都市左京区八瀬秋元町八瀬天満宮の石鳥居南側に立つ高さ2.4mの立石。弁慶が比叡山西塔より持ってきて、下山の度にこの岩石と背比べをしたという。EC原位置から移動伝承
菅公腰掛石26京都府京都市左京区八瀬秋元町 八瀬天満宮祭神である菅原道真が腰掛けた岩石。C休み石・腰掛石
義朝駒飛石26京都府京都市左京区八瀬源義朝が平治の乱に敗れ東国に敗走中、馬に乗ったまま飛び越えたという岩石。EC
真守鉄盤石26京都府京都市左京区大原野村町平安後期の刀工である大原真守が、この岩石と傍にある井泉を使って刀剣鍛冶を行なったという。EC
獅子飛石26京都府京都市左京区来迎院町 来迎院獅子がうずくまったような形状の岩石。聖応大師良忍が文殊の秘法を修していた時、この岩石が獅子となって飛び回ったという。C生き物が石化したもの
袈裟かけ石26京都府京都市左京区来迎院町 勝林院童子が阿闍梨の袈裟を洗濯し、それを乾かすためにこの岩石の上にかけた。BE聖者の装束を洗濯して、岩石の上で乾かす。
京都府EC
法然腰掛石26京都府京都市左京区来迎院町 勝林院法然が腰掛けて休んだ岩石。C
岩上神社26京都府京都市北区松ヶ崎町兵庫県明石の海中で霊光を発していた岩石。当地に持ってきて神社をまつったという。A岩石から煙・光・火・気などが出る
京都府原位置から移動伝承
京都府可動的性質
山住神社/岩倉/北岩倉/石座/石蔵26京都府京都市左京区岩倉西河原町 山住神社石座神社の旧社地で御旅所とされる山裾の露岩。桓武天皇が平安京の東西南北に一切経を埋納したという四岩倉の内の北岩倉と考えられている。BA
京都府BCD
京都府CA
翔雲台 経塚石材26京都府京都市左京区鞍馬本町 鞍馬山本殿金堂裏から発見された平安時代の経塚の蓋石。BCD原位置から移動伝承
京都府経塚関係
背比べ石26京都府京都市左京区鞍馬本町 鞍馬山遮那王尊(源義経)が頼朝に追われ奥州に逃れる時、若き日を過ごした鞍馬に名残を惜しみ、この石と自分の背丈を比べたという岩石。C
魔王殿 岩石群26京都府京都市左京区鞍馬本町 鞍馬山護法魔王尊が降臨した磐座とされる多数の石灰岩の露頭。BCA
京都府C
船形石26京都府京都市左京区鞍馬貴船町 貴船山玉依姫命が貴船川を上る時に乗っていた船を石積で覆って秘匿したもの。船形石の小石を持って帰れば交通安全の霊験がある。CC祭神の乗っていた船を石を積んで隠す。その石を持って帰れば霊験がある。
鏡岩26京都府京都市左京区鞍馬貴船町 貴船山貴船山の中腹にあり、貴船神社祭神のタカオカミノカミが降臨したという磐座。BA禁足地
京都府C秘匿されている岩石
つづみが岩26京都府京都市左京区鞍馬貴船町 貴船山鼓の形状に似ていることから名付けられた名石。EC
天の磐船26京都府京都市左京区鞍馬貴船町 貴船山近くの山奥から採出された船形の自然石を、神社の信奉者が奉献してこの名を付けた。BBC近くで採れた形の良い岩石を奉納する。
石庭「天津磐境」26京都府京都市左京区鞍馬貴船町 貴船山作庭家である重森三玲氏が作った石庭。EC
蛍岩26京都府京都市左京区鞍馬貴船町 貴船山和泉式部がこの場所で蛍を見て、和歌を詠んだという。EC
烏帽子岩26京都府京都市左京区鞍馬貴船町 貴船山大宮人が烏帽子を下ろして休息した岩石。参拝者がここで冷水を浴びて身を清めた場所ともいう。EC休み石・腰掛石
京都府BCB
弁慶石26京都府京都市中京区弁慶石町弁慶が生前大切にしていた岩石。弁慶の死後、奥州高館にあったが岩石が「三条京極に行きたい」と発声鳴動し、付近に熱病が蔓延したため、享徳3年(1454年)、この石を三条京極に安置した。EC原位置から移動伝承偉人が大切にしていた岩石が祟りをなすので、希望通り場所を移す。
京都府EA祟り伝承
京都府岩石から音声が聞こえる
京都府岩石が動く
猿田彦大神御神石/御石さん26京都府京都市上京区大倭国最初御降臨旧跡地とされる岩石。霊験のある岩石だが触れると祟りがあるという。平安京の鬼門を鎮める塞神の性格も有すると考えられる。BAA
京都府BBB
京都府CC
岩神さん/禿童石26京都府京都市上京区大黒町菅原道真の死後、道真の乳母がこの岩石を抱いて泣いたといい、その度に落雷が起こったという。元々は二条城の南辺りにあり、別の場所に移したところ岩石が吠えたり子供に化けたりしたので、仏僧が現在地に移して岩神寺の本尊としてまつった。現在は授乳の神として信仰される。EA祟り伝承祟りのある岩石を仏僧がまつる。落雷を落とす→子供に化ける→授乳の神と変遷する。
京都府A岩石から音声が聞こえる
京都府原位置から移動伝承
京都府可動的性質
登天石26京都府京都市上京区扇町 水火天満宮菅原道真の祟りで雷雨・氾濫が起こった時、法性坊尊意僧正が数珠(神剣)をかざすと、氾濫した川水が下がりその中から、岩石の上に立つ道真が現れた。雷雨が止み、道真は昇天していった。岩石は尊意によって供養をされた後、現在地に安置された。BABA原位置から移動伝承岩石の上に霊が立ち、そして昇天する。
京都府C
出世石26京都府京都市上京区扇町 水火天満宮出世した人が寄進した岩石。BBC
玉子石26京都府京都市上京区扇町 水火天満宮妊娠5ヶ月目に拝むと安産になるという岩石。BBD
蛇の枕/雨石26京都府京都市北区上賀茂本山 大田神社蛇が枕としていたという岩石。農具などでこの岩石を叩くと蛇が怒って雨を降らせるという。BBD信仰対象の荒ぶりを恩恵に変える祭祀農具などで岩石を叩くと雨が降る。
岩上26京都府京都市北区上賀茂本山 賀茂別雷神社葵祭の時、宮司がこの岩の上に座して、賀茂神が宮司の体を通して返祝詞(神の意思)を発する。BABB祭祀執行者であり信仰対象岩石に司祭者が座ると、神が司祭者に憑依して託宣をする。
京都府BCC
岩本社26京都府京都市北区上賀茂本山 賀茂別雷神社川辺の露岩の上に祠を建て、祓えの神であると同時に海上安全守護の神である住吉三神をまつる。BABC
京都府BCB
八嶋龍神26京都府京都市北区上賀茂本山 賀茂別雷神社祠内に高さ50cm強の岩石が注連縄をかけられている。A磐座と石神の性格が混在している事例
京都府BA
立砂26京都府京都市北区上賀茂本山 賀茂別雷神社細殿前にある2体の三角錐の砂山。神山を模したもので、元は神の憑依する依り代として造られたものだったが、これは清めの結界として機能している。この砂を持ち帰れば清めの砂として利用される。BCA砂
京都府BBB可動的性質
御阿礼神事の盛り砂26京都府京都市北区上賀茂本山 賀茂別雷神社砂を盛り、その上に依り代である阿礼木を立てる。砂は依り代の座としての役割を担っている。BABB砂砂で依り代を造る。
降臨石26京都府京都市北区上賀茂神山 神山禁足地の神山の山頂にあり、賀茂別雷神が降臨したといわれる岩石。BA禁足地
京都府CA秘匿されている岩石
貴布禰26京都府京都市北区上賀茂神山 貴船神社京名石と銘打たれている岩石。詳細は調査不足につき不明。
立砂26京都府京都市北区上賀茂神山 貴船神社清めの結界として盛られた砂山。BCA砂
女夫岩26京都府北区上賀茂女夫岩町昔、鴨川が氾濫を起こした後に現れた2つの岩石。外見が伊勢の夫婦岩に似ていることから名付けられたという。当初は注連縄をして信仰対象にしていたが、今はまつられておらず小学校の校庭内で子供達の遊び場となっている。柊野ダムにある岩石と女夫岩は、地中で1つの岩としてつながっているという。A岩石が地下で広範囲に根を張っている伝承
京都府EC
霊巌26京都府北区西賀茂 船山 霊巌寺寺の門前にあったという巨岩。人が通れるほどの穴を下部に持ち、信仰対象だったという。天皇が行幸する時に邪魔だと思った寺の別当が岩を破壊したが、結局行幸はなく寺も衰滅したという。A今は存在しない岩石岩石を破壊したら廃寺となった。
神降窟/降神岩/香水窟26京都府京都市北区雲ヶ畑 岩屋山志明院延喜式内の天津石門別稚姫神社がまつられていたとされる岩窟。菅原道真が製作したという眼力不動をまつる。岩窟内からは鴨川の水源となる水が湧き出て、これは難病を治す香水と称して神聖視されている。C岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
京都府BAC
護摩洞窟26京都府京都市北区雲ヶ畑 岩屋山志明院弘法大師が護摩を焚いたという岩窟。BCE
船岡山 岩石群26京都府京都市北区紫野北舟岡町 船岡山平安宮の北を守護する玄武の磐座と目される山頂の露岩。それを証明する明確な記録はない。周辺から歴史時代の土師器片が散布。
大平和敬神 神石26京都府京都市北区紫野北舟岡町 船岡山大本教関係の修養団捧誠会という団体が昭和45年に立てた石碑。世界平和の神の神石とされる。A近代以降の命名
力石26京都府京都市北区紫野 今宮神社力比べで持ち上げられた岩石。BBD力石
京都府BBC可動的性質
阿呆賢さん/神占石/重軽石26京都府京都市北区紫野 今宮神社この石を手でなでて、自分の体の悪い部分をさすれば、その悪い部分が治癒されるという。また、この石を3回叩いて持ち上げると重くなり、祈願して優しく石を3度さすって石が軽くなったら成就という。BBD岩石を持ち上げられるか、軽くなるか重くなるか石をなでて自分をさすると病気が治る。石を持ち上げて予想より軽くなったら祈願成就。
京都府可動的性質
京都府なでたりさすったり抱きついたりする
鏡石26京都府京都市北区衣笠鏡石町『鹿苑日録』の中で、天文5年(1536年)に鏡石が出現し、貴賎男女が競って参詣したといい、これに該当するとされる岩石。これを鏡にして女性が髪をといたとか、街道を通る牛が、鏡石に映った自分の姿に驚いて角で突いたとか、源義経が自分の姿を映したとか、紀貫之がこれをモチーフに和歌を詠んだという。昭和30年代に道路工事が行われた際に大部分が取り壊された。A岩石が改変されている
京都府EC突如出現した岩石
京都府鏡面を持つ岩石
衣笠山遺跡26京都府京都市北区衣笠衣笠山町山頂に岩盤が露出しており、平安時代の土器片が採集された遺物散布地。相関性は不明。
力石大神/力石大明神26京都府京都市北区等持院町 六請神社祈願した後に持ち上げることができれば成就という岩石。現在は持ち上げられることなく、祈願対象となっている。BBD岩石を持ち上げられるか、軽くなるか重くなるか持ち上げられたら祈願成就の霊石。
京都府A力石
京都府可動的性質
六請神社の小石奉納26京都府京都市北区等持院町 六請神社力石大神は重いため、現在は小石に性別・年齢・祈願内容を記して神前に奉納しても成就するという。BBC可動的性質石に祈願内容を書いて神に奉納する。
京都府BBA
京都府BBD
神輿岩26京都府京都市北区小野中ノ町船形の平石で、かつてここに岩戸社が鎮座していたという。
岩戸社・落葉社 岩壁26京都府京都市北区小野中ノ町社殿の背後に大きな岩壁が存在するが、神聖視の有無は不明。
双ヶ岡 岩石群26京都府京都市右京区 双ヶ岡南側の峰の山腹に露出する岩盤群。古墳が近接
足跡石26京都府京都市右京区山ノ内宮脇町 山王神社親鸞の足跡が残る岩石。C休み石・腰掛石
座石26京都府京都市右京区山ノ内宮脇町 山王神社親鸞が座った岩石。C休み石・腰掛石
男岩(夫婦岩)26京都府京都市右京区山ノ内宮脇町 山王神社女岩とセット関係。夫婦和合・子宝安産の霊験を有する岩石。夫婦岩をなでて子宝を祈願し、夫婦岩の周囲を3度左回りして安産を祈願する。初宮詣の際は梅干を供えた後に幼児の鼻を梅干の皮でつまむ。元来は本殿付近にあったものを移設したという。Aなでたりさすったり抱きついたりする岩石をなでて、周囲を3度回る。梅干を供えて幼児の鼻をつまむ。
京都府BBD岩石の周囲を回る
京都府原位置から移動伝承
女岩(夫婦岩)26京都府京都市右京区山ノ内宮脇町 山王神社男岩とセット関係。夫婦和合・子宝安産の霊験を有する岩石。夫婦岩をなでて子宝を祈願し、夫婦岩の周囲を3度左回りして安産を祈願する。初宮詣の際は梅干を供えた後に幼児の鼻を梅干の皮でつまむ。梅干の種は女岩の中央の窪みに供えて子孫繁栄を祈願する。元来は本殿付近にあったものを移設したという。Aなでたりさすったり抱きついたりする岩石をなでて、周囲を3度回る。梅干を供えて幼児の鼻をつまむ。梅干の種を女岩の窪みに供える。
京都府BBD岩石の周囲を回る
京都府原位置から移動伝承
京都府置銭・投銭祭祀
京都府岩穴・窟
大酒神社 岩石祭祀事例26京都府京都市右京区太秦蜂岡町 大酒神社大酒神社が元来まつっていたという岩石。現存含め詳細不明。今現在確認がとれていない岩石
祈念神石26京都府京都市右京区嵯峨朝日町 車折神社境内の石を家に持ち帰り日夜祈願し続けると祈願成就。成就の際はお礼の言葉を書いた石をもう1個添えて社頭に供え、その集積が石塚となり神威を示す場所となる。BBD可動的性質岩石を家に持ち帰って祈りの道具にする。石に文字を書く。奉納物の集積が石塚となる。
京都府BBC岩石が満ち欠け・増減・出産する
京都府BBA
京都府CA
またげ石26京都府京都市右京区梅津フケノ川町 梅宮大社境内の2個の岩石。嵯峨天皇妃の檀林皇后がこの岩石をまたいだところ子を授かったことから、同様のまたぎを行なうと子授け利益があるという。BBD岩石をまたいで子宝祈願。
京都府CC
産砂26京都府京都市右京区梅津フケノ川町 梅宮大社檀林皇后が出産の際に敷いたとされる神社の白砂。安産のお守りとして授けられる。BCA砂砂を敷いて安産する。
京都府CC可動的性質
影向石/熊野影向石/三石26京都府京都市右京区梅津フケノ川町 梅宮大社熊野から飛来してきた3羽の鳥が石化したという岩石。C生き物が石化したもの
猿田彦大神27京都府京都市右京区梅津フケノ川町 梅宮大社猿田彦大神の石神A
宇壽女命28京都府京都市右京区梅津フケノ川町 梅宮大社宇壽女命の石神A
源雅信墓26京都府京都市右京区御室 成就山宇多源氏の始祖である源雅信の墓とされる自然岩。BCA聖者が亡くなった場所自然石を墓標とする。
梅ヶ畑銅鐸出土地26京都府京都市右京区梅ヶ畑町山腹の「巨巌」裾の地表下から、弥生時代の銅鐸4点が入れ子になって2組状態で埋納されている状態で見つかった。御堂ヶ池群集墳が近接。「巨巌」は都市開発で消滅。古墳が近接巨岩の裾に銅鐸を入れ子にして埋納する。
京都府今は存在しない岩石
梅ヶ畑遺跡 岩塊26京都府京都市右京区梅ヶ畑町丘陵頂部に高さ1.5mの岩塊があり、その南に敷石平坦部が作られ、周囲から8世紀中葉~9世紀後葉の土器群、仏画線刻石製品1点が出土。敷石遺構は修験道の護摩壇と推測され、岩塊を祭祀対象にした平安京守護のための祭祀遺跡と考えられている。御堂ヶ池群集墳が近接。A古墳が近接山頂の自然の岩塊の前で石敷きの護摩壇を設けて都城守護の祭祀を行なう。
京都府BA磐座と石神の性格が混在している事例
梅ヶ畑遺跡 敷石遺構26京都府京都市右京区梅ヶ畑町丘陵頂部に高さ1.5mの岩塊があり、その南に敷石平坦部が作られ、周囲から8世紀中葉~9世紀後葉の土器群、仏画線刻石製品1点が出土。敷石遺構は修験道の護摩壇と推測され、岩塊を祭祀対象にした平安京守護のための祭祀遺跡と考えられている。御堂ヶ池群集墳が近接。BCD古墳が近接山頂の自然の岩塊の前で石敷きの護摩壇を設けて都城守護の祭祀を行なう。
さざれ石26京都府京都市右京区音戸山町 さざれ石山嵯峨天皇が好んで鑑賞したというさざれ石。EC
石椅子26京都府京都市右京区広沢町 児神社寛朝大僧正が広沢池のほとりで座禅をしていた時、傍らにいた子供(児神社祭神)が腰掛けていたという岩石。寿命・安産・縁結びに霊験があるという。CC休み石・腰掛石
児神社 岩石祭祀事例26京都府京都市右京区広沢町 児神社玉垣に囲われ、七福神が供えられている岩石。
広沢古墳 横穴式石室26京都府京都市右京区広沢町古墳時代の土器のほか、平安時代以降の素焼き土器や古銭などが見つかった。古墳石室を聖域空間として後世再利用したことが分かる。BCA遺物・遺構の再利用古墳の石室を中世の祭祀空間に再利用する。
広沢古墳 人面石/石神26京都府京都市右京区広沢町石室の横に建てられた木祠にまつられた石像。人面が彫られており、石室石材の転用ともいわれるが詳細沿革不明。A遺物・遺構の再利用
座禅石26京都府京都市右京区広沢町 遍照寺山寛朝大僧正がいつも座禅していた山腹の巨石。BCC
京都府C
児ヶ石26京都府京都市右京区広沢町 遍照寺山座禅石の下にある岩石。寛朝大僧正が座禅をしている傍ら、子供が枕にして眠っていたという岩石。C休み石・腰掛石
額立石26京都府京都市右京区高雄 神護寺弘法大師が「金剛峰寺」の額字を書いた時、額を立て掛けた岩石。C
硯石26京都府京都市右京区高雄 神護寺弘法大師が「金剛峰寺」の額字を書いた時、硯に使った岩石。C
神石/亀石26京都府京都市右京区 野宮神社祈りを込めてさすれば願いが叶うという岩石。なでられたからか表面は磨耗して光沢面を持つ。BBDなでたりさすったり抱きついたりする
鏡石26京都府京都市西京区嵐山 檪谷宗像神社1244年、山崩れで崩壊してしまったという鏡石。今は存在しない岩石
座禅石26京都府京都市西京区嵐山夢窓疎石がいつもこの上で座禅をしていたという岩石。嵐山山頂付近にあったのが、今は中腹の大悲閣にあるという。BCC原位置から移動伝承
京都府C
磐座/ご神跡/ご鎮座場26京都府京都市西京区嵐山 松尾山山頂直下の急斜面上に露出する巨大な岩盤で、手前には人為的な集石が存在。山腹に松尾大社が建てられるまで祭祀が行なわれていたという場所。付近には松尾山群集墳が存在。かつて禁足地だったが現在は許可制で登拝可能。BA禁足地
京都府CA古墳が近接 November 11, 2025
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釣り好きな二人がディープな
世界をご案内致します
#iosfactory November 11, 2025
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