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五百羅漢
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2025.11.17〜(47週)
:0% :0% (40代/男性)
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
米崎町・普門寺の五百羅漢は平成25年から5年間に渡り、東倭国大震災遺族らの手で彫られた。姿かたち、表情、大きさ…すべてが一つずつ異なる。犠牲となった人、愛犬・愛猫の姿に似せたものも多い。石との〝語らい〟の時間が、制作者の心を癒やしてきたのであろうことがしのばれる
#たかたものがたり https://t.co/98xaSasWXw November 11, 2025
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新発売のバスツアーのご案内「仏像大好き芸人 #みほとけ と行く方広寺と摩訶耶寺金剛力士像」
お寺・#仏像 研究家で各地の仏像を巡ったピン芸人みほとけと、浜名湖北岸の名刹摩訶耶寺の非公開秘仏に迫る!五百羅漢の方広寺やうな重に舌鼓♪
こちら→ https://t.co/aAHHmRPR7l
#天浜線 #秘仏 #御開帳 https://t.co/IHzhP36Goa November 11, 2025
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天寧寺(曹洞宗 彦根市)
彦根藩主・井伊直中による創建🙏直中の懺悔として作られた五百羅漢をお祀りしています。
お寺の方から「羅漢様には愚痴を言っても大丈夫よ」とおっしゃって頂いたので、少しお伝えしたらスッキリしました😊知人に似た像もちらほら…表情が良い😆
達筆な御朱印です🙏 https://t.co/gEk2HzT3d8 November 11, 2025
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今日はカブツーリングで、瀬戸田の千姫らーめん食べて、因島の五百羅漢を見て、倭国一たい焼きを食べて帰って来た🛵💨💨 https://t.co/K1VZXh5fly November 11, 2025
2RP
上掲迄のスレッドに概略地図を添付済みだが、隠蔽されてきた倭国各地の全ての鉱山の坑道の中!!更にその地下世界の奥の奥まで丸ごと!!!焼いて焼いて焼き滅ぼしまくれや!!!!
https://t.co/Icmhntl3qm
山口大学工学部の学術資料展示館ホームページ
さとっぴ軍全軍は今すぐ、全宇宙全次元全フラットアースの皆様に対しても、短くとも、今から2025年12月2日火曜日の倭国時間午前6時頃(アメリカ東部時間の12月1日の午前10時の超巨大債務支払い期限時刻?あたりまで闘いが続くと予想し、30時間ほど延長いたしました。)までは、超悪魔勢力どもの本拠(銀河連合の総本部、シリウス、オリオングレーネブー帝国、アルクトゥルス星、アンドロメダ銀河、「プレアデス星団のAYAイカイ長老側勢力」と、これらを支援する外部勢力群)を、今すぐ強く牽制してもらい、更にガイアフラットアースのさとっぴ軍へ大援軍を急派してもらうよう、緊急要請せよ!!!!!
さとっぴ軍全軍は今すぐ、全世界の地下世界の全て!!!!を3日間連続で!!!!!奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!!!!!!!(特に、火山の山頂!!!火口!!!主要な構造線!!活断層!!過去の強制大地震の震源地!!!が危険でしょう)
倭国の主要活断層帯は、下記リンクを参照せよ。
https://t.co/1sFWRbdCU5
全世界の地下世界の全てを焼き滅ぼし、大掃除を実行し、奥の奥まで完全制覇征服支配せよ!!!!!
全ての危険因子(ポータルや加速器や核爆弾やHAARPなどなど)を高速捜査調査特定し、見つけ次第に全て即時破壊殲滅聖絶消去せよ!!!
更に、さとっぴ軍全軍は今すぐ、全世界の地上!!!!の超悪魔勢力どもを、今すぐ問答無用で徹底的に即時殲滅焼却聖絶消去せよ!!!!!!!!!!
特に、倭国国内の超悪魔勢力どもについては、念入りに!!!!
※※※※※※
今のうちに、さとっぴ軍全軍は今すぐ手分けして、倭国全国に在る2991箇所!!!!下記の磐座群の情報から正確な磐座・巨岩・奇岩・神石・磐境の所在地を高速調査特定せよ(既に全地点の位置を特定済みであろう)!!!!!!
私は既に何度も同じ命令をしてきたので、さとっぴ軍現地部隊は既に全て漏れなく位置特定済みであろう!!)
最下部に追加した「要石」「鎮石」も同様に所在地を高速調査特定済みであろう!!!
他にも「要石」「鎮石」「力石」「結界の起点となっている特殊な石」が倭国全国に多数在るはずですから、さとっぴ軍全軍の方でも各部隊が独自に徹底的に調査捜索して位置特定せよ!!!!
それら全地点へ、攻撃大部隊を急派し包囲し、その要石や鎮石や力石等々そのもの!!!!と、下記全地点と、その周辺の地下深く!!!!を、問答無用で総攻撃し、奥の奥まで徹底的に焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!!!!!
トドメも念入りにヤレ!!!!!
本日の倭国時間の午前6時11分11秒頃か、午前6時17分48秒頃(今回最も危険!!!今から12分後です!!)か、午前6時30分頃か、午前6時32分23秒頃が、次の超危険時刻であろうから、その前に今すぐ!!!!!下記全部2991箇所を必ず総攻撃して完全破壊し、即時殲滅消去せよ!!!!!
更に、その全地点の地下世界を、問答無用で徹底的に奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!!トドメも念入りにヤレ!!!!!
急げ!!!!
名称"都道府県
コード"都道府県市区町村岩石の役割類型傾向儀礼行為
恐山の積石2青森県むつ市 恐山菩提寺故人の供養のために積まれる石。BBB可動的性質石を積んで供養。
地獄めぐり2青森県むつ市 恐山菩提寺死者の魂が眠る空間。BCA
みたま石2青森県むつ市 恐山菩提寺
大王石2青森県むつ市 恐山菩提寺
坐禅石2青森県むつ市 恐山菩提寺慈覚大師がこの上で座禅をした岩石。BCE岩石の上で座禅。
青森県BCC
青森県C
極楽浜/賽の河原2青森県むつ市 恐山菩提寺死者の魂が眠る空間。ここの浜石や砂を持ち帰ると亡者の祟りに遭うという。BCA祟り伝承
青森県砂
オコリ石2青森県東津軽郡平内町 土屋海岸石頭に注連縄を巻くとオコリ病(高熱・腹痛病)を治してくれるという海岸上の岩石。船が難破すると岩石上に灯火が現れ道標となってくれる。BBD岩石から煙・光・火・気などが出るオコリ石の頭に藁の鉢巻をかけるとオコリ病が治る。
青森県A
石神様2青森県青森市入内 石神神社江戸時代、窪みに溜まった水で目を洗えば眼病が治るといわれ、信仰の対象となった。石工がこれを割ろうとしたところ手が痺れたためあきらめたという。A眼病に効く
青森県岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
青森県祟り伝承
石の塔薬師2青森県南津軽郡大鰐町久須志神社の神体で、薬師観音そのもの。苔から滴る水が眼病に効くという。A眼病に効く
青森県岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
ジジババ岩3岩手県北上市立花老夫婦が石化したもの。EC生き物が石化したもの
三ツ石様/鬼の手形石3岩手県盛岡市名須川町 三ツ石神社村人を困らせた鬼を自らの岩石に縛りつけ、今後悪事はしないよう約束の手形を岩石に押させた石神。A悪者を懲らしめる
岩手県BBB岩石表面に印・痕・模様が残る
石割桜3岩手県盛岡市巨岩の割れ目から成長した桜。EC岩石割れ目から樹木、またはその逆
烏帽子岩3岩手県盛岡市 盛岡城盛岡城築城の際に出現した巨岩で、盛岡藩の守り神としてまつった。A築城や城の石垣利用と関係のある伝承
岩手県BBB
肌石3岩手県花巻市東和町 丹内山神社雪が降っても積もらない石。EB熱を持つ岩石
胎内石/アラハバキ大神の巨石3岩手県花巻市東和町 丹内山神社岩の割れ目を通ると所願成就、触れても合格祈願などに霊験あり。A割れ目の間を通って善悪・祈願判定割れ目の間を通る。
岩手県BA胎内くぐり
岩手県BBD磐座と石神の性格が混在している事例
続石3岩手県遠野市弁慶が積み重ねたという巨石構造物。EC
泣石3岩手県遠野市弁慶がこの石の上に巨石を置こうとしたら泣き喚いた。EB岩石から音声が聞こえる
岩手県
姥石3岩手県遠野市女人禁制の山に入ろうとした姥が石化。BCA生き物が石化したもの
岩手県
牛石3岩手県遠野市姥の乗っていた牛も一緒に石化。BCA生き物が石化したもの
岩手県
達谷窟毘沙門堂3岩手県西磐井郡平泉町敵であるエミシの首長らの住処だった岩窟で、そこを覆うように仏堂を建立。C悪者が住んでいた・いる場所
岩手県BCA岩穴・窟
岩面大仏3岩手県西磐井郡平泉町大日如来あるいは阿弥陀如来の磨崖仏。A
鬘石3岩手県西磐井郡平泉町"悪役であるエミシが連れ去った姫の髪の毛を切って
見せしめに置いた岩石。"EC
巨巌(おおいわ)4宮城県登米市中田町石森 石大神社倭国武尊が、自分の身に着けていた玉を納めたものといわれる岩石。年々大きくなって今のような規模になった。BBC岩石が満ち欠け・増減・出産する
C
石母田石4宮城県伊達郡国見町石母田石母田氏が城を去る際、城内にあったこの岩石を記念に持ち帰ろうとしたところ泣き続けたため、元の場所に戻したという。EB岩石から音声が聞こえる
神行堂山の巨石4宮城県本吉郡南三陸町岩の亀裂を通ることで善悪判断や成人の通過儀礼とした岩石。BBD割れ目の間を通って善悪・祈願判定亀裂の間を通る。
宮城県胎内くぐり
神石白石/しろ石4宮城県白石市白石の地名由来となった岩石。依代とも神石ともいう。根白石と地中でつながっているという。A岩石が地下で広範囲に根を張っている伝承
宮城県BA磐座と石神の性格が混在している事例
根白石4宮城県仙台市白鹿と誤って射られた岩石。後世に洪水で流されてしまい、それを惜しんだ村人によって新たに石神をまつったのが現存する根白石。上の神石白石と地中でつながっているという。A岩石が地下で広範囲に根を張っている伝承
宮城県BA原位置から移動伝承
宮城県今は存在しない岩石
宮城県磐座と石神の性格が混在している事例
笠石4宮城県柴田郡川崎町支倉
弥三郎石4宮城県柴田郡川崎町支倉
碁盤石4宮城県柴田郡川崎町支倉
疣石4宮城県柴田郡川崎町支倉
双つ石4宮城県柴田郡川崎町支倉
鮭石4宮城県柴田郡川崎町支倉
石神山精神社/石神大明神4宮城県黒川郡大和町吉田字麓神社の起源に当たる石神。A
亀石4宮城県黒川郡富谷町大亀 鹿島天足別神社亀に似た形状を持つ岩石。ここから大亀の地名や岩下明神・大亀明神の神社名が生まれた。注連縄を張られているが具体的な霊験や伝承などは不明。
布引石4宮城県黒川郡富谷町大亀
塁石4宮城県黒川郡富谷町大亀
口石4宮城県黒川郡富谷町大亀
箪笥石4宮城県黒川郡富谷町大亀
たいまい石4宮城県黒川郡富谷町大亀
穀田の建石4宮城県黒川郡富谷町穀田岩石から米や水が湧き出た。EB岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
瑞巌寺 岩窟4宮城県宮城郡松島町修法の場。仏を刻んだ場所。内部に入れない窟もある。BCE岩穴・窟岩石に仏を刻み徳を積む修行。
宮城県A
宮城県BCA
鬼の隠れ里5秋田県男鹿市鬼の住処。EA悪者が住んでいた・いる場所
秋田県どこか遠い場所とつながっている
硯石5秋田県男鹿市弘法大師が水を湧き出させた石。C岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
秋田県岩石に溜まった水が枯れない
畳石5秋田県男鹿市
大湯環状列石5秋田県鹿角市縄文時代の環状列石遺構。地中から生物の脂肪酸が検出され埋葬施設と推測される。埋葬部の地表に環状列石を構築する。
三尊石5秋田県鹿角市小豆沢 大日霎貴神社/大日堂三尊。なでて祈願するとご利益のある岩石。Aなでたりさすったり抱きついたりする白布で三回なでて祈願し、白布を身につける。
秋田県BBD
鏡石5秋田県仙北市西木町 高鉢山辰子がここで自分の顔を映し身なりを整え、その先の泉水を飲み竜神と化したという。BCBここで自らを整える・清める
秋田県鏡面を持つ岩石
かなえる岩5秋田県仙北市西木町 高鉢山鏡石に行った後、願橋からこの岩石を拝礼すると願いが叶うという。BA鏡石に行った後、願橋からかなえる石を拝礼すると祈願成就。
秋田県BBA
御座石5秋田県仙北市西木町 御座石神社佐竹藩主義隆が腰を下ろして休んだ岩石。C休み石・腰掛石
秋田県
雨乞石5秋田県仙北市西木町 御座石神社潮神をまつった岩石。この岩石を動かすと潮が荒れ、荒天になるという。A祟り伝承岩石を動かして雨を降らす。
秋田県BBD
ビッキ石/かえる石5秋田県仙北市西木町 御座石神社
姉子石6山形県新庄市泉田塩野これを持ち上げたら想い人に好かれると信じられた岩石。BBD岩石を持ち上げられるか、軽くなるか重くなるか
天拝石6山形県東田川郡羽黒町 羽黒山
湯殿山神社6山形県東田川郡朝日町 湯殿山湯殿山神社の神体。A禁忌が厳しい
山形県熱を持つ岩石
山形県岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
猫石6山形県東田川郡朝日町言葉を話す猫が石化した石。EC生き物が石化したもの
亀の甲石6山形県山形市 立石寺 日枝神社石の上に小銭を置けば延命・長寿。BCD置銭・投銭祭祀小銭に名前を書いて、それを石の上に置く。
対面石6山形県山形市 立石寺立石寺開山の契機となった場所。岩に手を当てれば吉事がある岩石。BBD岩に左手を当てると吉事が起こる。
姫岩6山形県山形市 立石寺
蛙岩6山形県山形市 立石寺
神楽岩6山形県山形市 立石寺
笠岩/笠投岩6山形県山形市 立石寺慈覚大師が雨宿りした石。C
御休石6山形県山形市 立石寺慈覚大師が休んだ石。C休み石・腰掛石
弥陀洞6山形県山形市 立石寺浸食を阿弥陀仏に見立てて信仰した岩肌。A
胎内くぐり6山形県山形市 立石寺中を通ることで生まれ変わる岩穴。BBD胎内くぐり胎内くぐり。
六地蔵6山形県山形市 立石寺六地蔵をまつる岩窟。A岩穴・窟
山形県BAC
山形県BCD
地獄谷/行者戻6山形県山形市 立石寺修行場。BCE登攀修行。
釈迦が峯6山形県山形市 立石寺修行場。BCE登攀修行。
宝珠岩6山形県山形市 立石寺
入定窟6山形県山形市 立石寺慈覚大師が入定した岩窟。BCD聖者が亡くなった場所窟の中へ入定して成仏。
山形県BAC岩穴・窟
百丈岩6山形県山形市 立石寺岩壁の修行場。BCE
磐司祠6山形県山形市 立石寺地主権現磐司の祠を納める岩窟。BCD岩穴・窟
山形県BAC
天狗岩/天華岩6山形県山形市 立石寺
香の岩6山形県山形市 立石寺慈覚大師がこの岩の前で香を焚いた。C岩の前で香を焚き、山の霊を供養する。
お手掛け岩6山形県山形市 立石寺
竜吻石6山形県山形市 立石寺
夜泣き石6山形県山形市霊石町若娘の供養のために置いた岩石。若娘の夜泣き声が聞こえる岩石。子供の夜泣きを止めたため、霊石として信仰対象に昇華。BBB原位置から移動伝承死者の供養に岩石を置く。
山形県A岩石から音声が聞こえる
大石6山形県長井市上伊佐沢 大石洞雲寺地名の由来となった境内の大石。神聖視や祭祀を伝える資料はない。EC
鍛冶小屋岩7福島県伊達市霊山町 霊山
見下し岩7福島県伊達市霊山町 霊山
宝寿台7福島県伊達市霊山町 霊山
日暮岩7福島県伊達市霊山町 霊山
弁天岩7福島県伊達市霊山町 霊山
雲切岩7福島県伊達市霊山町 霊山
大山祇神社 岩陰7福島県伊達市霊山町 霊山
弘法の突貫岩7福島県伊達市霊山町 霊山
五百羅漢岩7福島県伊達市霊山町 霊山
蟻の戸渡り7福島県伊達市霊山町 霊山
天の釣舟7福島県伊達市霊山町 霊山
学問岩7福島県伊達市霊山町 霊山
東物見岩7福島県伊達市霊山町 霊山
天狗岩7福島県伊達市霊山町 霊山
鷲岩7福島県伊達市霊山町 霊山
護摩壇7福島県伊達市霊山町 霊山
親不知・子不知7福島県伊達市霊山町 霊山
天狗の相撲場7福島県伊達市霊山町 霊山
甲岩7福島県伊達市霊山町 霊山
船石7福島県福島市飯野町舟の形状をした岩石。EC
大石7福島県福島市飯野町名の通り大きな岩石。EC
モアイ岩7福島県福島市飯野町モアイのような顔に見える岩石。EC近代以降の命名
牛石7福島県二本松市本町谷霞ヶ城築城の際、生贄として埋めた2頭の神牛が石化したという岩石。これのおかげで霞ヶ城は落城しないと信じられた。現在は岩石の表面に歌碑の銘板が埋め込まれている。BBB生き物が石化したもの
福島県BD築城や城の石垣利用と関係のある伝承
福島県岩石が改変されている
要石/鉾衝神社遺跡7福島県岩瀬郡長沼町鉾衝字亀居山要石は磐座といわれるが詳細な由来不明。要石の近くから古墳時代の祭祀遺物が出土している。
建鉾石7福島県白河市表郷高木字高野峯山倭国武尊が鉾を立て戦勝を祈願したという岩石。BCD岩石の上に鉾を立てて戦勝を祈願。
福島県C
巨岩7福島県白河市表郷高木字高野峯山山頂から山腹に広がる一大巨岩。裾部に岩穴を有する。「大澤権現」と刻された石碑が手前に建つ。ここで遺物出土はなく、下方の御宝前より遺物出土。手前で祭祀が行なわれていないため、人の立ち入れない聖域に佇む石神そのものか。A禁足地
福島県岩穴・窟
御宝前/建鉾山遺跡7福島県白河市表郷高木字高野峯山江戸時代は禁足地。古墳時代の遺物が集中して出土。傾斜変換点にあり、これより奥では遺物なし。人が立ち入れる限界で祭祀が行なわれた場所か。BCA禁足地平野部の神社から御宝前まで御神幸を行なっていた。
殺生石/法石稲荷尊天7福島県白河市中寺九尾が飛び散った石片の1つ。源翁禅師により仏心を得て、法石稲荷尊天に転化した。A生き物が石化したもの
福島県岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
岩窟弁天7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺慈覚大師がこの中で本尊の毘沙門天像を刻した岩窟。弁天をまつる岩窟。BCE岩穴・窟岩窟の中で本尊を彫刻する。
福島県BAC
岩角7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺寺宝。岩角山の名の起源という。BCA岩石を宝物とする
懐胎石/抱きつき石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺抱きつき子宝安産の祈願をする岩石。BBDなでたりさすったり抱きついたりする石に抱きつくことで子宝安産祈願となる。
那智観音堂岩石群7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺
奥ノ院岩石群7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺キリーク・ベイの梵字を刻んだ岩石を奥ノ院背後に有する。
鬼面石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺鬼の顔の外見を持つ岩石。EC
体内/胎内くぐり7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺願かけ通路で、縁結びにご利益あり。BBD胎内くぐり内部をくぐることで縁結び。
丹羽公遥拝石/展望台7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺二本松藩主の丹羽光重にまつわる岩石。EC
薬師堂岩石群7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺薬師堂背後にベイの梵字を刻んだ岩石あり。
地獄道7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺
坐禅石/たたみ石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺明治初期まで、この岩石の上で瞑想や坐禅などの修行をしていたという。BCC岩石の上で座禅・瞑想などの修行。
福島県BCE
天狗腰掛石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺天狗の腰掛石。C休み石・腰掛石
天ノ岩戸/祈りの窟7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺中に籠って祈願を行なう岩窟。BCE岩穴・窟
福島県
腰掛石/和労休息石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺休み石・腰掛石
四寸途7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺
男胎内(胎内くぐり)7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺胎内くぐり。BCE
女胎内(胎内くぐり)7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺胎内くぐり。BCE
舟石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺雨乞い祈願霊石。
賽河原7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺
三山/三山祠跡7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺
座禅石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺座禅修行の岩石。BCE
福島県BCC
抱き込み杉7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺杉の根に、仏刻を施した卵形石を食い込ませる。岩石割れ目から樹木、またはその逆
蛇舐石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺地頭の暴政で命を落とした人々が白蛇となり、蛇に舐められボロボロになった岩石。EC岩石表面に印・痕・模様が残る
怪石8茨城県東茨城郡大洗町 大洗磯前神社ある日海上に出現した2体の翁の形をした岩石で大己貴命・少彦名命という。および、それに付き従うように集まった20体余りの小石があり、彩色がされ沙門のようだが耳と目はなかった。現在怪石は本殿内にまつられる。A磐座と石神の性格が混在している事例岩石の姿を借りて神が出現し、人の口を借りて言葉を話す。怪石に20体余りの沙門の形をした小石が陪従する。
茨城県BAA最初の一回だけ磐座機能
茨城県BD秘匿されている岩石
茨城県岩石から煙・光・火・気などが出る
神磯8茨城県東茨城郡大洗町 大洗磯前神社怪石が現れた岩礁。元旦に日の出奉拝祭祀が執り行なわれている祭祀空間。C元旦に岩礁で日の出奉拝祭祀を行なう。
茨城県BCA
不動石8茨城県多賀郡十王町 竪破山神を乗せた神輿を一休みさせるために置く岩石。明治になって岩石の上に不動明王が置かれまつられる。BABB岩石が改変されているこの岩石の上に神輿を置いて一休みする。
茨城県BABC休み石・腰掛石
太刀割石/一名将軍石8茨城県多賀郡十王町 竪破山源義家が真っ二つに割った岩石。EC偉人が真っ二つに割った岩石
烏帽子石8茨城県多賀郡十王町 竪破山源義家がかぶっていた烏帽子に似ているという岩石。EC
まいまい石/神楽石8茨城県多賀郡十王町 竪破山ここで神楽を奉納した岩石。BCC神楽を奉納した後、ここから神を乗せた神輿が里・浜に向かう。
堅破和光石/甲石8茨城県多賀郡十王町 竪破山石をくりぬき、その中に薬師如来を納めた岩石。BAC岩石の表面をくりぬき、中に仏などを納める
胎内石8茨城県多賀郡十王町 竪破山黒坂命がこの岩石の懐で体を休めた。C休み石・腰掛石
畳石8茨城県多賀郡十王町 竪破山源義家が腰を休めた岩石。修験者が座禅をしていた岩石。C休み石・腰掛石
茨城県BCC
茨城県BCE
手形石8茨城県多賀郡十王町 竪破山源義家の手形が残る岩石。EC岩石表面に印・痕・模様が残る
舟石8茨城県多賀郡十王町 竪破山船の形をした岩石。EC
軍配石8茨城県多賀郡十王町 竪破山
陰石8茨城県久慈郡山方町 陰陽神社降雨・夫婦円満・安産などの霊験がある岩石。伊邪那美命をまつる。A日照り時に祈願すると雨乞い効果あり。
陽石8茨城県久慈郡山方町 陰陽神社晴天・夫婦円満・安産などの霊験がある岩石。伊邪那岐命をまつる。A雨天続きの時に祈願すると晴天効果あり。
宿魂石8茨城県日立市 大甕倭文神社星神・天香香背男が石化して次第に大きくなってきたため、武葉槌命がこれを蹴って破壊し、上に社殿を建てて封じ込めた岩石。A生き物が石化したもの石神の上に社殿を建てて封じ込める。
茨城県BBB悪者が住んでいた・いる場所
茨城県BABC
茨城県C
神篭岩8茨城県日立市 大甕倭文神社上の宿魂石を見張っている岩石。この岩石に布を打ちつけると布が長持ちするという。BBBこの岩石に布を打ちつけると布が長持ちするという。
茨城県BBD
真弓山の白石8茨城県常陸太田市真弓山の天狗は白い石を愛しているため、真弓山の白い石を持ち帰ると祟りがある。BCA
三尊石8茨城県真壁郡真壁町 加波山三尊に見立てた岩石。A
亀石8茨城県真壁郡真壁町 加波山
天狗七飛石8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
御すだれ石8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
行者もどしの石8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
霞ヶ関8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
摩利支天8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
剣の刃渡り8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
天狗のすおとし8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
出船入船石8茨城県つくば市 筑波山出る船、入る船の様子に似た2体の岩石。EC
裏面大黒8茨城県つくば市 筑波山大黒の後姿に似た岩石。EC
北斗岩8茨城県つくば市 筑波山北斗七星に似ている岩石。弘法大師が修行をした場所。BCE
茨城県C
大仏岩8茨城県つくば市 筑波山大仏の姿形に似た岩石。EC
ガマ石8茨城県つくば市 筑波山ガマの油売り発祥といわれる場所。それにあやかって商売繁盛の願掛けで賽銭を供える。A置銭・投銭祭祀
国割り石8茨城県つくば市 筑波山
セキレイ岩8茨城県つくば市 筑波山
高天原8茨城県つくば市 筑波山
母の胎内くぐり8茨城県つくば市 筑波山隙間をくぐると安産効果のある重岩。BBD胎内くぐり胎内くぐり。
弁慶七戻り8茨城県つくば市 筑波山弁慶が中に入るのを7度ためらったという重ね岩。BCE
立身石8茨城県つくば市 筑波山親鸞がここで餓鬼を救済したという場所。間宮林蔵がここで立身出世を誓ったという岩石。C
茨城県EC
屏風岩8茨城県つくば市 筑波山
牛岩8茨城県つくば市 筑波山
神輿岩8茨城県つくば市 筑波山
月水石神社8茨城県つくば市磐長媛がここで亡くなり石化。ひと月に一回、岩石から赤い水が流れるといわれ、生理・子宝の神。A聖者が亡くなった場所
茨城県生き物が石化したもの
茨城県岩石から血が出る
女石(陰陽石)8茨城県つくば市 飯名神社社殿の裏にある岩石。
男石(陰陽石)8茨城県つくば市 飯名神社女石の上に乗る立石。
石製車輪8茨城県つくば市山木 八巻神社ご神体を運んだ車輪。BE可動的性質石製車輪でご神体を運ぶ。
要石8茨城県鹿嶋市 鹿島神宮龍・鯰の魂を鎮め、地震を起こさせない岩石。また、鹿島明神が降臨したという岩石。BBB岩石が地下で広範囲に根を張っている伝承
茨城県BABA
鏡石8茨城県鹿嶋市 鹿島神宮本殿裏手にあり神聖視されているが由緒不明。
兜石8茨城県東茨城郡城里町岩船 石船神社拝殿裏に玉垣で囲われている岩石。悪神が来た時にこの姿を見せて脅かすためといわれている。A秘匿されている岩石
大石8茨城県東茨城郡城里町岩船 石船神社窪みに溜まった水をすくうと雨が降る岩石。BBD岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する石の窪みに溜まった水をすくうと雨が降る。
矢の根石8茨城県東茨城郡城里町岩船 石船神社源義家が怪物を射ると正体は石だったという。EC偉人が敵を退治したら石だったという伝承
石船8茨城県東茨城郡城里町岩船 石船神社岩船川の中にある40数個の石の集まり。船形をしていることから社名の由来となったという。C
奥の院地蔵9栃木県下都賀郡岩舟町静地蔵尊が降臨した岩盤。高勝寺の信仰対象が最初に現れた神聖な場所。BABA最初の一回だけ磐座機能
栃木県BABC禁足地
栃木県C
賽の河原9栃木県下都賀郡岩舟町静 岩舟山石を積むことで水子・児童の霊を供養し、自らの徳を積む。BBB可動的性質石に「なむあみだ仏」と書いて積んでいくと供養すると共に功徳となる。
栃木県BBC
黒岩座禅石(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺 大慈寺奥の院慈覚大師が座禅修行していた岩石。BCE七石
栃木県BCC
栃木県C
大黒石(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
牛首石(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
詰岩(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
屏風岩(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
山伏岩(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
腰掛岩(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
殺生石9栃木県黒磯市 那須本温泉郷九尾が石化したもの。祟りの石。源翁禅師により改心し、仏法保護の神となった。EA生き物が石化したもの祟りの岩石に対して仏法を説き善神とさせる。
栃木県A祟り伝承
盲蛇石9栃木県黒磯市 那須本温泉郷湯の花を授けた盲蛇伝説を記憶する、盲蛇の首に似た岩石。EC
弁慶の割り石9栃木県足利市名草上町弁慶が真っ二つに割った石。EC偉人が真っ二つに割った岩石
御供石/胎内くぐり9栃木県足利市名草上町重岩の下に形成された隙間を通ることで安産祈願となる。BBD胎内くぐり胎内くぐり。
栃木県
太鼓石9栃木県足利市名草上町
石割楓9栃木県足利市名草上町岩の割れ目から楓の木が根を張っている。EC岩石割れ目から樹木、またはその逆
御船石/お舟石9栃木県足利市名草上町 名草弁天巨岩上に厳島神社が建つ。BABC
子種石/子種権現9栃木県日光市 滝尾神社子宝安産の霊験を有する岩石。子種石の周囲および上には無数の小石が積まれている。A可動的性質石を積んで子宝安産。
栃木県BBC
無念橋/願い橋9栃木県日光市 滝尾神社俗世と縁を切って神体山を拝するための石橋。自分の齢の数だけ歩いて橋を渡りきると、神体山登拝と同じ霊験があるとされる。BCA自分の齢の数だけ歩いて橋を渡りきると、神体山登拝と同じ霊験があるとされる。
栃木県BBD
栃木県BE
影向石9栃木県日光市 滝尾神社勝道上人が地蔵尊と会った場所。弘法大師が女峰山の神と会った場所。BABA
栃木県C
運試しの鳥居9栃木県日光市 滝尾神社鳥居に開いている穴に石を3回投げて運を占う。BBD可動的性質石を3回投げて、鳥居に開いている穴に何度通るかで運を占う。
北野神社 神紋石9栃木県日光市 北野神社石祠の背後にあり、天満宮の神紋を刻印した岩石。BCA岩石表面に印・痕・模様が残る
手掛石9栃木県日光市 北野神社付近石を欠かすか手を掛けると学問上達の利益がある。BBD岩石に損傷を加える行為北野神社参拝後、この石の一部を欠いて持ち帰ると学問上達。現在は、石に手を掛けると学問上達。 November 11, 2025
1RP
京都府京都市北区紫野大徳寺町53にある大徳寺(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺の聖地群史跡群水辺群の全地点と、それら周辺一帯広めで。
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大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。
山号は龍宝山(りゅうほうざん)。
本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、倭国の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。
本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。
なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。
11歳の時、地元の大寺院である圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚め、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。
これが大徳寺の起源という。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。
寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
また、花園天皇や光厳天皇ら歴代天皇、中御門経継、守良親王、新田義貞などの有力貴族からの寄進を受け、1333年ころには播磨、摂津、紀伊などの畿内各地に加え、信濃、下総、美濃のなど広範囲にわたって延7,600石の寺領を有していた。
しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。
五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。
このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災、そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興。
また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。
大徳寺山門供養之偈 春屋宗园
これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、天正17年(1589年)には千利休によって山門・金毛閣が完成している。
利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。
利休は山門を修復した後、住職の春屋宗園に山門の供養を書かせたが、それにより豊臣秀吉を怒らせたとされる。
江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。
近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。
この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。
なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。
【境内】
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[3]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に小田原藩主稲葉正勝の遺志により、子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる倭国様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(三門、重要文化財) - 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。このテキストは、千利休が住職の春屋宗園に書かせた山門の寄進の偈に関するもので、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」である。天井画の龍図は長谷川等伯の作。額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
【塔頭】
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。
2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
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聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。
聖護院の南西には、「聖護院の森」の鎮守として知られる熊野神社があり、「京の熊野三山」(残り2つは熊野若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された[3]。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
【地名】
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。
和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[4]。
【歴史】
当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。
増誉は師である円珍の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた[3]。
この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられた他、更に都の熊野神社の近くにあり、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を上皇より下賜された[3]。
こうして増誉は新たな寺名として「聖体護持」から文字を採って聖護院と改名し[3]、熊野神社を鎮守社とした。
ただし、増誉および増智(藤原師実の子)の時代には「白河房」と呼ばれており、「聖護院」の名称が登場するのはその後を継いだ覚忠の時代である(『兵範記』保元3年10月20日条・同仁安2年4月26日条)[5]。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した[3]。
増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。
この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した[3]。
後に熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したため、熊野との結びつきが一層深まった。
聖護院は長く皇族もしくは摂関家出身の門跡が入っていたが、後嵯峨上皇の皇子の覚助法親王が70年にわたって門跡の地位にあって園城寺長吏・鶴岡八幡宮別当・熊野三山検校を兼ね、門跡寺院としての地位を確立させた。 November 11, 2025
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川越大師 #喜多院 (後編)
「いやぁ~、お魚もらっちゃったよ♪」
・・的な台詞かな?名所 #五百羅漢 の内のお一人様です😀 どの石像も表情やポージングが千差万別にて、見比べながら物色していると楽しいですね(*^^*)
御朱印は寺務所にて拝受です🙏 https://t.co/0udfRCU0zK November 11, 2025
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鋸山ぶら散歩⑤『#東海千五百羅漢』1553体の大小様々な羅漢像が並んでいます!江戸時代後期に27人で21年という歳月をかけて彫られました!お顔の無い胴体のみの石像が幾つかあり明治維新の排仏毀釈で壊されたり関東大震災の被害だと言われています!表情豊かな羅漢像を見ていると安らぎを感じました! https://t.co/86NDufSQvQ November 11, 2025
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角坊 - 京都市右京区山ノ内御堂殿町にある。親鸞往生の地を記念して建てられた。
別荘
三夜荘 - 京都市伏見区にあった、かつての門主の別荘。第21代門主の大谷光尊が1876年(明治9年)に建築し、木戸孝允が命名するが、老朽化のため解体された。
【年中行事】
西本願寺ホームページの「恒例法要と行事」による。
1月1日 : 修正会、元旦会
1月9日 - 16日 : 御正忌報恩講(親鸞の祥月命日)
2月7日 : 如月忌(九條武子の遺徳を偲ぶ)
春分の日前後7日間 : 春季彼岸会
4月8日 : 花まつり(灌仏会)
4月13 - 15日 : 春の法要(立教開宗記念法要、本願寺歴代住職の年回法要)
5月20 - 21日 : 宗祖降誕会
8月上旬 : 盆踊り大会
8月14 - 15日 : 盂蘭盆会
8月15日 : 戦没者追悼法要
9月18日 : 千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要(東京、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて)
秋分の日前後7日間 : 秋季彼岸会
10月15 - 16日 : 龍谷会(大谷本廟報恩講法要)
10月中旬 - 11日中旬 : 献菊展
11月下旬 : 秋の法要(全国門徒総追悼法要)
12月20日 : 御煤払
12月31日 : 除夜会
京都府京都市下京区烏丸通七条上るにある東本願寺の境内全部と、御影堂と、周辺一帯広めで。(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)
https://t.co/hbC4T2IYnb
東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都市下京区にある真宗大谷派の本山の寺院[1]。
山号はなし。
本尊は阿弥陀如来。
正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)[2][3]である。
東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。
愛称は「お東」「お東さん」。
2020年(令和2年)7月現在の門首は、大谷暢裕(修如)。
京都府京都市北区紫野大徳寺町53にある大徳寺(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺の聖地群史跡群水辺群の全地点と、それら周辺一帯広めで。
https://t.co/FsdZoviwhE
大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。
山号は龍宝山(りゅうほうざん)。
本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、倭国の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。
本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。
なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。
11歳の時、地元の大寺院である圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚め、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。
これが大徳寺の起源という。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。
寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
また、花園天皇や光厳天皇ら歴代天皇、中御門経継、守良親王、新田義貞などの有力貴族からの寄進を受け、1333年ころには播磨、摂津、紀伊などの畿内各地に加え、信濃、下総、美濃のなど広範囲にわたって延7,600石の寺領を有していた。
しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。
五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。
このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災、そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興。
また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。
大徳寺山門供養之偈 春屋宗园
これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、天正17年(1589年)には千利休によって山門・金毛閣が完成している。
利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。
利休は山門を修復した後、住職の春屋宗園に山門の供養を書かせたが、それにより豊臣秀吉を怒らせたとされる。
江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。
近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。
この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。
なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。
【境内】
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[3]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に小田原藩主稲葉正勝の遺志により、子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる倭国様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(三門、重要文化財) - 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。このテキストは、千利休が住職の春屋宗園に書かせた山門の寄進の偈に関するもので、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」である。天井画の龍図は長谷川等伯の作。額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
【塔頭】
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。
2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
https://t.co/vGc3w1xogf
聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。
聖護院の南西には、「聖護院の森」の鎮守として知られる熊野神社があり、「京の熊野三山」(残り2つは熊野若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された[3]。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
【地名】
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。
和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[4]。
【歴史】
当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。
増誉は師である円珍の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた[3]。 November 11, 2025
1RP
創造主様におかれましては、西暦グレゴリオ暦の2025年12月2日火曜日の倭国時間午前6時頃(アメリカ東部時間の12月1日の午前10時の超巨大債務支払い期限時刻?あたりまで闘いが続くと予想し、30時間ほど延長いたしました。)までにおける、女神ガイア様と私「さとっぴ369」と、私の仲間達と部下達を、特にしっかり保護していただき支援していただきますよう、改めて私はお願い申し上げます。
全宇宙全次元全フラットアースの超悪魔勢力どもの総力を挙げて、(最期の?)総攻撃を、今も準備中でしょう・・・・・次の総攻撃は、倭国時間の下記のいずれかでしょう。
午後4時頃(今です!)
午後4時10分頃
午後4時11分11秒頃(=今回最も危険!!)
午後4時16分16秒頃
午後4時20分頃
午後4時21分0秒頃
午後4時30分頃(=危険!!)
午後4時32分10秒頃
午後4時40分頃
午後4時44分44秒頃
さとっぴ軍全軍は今すぐ、全宇宙全次元全フラットアースの皆様に対しても、短くとも、今から2025年12月2日火曜日の倭国時間午前6時頃(アメリカ東部時間の12月1日の午前10時の超巨大債務支払い期限時刻?あたりまで闘いが続くと予想し、30時間ほど延長いたしました。)までは、超悪魔勢力どもの本拠(銀河連合の総本部、シリウス、オリオングレーネブー帝国、アルクトゥルス星、アンドロメダ銀河、「プレアデス星団のAYAイカイ長老側勢力」と、これらを支援する外部勢力群)を、今すぐ強く牽制してもらい、更にガイアフラットアースのさとっぴ軍へ大援軍を急派してもらうよう、緊急要請せよ!!!!!
さとっぴ軍全軍は今すぐ、全世界の地下世界の全て!!!!を3日間連続で!!!!!奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!!!!!!!(特に、火山の山頂!!!火口!!!主要な構造線!!活断層!!過去の強制大地震の震源地!!!が危険でしょう)
倭国の主要活断層帯は、下記リンクを参照せよ。
https://t.co/1sFWRbdCU5
全世界の地下世界の全てを焼き滅ぼし、大掃除を実行し、奥の奥まで完全制覇征服支配せよ!!!!!
全ての危険因子(ポータルや加速器や核爆弾やHAARPなどなど)を高速捜査調査特定し、見つけ次第に全て即時破壊殲滅聖絶消去せよ!!!
更に、さとっぴ軍全軍は今すぐ、全世界の地上!!!!の超悪魔勢力どもを、今すぐ問答無用で徹底的に即時殲滅焼却聖絶消去せよ!!!!!!!!!!
特に、倭国国内の超悪魔勢力どもについては、念入りに!!!!
※※※※※※
今のうちに、さとっぴ軍全軍は今すぐ手分けして、倭国全国に在る2991箇所!!!!下記の磐座群の情報から正確な磐座・巨岩・奇岩・神石・磐境の所在地を高速調査特定せよ(既に全地点の位置を特定済みであろう)!!!!!!
私は既に何度も同じ命令をしてきたので、さとっぴ軍現地部隊は既に全て漏れなく位置特定済みであろう!!)
最下部に追加した「要石」「鎮石」も同様に所在地を高速調査特定済みであろう!!!
他にも「要石」「鎮石」「力石」「結界の起点となっている特殊な石」が倭国全国に多数在るはずですから、さとっぴ軍全軍の方でも各部隊が独自に徹底的に調査捜索して位置特定せよ!!!!
それら全地点へ、攻撃大部隊を急派し包囲し、その要石や鎮石や力石等々そのもの!!!!と、下記全地点と、その周辺の地下深く!!!!を、問答無用で総攻撃し、奥の奥まで徹底的に焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!!!!!
トドメも念入りにヤレ!!!!!
本日の倭国時間の午前6時11分11秒頃か、午前6時17分48秒頃(今回最も危険!!!今から12分後です!!)か、午前6時30分頃か、午前6時32分23秒頃が、次の超危険時刻であろうから、その前に今すぐ!!!!!下記全部2991箇所を必ず総攻撃して完全破壊し、即時殲滅消去せよ!!!!!
更に、その全地点の地下世界を、問答無用で徹底的に奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!!トドメも念入りにヤレ!!!!!
急げ!!!!
名称"都道府県
コード"都道府県市区町村岩石の役割類型傾向儀礼行為
恐山の積石2青森県むつ市 恐山菩提寺故人の供養のために積まれる石。BBB可動的性質石を積んで供養。
地獄めぐり2青森県むつ市 恐山菩提寺死者の魂が眠る空間。BCA
みたま石2青森県むつ市 恐山菩提寺
大王石2青森県むつ市 恐山菩提寺
坐禅石2青森県むつ市 恐山菩提寺慈覚大師がこの上で座禅をした岩石。BCE岩石の上で座禅。
青森県BCC
青森県C
極楽浜/賽の河原2青森県むつ市 恐山菩提寺死者の魂が眠る空間。ここの浜石や砂を持ち帰ると亡者の祟りに遭うという。BCA祟り伝承
青森県砂
オコリ石2青森県東津軽郡平内町 土屋海岸石頭に注連縄を巻くとオコリ病(高熱・腹痛病)を治してくれるという海岸上の岩石。船が難破すると岩石上に灯火が現れ道標となってくれる。BBD岩石から煙・光・火・気などが出るオコリ石の頭に藁の鉢巻をかけるとオコリ病が治る。
青森県A
石神様2青森県青森市入内 石神神社江戸時代、窪みに溜まった水で目を洗えば眼病が治るといわれ、信仰の対象となった。石工がこれを割ろうとしたところ手が痺れたためあきらめたという。A眼病に効く
青森県岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
青森県祟り伝承
石の塔薬師2青森県南津軽郡大鰐町久須志神社の神体で、薬師観音そのもの。苔から滴る水が眼病に効くという。A眼病に効く
青森県岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
ジジババ岩3岩手県北上市立花老夫婦が石化したもの。EC生き物が石化したもの
三ツ石様/鬼の手形石3岩手県盛岡市名須川町 三ツ石神社村人を困らせた鬼を自らの岩石に縛りつけ、今後悪事はしないよう約束の手形を岩石に押させた石神。A悪者を懲らしめる
岩手県BBB岩石表面に印・痕・模様が残る
石割桜3岩手県盛岡市巨岩の割れ目から成長した桜。EC岩石割れ目から樹木、またはその逆
烏帽子岩3岩手県盛岡市 盛岡城盛岡城築城の際に出現した巨岩で、盛岡藩の守り神としてまつった。A築城や城の石垣利用と関係のある伝承
岩手県BBB
肌石3岩手県花巻市東和町 丹内山神社雪が降っても積もらない石。EB熱を持つ岩石
胎内石/アラハバキ大神の巨石3岩手県花巻市東和町 丹内山神社岩の割れ目を通ると所願成就、触れても合格祈願などに霊験あり。A割れ目の間を通って善悪・祈願判定割れ目の間を通る。
岩手県BA胎内くぐり
岩手県BBD磐座と石神の性格が混在している事例
続石3岩手県遠野市弁慶が積み重ねたという巨石構造物。EC
泣石3岩手県遠野市弁慶がこの石の上に巨石を置こうとしたら泣き喚いた。EB岩石から音声が聞こえる
岩手県
姥石3岩手県遠野市女人禁制の山に入ろうとした姥が石化。BCA生き物が石化したもの
岩手県
牛石3岩手県遠野市姥の乗っていた牛も一緒に石化。BCA生き物が石化したもの
岩手県
達谷窟毘沙門堂3岩手県西磐井郡平泉町敵であるエミシの首長らの住処だった岩窟で、そこを覆うように仏堂を建立。C悪者が住んでいた・いる場所
岩手県BCA岩穴・窟
岩面大仏3岩手県西磐井郡平泉町大日如来あるいは阿弥陀如来の磨崖仏。A
鬘石3岩手県西磐井郡平泉町"悪役であるエミシが連れ去った姫の髪の毛を切って
見せしめに置いた岩石。"EC
巨巌(おおいわ)4宮城県登米市中田町石森 石大神社倭国武尊が、自分の身に着けていた玉を納めたものといわれる岩石。年々大きくなって今のような規模になった。BBC岩石が満ち欠け・増減・出産する
C
石母田石4宮城県伊達郡国見町石母田石母田氏が城を去る際、城内にあったこの岩石を記念に持ち帰ろうとしたところ泣き続けたため、元の場所に戻したという。EB岩石から音声が聞こえる
神行堂山の巨石4宮城県本吉郡南三陸町岩の亀裂を通ることで善悪判断や成人の通過儀礼とした岩石。BBD割れ目の間を通って善悪・祈願判定亀裂の間を通る。
宮城県胎内くぐり
神石白石/しろ石4宮城県白石市白石の地名由来となった岩石。依代とも神石ともいう。根白石と地中でつながっているという。A岩石が地下で広範囲に根を張っている伝承
宮城県BA磐座と石神の性格が混在している事例
根白石4宮城県仙台市白鹿と誤って射られた岩石。後世に洪水で流されてしまい、それを惜しんだ村人によって新たに石神をまつったのが現存する根白石。上の神石白石と地中でつながっているという。A岩石が地下で広範囲に根を張っている伝承
宮城県BA原位置から移動伝承
宮城県今は存在しない岩石
宮城県磐座と石神の性格が混在している事例
笠石4宮城県柴田郡川崎町支倉
弥三郎石4宮城県柴田郡川崎町支倉
碁盤石4宮城県柴田郡川崎町支倉
疣石4宮城県柴田郡川崎町支倉
双つ石4宮城県柴田郡川崎町支倉
鮭石4宮城県柴田郡川崎町支倉
石神山精神社/石神大明神4宮城県黒川郡大和町吉田字麓神社の起源に当たる石神。A
亀石4宮城県黒川郡富谷町大亀 鹿島天足別神社亀に似た形状を持つ岩石。ここから大亀の地名や岩下明神・大亀明神の神社名が生まれた。注連縄を張られているが具体的な霊験や伝承などは不明。
布引石4宮城県黒川郡富谷町大亀
塁石4宮城県黒川郡富谷町大亀
口石4宮城県黒川郡富谷町大亀
箪笥石4宮城県黒川郡富谷町大亀
たいまい石4宮城県黒川郡富谷町大亀
穀田の建石4宮城県黒川郡富谷町穀田岩石から米や水が湧き出た。EB岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
瑞巌寺 岩窟4宮城県宮城郡松島町修法の場。仏を刻んだ場所。内部に入れない窟もある。BCE岩穴・窟岩石に仏を刻み徳を積む修行。
宮城県A
宮城県BCA
鬼の隠れ里5秋田県男鹿市鬼の住処。EA悪者が住んでいた・いる場所
秋田県どこか遠い場所とつながっている
硯石5秋田県男鹿市弘法大師が水を湧き出させた石。C岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
秋田県岩石に溜まった水が枯れない
畳石5秋田県男鹿市
大湯環状列石5秋田県鹿角市縄文時代の環状列石遺構。地中から生物の脂肪酸が検出され埋葬施設と推測される。埋葬部の地表に環状列石を構築する。
三尊石5秋田県鹿角市小豆沢 大日霎貴神社/大日堂三尊。なでて祈願するとご利益のある岩石。Aなでたりさすったり抱きついたりする白布で三回なでて祈願し、白布を身につける。
秋田県BBD
鏡石5秋田県仙北市西木町 高鉢山辰子がここで自分の顔を映し身なりを整え、その先の泉水を飲み竜神と化したという。BCBここで自らを整える・清める
秋田県鏡面を持つ岩石
かなえる岩5秋田県仙北市西木町 高鉢山鏡石に行った後、願橋からこの岩石を拝礼すると願いが叶うという。BA鏡石に行った後、願橋からかなえる石を拝礼すると祈願成就。
秋田県BBA
御座石5秋田県仙北市西木町 御座石神社佐竹藩主義隆が腰を下ろして休んだ岩石。C休み石・腰掛石
秋田県
雨乞石5秋田県仙北市西木町 御座石神社潮神をまつった岩石。この岩石を動かすと潮が荒れ、荒天になるという。A祟り伝承岩石を動かして雨を降らす。
秋田県BBD
ビッキ石/かえる石5秋田県仙北市西木町 御座石神社
姉子石6山形県新庄市泉田塩野これを持ち上げたら想い人に好かれると信じられた岩石。BBD岩石を持ち上げられるか、軽くなるか重くなるか
天拝石6山形県東田川郡羽黒町 羽黒山
湯殿山神社6山形県東田川郡朝日町 湯殿山湯殿山神社の神体。A禁忌が厳しい
山形県熱を持つ岩石
山形県岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
猫石6山形県東田川郡朝日町言葉を話す猫が石化した石。EC生き物が石化したもの
亀の甲石6山形県山形市 立石寺 日枝神社石の上に小銭を置けば延命・長寿。BCD置銭・投銭祭祀小銭に名前を書いて、それを石の上に置く。
対面石6山形県山形市 立石寺立石寺開山の契機となった場所。岩に手を当てれば吉事がある岩石。BBD岩に左手を当てると吉事が起こる。
姫岩6山形県山形市 立石寺
蛙岩6山形県山形市 立石寺
神楽岩6山形県山形市 立石寺
笠岩/笠投岩6山形県山形市 立石寺慈覚大師が雨宿りした石。C
御休石6山形県山形市 立石寺慈覚大師が休んだ石。C休み石・腰掛石
弥陀洞6山形県山形市 立石寺浸食を阿弥陀仏に見立てて信仰した岩肌。A
胎内くぐり6山形県山形市 立石寺中を通ることで生まれ変わる岩穴。BBD胎内くぐり胎内くぐり。
六地蔵6山形県山形市 立石寺六地蔵をまつる岩窟。A岩穴・窟
山形県BAC
山形県BCD
地獄谷/行者戻6山形県山形市 立石寺修行場。BCE登攀修行。
釈迦が峯6山形県山形市 立石寺修行場。BCE登攀修行。
宝珠岩6山形県山形市 立石寺
入定窟6山形県山形市 立石寺慈覚大師が入定した岩窟。BCD聖者が亡くなった場所窟の中へ入定して成仏。
山形県BAC岩穴・窟
百丈岩6山形県山形市 立石寺岩壁の修行場。BCE
磐司祠6山形県山形市 立石寺地主権現磐司の祠を納める岩窟。BCD岩穴・窟
山形県BAC
天狗岩/天華岩6山形県山形市 立石寺
香の岩6山形県山形市 立石寺慈覚大師がこの岩の前で香を焚いた。C岩の前で香を焚き、山の霊を供養する。
お手掛け岩6山形県山形市 立石寺
竜吻石6山形県山形市 立石寺
夜泣き石6山形県山形市霊石町若娘の供養のために置いた岩石。若娘の夜泣き声が聞こえる岩石。子供の夜泣きを止めたため、霊石として信仰対象に昇華。BBB原位置から移動伝承死者の供養に岩石を置く。
山形県A岩石から音声が聞こえる
大石6山形県長井市上伊佐沢 大石洞雲寺地名の由来となった境内の大石。神聖視や祭祀を伝える資料はない。EC
鍛冶小屋岩7福島県伊達市霊山町 霊山
見下し岩7福島県伊達市霊山町 霊山
宝寿台7福島県伊達市霊山町 霊山
日暮岩7福島県伊達市霊山町 霊山
弁天岩7福島県伊達市霊山町 霊山
雲切岩7福島県伊達市霊山町 霊山
大山祇神社 岩陰7福島県伊達市霊山町 霊山
弘法の突貫岩7福島県伊達市霊山町 霊山
五百羅漢岩7福島県伊達市霊山町 霊山
蟻の戸渡り7福島県伊達市霊山町 霊山
天の釣舟7福島県伊達市霊山町 霊山
学問岩7福島県伊達市霊山町 霊山
東物見岩7福島県伊達市霊山町 霊山
天狗岩7福島県伊達市霊山町 霊山
鷲岩7福島県伊達市霊山町 霊山
護摩壇7福島県伊達市霊山町 霊山
親不知・子不知7福島県伊達市霊山町 霊山
天狗の相撲場7福島県伊達市霊山町 霊山
甲岩7福島県伊達市霊山町 霊山
船石7福島県福島市飯野町舟の形状をした岩石。EC
大石7福島県福島市飯野町名の通り大きな岩石。EC
モアイ岩7福島県福島市飯野町モアイのような顔に見える岩石。EC近代以降の命名
牛石7福島県二本松市本町谷霞ヶ城築城の際、生贄として埋めた2頭の神牛が石化したという岩石。これのおかげで霞ヶ城は落城しないと信じられた。現在は岩石の表面に歌碑の銘板が埋め込まれている。BBB生き物が石化したもの
福島県BD築城や城の石垣利用と関係のある伝承
福島県岩石が改変されている
要石/鉾衝神社遺跡7福島県岩瀬郡長沼町鉾衝字亀居山要石は磐座といわれるが詳細な由来不明。要石の近くから古墳時代の祭祀遺物が出土している。
建鉾石7福島県白河市表郷高木字高野峯山倭国武尊が鉾を立て戦勝を祈願したという岩石。BCD岩石の上に鉾を立てて戦勝を祈願。
福島県C
巨岩7福島県白河市表郷高木字高野峯山山頂から山腹に広がる一大巨岩。裾部に岩穴を有する。「大澤権現」と刻された石碑が手前に建つ。ここで遺物出土はなく、下方の御宝前より遺物出土。手前で祭祀が行なわれていないため、人の立ち入れない聖域に佇む石神そのものか。A禁足地
福島県岩穴・窟
御宝前/建鉾山遺跡7福島県白河市表郷高木字高野峯山江戸時代は禁足地。古墳時代の遺物が集中して出土。傾斜変換点にあり、これより奥では遺物なし。人が立ち入れる限界で祭祀が行なわれた場所か。BCA禁足地平野部の神社から御宝前まで御神幸を行なっていた。
殺生石/法石稲荷尊天7福島県白河市中寺九尾が飛び散った石片の1つ。源翁禅師により仏心を得て、法石稲荷尊天に転化した。A生き物が石化したもの
福島県岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する
岩窟弁天7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺慈覚大師がこの中で本尊の毘沙門天像を刻した岩窟。弁天をまつる岩窟。BCE岩穴・窟岩窟の中で本尊を彫刻する。
福島県BAC
岩角7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺寺宝。岩角山の名の起源という。BCA岩石を宝物とする
懐胎石/抱きつき石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺抱きつき子宝安産の祈願をする岩石。BBDなでたりさすったり抱きついたりする石に抱きつくことで子宝安産祈願となる。
那智観音堂岩石群7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺
奥ノ院岩石群7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺キリーク・ベイの梵字を刻んだ岩石を奥ノ院背後に有する。
鬼面石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺鬼の顔の外見を持つ岩石。EC
体内/胎内くぐり7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺願かけ通路で、縁結びにご利益あり。BBD胎内くぐり内部をくぐることで縁結び。
丹羽公遥拝石/展望台7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺二本松藩主の丹羽光重にまつわる岩石。EC
薬師堂岩石群7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺薬師堂背後にベイの梵字を刻んだ岩石あり。
地獄道7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺
坐禅石/たたみ石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺明治初期まで、この岩石の上で瞑想や坐禅などの修行をしていたという。BCC岩石の上で座禅・瞑想などの修行。
福島県BCE
天狗腰掛石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺天狗の腰掛石。C休み石・腰掛石
天ノ岩戸/祈りの窟7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺中に籠って祈願を行なう岩窟。BCE岩穴・窟
福島県
腰掛石/和労休息石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺休み石・腰掛石
四寸途7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺
男胎内(胎内くぐり)7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺胎内くぐり。BCE
女胎内(胎内くぐり)7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺胎内くぐり。BCE
舟石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺雨乞い祈願霊石。
賽河原7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺
三山/三山祠跡7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺
座禅石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺座禅修行の岩石。BCE
福島県BCC
抱き込み杉7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺杉の根に、仏刻を施した卵形石を食い込ませる。岩石割れ目から樹木、またはその逆
蛇舐石7福島県本宮市和田東屋口 岩角山岩角寺地頭の暴政で命を落とした人々が白蛇となり、蛇に舐められボロボロになった岩石。EC岩石表面に印・痕・模様が残る
怪石8茨城県東茨城郡大洗町 大洗磯前神社ある日海上に出現した2体の翁の形をした岩石で大己貴命・少彦名命という。および、それに付き従うように集まった20体余りの小石があり、彩色がされ沙門のようだが耳と目はなかった。現在怪石は本殿内にまつられる。A磐座と石神の性格が混在している事例岩石の姿を借りて神が出現し、人の口を借りて言葉を話す。怪石に20体余りの沙門の形をした小石が陪従する。
茨城県BAA最初の一回だけ磐座機能
茨城県BD秘匿されている岩石
茨城県岩石から煙・光・火・気などが出る
神磯8茨城県東茨城郡大洗町 大洗磯前神社怪石が現れた岩礁。元旦に日の出奉拝祭祀が執り行なわれている祭祀空間。C元旦に岩礁で日の出奉拝祭祀を行なう。
茨城県BCA
不動石8茨城県多賀郡十王町 竪破山神を乗せた神輿を一休みさせるために置く岩石。明治になって岩石の上に不動明王が置かれまつられる。BABB岩石が改変されているこの岩石の上に神輿を置いて一休みする。
茨城県BABC休み石・腰掛石
太刀割石/一名将軍石8茨城県多賀郡十王町 竪破山源義家が真っ二つに割った岩石。EC偉人が真っ二つに割った岩石
烏帽子石8茨城県多賀郡十王町 竪破山源義家がかぶっていた烏帽子に似ているという岩石。EC
まいまい石/神楽石8茨城県多賀郡十王町 竪破山ここで神楽を奉納した岩石。BCC神楽を奉納した後、ここから神を乗せた神輿が里・浜に向かう。
堅破和光石/甲石8茨城県多賀郡十王町 竪破山石をくりぬき、その中に薬師如来を納めた岩石。BAC岩石の表面をくりぬき、中に仏などを納める
胎内石8茨城県多賀郡十王町 竪破山黒坂命がこの岩石の懐で体を休めた。C休み石・腰掛石
畳石8茨城県多賀郡十王町 竪破山源義家が腰を休めた岩石。修験者が座禅をしていた岩石。C休み石・腰掛石
茨城県BCC
茨城県BCE
手形石8茨城県多賀郡十王町 竪破山源義家の手形が残る岩石。EC岩石表面に印・痕・模様が残る
舟石8茨城県多賀郡十王町 竪破山船の形をした岩石。EC
軍配石8茨城県多賀郡十王町 竪破山
陰石8茨城県久慈郡山方町 陰陽神社降雨・夫婦円満・安産などの霊験がある岩石。伊邪那美命をまつる。A日照り時に祈願すると雨乞い効果あり。
陽石8茨城県久慈郡山方町 陰陽神社晴天・夫婦円満・安産などの霊験がある岩石。伊邪那岐命をまつる。A雨天続きの時に祈願すると晴天効果あり。
宿魂石8茨城県日立市 大甕倭文神社星神・天香香背男が石化して次第に大きくなってきたため、武葉槌命がこれを蹴って破壊し、上に社殿を建てて封じ込めた岩石。A生き物が石化したもの石神の上に社殿を建てて封じ込める。
茨城県BBB悪者が住んでいた・いる場所
茨城県BABC
茨城県C
神篭岩8茨城県日立市 大甕倭文神社上の宿魂石を見張っている岩石。この岩石に布を打ちつけると布が長持ちするという。BBBこの岩石に布を打ちつけると布が長持ちするという。
茨城県BBD
真弓山の白石8茨城県常陸太田市真弓山の天狗は白い石を愛しているため、真弓山の白い石を持ち帰ると祟りがある。BCA
三尊石8茨城県真壁郡真壁町 加波山三尊に見立てた岩石。A
亀石8茨城県真壁郡真壁町 加波山
天狗七飛石8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
御すだれ石8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
行者もどしの石8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
霞ヶ関8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
摩利支天8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
剣の刃渡り8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
天狗のすおとし8茨城県真壁郡真壁町 加波山修行場。BCE8月中、禅定祭にて登攀修行を行なう。
出船入船石8茨城県つくば市 筑波山出る船、入る船の様子に似た2体の岩石。EC
裏面大黒8茨城県つくば市 筑波山大黒の後姿に似た岩石。EC
北斗岩8茨城県つくば市 筑波山北斗七星に似ている岩石。弘法大師が修行をした場所。BCE
茨城県C
大仏岩8茨城県つくば市 筑波山大仏の姿形に似た岩石。EC
ガマ石8茨城県つくば市 筑波山ガマの油売り発祥といわれる場所。それにあやかって商売繁盛の願掛けで賽銭を供える。A置銭・投銭祭祀
国割り石8茨城県つくば市 筑波山
セキレイ岩8茨城県つくば市 筑波山
高天原8茨城県つくば市 筑波山
母の胎内くぐり8茨城県つくば市 筑波山隙間をくぐると安産効果のある重岩。BBD胎内くぐり胎内くぐり。
弁慶七戻り8茨城県つくば市 筑波山弁慶が中に入るのを7度ためらったという重ね岩。BCE
立身石8茨城県つくば市 筑波山親鸞がここで餓鬼を救済したという場所。間宮林蔵がここで立身出世を誓ったという岩石。C
茨城県EC
屏風岩8茨城県つくば市 筑波山
牛岩8茨城県つくば市 筑波山
神輿岩8茨城県つくば市 筑波山
月水石神社8茨城県つくば市磐長媛がここで亡くなり石化。ひと月に一回、岩石から赤い水が流れるといわれ、生理・子宝の神。A聖者が亡くなった場所
茨城県生き物が石化したもの
茨城県岩石から血が出る
女石(陰陽石)8茨城県つくば市 飯名神社社殿の裏にある岩石。
男石(陰陽石)8茨城県つくば市 飯名神社女石の上に乗る立石。
石製車輪8茨城県つくば市山木 八巻神社ご神体を運んだ車輪。BE可動的性質石製車輪でご神体を運ぶ。
要石8茨城県鹿嶋市 鹿島神宮龍・鯰の魂を鎮め、地震を起こさせない岩石。また、鹿島明神が降臨したという岩石。BBB岩石が地下で広範囲に根を張っている伝承
茨城県BABA
鏡石8茨城県鹿嶋市 鹿島神宮本殿裏手にあり神聖視されているが由緒不明。
兜石8茨城県東茨城郡城里町岩船 石船神社拝殿裏に玉垣で囲われている岩石。悪神が来た時にこの姿を見せて脅かすためといわれている。A秘匿されている岩石
大石8茨城県東茨城郡城里町岩船 石船神社窪みに溜まった水をすくうと雨が降る岩石。BBD岩石に付随して恩恵の水・湯が存在する石の窪みに溜まった水をすくうと雨が降る。
矢の根石8茨城県東茨城郡城里町岩船 石船神社源義家が怪物を射ると正体は石だったという。EC偉人が敵を退治したら石だったという伝承
石船8茨城県東茨城郡城里町岩船 石船神社岩船川の中にある40数個の石の集まり。船形をしていることから社名の由来となったという。C
奥の院地蔵9栃木県下都賀郡岩舟町静地蔵尊が降臨した岩盤。高勝寺の信仰対象が最初に現れた神聖な場所。BABA最初の一回だけ磐座機能
栃木県BABC禁足地
栃木県C
賽の河原9栃木県下都賀郡岩舟町静 岩舟山石を積むことで水子・児童の霊を供養し、自らの徳を積む。BBB可動的性質石に「なむあみだ仏」と書いて積んでいくと供養すると共に功徳となる。
栃木県BBC
黒岩座禅石(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺 大慈寺奥の院慈覚大師が座禅修行していた岩石。BCE七石
栃木県BCC
栃木県C
大黒石(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
牛首石(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
詰岩(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
屏風岩(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
山伏岩(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
腰掛岩(小野寺七石)9栃木県下都賀郡岩舟町小野寺七石
殺生石9栃木県黒磯市 那須本温泉郷九尾が石化したもの。祟りの石。源翁禅師により改心し、仏法保護の神となった。EA生き物が石化したもの祟りの岩石に対して仏法を説き善神とさせる。
栃木県A祟り伝承
盲蛇石9栃木県黒磯市 那須本温泉郷湯の花を授けた盲蛇伝説を記憶する、盲蛇の首に似た岩石。EC
弁慶の割り石9栃木県足利市名草上町弁慶が真っ二つに割った石。EC偉人が真っ二つに割った岩石
御供石/胎内くぐり9栃木県足利市名草上町重岩の下に形成された隙間を通ることで安産祈願となる。BBD胎内くぐり胎内くぐり。
栃木県
太鼓石9栃木県足利市名草上町
石割楓9栃木県足利市名草上町岩の割れ目から楓の木が根を張っている。EC岩石割れ目から樹木、またはその逆
御船石/お舟石9栃木県足利市名草上町 名草弁天巨岩上に厳島神社が建つ。BABC
子種石/子種権現9栃木県日光市 滝尾神社子宝安産の霊験を有する岩石。子種石の周囲および上には無数の小石が積まれている。A可動的性質石を積んで子宝安産。
栃木県BBC
無念橋/願い橋9栃木県日光市 滝尾神社俗世と縁を切って神体山を拝するための石橋。自分の齢の数だけ歩いて橋を渡りきると、神体山登拝と同じ霊験があるとされる。BCA自分の齢の数だけ歩いて橋を渡りきると、神体山登拝と同じ霊験があるとされる。
栃木県BBD
栃木県BE
影向石9栃木県日光市 滝尾神社勝道上人が地蔵尊と会った場所。弘法大師が女峰山の神と会った場所。BABA
栃木県C
運試しの鳥居9栃木県日光市 滝尾神社鳥居に開いている穴に石を3回投げて運を占う。BBD可動的性質石を3回投げて、鳥居に開いている穴に何度通るかで運を占う。 November 11, 2025
1RP
遠野では本当に石碑が多い。道祖神は勿論、馬の斃死した所には馬頭観音、山の怪異に遭遇した所には山神、元は愛宕山の五百羅漢の所にあったのを移したと言う無字碑、由緒不明の五輪塔まで含めると千近くあった。(大学時代のフィールドワークで数えた) https://t.co/retsBogYPK November 11, 2025
66番札所 雲辺寺にお礼参りに行ってきました
五百羅漢の中に、昨年亡くなった父の顔に似た仏様を見つけました
おとーちゃーん😭
限定800個のポレポレおみくじも買えました👍
今年の色々を振り返り🙄
無事に過ごせたことに感謝です
おみくじは、12/31に開きます
楽しみ〜🥰🥰🥰
#雲辺寺 #四国遍路 https://t.co/hu4q2pfrnN November 11, 2025
うちのこ5さいセンパ秋旅へ🍂🍁一足早い3連休しあわせだった〜仙石原すすき草原初めて行ったけど想像以上に壮大で素晴らしかった 長安寺の五百羅漢も紅葉と相まって見応え◎ https://t.co/fE759BBi0q November 11, 2025
村上隆の五百羅漢のグリカ出てる〜!あの圧倒的な迫力、カードでも味わえるなんて羨ましすぎ😭
村上隆の五百羅漢図展 グリーティングカード 2015
https://t.co/SQI8d46Zly November 11, 2025
明日の三連休最終日 埼玉県
車でお出かけ欲張りお勧めコース
朝〜昼 川越散策 食べ歩き
喜多院の紅葉素晴らしいですよ🍁
五百羅漢 どろぼう橋もお忘れなく
午後 行田タワー 田んぼアート
鬼滅の刃 炭治郎
夜 武蔵丘陵森林公園 紅葉見ないと November 11, 2025
秋散策
五百羅漢と紅葉、綺麗で良い雰囲気でした。
自分に、あの人に似たのはいらっしゃるかな?
#五百羅漢 #石像 #羅漢 #加西市 #紅葉 #秋景色 #ちょい撮り散歩 #今日の一写 #カメラ好き #写真好き #撮り旅 #一人旅 #ファインダー越しの世界 #lovehyogo https://t.co/90GrYhv0zx November 11, 2025
@odawara_ni_sumu 五百羅漢からのトンネルできたら74号線さらに渋滞すると思う。
市立病院かJT跡地を出発地の久野小、辻村農園、城南中、競輪場経由の西口行のミニバス路線(山廻り路線)を開発して、久野車庫発市立病院経由の74号線路線と併用して欲しい。
逗子などは海側の海抜が低すぎて、山側が一般向けの住宅地。 November 11, 2025
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