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三体
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2025.11.20
:0% :0% (30代/男性)
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
"『三体』と『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は読んだ」という方に頻繁に遭遇しますが、それはSFをけっこう読んでいます"
これは勇気が出る
これとテッド・チャン読んでたらSF読み認定してもいいと思う(ほんまか?) November 11, 2025
6RP
11月23日GAME ANTIQUE 2025に参加します https://t.co/pq17GKJBG6
配置は58です
同人イベント一年以上ぶり
ゲームアンティークは初参加なので宜しくお願いします
新作はボクと魔王のロザリー、キスリング&ビッグブルの アクリルフイギュア三体セットになります(一枚板)
#ゲームアンティーク https://t.co/RJvoI9Lv59 November 11, 2025
4RP
中年男人沉迷爱好排行榜
1.入门级:关注物质享受与日常娱乐
“哥们,这车落地才XX万,不贵!”
汽车、电脑、手机、刷剧、X-ing生活、车模(女车模)、茅台、股市、短视频、金瓶梅、王者打野、手办玩具。
2.进阶级:初涉“中年快乐圈”开始对兴趣与知识探索
“不懂就问,黑洞能不能拿来发电?”
钓鱼、主机游戏、摄影、宠物、国际局势、三体、动漫、自行车摩托、盆景、王者辅助、看球聊球、电影、贯蛋、台球、古钱。
3.高手级:追求生活品质,注重品味与格调
“我家这个花洒是德国工艺,水流模拟热带雨林”
咖啡红酒茶具、鱼缸、机械键盘、智能家居、油 画国画、花洒、盘串、手办、垂钓、泡澡、露营、滑雪、3D打印、高级音响、摄影、健身、马拉松、王者法师、高尔夫、博物馆、石头和田玉、玩表。
4.大师级:沉迷小众冷门爱好,钻研深度知识
“战国时期的青铜器,跟明代的瓷器能一样吗?”
手办、打火机、航模、爬行宠物、历史研究、军 事舰艇、瓷器、盘串(进阶)、书法、中年男人搞纯爱、露营无线电、研究雇佣兵、摄影、本地AI部署、宇宙天文学、阿卡贝拉、赛马。
5.王者级:热衷动手实践,追求自给自足
“家里那面墙不太行,我打算自己敲了重装!”
投影、NAS、无损电影音乐、木工、电工、锻工、打猎、各种工具、盘串(泡面)、后院露营、荒野建造。
6.神级:回归自然,追求心境平和
“人到中年,讲究的是一个心境!万物皆可盘”
花草、养鱼、盆景、蛐蛐、遛狗、围棋、观鸟、养鸽子、太极、广场舞、助听器(最高级音响)。
7.超神级:悟道纯享,超脱尘世
“别吵,让我感受一下宇宙的温度!” November 11, 2025
4RP
三体とかプロジェクトヘイルメアリーに関して「はい!注意!ネタバレです!」とか「ネタバレなのでその質問には答えられません!読んでください!」とか大声で騒ぐの。私は読んでるからいいけど、読んでなかったら「うぜええ!」ってなると思うんですよ。それで 反発して読まなくなるまである…。 November 11, 2025
3RP
@marumizog 「三体」シリーズは単行本で読み文庫も手に入れ、ネトフリ版も霊河影視版も視聴済み。
「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は未読、映画公開前に単行本で読むか、ひょっとすると映画公開時に文庫が出るかもしれないと、考え中。
読了された皆様から「いーからとっと読め」と言われそうだw November 11, 2025
1RP
「こんなバケモノを相手にするなんてイカれてる。俺達は“何でもできるさいきょうの部隊”じゃねえんだよな」「上の連中はそういうのをわかってねえんだ。バケモノ相手なら異世界英雄とかそういうのに任せりゃいいのに」とかブツブツ言いながらもバケモノのニ、三体くらいなんだかんだで屠っててほしい。 https://t.co/5d2VpMUYa6 November 11, 2025
1RP
@marumizog プロジェクト•ヘイル•メアリーを読んだら、勧めてくれた人にそのうち三体も読みません?と言われたけど、この作品ってそんなセットなんだ _(:3 」∠ )_ November 11, 2025
1RP
法樂寺
(ほうらくじ)大阪市東住吉区山坂1-18-30
詳細
法隆寺
(ほうりゅうじ)生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
詳細
法華寺
(ほっけじ)奈良市法華寺町882
詳細
マ行
霊場名称住所詳細
松尾大社
(まつのおたいしゃ)京都市西京区嵐山宮町3
詳細
松尾寺
(まつのおでら)舞鶴市松尾532
詳細
摩耶山天上寺
(まやさんてんじょうじ)神戸市灘区摩耶山町2-12
詳細
曼殊院
(まんしゅいん)京都市左京区一乗寺竹ノ内町42
詳細
三井寺
(みいでら)大津市園城寺町246
詳細
御上神社
(みかみじんじゃ)野洲市三上838
詳細
水間寺
(みずまでら)貝塚市水間638
詳細
水無瀬神宮
(みなせじんぐう)三島郡島本町広瀬3-10-24
詳細
湊川神社
(みなとがわじんじゃ)神戸市中央区多聞通3-1-1
詳細
三室戸寺
(みむろとじ)宇治市莵道滋賀谷21
詳細
妙法院
(みょうほういん)京都市東山区妙法院前側町447
詳細
室生寺
(むろうじ)宇陀市室生78
詳細
ヤ行
霊場名称住所詳細
薬師寺
(やくしじ)奈良市西ノ京町457
詳細
八坂神社
(やさかじんじゃ)京都市東山区祇園町北側625
詳細
吉田神社
(よしだじんじゃ)京都市左京区吉田神楽岡町30
詳細
善峯寺
(よしみねでら)京都市西京区大原野小塩町1372
詳細
霊場名称住所詳細
霊山寺
(りょうせんじ)奈良市中町3879
詳細
六波羅蜜寺
(ろくはらみつじ)京都市東山区五条通大和大路上ル東
詳細
ワ行
霊場名称住所詳細
海神社
(わたつみじんじゃ)神戸市垂水区宮本町5-1
詳細
役行者霊蹟札所会
https://t.co/GV6ysdkhUX
役行者の遺徳と修験道の世界により多くの人々に触れていただき、その目指す所をご理解いただくべく、役行者ゆかりの寺院が集まって、この「役行者霊蹟札所会」を結成するはこびとなりました。
それは、平成の世における、新たな修験道の出発でもあります。
https://t.co/VCxrcUDOen
札所会について
役行者(えんのぎょうじゃ)とは、大峰山(おおみねさん)においては蔵王権現(ざおうごんげん)を、葛城山(かつらぎさん)においては法起菩薩(ほうきぼさつ)を感得され、山岳抖藪(さんがくとそう)の実践行を通じて得られたという神通力によって、人々を済度した在家の修行者として信仰されてきた人です。
倭国古来の山岳信仰に、役行者に代表される山林修行者たちによって、仏教や道教・儒教など外来の宗教が結びつけられ、次第に組織・体系化されたのが、「修験道(しゅげんどう)」です。
その精神と実践は、理源大師聖宝(しょうぼう)や智証大師円珍(えんちん)をはじめ、累代の修験の祖師と仰がれる仏教者達によって伝承され、今に至る1300年の長きにわたって伝えられてきました。
修験道の開祖としての役行者への信仰は、その長い歴史において、50年ごとに御遠忌法要などを執りおこなうことによって盛り上がってまいりましたが、それがそのまま修験道の歴史でもあったと申せましょう。
ただし、その歴史は、決して平穏なるものであったわけではなく、中世後期以来、修験の組織は、聖護院を中核とする天台系の本山派修験道と、醍醐寺を中核とする真言系の当山派修験道の二つに分かれ、互いに競合して相争うなど円満でない時代もありました。
明治維新を迎えると、明治政府から神仏分離政策にともなう「修験道廃止令」が1872年に発布されたことにより、全国各地の修験道組織は解体を余儀なくされ、修験道寺院も次々と廃寺の憂き目に遭いました。
そして、それにともない人々の修験道への信仰も衰退していったのです。
しかしながら、さる平成13年、役行者神変大菩薩1300年御遠忌を機として、修験教団たる真言宗醍醐派総本山醍醐寺・本山修験宗総本山聖護院・金峯山修験本宗総本山金峯山寺の三つの本山が一堂に会し、御遠忌合同大法要を、山上ヶ岳の大峯山寺本堂において厳修。
さらにこの機会をもって、役行者の遺徳と修験道の世界により多くの人々に触れていただき、その目指す所をご理解いただくべく、役行者ゆかりの三十六寺社が集まって、この「役行者霊蹟札所会」を結成するはこびとなりました。
それは、平成の世における、新たな修験道の出発でもあります。
このサイトで紹介されております「役行者霊蹟札所巡礼」は、その一つの表現であります。
皆様が、役行者ゆかりの寺々、山々を巡り、その遺徳に触れ、大自然を道場とした山岳抖藪の実践行を共有され、霊蹟札所を巡られることは、修験道の長い歴史に新たなる一ページを加えるものと確信しております。
役行者霊蹟札所会
役行者霊蹟札所総会
去る令和三年六月二十五日、紀州根來寺湊御殿において、役行者霊蹟札所総会が開催されました。
総会では小松新会長・大塚副会長・近藤副会長など新役員の就任等が審議され、承認されました。
また、今期の総会法要は例年行われてきた平和祈願祭ではなく、時勢を鑑みてコロナ感染症疫病退散祈願会として執行し、根來寺一山修法による護摩供で、役行者霊蹟札所会疫病退散の御札を製作し、開眼いたしました。
この御札は、一字院に三体配布し、各加盟寺社で一年間、札所会として疫病退散の祈念することを決定いたしました。
新・旧会長挨拶
今般、以下の通り就任いたしました。
役行者尊の御霊威にあやかり、誠に微力ではございますが、これよりは当札所会の円滑な運営と更なる充実の為に全力を尽くしてまいります。
何卒、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
会長:法樂寺住職 小松光昭
副会長:千光寺住職 大塚静弘
副会長:神峯山寺副住職 近藤孝道
役行者霊蹟札所会 会長 小松光昭
平成二十三年より三期十年間に亘り、皆様のお力添えのもと役行者神変大菩薩顕彰に勤めてまいりましたが、今後は若い世代に引き継いでいただくことと相成りました。
これまでのご懇情いに感謝申し上げと共に、今後も相変わらませず当札所会発展の為にお力添え賜ります様、宜しくお願い申し上げます。
前会長:七宝瀧寺貫主 東條仁哲
前副会長:泉州松尾寺住職 高岡保博
前副会長:金峯山寺長臈 田中利典
役行者霊蹟札所会 旧会長 東條仁哲
三十六寺社紹介
https://t.co/E0T8E6I0oW
ここでは、役行者霊蹟札所となっている三十六の寺社のそれぞれご紹介しております。
以下に挙げている画像、または寺社名をクリックすると、各寺社の簡単な縁起や交通情報、GoogleMapを利用した周辺地図など、個別にご紹介しているべージを表示します。
画像:きんぷせんじ
金峯山寺
奈良県
画像:にょいりんじ
如意輪寺
奈良県
画像:ちくりんいん
竹林院
奈良県
画像:さくらもとぼう
櫻本坊
奈良県
画像:きぞういん
喜蔵院
奈良県
画像:ぜんぷくじ
善福寺
奈良県
画像:だいにちじ
大日寺
奈良県
画像:とうなんいん
東南院
奈良県
画像:ほんざんじ
本山寺
大阪府
画像:おおみねさんじ
大峯山寺
奈良県
画像:りゅうせんじ
龍泉寺
奈良県
画像:すぎょうじ
菅生寺
奈良県
画像:きっしょうそうじ
吉祥草寺
奈良県
画像:せんこうじ
千光寺
奈良県
画像:ほうざんじ
寶山寺
奈良県
画像:りょうせんじ
霊山寺
奈良県
画像:まつおでら
松尾寺
奈良県
画像:ちょうごそんしじ
朝護孫子寺
奈良県
画像:むろうじ
室生寺
奈良県
画像:おおのじ
大野寺
奈良県
画像:しょうごいんもんぜき
聖護院門跡
京都府
画像;だいごじ
醍醐寺
京都府
画像:かぶさんじ
神峯山寺
大阪府
画像:ほうらくじ
法楽寺
大阪府
画像:せんしゅうまつおでら
松尾寺
大阪府
画像:しっぽうりゅうじ
七寶瀧寺
大阪府
画像:ひろかわでら
弘川寺
大阪府
画像:かんしんじ
観心寺
大阪府
画像:てんぽうりんじ
転法輪寺
奈良県
画像:せんじゅうじ
千手寺
大阪府
画像:てんりゅういん
天龍院
大阪府
画像:こうほうじ
興法寺
大阪府
画像:ねごろじ
根来寺
和歌山県
清荒神清澄寺
兵庫県
画像;すまでら
須磨寺
兵庫県
画像;いぶきさんじ
伊吹山寺
滋賀県
三十六寺社マップ
https://t.co/f25ucnW4Ho
ここでは、二府四県にまたがって点在している、役行者霊蹟札所の分布図を、ご紹介しております。
札所それぞれの詳細な位置情報、ならびにアクセス方法などは、三十六寺社紹介の各寺社それぞれを紹介するなかに記載しておりますので、そちらをご参照下さい。
修験道とは何か
https://t.co/TwzOkxiyCc
修験道とは
修験道は、山を聖域と見、その聖域の奥深くまで分け入って修行することによって、神秘的な力を得、その力によって自他の救済を目指そうとする山岳信仰の宗教です。
このようなことから、修験を「山伏(やまぶし)」と言うこともあります。
修験との名称は、その字の如く、「修行して験力を顕す道」であるということから名づけられたものです。
修験道は、自然の中でも特に「山」を神聖視してきた倭国人古来の山岳信仰に、インドの宗教である仏教や、中国の宗教である道教や儒教など、外来の宗教が結びつき、さらにそこに神道や陰陽道、民間信仰などまでが取り入れられ、次第に形成されてきました。
修験道の教義や世界観、修行方法は、ほとんどの場合仏教、とりわけ密教のものが取り入れられており、そのため仏教や密教についての知識がなければ、まず修験道を理解することは出来ません。
しかし、では「修験道=仏教」かというと、そうとは言えません。
これは、中世より修験道を伝えたのが、役行者のような在俗の者だけではなく、仏教僧のなかでもとりわけ密教僧が主体であったためです。
よって、「修験道は仏教の一部」と見なされる場合が多く、修験道を仏教の修行法の一つとして考えられています。
修験道とは、倭国古来のきわめて漠然とした宗教的心情を、主に仏教の思想体系によって整理し、さらにその他の宗教をも換骨奪胎して形成されてきた「倭国独自の宗教」である、と捉えるのが妥当かもしれません。
修験道の歴史
修験道は、7~8世紀に大和葛城山で活動していた呪術者、「役小角(えんのおづの)」によって開創されたと伝承されています。
もっとも、現実には、役小角が当初、具体的にどのような思想を持ち、どのような修行を行っていたかは、ただ葛城山の中に住んで呪術を駆使していることが知られているだけで、詳しいことはわかっていません。
そして、そのような役小角は、弟子の讒言により島流しに処されたことが伝えられています(『続倭国記』)。
又、奈良中期から末期にかけて、仏教僧の中に山林修行を行う者が多数現れます。
平安期初頭に密教が倭国に伝えられると、修験道は、主に密教の僧侶による主導のもと、仏教のなかでも特に密教の体系的な思想と修行法を導入した、「仏教の一派」「仏教の修行法の一つ」とも言い得るものになっていきます。
現在、修験道の当山派と本山派という二大流派の派祖として崇められている聖宝と増誉は、それぞれ真言密教僧と天台密教僧なのです。
奈良時代には、国家から危険視されて規制の対象となり、社会からも賤民(せんみん)として扱われさえしていた山林修行者の一部は、真言密教を初めて倭国に伝えた空海や、天台宗の密教を伝えるために唐に渡った、円仁(えんにん)・円珍(えんちん)などによって、密教が隆盛を迎えるようになった平安期になると、貴族達などからむしろその験力、呪力などによる現世利益が期待される存在となり、ある程度の社会的地位が約束されるようになったようです。
鎌倉初期には、必ずしも僧侶でない一般の山林修行者達が、修験道独自の集団を形成していき、次第に神道や陰陽道などさまざまな宗教の思想を取り込みつつ、民衆の支持を集めていったようです。
そしてその修行や活動拠点は、葛城山・大峰山・金峯山・熊野三山だけでなく、富士山・羽黒山・彦山・御嶽山・大山・白山など全国各地に広がりを見せ、それぞれが独自の教義や一定の組織を持つに至ります。
しかし、江戸幕府が開かれると、それら全国各地に展開していた修験者たちは、一部を除いて、真言系の当山派か天台系の本山派の、何れかの派に所属させられることになります。
明治維新を迎えると、国家神道の(「神道とは宗教のような低俗なものでなく、より普遍的科学的な人の道」とする)建前上、神道を含んだ様々な宗教の混淆である修験道は、容認できるものでなかったため、明治元年(1868)から明治5年(1872)にかけての太政官達によって、公式には廃止されます。
しかし、それまで修験道を支持していた人々の信仰や、祭祀などの慣習まで廃することは出来ず、また修験道側も、組織として真言宗醍醐派や天台宗寺門派に属してその命脈を保とうとするなど、なんらかの形で存続します。
そして、昭和の大戦後、修験道諸流は、それぞれが宗教法人格を取得するなどして、一個の独立した宗教として復活することになります。
修験道大結集
年号変わって平成の世となった平成16年7月1日、大峯山・熊野三山・高野山の三つの霊場と、大峯奥駆道・熊野古道・高野山町石道の三つの参詣道が、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界遺産に登録されます。
これを期に、全国各地の修験道諸派を集結して「修験道大結集(しゅげんどうだいけつじゅう)」が催され、世界の平和を祈ると共に、今後も修験道が社会で活動を展開し、共に発展していくことを確認しあいました。
修験道は、倭国古来の、そして現代にも息づく宗教であり、倭国文化の一端を担う存在でもあるのです。
開祖 役行者(えんのぎょうじゃ)
https://t.co/fOKpTDudkj
役行者とは
写真:役行者坐像(大峯山寺蔵)
「役行者(えんのぎょうじゃ)」とは、7~8世紀に奈良を中心に活動していたと思われる、修験道の開祖とされている人物です。
「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われ、またほかに「役優婆塞(えんのうばそく)」、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」、「山上様(さんじょうさま)」などの呼び名があります。
役行者が、7~8世紀に実在したことは確かなようですが、生没年など詳しいことは不明です。
もっとも、伝説の多くは、舒明天皇六年(634)1月1日に大和国茅原にて生まれ、大宝元年(701)、68歳の時に「没した」のでなく、「昇天した」としています。
いずれにせよ、この世の人でなくなった、ということでしょう。
「役優婆塞」とは、平安初期に成立したと目されている『倭国霊異記』における役行者の呼び名です。
優婆塞(うばそく)とは、サンスクリット「upāsaka(ウパーサカ)」の音写語で、「在家仏教信者」を意味する言葉です。
役行者は、僧侶ではなく、在家仏教信者として修行した人です。
このサイトでもっぱら使っている「役行者」という呼称は、平安期に入ってから使用されだしたもののようです。
それ以前の奈良時代には、「役君小角」と一般に呼ばれていたようですが、詳細は不明です。
「神変大菩薩」とは、盈仁(えいにん)法親王がつとめられた「役行者一千百年御遠忌」を機に、聖護院門跡に三年間仮御所を置かれいた光格天皇が、寛政十一年(1799)、役行者に贈った諡号(しごう)です。
諡号とは、僧侶や貴人などの死後に、その生前の行いを尊んで朝廷から贈られる名です。
さて、役行者にまつわる伝説は、大変多く残されており、それらが記された書物なども数多く伝わっています。
それら伝説のなかで、役行者は、不思議な力を駆使して空を、野山を駆けめぐり、鬼神を自在にあやつった人とされています。
伝説には、奇想天外にすぎて、現代的には到底信じがたいようなものが多くあります。
しかし、いずれにせよ、役行者とは、数々の不可思議な事績をのこした偉大な修行者、修験道の開祖として崇められてきた存在です。
しかし、そのように伝説に彩られた役行者ですが、それが実在の人物であったことを確認できる正史と言われる史料は、非常に限られています。
いや、たった一つで、しかもわずか数行でしかありません。平安初期に編纂された、『続倭国紀(しょくにほんぎ)』にある記述がそれです。
『続倭国紀』にみる役行者
「文武天皇三年五月丁丑」
役君小角(えんのきみ しょうかく) 伊豆島ニ流サル。
初メ小角葛城山(かつらぎさん)ニ住シ呪術ヲ以テ称サル。
外ノ従五位下韓国連廣足(からくにのむらじ ひろたり)焉ヲ師ト為ス、後其ノ能ヲ害(そね)ミ、讒(ざん)スルニ妖惑ヲ以テス。
故ニ遠島ニ配セラル。
世ニ相イ伝エ言ク。
小角能ク鬼神ヲ役使シ、水ヲ汲ミ薪ヲ採セ、若シ命ヲ用ヒザレバ即チ呪ヲ以テ之ヲ縛ス。(原漢文)
〈訳文〉
文武天皇3年(699)5月24日、役君小角が伊豆島に流された。
小角は葛城山に住み、呪術をよくすると、世間の評判であった。
従五位下の韓国連廣足という者が、当初この小角を師と仰いでいたが、その能力をねたんで、(役小角が)人々に妖言を吐き惑わしていると朝廷に誹謗中傷した。
そのため、(小角は)遠島の刑に処せられたのである。
世間の噂では、小角は巧みに鬼神を使役して、水を汲んだり薪を採らせ、もし(鬼神が)命令に背くようならば、たちまち呪術によって身動きがとれないようにしてしまう、などと言われている。
ここからわかることは、「鬼神を使役できると世間で噂されている、葛城山に住む行者の役君小角が、従五位下というかなり高い官位にあった弟子の告発で島流しにあった」ということだけです。
正史からは、役行者の人となり、生い立ちや思想などはまったく知ることが出来ません。
しかも、役行者が流刑に処せられたのは事実としても、その業行は、あくまで「世間の噂」でしかありません。
宗教者が社会を「妖惑」するのは、いつの世も為政者にとって、とても危険なことです。
例えば「僧尼令」でも、社会を妖惑する行為を第一条にて禁じています。
正規の僧尼でも、これを行うものは処罰されたのです。
役行者のように、山に住んでいる「在俗の者」がこれを行うのは、なおさら危険とされて配流されたのは当時として当然と言えるでしょう。
役行者に関連して、正史から知られることは、ただこれだけのことです。
『倭国霊異記』にみる役行者
次に挙げるのは、史料ではなく、あくまで説話集です。
同じく平安初期に、『続倭国紀』にやや遅れて成立したとされる、薬師寺の僧景戒(きょうかい)によって編纂された倭国最古の説話集、『倭国現報善悪霊異記』いわゆる『倭国霊異記(にほんりょういき)』です。
この上巻に、当時の世間一般が流通していたであろう、役行者にまつわる説話が収録されています。
ここでは、『続倭国紀』に見られなかった、役行者の出自についてなどが若干記されており、いかなる修行を行っていたかを多少描かれています。
むろんこれは説話集ですから、それが事実であったかどうかは別の話です。
「孔雀王の咒法を修持し、異しき験力を得て、現に仙と作りて天に飛ぶ縁 第二十八」
役優婆塞(えんのうばそく)は、賀茂役公(かものえのきみ)、今の高賀茂朝臣(たかかものあそん)といふ者なり。
大和国葛木上郡茅原(ちはら)村の人なり。
生(うまれながら)知り博学一なり。
三宝を仰ぎ信(う)けて業とす。
毎(つね)に庶(ねが)はくは、五色の雲に挂(かか)りて、仲虚(なかぞら)の外に飛び、仙宮の賓と携り、億載(おくさい)の庭に遊び、蘂蓋(すいがい)の苑に臥伏(ふ)し、養性(ようじょう)の気を吸ひ、くらふことをねがふ。
所以(ゆえ)に晩年四十余歳を以て、更に巌窟に居り、葛を被、松を飲み、清水の泉を沐み、欲界の垢を濯ぎ、孔雀の咒法を修習し、奇異の験術を證し得たり。
鬼神を駆使得ること自在なり。(以下略:後述)〈*原漢文〉
〈訳文〉
「孔雀明王の呪法を修め、不思議な力を得て、現世で仙人となって天に飛んだ話 第二十八」
役優婆塞は、賀茂役公、今の高賀茂朝臣の出身である。
大和国葛木の上郡茅原村の人であった。
生まれつき博学でぬきんでており、仏法僧の三宝を深く信じていた。
いつも(彼が)心に願っていたのは、五色の雲に乗って、果てしない空を飛び、仙人の宮殿にいる客人と一緒になって、永遠の楽園や、華の満ちた苑起居してその「気」を得、身心生命を養う事を心掛けていた。
(若い頃からそのようにねがっていたので、)四十歳を過ぎるころには、洞窟で生活するようになり、葛で作った着物を羽織り、松の実を食べ、清らかな湧き水で沐浴するなどして、俗世間の垢を落とし、孔雀明王の呪法を修行して、不思議な力を得たのである。
鬼神を使役することは自由自在であった。(以下略:後述)
原文の全てとその訳文を掲載するのは長くなりすぎるため、省略いたしました。
以上に述べられているのは、役行者は、三宝に帰依する優婆塞あり、その上に道教的、密教的な苦修練行によって不思議な修験の術を得たというのです。
ここでは道教と仏教とが混在しており、なんとも奇妙ですが、これが『倭国霊異記』当時の倭国民族宗教に対する一般的な見方とも考えられます。
これは、いまだ弘法大師空海によって、悟りをその第一目的とする「純密(じゅんみつ)」が、唐からもたらされる以前に行われていた、悟りを第一目的にするのでなく、超自然的能力の獲得をこそ主目的とする「雑密(ぞうみつ)」を、役行者が行っていたとする伝承と見ることが出来るでしょう。
また、修験がまだ正統な密教の影響を多分にうけて「修験道」として成立していない時代の反映とも見ることも出来るでしょう。
さて、以下に、先ほどは長きに過ぎて省略した箇所の、概要だけを示しておきます。
<概要>
この後、孔雀明王の呪法を習得した役行者は、鬼神達に、「金峯山(きんぷせん)と葛城山(かつらぎさん)の間に橋を架けろ」と、(途方もない無理難題を)言いつけます。
鬼神達はそんなことは到底出来ない、と悩み、困り果てます。
そこで、葛城山の一言主(ひとことぬし)という神は、(役行者の無理難題から逃れるため、人にとりついて)「役行者が、文武(もんむ)天皇を抹殺しようとしている」という託宣をさせます。
当然、文武天皇は、役行者を捕縛しようとしますが、役行者は不思議な力があるため容易に捕まりません。
そこで、天皇が役行者の母を捕らえると、役行者は母のために自ら捕縛され、伊豆に流されます。
役行者は、昼は刑罰どおり伊豆でおとなしくしているも、夜になると富士山に飛んで行き、そこで修行する日々を送っていました。
しかし、何者かが再び天皇へ讒言(ざんげん)したため、役行者は今度こそ極刑に処されかけます。
ところが、不思議な出来事があって助かるのでした。
伊豆での生活も3年を過ぎた大宝元年(701)正月、役行者は恩赦(おんしゃ)によって許され、大和に帰ります。
そして、役行者はついに仙人となって、どこか天高く飛んでいってしまうのでした。
この後、倭国の道照(どうしょう)という高僧が、天皇の命によって唐に渡り、そこで五百人の中国僧を前に『法華経』を講義していると、倭国語で問い掛けてくるものがあります。
道照が「誰だ」とその名を問うと、「役優婆塞」という返答があります。
道照は、倭国の聖人に違いないとおもってその声の主を探しますが、ついに見つけることは出来ませんでした。
さて、役行者を讒言(ざんげん)によって流罪にさせた一言主は、いまだに役行者によって呪縛されたまま(『倭国霊異記』編纂当時)だといいます。
以上が、『倭国霊異記』に掲載される役行者の説話です。
この説話の最後は、「役行者があらわした奇瑞はあまりに多く、それらを逐一挙げることは面倒である。ほんとうに仏法の不思議な力は広大で、信仰した者は必ずそれを知ることになるだろう」と結んでいます。
さて、以上はあくまで説話、いわゆる「お話」でありますが、例えば、唐で役行者の声を聞いたという道照は、白雉四年(653)から斉明天皇五年(660)にかけ唐に渡り、かの玄奘三蔵に師事して学んだ高僧で、文武四年(700)に没した人です。
しかし、そうすると、『続倭国紀』の記事にある「699年に役小角が伊豆に流された」と、『倭国霊異記』の「701年(以降)に役小角がどこか天高く飛んでいった」「その後、道照が役行者の声を唐で聞いた」とする話とでは、半世紀ほどの年代的ずれが生じていることがわかるのです。
役行者が「どこかに飛んでいった」ときには、道照はすでに没してこの世に無かったのですから、この話は虚構に過ぎないと言えるでしょう。
また、別の側面から一言すると、そもそも役行者が流罪に処されたのは、鬼神達に対して全く理不尽と言える要求をしたことに起因しており、よって自業自得であったとも言えます。
しかし、役行者は一言主神(ひとことぬしのかみ)を呪縛して放置するなど、仏教者として意外とも思える行動に出ていることが描かれています。
が、それでも『倭国霊異記』の中で尊敬の対象とされ描かれているのは、『倭国霊異記』の編者景戒が、役行者の「不思議な力を獲得していた」という伝承をこそ重く見たためでしょうか。
しかし、この『倭国霊異記』の説話が、後代まで語り継がれることとなる、伝説的存在としての役行者の姿を描いた原型となったことは間違いないと見て良いでしょう。
役行者を「役優婆塞(えんのうばそく)」と仏教の在家信者としていること。
仏教と道教との混同がみられること。
『孔雀王呪経』という密教経典に基づくと考えられる、孔雀明王の呪法を行ったとしていること。
富士山で修行したとすること。
仙人となって中国に渡った、などといった点がそれです。
このような『倭国霊異記』に見られる、伝説的存在としての役行者像の原型は、幾多の書物の中に踏襲され、鎌倉・室町・江戸と時代が下るごとに、さらに超人的能力を持った者として描かれていきます。
そしてまた、『倭国霊異記』ではある観点からすると、むしろ「不思議な力で鬼神をも使う呪術者」とも捉えうる人であったのが、後代になるに従い前鬼後鬼を改心させた、あるいは雨乞いの民衆を助けた等の民話が出てきて「人格的にも優れた立派な人であった」と描かれるようになっていき、全国各地で民衆の信仰をより集める存在となっていきます。
当山派祖 聖宝(しょうぼう)
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聖宝とは
画像:聖宝(愛知 林昌院蔵)
聖宝(しょうぼう)とは、平安初期(832-909)に活躍した真言宗の僧侶で、修験道中興の人とされ、当山派修験の祖と仰がれる人物です。
また、「小野流(おのりゅう)」と言われる、真言密教における事相(じそう)の二大流派の一つの基礎を築いた人としても、仰がれています。
俗名は、「恒蔭王(読み不明)」といい、天智天皇の後裔であったと言われています。
聖宝には、宝永四年(1707)に、第113代東山天皇から贈られた、「理源大師(りげんだいし)」との諡号(しごう)があります。
聖宝が生まれたのは天長九年(832)、出生地は諸説あって、はっきりとわかっていません。
大和国(奈良)説がよく挙げられますが、讃岐国(香川)であるとしている伝記(『元亨釈書(げんごうしゃくしょ)』)もあります。
聖宝は、14才で空海の実の弟で十代弟子の一人にも挙げられる、東大寺の真雅(しんが)に従って出家。
いわば空海の孫弟子となります。
以降、南都の諸大寺にて、三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん)など顕教を学び、真雅や金剛峰寺の真然(しんぜん)、東寺の源仁(げんにん)から密教を受けて、56才で真言密教の正統な継承者となっています。
また、聖宝は、貞観十六年(874)に、京都山科は笠取山上で、准貞観音(じゅんてい かんのん)と如意輪観音(にょいりん かんのん)を祀る小堂を建立しています。
のちの醍醐寺です。
そして、貞観十七年(875)には、東大寺大仏殿の東南に、薬師堂を創建。
のちの東大寺東南院です。
これら両寺は後代それぞれの地で、政治的に大変な権勢を誇る大寺院となっていきます。
そして、聖宝は、寛平二年(890)に貞観寺(じょうがんじ)座主、同じく寛平六年(894)には、当時の真言宗の最高位たる東寺長者となり、朝廷より僧正位を賜っています。
また、東大寺別当も勤めるなど数々の重席についています。
しかし、延喜九年(909)には諸職を辞して、京都深草の普明寺(ふみょうじ)に退き、ついに同年七月六日、没しています。享年78歳。
山林抖藪の人
世間の喧噪から離れて、静かで得体の知れぬ、時として恐怖すら感じる山奥深くに、必要最低限の物だけを携えて独り分け入り、樹の下や洞窟で寝起きし、そこで冥想して心を清めるという修行。
このような修行を、仏教では「頭陀(ずだ)行」の一つに数えています。
この修行によって行者は、衣食住や名誉・権勢などへの執着のむなしさを知って、これを断ち切り、心を清めるのです。
頭陀とは、「ふりはらう」を原意とする、サンスクリット「dhūta(ドゥータ)」の音写語で、一般に「禁欲生活」の意味に用いられる言葉です。
「抖藪(とそう)」とは、このdhūtaの漢訳語です。
奈良中後期から平安初期にかけ、権力にあまりに近くなりすぎたが為に堕落した僧侶たちの存する教界を嫌い、それが国禁でありながらも山林に入って修行に励む、正式な僧侶や半俗の者が多数あったようです。
中国から倭国に密教を伝えた空海、天台や密教の一部を伝えた最澄など、平安期仏教界の立役者ともいうべきこの龍象も、若かりし頃、栄誉権勢を嫌って深山に身を投じ、頭陀を行じていたことが、彼ら自身の著作から直接知ることが出来ます。
聖宝もまた、その晩年こそ天皇や貴族達の帰依を受け、朝廷から庇護されて、かずかずの重席につくなど、権勢をほしいままにする地位にありましたが、若かりし頃から、南都諸大寺で学問を修めるだけでなく、役行者に心酔して、吉野などにて山林抖藪(さんりんとそう)の行に励んだ、実践修行の人だったのです。
当山派修験の祖
聖宝は、役行者以降途絶えていたと言われる、大峯山(おおみねさん)の入峯(にゅうぶ)修行を、正式に再興しています。
さて、聖宝は、大峯山を「一乗菩提正当の山」であると把えています。
これは、大峯山が「生きとし生けるものが皆等しく悟りに至り得る真実の山」であるという意味です。
この「正当の山」という言葉から、後代に聖宝を祖と仰ぐ修験道の流派は、自らを「当山派」または「当山方」と名づけたのです。
また、伝説では、寛平七年(895)、聖宝は大峯山中にて、金剛蔵王(こんごうぞうおう)菩薩の姿をとって現れた役行者に出遇い、龍樹(りゅうじゅ)菩薩に引き合わされて、「恵印法流(えいんほうりゅう)」という秘法を伝授されたとしています。
この不思議な伝授は「霊異相承(りょういそうじょう)」と言われます。
「恵印法流」は正式には、「最勝恵印三昧耶法(さいしょう えいん さんまやほう)」といい、当山派修験道の特徴、核心とも言える修行法で、今に伝えられています。 November 11, 2025
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実際その要素あると思う。たまたま最近『三体』読んだんだけど、その中で「女は安全保障には関わる資格のない欠陥生物」って思想がモロに本筋に組み込まれててギョッとしたんだよね。単にそういう男がいるってんじゃなくて、国際的ヒットSFを書ける作家という、最も先進的であろう男性でそうなんだと。 https://t.co/BqgAq5Bo49 November 11, 2025
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ヘイルメアリー予告のコメント欄で「これも『三体』のアンサーの一つ」と紹介されてた「一億年のテレスコープ」読了。たしかにこちらもめっちゃ性善説SFで良かった。 November 11, 2025
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@marumizog 三体は購入して何年も経ち、やっと重い腰を上げて読んでみたら2、3日で読破しました
ヘイルメアリーは去年購入してからずっと放置してますが映画の前に読みたい気持ちだけはある November 11, 2025
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三体、いったい何度世界が滅びる描写を読んだだろうってくらいあらゆる滅びを、美しく、禍々しくさまざまなパターンでたくさんお出しされるので世界が滅亡する系の話好きな人はお腹いっぱいになれます。 November 11, 2025
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@marumizog 三体は読んでないけど星を継ぐものとか鋼鉄都市とかファウンデーションとかハイペリオンとかは読んだ
あんまりsf読めてるほうじゃないから三体も読んでみるか
あの人の短編集の円ってやつは読んだけど November 11, 2025
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三体はどこから読んでも面白いと聞いたので最終巻から買ったら職場の読書好きな後輩に「最初から読んでください💢💢💢💢💢💢💢💢」とマジのお叱りを受けた話をまたするとはね November 11, 2025
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