医療体制 トレンド
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2025.11.29 03:00
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◆第2章 「白い廊下で、誰の声が消されていくのか」
医療現場に身を置いて一年ほどが経った頃、私は大きな壁にぶつかっていた。技術や知識の不足ではなく、「声の優先順位」についてだった。
診察室で患者が涙ながらに訴える言葉を、カルテに入力しながら淡々と聞き流す医師。
ナースステーションでは「患者の希望」よりも「病棟運営の効率」が議題にされ、家族の心情は「情緒的対応」として分類されていく。
誰も間違っていない。けれど、どこか決定的に正しくもなかった。
私の中でいつも巡る問いがあった。
――もし自分がこのベッドに寝る側だったら、何を聞いてもらいたいだろう?
その問いを完全に無視したまま進む医療を、私はどうしても「美しい」とは思えなかった。
そんなある日、夜勤明けの休憩室で先輩看護師の三浦さんが言った。
「金子さんは、患者さんのこと考えすぎなのよ」
柔らかい微笑みの裏に、どこか達観した響きがあった。
「考えすぎ?」と私が聞き返すと、三浦さんは紙コップのコーヒーを揺らしながら言った。
「この仕事は“救う”って思いすぎると苦しくなるの。割り切らないと続かないから」
その言葉に反論できなかった。
でも胸のどこかがじんわりと痛んだ。
割り切るためにこの仕事をしているんじゃない──そう思った自分を、誰にも見せられなかった。
翌週、ある患者さんが入院してきた。
名前はここでは伏せるけれど、とても小柄な女性で、笑うと目尻に小さな皺が寄る人だった。
治療の合意形成に時間がかかっており、医師・家族・本人の希望が食い違っているケースだと申し送りにあった。
初めて声をかけたとき、彼女は少し戸惑ったような笑顔で言った。
「本当はね、治療を続けたいの。痛いし辛いけど、まだやり残したことがあるから」
その声ははっきりしていた。
だけどカルテの要約欄には、「治療意欲は弱い」「家族に配慮して発言が揺れている可能性あり」と書かれていた。
私は迷った。
記録の責務と、目の前の声。そのどちらを選ぶべきか。
でも結局、私は目の前の声を選んだ。本人の言葉をそのまま記録した。
翌日のカンファレンスで、主任医師が私の記録を読み上げた。
「本人の発言が揺れている可能性を考慮して、家族側の意思決定支援を優先する方向で」
私の記録は、結局“揺れている”という根拠として扱われた。
患者本人の言葉が、まるで最初から“弱い声”として分類されていたかのように。
胸の奥がぐっと締めつけられた。
会議室の空気は冷静で、誰の感情も怪我をしないように丁寧に運び込まれていた。
なのに、最も傷つきやすいはずの患者本人の声だけが、永遠に宙づりにされていた。
仕事を終え、自転車で帰りながら私はイヤホンを耳に差し込んだ。
再生されたのは例のJ-POPの曲ではなく、最近ハマっていた強いメッセージ性を持つロックのバラードだった。
「世界はまだ間違ってるけど、腐るにはまだ早い」
そんな歌詞があった。
その一行が、心の奥に深く沈んでいた痛みに突き刺さった。
間違っているからこそ、何かを変えたいと思うんじゃないか。
現実が理想と違うからこそ、生き方が試されるんじゃないか。
私はそう思った。いや、無理やり思い込もうとしたのかもしれない。
その患者さんの退院が決まったのは、それからさらに数週間後だった。
帰り際、ベッド横で立ち話をしていると、彼女が突然私の手を握ってきた。
「ありがとう。あなた、ちゃんと私の言葉聞いてくれてた」
息が詰まるほど衝撃だった。
記録は反映されなかった。治療方針も変わらなかった。医療体制も社会構造も何ひとつ変えられなかった。
でも――たったひとりに届いていた。
涙はこらえた。
私が泣く場所じゃないから。
彼女が病院の出口に向かって小さく歩いていく姿を見送りながら、私はささやかな誓いを胸に刻んだ。
「声が小さい人の声を、誰よりも大切に聞ける人でいたい」
どれだけ非効率だと言われても、現場の空気に呑まれても、社会が鈍感であっても。
病棟の白い廊下を歩きながら、私はそっと呟いた。
――私はまだ諦めていない。
その声は小さかったけれど、確かに自分自身に届いた。
世界はすぐには変わらない。
でも、変わるまで立ち尽くす人間がひとりでもいたら、いつか必ず違う景色が見られると信じたい。
たとえそれが幼い理想だと言われても。
白い廊下の先、病棟の窓から差し込む陽光が床に細い線を描いていた。
その光の帯を跨いだ瞬間、心の奥で音楽がそっと再生された気がした。
あの日の夏と同じように。 November 11, 2025
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