秋分の日 トレンド
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2025.11.23
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今日は勤労感謝の日ですが、本来は、天皇陛下がその年の五穀豊穣に感謝し、収穫の恵みを祝う「新嘗祭」です。
西村幸祐先生がご指摘のとおり、欧米のキリスト教国では感謝祭Thanksgiving Dayなので、新嘗祭と呼ぶ方が、倭国文明圏とキリスト教文明圏で共有できる祭本来の意味になりますね。
GHQによって廃止された神道の祭日、春季皇霊祭と秋季皇霊祭が名前を変えて春分の日、秋分の日の祝日になりました。同様に建国記念の日を紀元節、天皇誕生日を天長節、勤労感謝の日を新嘗祭に戻しましょう。
さて、新米は新嘗祭が終わってから食べましょう。(お写真は陛下が9月9日、皇居で稲刈りをされたときのもの) November 11, 2025
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「御来光の道」は、北緯35度22分の線上に倭国の主要なパワースポットや聖地が一直線に並ぶという概念です。このラインは、春分の日と秋分の日の太陽の軌跡と一致するとされ、古代の人々が太陽の動きを基に意図的に都市計画や聖地の配置を行った可能性を示唆するものとして注目されています。
御来光の道の概要
•北緯35度22分:この緯度線上に多くの重要な地点が位置しています。
•太陽の運行:春分と秋分の日の出は、このラインの東端から昇り、西端近くへと沈んでいきます。
ライン上の主なスポット
画像や検索結果によると、このレイライン上には以下の場所が含まれます:
•出雲大社(島根県)
•大山(鳥取県)
•元伊勢(京都府)
•伊吹山(滋賀県)
•竹生島(滋賀県)
•南宮大社(岐阜県)
•富士山(静岡県・山梨県)
•寒川神社(神奈川県)
•玉前神社(千葉県)
深掘り情報
•古代の測量技術: このような広範囲にわたる正確な配置は、古代の高度な測量技術や天文学の知識があった可能性を示唆していると考えられています。
•パワースポット: ライン上の各地点は、それぞれが強力なパワースポットや歴史的な霊場として知られており、点ではなく線として訪れることで、より強い「気」を感じられると信じられています。
•信仰の道: このラインは、出雲神話や富士山信仰、伊勢神宮の歴史とも深く関連しており、倭国古来の自然崇拝や信仰心が形作った「祈りの道」であるとも言えます。 November 11, 2025
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11月23日(日曜日)
おはようございます🎌🇯🇵🏵️
🎌 【勤労感謝の日】🇯🇵
🎌 『勤労感謝の日』は古代の収穫感謝祭である「新嘗祭(にいなめさい)」に由来し
『11月23日』はたまたま太陽暦導入時の
「新嘗祭の日」にあたる11月の第2卯の日だった為1873年以降その日付が固定されて『勤労感謝の日』に引き継がれました🍀
🎌 新嘗祭(にいなめさい):
🇯🇵 もともと宮中行事としてその年の新穀を神々に捧げて感謝する日でした🍀
🎌 旧暦:
🇯🇵 「新嘗祭」は旧暦11月の第2卯の日に行われていました🍀
🎌 太陽暦導入:
🇯🇵 1873年に太陽暦が導入された際
旧暦の第2卯の日を新暦に当てはめると「11月23日」になりました🍀
🎌 日付の固定:
🇯🇵 翌年から日付が変動しないように
「11月23日」に固定され『勤労感謝の日』
へと引き継がれました🍀
🎌 勤労感謝の日への改称:
🇯🇵 1948年に「国民の祝日に関する法律」
により「新嘗祭」から『勤労感謝の日』
に改称されました🍀
- ̗̀ 🚨 ̖́- 🎌 🇯🇵 🏵️
🚨 祭日というのは:⁉️
🚩 その字の通り「神道のお祭り」を行う日のことでした🍀
🚨 祝日というのは:⁉️
🚩 法律で決められている「国民の祝日」のことです🍀
🚨もともとの祭日は:⁉️
11月23日の勤労感謝の日
1月1日のお正月
2月11日の建国記念の日
春分の日
秋分の日
そのときの今上天皇の誕生日などが該当します。
🚨戦後「祭日」という言葉は使われない!
『祝日』に統一されています‼️
カレンダーや営業時間の案内などに
『祝日』とあるはずです‼️
漠然と「祝祭日」といった言葉が使われる事
もありますが本来の由来を知る事で
休日が『祝日』なのか「祭日」なのかを意識
しやすくなります🍀
🏵️ 菊は皇室の紋章に用いられている
高貴さや高潔さといったイメージ‼️
#菊の花 11/22 pic November 11, 2025
7RP
秋分の日の今日は、湊川神社で催行された新嘗祭に参列しました。新嘗祭は、今年の五穀豊穣に感謝し、来る年の実りと国の安寧を祈る、我が国の最も大切な祭祀のひとつです。倭国には大小あわせて数多くの神社がありますが、その一方で神主のなり手不足、後継者不足が深刻化しています。
地域の暮らしとともに受け継がれてきた伝統文化を、次の世代へとしっかり守り継ぐ取り組みが、今こそ求められています。
その後は、地元・長田で毎年開催される神戸奄美会の総会へ。昔から大変お世話になっている皆さまと久しぶりに交流を深めることができ、心から嬉しく思いました。
郷土を想う温かなつながりを、これからも大切にしてまいります。 November 11, 2025
7RP
「御来光の道」は、北緯35度22分の線上に倭国の主要なパワースポットや聖地が一直線に並ぶという概念です。このラインは、春分の日と秋分の日の太陽の軌跡と一致するとされ、古代の人々が太陽の動きを基に意図的に都市計画や聖地の配置を行った可能性を示唆するものとして注目されています。
御来光の道の概要
•北緯35度22分:この緯度線上に多くの重要な地点が位置しています。
•太陽の運行:春分と秋分の日の出は、このラインの東端から昇り、西端近くへと沈んでいきます。
ライン上の主なスポット
画像や検索結果によると、このレイライン上には以下の場所が含まれます:
•出雲大社(島根県)
•大山(鳥取県)
•元伊勢(京都府)
•伊吹山(滋賀県)
•竹生島(滋賀県)
•南宮大社(岐阜県)
•富士山(静岡県・山梨県)
•寒川神社(神奈川県)
•玉前神社(千葉県)
深掘り情報
•古代の測量技術: このような広範囲にわたる正確な配置は、古代の高度な測量技術や天文学の知識があった可能性を示唆していると考えられています。
•パワースポット: ライン上の各地点は、それぞれが強力なパワースポットや歴史的な霊場として知られており、点ではなく線として訪れることで、より強い「気」を感じられると信じられています。
•信仰の道: このラインは、出雲神話や富士山信仰、伊勢神宮の歴史とも深く関連しており、倭国古来の自然崇拝や信仰心が形作った「祈りの道」であるとも言えます。
⏬タッチ🙌🔎🔍拡大して👀良く見て🙇🏻♀️読んで下さい🙇🏻♀️🙇 November 11, 2025
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「御来光の道」は、北緯35度22分の線上に倭国の主要なパワースポットや聖地が一直線に並ぶという概念です。このラインは、春分の日と秋分の日の太陽の軌跡と一致するとされ、古代の人々が太陽の動きを基に意図的に都市計画や聖地の配置を行った可能性を示唆するものとして注目されています。
御来光の道の概要
•北緯35度22分:この緯度線上に多くの重要な地点が位置しています。
•太陽の運行:春分と秋分の日の出は、このラインの東端から昇り、西端近くへと沈んでいきます。
ライン上の主なスポット
画像や検索結果によると、このレイライン上には以下の場所が含まれます:
•出雲大社(島根県)
•大山(鳥取県)
•元伊勢(京都府)
•伊吹山(滋賀県)
•竹生島(滋賀県)
•南宮大社(岐阜県)
•富士山(静岡県・山梨県)
•寒川神社(神奈川県)
•玉前神社(千葉県)
深掘り情報
•古代の測量技術: このような広範囲にわたる正確な配置は、古代の高度な測量技術や天文学の知識があった可能性を示唆していると考えられています。
•パワースポット: ライン上の各地点は、それぞれが強力なパワースポットや歴史的な霊場として知られており、点ではなく線として訪れることで、より強い「気」を感じられると信じられています。
•信仰の道: このラインは、出雲神話や富士山信仰、伊勢神宮の歴史とも深く関連しており、倭国古来の自然崇拝や信仰心が形作った「祈りの道」であるとも言えます。
⏬タッチ🙌🔎🔍拡大して👀良く見て🙇🏻♀️読んで下さい🙇🏻♀️🙇 November 11, 2025
2RP
おはようございます 6:19
ちょっと雨が降った朝
今日は見損なった!と思ってた映画「木の上の軍隊」を28日まで1日1回上映してる映画館見つけたので
日中雨は降らなさそうだし
太陽マークもあるし自転車🚲ふらふらで行こうと思ってまーす🚲🚲✌️
秋分の日の今日
穏やかでよい一日を 11/23 https://t.co/0hzKKwqxX5 November 11, 2025
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岩屋町(いわやまち) 長崎県長崎市
岩屋町(いわやまち) 大分県津久見市
岩谷町(いわやまち) 秋田県由利本荘市
岩屋南町(いわやみなみまち) 兵庫県神戸市灘区
院内町土岩屋(いんないまちつちいわや) 大分県宇佐市
嬉野町岩屋川内(うれしのまちいわやがわち) 佐賀県嬉野市
江刺岩谷堂(えさしいわやどう) 岩手県奥州市
大岩屋(おおいわや) 大分県豊後高田市
大宅岩屋殿(おおやけいわやでん) 京都府京都市山科区
北郷町岩屋(きたごうちょういわや) 福井県勝山市
厳木町岩屋(きゅうらぎまちいわや) 佐賀県唐津市
国東町岩屋(くにさきまちいわや) 大分県国東市
山南町岩屋(さんなんちょういわや) 兵庫県丹波市
志染町窟屋(しじみちょういわや) 兵庫県三木市
世知原町岩谷口(せちばるちょういわやぐち) 長崎県佐世保市
田代町岩谷(たしろちょういわや) 愛知県名古屋市千種区
長岩屋(ながいわや) 大分県豊後高田市
野津町岩屋(のつまちいわや) 大分県臼杵市
深草大亀谷岩山町(ふかくさおおかめだにいわやまちょう) 京都府京都市伏見区
藻岩山(もいわやま) 北海道札幌市南区
八尾町岩屋(やつおまちいわや) 富山県富山市
https://t.co/eImMdaHVPO
「いしや」を含む地名— 44 件
「いしや」を含む町域名
石屋(いしや) 富山県富山市
石薬師町(いしやくしちょう) 三重県鈴鹿市
石薬師町(いしやくしちょう) 京都府京都市上京区
石休場町(いしやすみばまち) 石川県輪島市
石屋町(いしやちょう) 京都府京都市伏見区
石屋町木屋町通三条下る(いしやちょうきやまちどおりさんじょうさがる) 京都府京都市中京区
石屋町木屋町通四条上る(いしやちょうきやまちどおりしじょうあがる) 京都府京都市中京区
石屋町先斗町通三条下る(いしやちょうぽんとちょうどおりさんじょうさがる) 京都府京都市中京区
石屋町丸太町通御幸町東入(いしやちょうまるたまちどおりごこまちひがしいる) 京都府京都市中京区
石屋町丸太町通寺町西入(いしやちょうまるたまちどおりてらまちにしいる) 京都府京都市中京区
石山(いしやま) 北海道札幌市南区
石山(いしやま) 福井県大飯郡おおい町
石山(いしやま) 新潟県新潟市東区
石山(いしやま) 北海道白老郡白老町
石山一条(いしやま1じょう) 北海道札幌市南区
石山二条(いしやま2じょう) 北海道札幌市南区
石山三条(いしやま3じょう) 北海道札幌市南区
石山四条(いしやま4じょう) 北海道札幌市南区
石山内畑町(いしやまうちはたちょう) 滋賀県大津市
石山千町(いしやませんちょう) 滋賀県大津市
石山外畑町(いしやまそとはたちょう) 滋賀県大津市
石山団地(いしやまだんち) 新潟県新潟市東区
石屋町(いしやまち) 栃木県日光市
石山町(いしやまちょう) 北海道小樽市
石山町(いしやまちょう) 愛知県一宮市
石山寺辺町(いしやまてらべちょう) 滋賀県大津市
石山寺(いしやまでら) 滋賀県大津市
石山東(いしやまひがし) 北海道札幌市南区
大村石山(おおむらいしやま) 北海道上川郡美瑛町
小国浅瀬石山(おぐにあせいしやま) 青森県平川市
「いしや」を含む地名— 44 件
「いしや」を含む町域名
切明浅瀬石山(きりあけあせいしやま) 青森県平川市
葛川浅瀬石山(くずかわあせいしやま) 青森県平川市
黒石山(くろいしやま) 宮城県気仙沼市
新石山(しんいしやま) 新潟県新潟市東区
太子山町(たいしやまちょう) 京都府京都市下京区
高城町石山(たかじょうちょういしやま) 宮崎県都城市
立石山(たていしやま) 福島県白河市
砥石山(といしやま) 北海道札幌市南区
那加石山町(なかいしやまちょう) 岐阜県各務原市
西石屋町(にしいしやちょう) 京都府京都市上京区
猫石山(ねこいしやま) 福島県耶麻郡猪苗代町
東石屋町(ひがしいしやちょう) 京都府京都市上京区
東山町石山(ひがしやままちいしやま) 福島県会津若松市
舟形石山(ふなかたいしやま) 福島県二本松市
https://t.co/OqTsN3ooCr
「いしきり」を含む地名— 13 件
「いしきり」を含む町域名
石切町(いしきりちょう) 岐阜県岐阜市
石切所(いしきりどころ) 岩手県二戸市
石切場(いしきりば) 福島県白河市
石切畑(いしきりばたけ) 福島県大沼郡会津美里町
石切畑甲(いしきりばたこう) 福島県大沼郡会津美里町
上石切町(かみいしきりちょう) 大阪府東大阪市
北石切町(きたいしきりちょう) 大阪府東大阪市
中石切町(なかいしきりちょう) 大阪府東大阪市
南外巣ノ沢石切場(なんがいすのさわいしきりば) 秋田県大仙市
西石切町(にしいしきりちょう) 大阪府東大阪市
春野町石切(はるのちょういしきり) 静岡県浜松市天竜区
東石切町(ひがしいしきりちょう) 大阪府東大阪市
南石切町(みなみいしきりまち) 宮城県仙台市若林区
京都府相楽郡精華町(そうらくぐんせいかちょう)
https://t.co/0GDHTQbI9F
「華」を含む地名— 36 件
「華」を含む町域名
粟田口華頂町(あわたぐちかちょうちょう) 京都府京都市東山区
伊香立上龍華町(いかだちかみりゅうげちょう) 滋賀県大津市
伊香立下龍華町(いかだちしもりゅうげちょう) 滋賀県大津市
鏡島精華(かがしませいか) 岐阜県岐阜市
華浦(かほ) 山口県防府市
神居町神華(かむいちょうしんか) 北海道旭川市
華陽(かよう) 岐阜県岐阜市
金華町(きんかちょう) 岐阜県岐阜市
栗栖野華ノ木町(くりすのはなのきちょう) 京都府京都市山科区
華蔵寺町(けぞうじまち) 群馬県伊勢崎市
嵯峨清滝一華表町(さがきよたきいっかひょうちょう) 京都府京都市右京区
嵯峨鳥居本一華表町(さがとりいもといっかひょうちょう) 京都府京都市右京区
聖護院蓮華蔵町(しょうごいんれんげぞうちょう) 京都府京都市左京区
末武上華陵(すえたけかみかりょう) 山口県下松市
精華台(せいかだい) 京都府相楽郡精華町
精華町(せいかまち) 岐阜県多治見市
大聖寺法華坊町(だいしょうじほっけぼうまち) 石川県加賀市
曇華院前町(どんげいんまえちょう) 京都府京都市中京区
華川町小豆畑(はなかわちょうあずはた) 茨城県北茨城市
華川町臼場(はなかわちょううすば) 茨城県北茨城市
華川町上小津田(はなかわちょうかみこつだ) 茨城県北茨城市
華川町車(はなかわちょうくるま) 茨城県北茨城市
華川町下小津田(はなかわちょうしもこつだ) 茨城県北茨城市
華川町下相田(はなかわちょうしもそうだ) 茨城県北茨城市
華川町中妻(はなかわちょうなかつま) 茨城県北茨城市
華川町花園(はなかわちょうはなぞの) 茨城県北茨城市
華城中央(はなぎちゅうおう) 山口県防府市
華園町(はなぞのちょう) 山口県防府市
弁華別(べんけべつ) 北海道石狩郡当別町
細畑華南(ほそばたかなん) 岐阜県岐阜市
「華」を含む地名— 36 件
「華」を含む町域名
法華(ほっけ) 愛知県名古屋市中川区
法華寺町(ほっけじちょう) 奈良県奈良市
法華西町(ほっけにしまち) 愛知県名古屋市中川区
龍華町(りゅうげちょう) 大阪府八尾市
留辺蘂町金華(るべしべちょうかねはな) 北海道北見市
礼文華(れぶんげ) 北海道虻田郡豊浦町
丹波高地の全ての山々の山頂と、それら周辺一帯。
https://t.co/AulMnPCpv9
丹波高地(たんばこうち)は、兵庫県東部・京都府・大阪府北部・滋賀県西部・福井県南西部に広がる隆起準平原。
一般に、由良川と加古川の以東の標高600 mから800 m程度までの類似した標高を有する山岳が林立する地域を指している。
丹波山地、或いは丹波高原といわれることもある。
高地の内、京都府の綾部市、京丹波町、南丹市、京都市左京区・右京区の範囲が2016年(平成28年)に京都丹波高原国定公園に指定された。
【主な山】
京都府の山
皆子山(972m)、峰床山(970m)、三国岳(959m)、愛宕山(924m)、長老ヶ岳(917m)、桟敷ヶ岳(896m)、頭巾山(871m)、千丈ヶ嶽(大江山)(833m)、三岳山(839m)、八ヶ峰(800m)、大悲山(741m)、太鼓山(683m)、ポンポン山(679m)、半国高山(670m)、弥仙山(664m)、磯砂山(661m)、鞍馬山(584m)
兵庫県の山
東床尾山(839m)、御嶽(793m)、能勢妙見山(660m)、大船山(653m)、播磨妙見山(622m)、来日岳(567m)、羽束山(524m)、播磨白山(511m)
福井県の山
野坂山(913m)、赤坂山(824m)、三十三間山(842m)、百里ヶ岳(931m)、岩篭山(765m)、大御影山(950m)、青葉山(693m)、西方ヶ岳(764m)
京都府京都市の全体と、周辺一帯。
京都府京都市下京区堀川通花屋町下る本願寺門前町にある西本願寺(龍谷山 本願寺)の境内全部と、御影堂と、周辺一帯広めで(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)。
https://t.co/h7X8RajFh0
西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山の寺院。
山号は龍谷山(りゅうこくざん)。
本尊は阿弥陀如来。
正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺である。
本願寺住職は浄土真宗本願寺派門主を兼務する。
真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。
京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれている。
文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。
その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。
2023年より銀杏と御影堂、阿弥陀堂の2つのお堂をモチーフにしたブランドロゴとともに、「人はひとり。だからこそ、ご縁を見つめたい。」をタグラインとして定めている[1]。
(中略)
【門前町の所有施設および所有地】
西本願寺伽藍配置。周囲は築地に囲まれている。
A:総門 B:御影堂門 C:阿弥陀堂門 D:御影堂 E:阿弥陀堂 F:書院 G:鐘楼 H:経蔵 I:百華園 J:滴翠園 K:太鼓楼 L:飛雲閣
御影堂門から望む総門と門前町
堀川 - 境内の東側には堀川が本願寺の天然の堀となっている。かつては実際に堀川が流れていたが、現在堀川は二条城の東側から暗渠となっているため、ここに水は流れていない。
総門(重要文化財) - 堀川通を挟んで御影堂門の正面にある。宝永8年(1711年)に南総門として作られ、門扉と左右の控柱に瓦屋根をつけた高麗門と呼ばれる作りである。堀川正面交差点東にあり、24時間開門、車両通行可能。1898年(明治31年)の類焼防止緑地(風致園)整備や1911年(明治44年)の再整備、1959年(昭和34年)の堀川通拡張工事により3度も移設されている。なお、北総門は太鼓楼付近にあったが、福井県の吉崎別院に移設されている。
伝道第三本部庁舎
龍谷ミュージアム - 本願寺派の宗門校である龍谷大学の博物館。2011年(平成23年)に開館した倭国初の仏教総合博物館である。
本願寺伝道院(重要文化財) - 1912年(明治45年)に伊東忠太の設計により、真宗信徒生命保険株式会社の社屋として建てられたもの。
本願寺国際センター - 本願寺至心教堂内にある。
下間大門 - 龍谷大学大宮学舎内にあり、台所門の南側にある。大宮学舎の一帯は、かつて下間家をはじめ、本願寺に代々勤めていた関係者の住宅街であったことを物語る。
【北境内地】
花屋町通を挟んで北側にある。かつて日蓮宗大本山本圀寺があった所である。
1971年(昭和46年)に本圀寺が山科区に移転した後、1986年(昭和61年)に本願寺の境内となった。
駐車場
聞法会館 - 宿坊。
本願寺門徒会館
伝道第二本部庁舎
【文化財 国宝】
御影堂[9]
阿弥陀堂[10] 附:渡廊下、喚鐘廊下
書院(対面所及び白書院)
北能舞台
黒書院及び伝廊 2棟
飛雲閣
唐門
紙本墨画親鸞聖人像(鏡御影) 附:絹本著色親鸞聖人像(安城御影)・ 絹本著色親鸞聖人像(安城御影副本)
『観無量寿経註』 親鸞筆
『阿弥陀経註』 親鸞筆
熊野懐紙(後鳥羽天皇宸翰以下11通)附:伏見宮貞敦親王御添状1巻、飛鳥井雅章添状1巻
三十六人家集37帖、附:後奈良天皇宸翰女房奉書1幅
三十六人家集のうち「重之集」の帖末
三十六人家集のうち「重之集」の帖末
【文化財 重要文化財】
建造物
玄関、浪之間、虎之間、太鼓之間 1棟
能舞台(南能舞台)附:橋掛
浴室(黄鶴台)附:廻廊
本願寺 7棟[11][注釈 3]
経蔵
鐘楼
手水所
鼓楼
御影堂門
阿弥陀堂門
総門
附:御成門
附:目隠塀
附:築地塀 3棟
旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院) - 下京区油小路通正面下る玉本町所在[12]。
美術工芸品
絹本著色聖徳太子像
紙本著色親鸞・如信・覚如三上人像
紙本著色善信上人絵(琳阿本) 2巻
紙本著色慕帰絵詞 画隆章、隆昌、久信筆 10巻
絹本著色雪中柳鷺図(伝趙仲穆筆)
絹本著色親鸞聖人絵伝 6幅
銅鐘(梵鐘)
『歎異抄』 2巻 蓮如書写奥書
『教行信証』 6冊
『唯信抄』 親鸞筆
『浄土三経往生文類』 自筆本(略本)
尊円親王詩歌書巻 自筆本(鷹手本)
版本『浄土論註』 上下 2帖 建長8年親鸞加点奥書
『伏見天皇宸翰歌集』(99首)
『栄花物語』 15帖
恵信尼自筆書状類 覚信尼宛 10通
証如上人極官関係文書 3幅、2巻
親鸞自筆書状類(4通) 2巻
『天文日記(光教日記)』自筆本 56冊、11巻
本願寺御影堂留守職歴代譲状(18通)12巻 附 本願寺留守職相伝系図3通、光佐以下歴代譲状(6通)4巻2通
※ 典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
国指定史跡
本願寺境内
国指定特別名勝・史跡
本願寺書院庭園
国指定名勝
滴翠園
京都市指定天然記念物
大銀杏
住職
→詳細は「浄土真宗本願寺派 § 歴代宗主」を参照
西本願寺の住職は、浄土真宗本願寺派の門主を代々務めている。
2024年1月時点、第25代門主釋専如(大谷光淳)が本願寺住職である。
なお、宗教法人「本願寺」としての代表役員は本願寺執行長を充てる[13]。
別院
→詳細は「浄土真宗本願寺派 § 別院・教堂」を参照
代表的な別院
吉崎別院 - 吉崎御坊跡地
名古屋別院
山科別院 - 山科本願寺跡地
津村別院(北御堂) - 真宗大谷派の南御堂と並び、門前を通る大阪市のメインストリートが御堂筋と呼ばれる所以である。
鷺森別院(鷺森本願寺) - 文明8年(1467年)に第8代宗主蓮如が建立。
広島別院 - 安芸門徒の中心道場。
四日市別院 ‐ 大分県 宇佐市
鹿児島別院 - 隠れ念仏と解禁後の鹿児島市街の布教拠点。
築地別院(築地本願寺) - 元和3年(1617年)に第12代宗主准如が西本願寺の別院として建立。2012年(平成24年)に西本願寺唯一の「直轄寺院」となり、それまでは通称だった「築地本願寺」が正式名称となったため、現在は「別院」ではなくなっている。
飛地境内
大谷本廟 - 京都市東山区五条橋東六丁目にある。親鸞の墓所で通称は「西大谷」。
日野誕生院 - 京都市伏見区日野西大道町にある。親鸞誕生の地を記念して建てられた。
角坊 - 京都市右京区山ノ内御堂殿町にある。親鸞往生の地を記念して建てられた。
別荘
三夜荘 - 京都市伏見区にあった、かつての門主の別荘。第21代門主の大谷光尊が1876年(明治9年)に建築し、木戸孝允が命名するが、老朽化のため解体された。
【年中行事】
西本願寺ホームページの「恒例法要と行事」による。
1月1日 : 修正会、元旦会
1月9日 - 16日 : 御正忌報恩講(親鸞の祥月命日)
2月7日 : 如月忌(九條武子の遺徳を偲ぶ)
春分の日前後7日間 : 春季彼岸会
4月8日 : 花まつり(灌仏会)
4月13 - 15日 : 春の法要(立教開宗記念法要、本願寺歴代住職の年回法要)
5月20 - 21日 : 宗祖降誕会
8月上旬 : 盆踊り大会
8月14 - 15日 : 盂蘭盆会
8月15日 : 戦没者追悼法要
9月18日 : 千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要(東京、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて)
秋分の日前後7日間 : 秋季彼岸会
10月15 - 16日 : 龍谷会(大谷本廟報恩講法要)
10月中旬 - 11日中旬 : 献菊展
11月下旬 : 秋の法要(全国門徒総追悼法要)
12月20日 : 御煤払
12月31日 : 除夜会
京都府京都市下京区烏丸通七条上るにある東本願寺の境内全部と、御影堂と、周辺一帯広めで。(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)
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東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都市下京区にある真宗大谷派の本山の寺院[1]。
山号はなし。
本尊は阿弥陀如来。
正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)[2][3]である。
東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。
愛称は「お東」「お東さん」。
2020年(令和2年)7月現在の門首は、大谷暢裕(修如)。
京都府京都市北区紫野大徳寺町53にある大徳寺(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺の聖地群史跡群水辺群の全地点と、それら周辺一帯広めで。
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大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。
山号は龍宝山(りゅうほうざん)。
本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、倭国の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。
本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。
なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。
11歳の時、地元の大寺院である圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚め、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。
これが大徳寺の起源という。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。
寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
また、花園天皇や光厳天皇ら歴代天皇、中御門経継、守良親王、新田義貞などの有力貴族からの寄進を受け、1333年ころには播磨、摂津、紀伊などの畿内各地に加え、信濃、下総、美濃のなど広範囲にわたって延7,600石の寺領を有していた。
しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。
五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。
このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災、そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興。
また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。
大徳寺山門供養之偈 春屋宗园
これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、天正17年(1589年)には千利休によって山門・金毛閣が完成している。
利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。
利休は山門を修復した後、住職の春屋宗園に山門の供養を書かせたが、それにより豊臣秀吉を怒らせたとされる。
江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。
近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。
この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。
なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。
【境内】
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[3]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に小田原藩主稲葉正勝の遺志により、子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる倭国様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(三門、重要文化財) - 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。このテキストは、千利休が住職の春屋宗園に書かせた山門の寄進の偈に関するもので、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」である。天井画の龍図は長谷川等伯の作。額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
【塔頭】
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。
2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。 November 11, 2025
1RP
「御来光の道」は、北緯35度22分の線上に倭国の主要なパワースポットや聖地が一直線に並ぶという概念です。このラインは、春分の日と秋分の日の太陽の軌跡と一致するとされ、古代の人々が太陽の動きを基に意図的に都市計画や聖地の配置を行った可能性を示唆するものとして注目されています。
御来光の道の概要
•北緯35度22分:この緯度線上に多くの重要な地点が位置しています。
•太陽の運行:春分と秋分の日の出は、このラインの東端から昇り、西端近くへと沈んでいきます。
ライン上の主なスポット
画像や検索結果によると、このレイライン上には以下の場所が含まれます:
•出雲大社(島根県)
•大山(鳥取県)
•元伊勢(京都府)
•伊吹山(滋賀県)
•竹生島(滋賀県)
•南宮大社(岐阜県)
•富士山(静岡県・山梨県)
•寒川神社(神奈川県)
•玉前神社(千葉県)
深掘り情報
•古代の測量技術: このような広範囲にわたる正確な配置は、古代の高度な測量技術や天文学の知識があった可能性を示唆していると考えられています。
•パワースポット: ライン上の各地点は、それぞれが強力なパワースポットや歴史的な霊場として知られており、点ではなく線として訪れることで、より強い「気」を感じられると信じられています。
•信仰の道: このラインは、出雲神話や富士山信仰、伊勢神宮の歴史とも深く関連しており、倭国古来の自然崇拝や信仰心が形作った「祈りの道」であるとも言えます。 November 11, 2025
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