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祇園祭
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2025.11.10〜(46週)
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【高専祭2025テーマ】東倭国まとめ
・函館高専_高専祭_第62回_~「滾」たぎる~
・苫小牧高専_高専祭_第60回_「Re:START」
・釧路高専_高専祭_第61回_NEVER ENDING JUVENILE
・旭川高専_高専祭 _第63回
・八戸高専_高専祭_第58回
・一関高専_高専祭_第61回_Ignite-燃え上れ情熱
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・秋田高専_高専祭_第51回_~Brightness~
・鶴岡高専_高専祭_第41回_「POP !~熱くなれ。越えていけ。ぶち上がれ。~」
・福島高専_磐陽祭_高専万博!〜集まれ未来を担う若者たち〜
・茨城高専_茨香祭
・小山高専_工陵祭_第59回_usnson
・群馬高専_工華祭_第25回_~思い出をかけぬけて
・木更津高専_祇園祭_New wind of kosen 〜新時代の風を巻き起こせ〜」
・東京高専_くぬぎだ祭_第57回
・産技高専(品川)_産技祭_「Beyond Boundaries – 境界を超えて」
・産技高専(荒川)_高専祭_第61回_「Code of Future」
・サレジオ高専_育英祭_「 銀河 」
・長岡高専_未工祭_友情ほんまに楽しい学園祭
・長野高専_工嶺祭_第60回_青瞬 November 11, 2025
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続・江南スタイルの足の理屈が何となく頭では理解出来たんやけども身体が全然付いてこんから米国のダンスの先生が振付解説しとる動画そっと閉じた木曜日
今日は近所のママが夏のきゅうりは切り口が葵の紋に似てるから八阪神社の人らは祇園祭の期間中食べへんと教えてくれはった
晩ご飯はこんな感じ🍚 https://t.co/VqdvbLHBAX November 11, 2025
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幻の大分市「府内の祇園祭」復活へ大絵馬調査、描かれていたのは…山車や獅子舞など「視覚的な唯一の物証」(読売新聞オンライン)
#Yahooニュース
https://t.co/uYlYUuEfbH November 11, 2025
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☀第31回まかべ日和開催のお知らせ☀
懐かしい真壁の町並み・下宿通りで行う和やかな散歩市「まかべ日和」を開催します☺
また、五所駒瀧神社の秋の例大祭の一環として16日は真壁の町から五所駒瀧神社に真壁祇園祭の山車が参拝します。(御祈祷10:30~)
※雨天中止の場合あり。 https://t.co/sNaduutnOm November 11, 2025
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富士市吉原のアーケードホテルのはちこ @hachico_std さんと桜井さん @LOCAMA_AT と🍻
同業の宿泊業の話から吉原商店街DAO推進まで。淡々とお話になってましたがバイタリティーに溢れた凄い活動家のはちこさんです!吉原の祇園祭やつけナポを体験したくなりました✨️昨夜はありがとうございました! https://t.co/LP0kuwc5Hs https://t.co/hUrLADKQ6y November 11, 2025
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猿之助🐵大河ドラマべらぼう吉原で花紙まいてたけど〜佐川急便社長が、一万円札ばら撒くのは有名🤣銀座のホステス、京都の芸妓、大阪のホステス皆言ってた中村隼人長谷川平蔵もまいてたね〜長崎くんちの花紙はこちら🤗暁星高校開成高校木更津高校洛南高校慶應義塾大学薬学部祇園祭長崎大学歌舞伎座国宝 https://t.co/KK5xm3pbid https://t.co/ridP5B6gyd November 11, 2025
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真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
https://t.co/vGc3w1xogf
聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。
聖護院の南西には、「聖護院の森」の鎮守として知られる熊野神社があり、「京の熊野三山」(残り2つは熊野若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された[3]。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
【地名】
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。
和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[4]。
【歴史】
当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。
増誉は師である円珍の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた[3]。
この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられた他、更に都の熊野神社の近くにあり、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を上皇より下賜された[3]。
こうして増誉は新たな寺名として「聖体護持」から文字を採って聖護院と改名し[3]、熊野神社を鎮守社とした。
ただし、増誉および増智(藤原師実の子)の時代には「白河房」と呼ばれており、「聖護院」の名称が登場するのはその後を継いだ覚忠の時代である(『兵範記』保元3年10月20日条・同仁安2年4月26日条)[5]。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した[3]。
増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。
この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した[3]。
後に熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したため、熊野との結びつきが一層深まった。
聖護院は長く皇族もしくは摂関家出身の門跡が入っていたが、後嵯峨上皇の皇子の覚助法親王が70年にわたって門跡の地位にあって園城寺長吏・鶴岡八幡宮別当・熊野三山検校を兼ね、門跡寺院としての地位を確立させた。
ところが、門跡を継がせる予定であった弟子(皇族)が次々と師に先立って死去したために覚助の没後は南朝と北朝間もしくは北朝内部において門跡の地位を巡る争いが発生する、この争いは覚助法親王を継いだ覚誉法親王(花園天皇の皇子)[6]が後光厳天皇の皇子である覚増法親王を後継者に指名した[7]ものの、その覚増法親王が明徳元年(1390年)に急死したことで聖護院は一時断絶の危機に見舞われた[5]。
朝廷や室町幕府では聖護院の後継者選考にあたっていたが、園城寺の院家である常住院門跡で熊野三山検校を兼ねていた良瑜が自身の弟子で実の姪孫でもあった道意(二条良基の子)を推挙して認められた。
この際、良瑜は熊野三山検校を道意に譲り、以降常住院に代わって聖護院が熊野三山検校の地位を務めるようになった[5]。
これによって聖護院は熊野の修験組織を束ねて、最盛期に修験道の山は120余り。
全国に2万5千ヵ寺の末寺を持ったという。
現在は明治初期 神仏分離令 修験廃止令により山も強制的に神社に併合、寺院も江戸幕府の令号に伴い修験道法度にて天台 真言に分け隔て純血の修験寺院は130ヵ寺まで減り慶長18年から今 平成の世迄 色濃く残る《本山派 当山派 参照(幕末 神兵隊により社殿 寺院 本尊 破壊により廃寺)[3]。
道意の没後、年の離れた弟である満意が継承した。
満意は良瑜の没後衰退した常住院を傘下に収めている。
ところがその後継を巡って室町幕府が介入し、既に後継者に内定していた近衛房嗣の子・道興を排除して、足利義教の子である義観が後継者とされた。
ところが、義観が突如隠居を表明して程なく没し、結局は道興が後継者とされた。
応仁の乱においては火災による焼失に加え、門跡である道興が足利義視との親交から西軍への内通が疑われて美濃国へ亡命するなど困難を迎えるが、乱の終結後に赦免された道興が洛北の長谷(現・京都市左京区岩倉長谷町)に移転して再興を図った。
その後は、戦国時代を通じて道興と同じ近衛家出身の門跡が継承(例外である伏見宮貞常親王の子道応も近衛政家の猶子)し、足利将軍家と諸大名とのパイプ役を務めた[5]。
しかし、長谷の仏堂は文明19年(1487年)4月に盗賊の放火によって焼失した。
その後、豊臣秀吉の命により烏丸今出川に移転するが、江戸時代の延宝の大火で延焼してしまう。
こうして延宝4年(1676年)に創建の地である現在地に再興され、現在みられる寺院の姿となった[3]。
享保19年(1734年)11月16日、 聖護院の森にて、呉服商の井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の遊女お俊との心中事件が起きた[3]。
近松半二は、この事件をまとめ、『近頃河原達引』(「お俊・伝兵衛」)という浄瑠璃作品を発表し、現在も上演されている[3]。
天明8年(1788年)の天明の大火の際には光格天皇が宸殿に入り、ここを仮御所としている。
また、安政元年(1854年)の内裏炎上に際しては孝明天皇が一時期仮宮として使用した。
当時の聖護院門跡は光格天皇と同母弟の盈仁法親王であり、当院と皇室は深い関係であった。
元治元年(1864年)2月、京都守護職が当寺寺領の聖護院村に練兵場を置いた[8]。
その関係から、京都守護職・新選組に関連する京都の3か寺で結成した「京都守護職 新選組巡礼会」に加盟している。
慶応4年(1868年)1月8日に聖護院門跡雄仁法親王が還俗して聖護院宮嘉言親王となり、海軍総督等を務めた。
嘉言親王の死後は異母弟で同じく聖護院に入っていた智成親王が継嗣として「聖護院宮」の宮号を継承したが、これが旧門跡との区別が判然としないとして北白川宮に改称された。
嘉言・智成両親王は共に子に恵まれず、二人の兄弟であった元輪王寺門跡の能久親王が北白川宮家を継承したため、皇室に両親王の血統は残らなかった。
しかし能久親王の子孫により、北白川宮家は皇籍離脱後2018年(平成30年)現在に至るまでその血筋が続いている。
1868年(明治元年)の神仏分離令に続き、1872年(明治5年)には修験道廃止令が発布されたため、天台寺門宗に所属することになったが、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、修験宗を設立[9]して天台寺門宗から独立した。
2000年(平成12年)、役行者1300年御遠忌を記念し、 数年かけて行われていた寺院の修理が終わった[3]。
【境内】
本堂 - 1968年(昭和43年)に建替えた。
十三重石塔
宸殿 - 江戸時代中期建立。光格天皇が仮御所とした。
表玄関
庫裏
書院(重要文化財) - 江戸時代初期の建立。御所より移築した建物と伝える。
庭園
中御殿
北御殿
一夜造御学問所
茶室
御殿荘玄関
西門
長屋門
山門
積善院(凖提堂) - 塔頭。准胝観音を本尊とする。
【文化財 重要文化財】
書院
絹本著色熊野曼荼羅図
木造智証大師(円珍)坐像 - 康治2年(1143年)良成作。
木造不動明王立像
木造不動明王立像
光格天皇宸翰 神変大菩薩号勅書
後陽成院宸翰消息
円珍入唐求法(にっとうぐほう)目録1巻、如意輪心中心真言観1通、智証大師像造立願文(ぞうりゅうがんもん)1通(以上、智証大師像の像内納入品)
山城国富家殿(ふけどの)山絵図
【文化財 国指定史跡】
聖護院旧仮皇居
【行事】
行事
1月 - 茶道速水流による初釜。
8月 - 熊野への大峰入りのために山伏が当寺に集結し、熊野へ向かう。
【幕末の領地】
国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の聖護院領は以下の通り。(7村・1,408石余)
山城国愛宕郡のうち - 4村
聖護院村 - 425石余
田中村のうち - 14石余
白川村のうち - 116石余
長谷村のうち - 479石余
山城国乙訓郡のうち - 1村
上植野村のうち - 233石余
山城国紀伊郡のうち - 1村
吉祥院村のうち - 19石余
近江国滋賀郡のうち - 1村
藤尾村のうち - 120石
【末寺 近畿地方】
積善院凖提堂(京都市左京区) 寺中塔頭・正院家
祥雲山 弥勒院(京都市左京区) 哲学の道
團學山 住心院 毘沙門堂(京都市左京区) 別格寺・正院家
大悲山 峰定寺(京都市左京区) 別格本山
神尾山 金輪寺(亀岡市)
明星山 三室戸寺(宇治市) 別格本山
最勝院(宇治市) 平等院鳳凰堂塔頭
箕面山 瀧安寺(箕面市) 大本山・役行者昇天地
紫雲山 神光寺 あびこ行者堂(大阪市住吉区)
護法山 喜蔵院(奈良県吉野) 別格本山
茅原山 吉祥草寺(奈良県御所) 大本山・役行者誕生地
大谷山 伽耶院(兵庫県三木市) 正院家
所在地=京都府京都市左京区聖護院中町15
京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町27−6にある勧修寺(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯。
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勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区勧修寺にある真言宗山階派の大本山の寺院。
山号は亀甲山。本尊は千手観音。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊である。
寺紋(宗紋)は裏八重菊。
皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。
門跡寺院であり、「山階門跡」とも称する。
寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている[注釈 1]。
一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。
歴史
【創建】
『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が、若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改め、氷室池も取り込んだもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。
胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。
開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。
代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470年)に応仁の乱の兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された[注釈 2]。
宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。
弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁した。
彼らの間に生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。
高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。
なお、高藤と列子の恋愛について『今昔物語集』に説話が残されている(後述)。
創建年代については上述の通り昌泰3年とするのが一般的だが、異説もある。
勧修寺は延喜5年(905年)、定額寺に列せられているが、この時の太政官符には「贈皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、これに従えば、胤子の没した寛平8年(896年)以前の創建となる。
前述の通り、勧修寺は延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、皇室と藤原氏の援助を受けて栄えた。
勧修寺においてはその長たる僧を「長吏」と称するが、天永元年(1110年)、7世勧修寺長吏となった寛信(1084年 - 1153年)は藤原高藤8世の孫・藤原為房の子で、東寺長者、東大寺別当などを歴任した人物である。
「勧修寺法務」とも称された寛信は真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている。
【中世以降】
南北朝時代、後伏見天皇第7皇子の寛胤法親王(1309年 - 1376年)が15世長吏となって以来、勧修寺は宮門跡寺院となり、幕末まで法親王ないし入道親王が入寺した。
中世の勧修寺は現在の京都市山科区勧修寺一帯を領するほか、各地に広大な寺領をもち、真言宗小野流の中心寺院、皇室ゆかりの寺院として最盛期を迎えた。
建武3年(1336年)の「勧修寺寺領目録」によると、勧修寺の寺領は加賀国郡家荘をはじめ、三河国、備前国など18か荘に及んでいた。
その後、応仁の乱の文明2年(1470年)の兵火で寺は焼失。
豊臣秀吉が伏見街道を造るに際して境内地は削減され、氷室池の南側を埋め立てられるなどして次第に衰退する。
寺が再興されるのは天和2年(1682年)、霊元天皇皇子の済深法親王が29世長吏として入寺してからであった。
法親王が東大寺大仏殿再建に功があったとして、寺領が1,012石に加増された。
現存する本堂、宸殿、書院等の伽藍は、霊元天皇、明正天皇などの旧殿を下賜されたものである。
済深法親王に次いで30世となった尊孝法親王は伏見宮出身であった。
法親王の叔母にあたる真宮理子(さなのみやまさこ)が紀州藩出身の将軍・徳川吉宗の正室であった縁で、紀伊国の約100か寺が勧修寺の末寺となった。
西国三十三所観音霊場札所として著名な紀三井寺護国院は、現在は真言宗から独立しているが、元は勧修寺の末寺であった。
幕末の32世済範入道親王も伏見宮の出身であったが、後に還俗して山階宮晃親王となった。
【近代】
真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も勧修寺は「真言宗」にとどまっていたが、1907年(明治40年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立。
勧修寺は山階派本山となった。
その後、第二次世界大戦中には宗教団体法の施行により、既存仏教各派の統合が進められ、真言宗各派は完全に統合されたが、戦後の1952年(昭和27年)に再度山階派として独立している。
なお、1872年10月30日(明治5年9月28日)から1881年(明治14年)6月にかけて勧修寺内の一部が勧修小学校として使用されている。
1951年(昭和26年)には、かつて塔頭寺院があった場所に大石順教によって塔頭佛光院が建立されている。
【藤原高藤と宮道列子に関する説話】
『今昔物語集』巻22「高藤内大臣語 第七」には次のような高藤と列子の恋愛が伝えられている。藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りかかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・藤原良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。列子には娘がいた。6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。
【境内】
山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。境内東側には手前から宸殿、書院、五大堂、本堂などが建つ。境内西側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面して楼閣風の観音堂(昭和初期の建立)が建つ。 November 11, 2025
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飛地境内
大谷本廟 - 京都市東山区五条橋東六丁目にある。親鸞の墓所で通称は「西大谷」。
日野誕生院 - 京都市伏見区日野西大道町にある。親鸞誕生の地を記念して建てられた。
角坊 - 京都市右京区山ノ内御堂殿町にある。親鸞往生の地を記念して建てられた。
別荘
三夜荘 - 京都市伏見区にあった、かつての門主の別荘。第21代門主の大谷光尊が1876年(明治9年)に建築し、木戸孝允が命名するが、老朽化のため解体された。
【年中行事】
西本願寺ホームページの「恒例法要と行事」による。
1月1日 : 修正会、元旦会
1月9日 - 16日 : 御正忌報恩講(親鸞の祥月命日)
2月7日 : 如月忌(九條武子の遺徳を偲ぶ)
春分の日前後7日間 : 春季彼岸会
4月8日 : 花まつり(灌仏会)
4月13 - 15日 : 春の法要(立教開宗記念法要、本願寺歴代住職の年回法要)
5月20 - 21日 : 宗祖降誕会
8月上旬 : 盆踊り大会
8月14 - 15日 : 盂蘭盆会
8月15日 : 戦没者追悼法要
9月18日 : 千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要(東京、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて)
秋分の日前後7日間 : 秋季彼岸会
10月15 - 16日 : 龍谷会(大谷本廟報恩講法要)
10月中旬 - 11日中旬 : 献菊展
11月下旬 : 秋の法要(全国門徒総追悼法要)
12月20日 : 御煤払
12月31日 : 除夜会
京都府京都市下京区烏丸通七条上るにある東本願寺の境内全部と、御影堂と、周辺一帯広めで。(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)
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東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都市下京区にある真宗大谷派の本山の寺院[1]。
山号はなし。
本尊は阿弥陀如来。
正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)[2][3]である。
東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。
愛称は「お東」「お東さん」。
2020年(令和2年)7月現在の門首は、大谷暢裕(修如)。
京都府京都市北区紫野大徳寺町53にある大徳寺(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺の聖地群史跡群水辺群の全地点と、それら周辺一帯広めで。
https://t.co/FsdZoviwhE
大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。
山号は龍宝山(りゅうほうざん)。
本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、倭国の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。
本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。
なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。
11歳の時、地元の大寺院である圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚め、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。
これが大徳寺の起源という。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。
寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
また、花園天皇や光厳天皇ら歴代天皇、中御門経継、守良親王、新田義貞などの有力貴族からの寄進を受け、1333年ころには播磨、摂津、紀伊などの畿内各地に加え、信濃、下総、美濃のなど広範囲にわたって延7,600石の寺領を有していた。
しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。
五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。
このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災、そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興。
また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。
大徳寺山門供養之偈 春屋宗园
これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、天正17年(1589年)には千利休によって山門・金毛閣が完成している。
利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。
利休は山門を修復した後、住職の春屋宗園に山門の供養を書かせたが、それにより豊臣秀吉を怒らせたとされる。
江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。
近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。
この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。
なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。
【境内】
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[3]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に小田原藩主稲葉正勝の遺志により、子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる倭国様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(三門、重要文化財) - 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。このテキストは、千利休が住職の春屋宗園に書かせた山門の寄進の偈に関するもので、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」である。天井画の龍図は長谷川等伯の作。額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
【塔頭】
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。
2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
https://t.co/vGc3w1xogf
聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。
聖護院の南西には、「聖護院の森」の鎮守として知られる熊野神社があり、「京の熊野三山」(残り2つは熊野若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された[3]。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
【地名】
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。
和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[4]。 November 11, 2025
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猿之助🐵徳川慶喜玄孫山岸美喜こんな感じで13中村勘三郎死亡後14,15,16弟子/娘死後に追贈→3中村歌六庶子が家系詐欺江戸三座座元が先祖17,18勘三郎勘九郎七之助🤣スリ替え明治天皇👑明治維新ロスチャイルドグラバー園坂本龍馬大久保利通麻生太郎🤣暁星高校開成高校慶應義塾大学薬学部長崎くんち祇園祭 https://t.co/OsTDhE5tWU November 11, 2025
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猿之助🐵盛岡南部しぼり草紫堂の記事来た😲慶應義塾大学薬学部骨髄バンク長崎シャンシャン🐼質流れ🎵パヴァロッティNHK来日で見た檀ふみオソロ着物↓返せ🙋統一教会勘九郎七之助松竹社長迫本淳一創価学会国宝玉三郎観世清和流🔥暁星高校開成高校木更津高校長崎くんち祇園祭長崎大学大石賢吾片山さつき https://t.co/mUS0aQ67OR November 11, 2025
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@May_Roma 補助金は、直接宗教法人に出ていない、観光業をやっている企業や団体に出ているので、憲法のいう政教分離には違反しない
例えば、祇園祭ですが、補助金は、直接八坂神社(宗教法人)に対して出されているわけではなく、財団法人などの文化財保護団体に対して交付されており、憲法違反は回避されている November 11, 2025
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特別編⁉️(笑)
#Finally と #KRD8 でCooking❗
今日は久々に実家京都に夕方戻って…
祇園祭・長刀鉾のお囃子練習🙌
行きはFinallyさんの先週の恵比寿LIQUIDROOM ワンマンを聴きながら…お囃子練習後の飲み会後の帰りは昨日のKRD8 さんワンマンを聴きながら…
この1週間は音楽溢れてることに感謝🔥
そして今日のお昼は…Finallyさんの新曲聴きながら…久々のパスタ👏
茸のパスタばり美味しゅうございました😉👍🎶
さて今週末は俺にとって特別なLIVEも控えてるし…
いやぁ、ほんまに音楽に溢れてる人生て最高の時間です😆🎵🎵
#ファイナリー
#KRD8
#Finallyリキッドルーム1109満員達成 November 11, 2025
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