氷川竜介 芸能人
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2025.12.08〜(50週)
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◤世界興収2億円突破❕
大ヒット記念イベント開催決定◢
<第一夜🌕登壇ゲスト>
本作のリマスタープロジェクトに携わった
▶︎Imagica EMS 水戸遼平さん @Imagica_EMS
聞き手として
▶︎アニメ特撮研究家 氷川竜介さん @Ryu_Hikawa
ドルビーシネマの劇場で、
4Kリマスターという観点から
#天使のたまご をたっぷり語っていただきます🥚
当日は【前売券風カード】の再配布も決定🎫
📅12/18(木)19:15上映回
📍新宿バルト9
🎫12月11日(木)24時〜チケット発売開始
https://t.co/IAWTLEm1Mg December 12, 2025
94RP
▶︎ドルビーシネマ @DolbyJapan で体験する
『天使のたまご 4Kリマスター』は何が違うのか
📅12/18(木)19:15上映回
📍新宿バルト9
🎤Imagica EMS 水戸遼平さん
@Imagica_EMS
🎤アニメ特撮研究家 氷川竜介さん
@Ryu_Hikawa
🎬チケット発売中
https://t.co/IwONdqVLu0 https://t.co/dpCTbAy4fS December 12, 2025
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『#羅小黒戦記』
しばしば"ジブリの後継"という形容をされる。私も1のルックを見て類似性を感じたが、2ではそれだけでないと思わされた。
高畑勲展に寄稿された氷川竜介の「アニメーションの変革者・高畑勲」によると、高畑監督の指す「世界観」は現在使われる世界設定の言い換えではなく(続) https://t.co/fdp15uPrR1 December 12, 2025
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『機動警察パトレイバー2 the Movie』は、ロボットアニメという形式を借りながら、戦後倭国が抱え込んできた平和観・国家観・責任意識を徹底的に問い直す政治的寓話である。
この作品を理解するためには、物語上の事件やキャラクター配置だけでなく、押井守自身の発言や同時代の思想状況、そして戦後倭国という枠組みそのものを重ね合わせて読む必要がある。
押井守は『映画の正体』や『こんなに悩んで監督やってます』の中で繰り返し、「自分は戦争を描いているのではなく、戦争を外部化してきた倭国を描いている」と語っており、『パトレイバー2』はその問題意識が最も純化された形で表出した作品だと言える。
物語の中心に置かれるのは、東京を舞台にした一連のテロとクーデター未遂事件であるが、作品はそれを単なる陰謀劇として処理しない。むしろ、誰が敵で誰が味方なのかを意図的に曖昧にし、観客が安易に感情移入できる「正義の側」を奪い続ける。警察組織に属する後藤喜一や南雲しのぶは、制度の内部にいながら、その制度が抱える虚構を理解している人物として描かれる。一方で、事件の黒幕である柘植行人は、狂気のテロリストとして処理されることを拒み、極めて論理的で、しかも倭国社会の弱点を正確に突く言説を語る存在として配置されている。この構図自体が、作品の主題を雄弁に物語っている。
藤津亮太が『アニメと戦争』で指摘しているように、『パトレイバー2』が描く戦争とは、銃弾や爆発そのものではなく、「戦争が存在するにもかかわらず、それを自分の問題として引き受けない社会の状態」である。戦後倭国は、憲法9条を持ち、戦争をしない国家であることを誇りとしてきた。しかし同時に、日米同盟という枠組みの中で、実質的な安全保障を他国の軍事力に委ねてきた。この構造によって、倭国は「戦争に関与していない」という自己像を維持しつつ、国際秩序の暴力性から利益だけを享受することが可能になった。押井守が繰り返し語る「平和ボケ」とは、単なる無関心ではなく、この構造が生み出す倫理的空白を指している。
柘植行人は、その空白を最も過酷な形で引き受けてしまった人物である。彼は海外派遣の現場で、倭国が直接戦争をしない代わりに、現地で切り捨てられ、忘却されていく現実を体験する。その経験から彼が導き出した結論は、倭国は「戦争をしていない」のではなく、「戦争を他人にやらせている」だけだという冷酷な認識だった。柘植の行動はテロであり、許容されるものではないが、作品は彼の論理そのものを否定しない。むしろ、彼の問いかけが成立してしまう社会のあり方こそが問題なのだと、観客に突きつける。
岡田斗司夫の解説が示唆的なのは、柘植を「悪役」としてではなく、「戦後倭国が生み出した告発装置」として位置づけている点である。柘植は革命家でも独裁者でもなく、勝利や権力掌握に興味を持たない。彼の計画は最初から失敗するように設計されており、自分自身が討たれ、裁かれることさえ織り込み済みで進められている。その姿は、国家や社会に対して「あなたたちは本当に平和を選んできたのか」と問うために、自ら悪を引き受ける殉教者に近い。この点で彼は、単なる軍国主義者とも、反体制左派とも異なる独特の位置に立っている。
一方、後藤喜一というキャラクターは、柘植の対極にいるようでいて、実は非常に近い場所に立っている。後藤は制度の内部に留まり、警察官として秩序を守る立場にあるが、その秩序が絶対的な正義ではないことを誰よりも理解している人物だ。彼は柘植の思想に一定の理解を示しつつも、暴力による告発を選ばない。後藤が体現しているのは、「現実を知った上で、それでも制度の中で踏みとどまる」という態度であり、これは押井守自身のスタンスに最も近いとされる。南雲しのぶもまた、個人的感情と職業的責任の間で引き裂かれながら、簡単な答えを拒否する存在として描かれる。
氷川竜介が指摘するように、『パトレイバー2』が公開された1993年という時代背景も重要である。冷戦が終結し、倭国は経済大国としての自信を失い始め、同時に安全保障の根拠を再定義できずにいた時代だった。湾岸戦争で「金は出すが血は流さない」と批判された倭国の姿勢は、まさに本作のテーマと重なる。押井守は、この時代の空気の中で、「倭国はこれから何を引き受ける国家になるのか」という問いを、エンターテインメントの形で提示したのである。
重要なのは、『パトレイバー2』が改憲か護憲か、右か左かといった単純な政治的立場を示す作品ではないという点だ。作品が批判しているのは、どの選択をするかではなく、「選択しているという自覚を持たないこと」そのものである。戦わないのであれば、その結果として誰が犠牲になっているのかを引き受ける覚悟が必要であり、戦うのであれば、 December 12, 2025
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先日訪問した #描く人・安彦良和展 の図録。400ページを超えるボリュームで、展示作品が網羅されており、見学の振り返りに最適な一冊。とてもまだ読み切れてませんが、巻頭の東浩紀氏との対談、後半に掲載された氷川竜介氏の論考は安彦ファンならずとも必読です。よく読み込んでから2回目に臨もう🤔 https://t.co/arEwTdwN7V December 12, 2025
『機動警察パトレイバー2 the Movie』は、ロボットアニメという形式を借りながら、戦後倭国が抱え込んできた平和観・国家観・責任意識を徹底的に問い直す政治的寓話である。この作品を理解するためには、物語上の事件やキャラクター配置だけでなく、押井守自身の発言や同時代の思想状況、そして戦後倭国という枠組みそのものを重ね合わせて読む必要がある。押井守は『映画の正体』や『こんなに悩んで監督やってます』の中で繰り返し、「自分は戦争を描いているのではなく、戦争を外部化してきた倭国を描いている」と語っており、『パトレイバー2』はその問題意識が最も純化された形で表出した作品だと言える。
物語の中心に置かれるのは、東京を舞台にした一連のテロとクーデター未遂事件であるが、作品はそれを単なる陰謀劇として処理しない。むしろ、誰が敵で誰が味方なのかを意図的に曖昧にし、観客が安易に感情移入できる「正義の側」を奪い続ける。警察組織に属する後藤喜一や南雲しのぶは、制度の内部にいながら、その制度が抱える虚構を理解している人物として描かれる。一方で、事件の黒幕である柘植行人は、狂気のテロリストとして処理されることを拒み、極めて論理的で、しかも倭国社会の弱点を正確に突く言説を語る存在として配置されている。この構図自体が、作品の主題を雄弁に物語っている。
藤津亮太が『アニメと戦争』で指摘しているように、『パトレイバー2』が描く戦争とは、銃弾や爆発そのものではなく、「戦争が存在するにもかかわらず、それを自分の問題として引き受けない社会の状態」である。戦後倭国は、憲法9条を持ち、戦争をしない国家であることを誇りとしてきた。しかし同時に、日米同盟という枠組みの中で、実質的な安全保障を他国の軍事力に委ねてきた。この構造によって、倭国は「戦争に関与していない」という自己像を維持しつつ、国際秩序の暴力性から利益だけを享受することが可能になった。押井守が繰り返し語る「平和ボケ」とは、単なる無関心ではなく、この構造が生み出す倫理的空白を指している。
柘植行人は、その空白を最も過酷な形で引き受けてしまった人物である。彼は海外派遣の現場で、倭国が直接戦争をしない代わりに、現地で切り捨てられ、忘却されていく現実を体験する。その経験から彼が導き出した結論は、倭国は「戦争をしていない」のではなく、「戦争を他人にやらせている」だけだという冷酷な認識だった。柘植の行動はテロであり、許容されるものではないが、作品は彼の論理そのものを否定しない。むしろ、彼の問いかけが成立してしまう社会のあり方こそが問題なのだと、観客に突きつける。
岡田斗司夫の解説が示唆的なのは、柘植を「悪役」としてではなく、「戦後倭国が生み出した告発装置」として位置づけている点である。柘植は革命家でも独裁者でもなく、勝利や権力掌握に興味を持たない。彼の計画は最初から失敗するように設計されており、自分自身が討たれ、裁かれることさえ織り込み済みで進められている。その姿は、国家や社会に対して「あなたたちは本当に平和を選んできたのか」と問うために、自ら悪を引き受ける殉教者に近い。この点で彼は、単なる軍国主義者とも、反体制左派とも異なる独特の位置に立っている。
一方、後藤喜一というキャラクターは、柘植の対極にいるようでいて、実は非常に近い場所に立っている。後藤は制度の内部に留まり、警察官として秩序を守る立場にあるが、その秩序が絶対的な正義ではないことを誰よりも理解している人物だ。彼は柘植の思想に一定の理解を示しつつも、暴力による告発を選ばない。後藤が体現しているのは、「現実を知った上で、それでも制度の中で踏みとどまる」という態度であり、これは押井守自身のスタンスに最も近いとされる。南雲しのぶもまた、個人的感情と職業的責任の間で引き裂かれながら、簡単な答えを拒否する存在として描かれる。
氷川竜介が指摘するように、『パトレイバー2』が公開された1993年という時代背景も重要である。冷戦が終結し、倭国は経済大国としての自信を失い始め、同時に安全保障の根拠を再定義できずにいた時代だった。湾岸戦争で「金は出すが血は流さない」と批判された倭国の姿勢は、まさに本作のテーマと重なる。押井守は、この時代の空気の中で、「倭国はこれから何を引き受ける国家になるのか」という問いを、エンターテインメントの形で提示したのである。
重要なのは、『パトレイバー2』が改憲か護憲か、右か左かといった単純な政治的立場を示す作品ではないという点だ。作品が批判しているのは、どの選択をするかではなく、「選択しているという自覚を持たないこと」そのものである。戦わないのであれば、その結果として誰が犠牲になっているのかを引き受ける覚悟が必要であり、戦うのであれば、 December 12, 2025
@crab_of_steel 岡田氏のチャンネル初期はちょろちょろ観てたけど
解説されすぎると逆につまらんと思って
観るのやめたな
切り取りを初期から容認したり
そういうとこ広まった要因かもね
アカデミックに観るなら
氷川竜介氏の方がちゃんとしてるのは
仕方が無い December 12, 2025
既に97〜98年時期、勇者シリーズ終了時に氷川竜介さんが新聞記事で「ロボットアニメの斜陽」をテーマに文章書いてらした記憶があるな。商品売上の減退って今に始まった問題じゃないんですよな December 12, 2025
@carma_h carmaさんの投稿で思い出したのですが、高畑勲展の図録に掲載されている氷川竜介氏の論考で
世界観とは本来「作品世界を通じ、思想・哲学的に、何が見えてくるのか」を問うものであるという記述がありました。
高畑監督が感動を軸にしなかったのもこの為でしょうし、羅小黒戦記がジブリの後継(続) December 12, 2025
『カトリック ジャパン ダイジェスト 11•12月号』を読了。
『モデルグラフィックス 01月号』か氷川竜介の『空想映像文化論 怪獣ブームから『宇宙戦艦ヤマト』へ』を読みます。 December 12, 2025
安彦良和アニメーション原画集「機動戦士ガンダム」
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楽天books:https://t.co/Igm6XRYZif
2013年5月28日に発売され、幾度と増刷を重ねたものの
近年は品切れ状態が続いていた
安彦良和アニメーション原画集「機動戦士ガンダム」。
庵野秀明
安彦良和
氷川竜介
#pr December 12, 2025
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