極楽浄土 トレンド
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2025.11.26
:0% :0% (40代/男性)
極楽浄土に関するポスト数は前日に比べ46%増加しました。男性の比率は34%増加し、前日に変わり40代男性の皆さんからのポストが最も多いです。前日は「アンコール」に関する評判が話題でしたが、本日話題になっているキーワードは「阿弥陀如来」です。
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
いい風呂の日♪
先日、法然と極楽浄土展で購入した風呂桶です
ときめいてしまいました
Tシャツもゲット❗️
これがあれば極楽へ行けるはず❓
#いい風呂の日
#猫好きさんと繫がりたい
#黒猫 #ねこのいる暮らし𓏲𓎨
#猫とソウル https://t.co/7QuFlgoPDk November 11, 2025
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【京都・即成院/阿弥陀如来及び二十五菩薩像(藤原)】阿弥陀如来を中心とする計26体の群像で本堂のひな段4段に安置している。菩薩像の多くは楽器を演奏する姿で表され亡者を極楽浄土へ導くさまを表現している。絵画像は多いが彫像は大変珍しい。 https://t.co/bURkacmvNU November 11, 2025
19RP
『 CROSS OVER 』 in 今池3STAR
ありがとうございました!
新体制2日目!ロックなわんキルさんでした!🤟🏻
平日のトッパーでしたが見ていただいてありがとうございました!
次のライブは明日!Sound Space DEEPにてライブがあります!ぜひ遊びに来てください!
【 本日のお散歩コース 】
1.狂哥
2.ルルーシュ
3.継承、左手かざして
4.Action
5.極楽浄土エクスタシー
#ばにゃにゃちぇっぷすすてっぷす November 11, 2025
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なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。
【境内】
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[3]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に小田原藩主稲葉正勝の遺志により、子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる倭国様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(三門、重要文化財) - 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。このテキストは、千利休が住職の春屋宗園に書かせた山門の寄進の偈に関するもので、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」である。天井画の龍図は長谷川等伯の作。額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
【塔頭】
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。
2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
https://t.co/vGc3w1xogf
聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。
聖護院の南西には、「聖護院の森」の鎮守として知られる熊野神社があり、「京の熊野三山」(残り2つは熊野若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された[3]。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
【地名】
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。
和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[4]。
【歴史】
当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。
増誉は師である円珍の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた[3]。
この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられた他、更に都の熊野神社の近くにあり、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を上皇より下賜された[3]。
こうして増誉は新たな寺名として「聖体護持」から文字を採って聖護院と改名し[3]、熊野神社を鎮守社とした。
ただし、増誉および増智(藤原師実の子)の時代には「白河房」と呼ばれており、「聖護院」の名称が登場するのはその後を継いだ覚忠の時代である(『兵範記』保元3年10月20日条・同仁安2年4月26日条)[5]。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した[3]。
増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。
この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した[3]。
後に熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したため、熊野との結びつきが一層深まった。
聖護院は長く皇族もしくは摂関家出身の門跡が入っていたが、後嵯峨上皇の皇子の覚助法親王が70年にわたって門跡の地位にあって園城寺長吏・鶴岡八幡宮別当・熊野三山検校を兼ね、門跡寺院としての地位を確立させた。
ところが、門跡を継がせる予定であった弟子(皇族)が次々と師に先立って死去したために覚助の没後は南朝と北朝間もしくは北朝内部において門跡の地位を巡る争いが発生する、この争いは覚助法親王を継いだ覚誉法親王(花園天皇の皇子)[6]が後光厳天皇の皇子である覚増法親王を後継者に指名した[7]ものの、その覚増法親王が明徳元年(1390年)に急死したことで聖護院は一時断絶の危機に見舞われた[5]。
朝廷や室町幕府では聖護院の後継者選考にあたっていたが、園城寺の院家である常住院門跡で熊野三山検校を兼ねていた良瑜が自身の弟子で実の姪孫でもあった道意(二条良基の子)を推挙して認められた。
この際、良瑜は熊野三山検校を道意に譲り、以降常住院に代わって聖護院が熊野三山検校の地位を務めるようになった[5]。
これによって聖護院は熊野の修験組織を束ねて、最盛期に修験道の山は120余り。
全国に2万5千ヵ寺の末寺を持ったという。
現在は明治初期 神仏分離令 修験廃止令により山も強制的に神社に併合、寺院も江戸幕府の令号に伴い修験道法度にて天台 真言に分け隔て純血の修験寺院は130ヵ寺まで減り慶長18年から今 平成の世迄 色濃く残る《本山派 当山派 参照(幕末 神兵隊により社殿 寺院 本尊 破壊により廃寺)[3]。
道意の没後、年の離れた弟である満意が継承した。
満意は良瑜の没後衰退した常住院を傘下に収めている。
ところがその後継を巡って室町幕府が介入し、既に後継者に内定していた近衛房嗣の子・道興を排除して、足利義教の子である義観が後継者とされた。
ところが、義観が突如隠居を表明して程なく没し、結局は道興が後継者とされた。
応仁の乱においては火災による焼失に加え、門跡である道興が足利義視との親交から西軍への内通が疑われて美濃国へ亡命するなど困難を迎えるが、乱の終結後に赦免された道興が洛北の長谷(現・京都市左京区岩倉長谷町)に移転して再興を図った。
その後は、戦国時代を通じて道興と同じ近衛家出身の門跡が継承(例外である伏見宮貞常親王の子道応も近衛政家の猶子)し、足利将軍家と諸大名とのパイプ役を務めた[5]。
しかし、長谷の仏堂は文明19年(1487年)4月に盗賊の放火によって焼失した。
その後、豊臣秀吉の命により烏丸今出川に移転するが、江戸時代の延宝の大火で延焼してしまう。
こうして延宝4年(1676年)に創建の地である現在地に再興され、現在みられる寺院の姿となった[3]。
享保19年(1734年)11月16日、 聖護院の森にて、呉服商の井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の遊女お俊との心中事件が起きた[3]。
近松半二は、この事件をまとめ、『近頃河原達引』(「お俊・伝兵衛」)という浄瑠璃作品を発表し、現在も上演されている[3]。
天明8年(1788年)の天明の大火の際には光格天皇が宸殿に入り、ここを仮御所としている。
また、安政元年(1854年)の内裏炎上に際しては孝明天皇が一時期仮宮として使用した。
当時の聖護院門跡は光格天皇と同母弟の盈仁法親王であり、当院と皇室は深い関係であった。
元治元年(1864年)2月、京都守護職が当寺寺領の聖護院村に練兵場を置いた[8]。
その関係から、京都守護職・新選組に関連する京都の3か寺で結成した「京都守護職 新選組巡礼会」に加盟している。
慶応4年(1868年)1月8日に聖護院門跡雄仁法親王が還俗して聖護院宮嘉言親王となり、海軍総督等を務めた。
嘉言親王の死後は異母弟で同じく聖護院に入っていた智成親王が継嗣として「聖護院宮」の宮号を継承したが、これが旧門跡との区別が判然としないとして北白川宮に改称された。
嘉言・智成両親王は共に子に恵まれず、二人の兄弟であった元輪王寺門跡の能久親王が北白川宮家を継承したため、皇室に両親王の血統は残らなかった。
しかし能久親王の子孫により、北白川宮家は皇籍離脱後2018年(平成30年)現在に至るまでその血筋が続いている。
1868年(明治元年)の神仏分離令に続き、1872年(明治5年)には修験道廃止令が発布されたため、天台寺門宗に所属することになったが、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、修験宗を設立[9]して天台寺門宗から独立した。
2000年(平成12年)、役行者1300年御遠忌を記念し、 数年かけて行われていた寺院の修理が終わった[3]。
【境内】
本堂 - 1968年(昭和43年)に建替えた。
十三重石塔
宸殿 - 江戸時代中期建立。光格天皇が仮御所とした。
表玄関
庫裏
書院(重要文化財) - 江戸時代初期の建立。御所より移築した建物と伝える。
庭園
中御殿
北御殿
一夜造御学問所
茶室
御殿荘玄関
西門
長屋門
山門
積善院(凖提堂) - 塔頭。准胝観音を本尊とする。
【文化財 重要文化財】
書院
絹本著色熊野曼荼羅図
木造智証大師(円珍)坐像 - 康治2年(1143年)良成作。
木造不動明王立像
木造不動明王立像
光格天皇宸翰 神変大菩薩号勅書
後陽成院宸翰消息
円珍入唐求法(にっとうぐほう)目録1巻、如意輪心中心真言観1通、智証大師像造立願文(ぞうりゅうがんもん)1通(以上、智証大師像の像内納入品)
山城国富家殿(ふけどの)山絵図
【文化財 国指定史跡】
聖護院旧仮皇居
【行事】
行事
1月 - 茶道速水流による初釜。
8月 - 熊野への大峰入りのために山伏が当寺に集結し、熊野へ向かう。 November 11, 2025
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皆様おはようございます✨
11月26日(水)☁休みです
今日は夕方から
九州国立博物館へ行って来ます🚗
テーマは『法然と極楽浄土』
ツタンカーメンの方が 正直 映え…w
いやいや、素晴らしき倭国の先人達の歴史です🙏✨
しっかりと学び、楽しんで来ます
熱さえ出なければ…
( >д<).;':ヘックション💧 https://t.co/VdipWWFdr8 November 11, 2025
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竜美南(たつみみなみ) 愛知県岡崎市
竜山(たつやま) 兵庫県高砂市
大竜町(だいりゅうちょう) 鹿児島県鹿児島市
鉄竜(てつりゅう) 福岡県北九州市八幡西区
天竜町(てんりゅうちょう) 長野県岡谷市
長良竜東町(ながらりゅうとうちょう) 岐阜県岐阜市
八竜新田(はちりゅうしんでん) 新潟県南魚沼市
八竜神(はちりゅうじん) 福島県白河市
梅竜寺山(ばいりゅうじやま) 岐阜県関市
舟橋黒竜(ふなばしくろたつ) 福井県福井市
宝竜寺(ほうりゅうじ) 千葉県富津市
北竜(ほくりゅう) 北海道雨竜郡沼田町
丸岡町新九頭竜(まるおかちょうしんくずりゅう) 福井県坂井市
南竜王町(みなみりゅうおうちょう) 山口県山陽小野田市
吉見竜王町(よしみりゅうおうちょう) 山口県下関市
竜安寺町(りゅうあんじちょう) 滋賀県長浜市
竜王(りゅうおう) 山梨県甲斐市
竜王新町(りゅうおうしんまち) 山梨県甲斐市
「竜」を含む地名— 93 件
「竜」を含む町域名
竜王町(りゅうおうちょう) 広島県広島市西区
竜王町(りゅうおうまち) 大分県中津市
竜岡(りゅうおか) 千葉県館山市
竜角寺台(りゅうかくじだい) 千葉県印旛郡栄町
竜が岡(りゅうがおか) 兵庫県神戸市西区
竜ケ崎町歩(りゅうがさきちょうぶ) 茨城県稲敷郡河内町
竜が島(りゅうがしま) 新潟県新潟市中央区
竜が台(りゅうがだい) 兵庫県神戸市須磨区
竜宮(りゅうぐう) 愛知県知多郡武豊町
竜宮町(りゅうぐうちょう) 京都府舞鶴市
竜宮町(りゅうぐうちょう) 愛知県豊田市
竜宮町(りゅうぐうちょう) 愛知県名古屋市港区
竜口(りゅうぐち) 三重県名張市
竜玄(りゅうげん) 新潟県新潟市秋葉区
竜光(りゅうこう) 新潟県魚沼市
竜興寺北(りゅうこうじきた) 福島県大沼郡会津美里町
竜西(りゅうさい) 北海道雨竜郡北竜町
竜谷(りゅうざく) 千葉県香取市
竜島(りゅうしま) 千葉県安房郡鋸南町
竜神町(りゅうじんちょう) 愛知県豊田市
竜神橋町(りゅうじんばしちょう) 大阪府堺市堺区
竜泉(りゅうせん) 東京都台東区
竜泉寺(りゅうせんじ) 愛知県名古屋市守山区
竜泉寺(りゅうせんじ) 岐阜県養老郡養老町
竜泉寺町(りゅうせんじちょう) 愛知県岡崎市
竜泉町(りゅうせんちょう) 兵庫県相生市
竜前(りゅうぜん) 福井県小浜市
竜谷(りゅうたに) 奈良県桜井市
竜南(りゅうなん) 静岡県浜松市浜名区
竜南(りゅうなん) 静岡県静岡市葵区
「竜」を含む地名— 93 件
「竜」を含む町域名
竜腹寺(りゅうふくじ) 千葉県印西市
竜洋中島(りゅうようなかじま) 静岡県磐田市
竜洋稗原(りゅうようひえばら) 静岡県磐田市
長野県上伊那郡辰野町(かみいなぐんたつのまち)
https://t.co/muYo7resf5
「辰」を含む地名— 44 件
「辰」を含む町域名
茜部辰新(あかなべたつしん) 岐阜県岐阜市
天辰町(あまたつちょう) 鹿児島県薩摩川内市
太秦安井辰巳町(うずまさやすいたつみちょう) 京都府京都市右京区
卯辰町(うたつまち) 石川県金沢市
太田辰ノ口(おおたたつのくち) 富山県高岡市
大辰巳町(おおたつみちょう) 滋賀県長浜市
上辰巳町(かみたつみまち) 石川県金沢市
今田町辰巳(こんだちょうたつみ) 兵庫県丹波篠山市
辰尾(たつお) 富山県富山市
辰尾新田(たつおしんでん) 新潟県上越市
辰尾新町(たつおしんまち) 富山県富山市
辰起町(たつきちょう) 静岡県静岡市葵区
辰田新(たつたしん) 新潟県岩船郡関川村
辰沼(たつぬま) 東京都足立区
辰野(たつの) 長野県上伊那郡辰野町
辰野(たつの) 富山県滑川市
辰ノ口(たつのくち) 茨城県常陸大宮市
辰口町(たつのくちまち) 石川県能美市
辰野新町(たつのしんまち) 富山県滑川市
辰巳(たつみ) 東京都江東区
辰巳(たつみ) 岡山県岡山市北区
辰巳台西(たつみだいにし) 千葉県市原市
辰巳台東(たつみだいひがし) 千葉県市原市
辰巳町(たつみちょう) 石川県白山市
辰巳町(たつみちょう) 愛媛県松山市
辰巳町(たつみちょう) 京都府京都市下京区
辰巳町(たつみちょう) 富山県富山市
辰巳町(たつみちょう) 京都府京都市東山区
辰巳町(たつみちょう) 徳島県阿南市
辰巳町(たつみちょう) 愛知県名古屋市港区
「辰」を含む地名— 44 件
「辰」を含む町域名
辰巳町東大路松原上る(たつみちょうひがしおおじまつばらあがる) 京都府京都市東山区
辰巳町(たつみまち) 石川県金沢市
田老辰の口(たろうたつのくち) 岩手県宮古市
醍醐辰巳町(だいごたつみちょう) 京都府京都市伏見区
長辰(ちょうしん) 新潟県燕市
西辰川(にしたつかわ) 広島県呉市
西辰巳町(にしたつみちょう) 京都府京都市上京区
西枇杷島町辰新田(にしびわじまちょうたつしんでん) 愛知県清須市
東辰川町(ひがしたつかわちょう) 広島県呉市
東辰巳町(ひがしたつみちょう) 京都府京都市上京区
福野辰巳町(ふくのたつみまち) 富山県南砺市
南辰川町(みなみたつかわちょう) 広島県呉市
美馬町辰角(みまちょうたつかく) 徳島県美馬市
脇野沢辰内(わきのさわたつうち) 青森県むつ市
https://t.co/vEL30q9V2F
「巳」を含む地名— 24 件
「巳」を含む町域名
太秦安井辰巳町(うずまさやすいたつみちょう) 京都府京都市右京区
大辰巳町(おおたつみちょう) 滋賀県長浜市
上辰巳町(かみたつみまち) 石川県金沢市
癸巳町(きしちょう) 北海道美唄市
癸巳町奔美唄(きしちょうぽんびばい) 北海道美唄市
今田町辰巳(こんだちょうたつみ) 兵庫県丹波篠山市
辰巳(たつみ) 東京都江東区
辰巳(たつみ) 岡山県岡山市北区
辰巳台西(たつみだいにし) 千葉県市原市
辰巳台東(たつみだいひがし) 千葉県市原市
辰巳町(たつみちょう) 徳島県阿南市
辰巳町(たつみちょう) 京都府京都市下京区
辰巳町(たつみちょう) 京都府京都市東山区
辰巳町(たつみちょう) 愛知県名古屋市港区
辰巳町(たつみちょう) 富山県富山市
辰巳町(たつみちょう) 愛媛県松山市
辰巳町(たつみちょう) 石川県白山市
辰巳町東大路松原上る(たつみちょうひがしおおじまつばらあがる) 京都府京都市東山区
辰巳町(たつみまち) 石川県金沢市
醍醐辰巳町(だいごたつみちょう) 京都府京都市伏見区
西辰巳町(にしたつみちょう) 京都府京都市上京区
東辰巳町(ひがしたつみちょう) 京都府京都市上京区
福野辰巳町(ふくのたつみまち) 富山県南砺市
巳六段(みろくだん) 福島県郡山市
https://t.co/kXlR34Rbvw
「蛇」を含む地名— 54 件
「蛇」を含む町域名
岩城上蛇田(いわきかみへびた) 秋田県由利本荘市
岩城下蛇田(いわきしもへびた) 秋田県由利本荘市
大蛇町(おおじゃまち) 千葉県佐倉市
下津蛇池町(おりづじゃいけちょう) 愛知県稲沢市
狐鷹森、五色沼、甚九郎沢山、甚九郎山、曽原山、寺沢山、蛇平原山、湯平山、(こたかもり、ごしきぬま、じんくろうさわやま、じんくろうやま、そはらやま、てらさわやま、へびたいらはらやま、ゆだいらやま、) 福島県耶麻郡北塩原村
蛇穴(さらぎ) 奈良県御所市
志津川蛇王(しづがわじゃおう) 宮城県本吉郡南三陸町
蛇池(じゃいけ) 茨城県猿島郡境町
蛇石(じゃいし) 岩手県八幡平市
蛇石(じゃいし) 静岡県賀茂郡南伊豆町
蛇籠町(じゃかごまち) 熊本県八代市
蛇ケ端(じゃがはな) 京都府福知山市
蛇口(じゃぐち) 山形県東置賜郡高畠町
蛇沼(じゃぬま) 青森県三戸郡三戸町
蛇の崎町(じゃのさきまち) 秋田県横手市
蛇廻間(じゃばさま) 愛知県常滑市
蛇喰(じゃばみ) 新潟県岩船郡関川村
蛇喰(じゃばみ) 富山県南砺市
蛇松町(じゃまつちょう) 静岡県沼津市
蛇持(じゃもち) 岐阜県養老郡養老町
上蛇町(じょうじゃまち) 茨城県常総市
立蛇(たちじゃ) 青森県上北郡おいらせ町
蛇ケ谷(ぢゃがたに) 愛知県知多郡武豊町
蛇渕(ぢゃぶち) 愛知県知多郡武豊町
寺泊蛇塚(てらどまりへびつか) 新潟県長岡市
南蛇井(なんじゃい) 群馬県富岡市
班蛇口(はんじゃく) 熊本県菊池市
檜原蛇平原山(ひばらへびたいらはらやま) 福島県耶麻郡北塩原村
平田町蛇池(ひらたちょうじゃいけ) 岐阜県海津市
蛇石(へびいし) 福島県田村郡三春町
「蛇」を含む地名— 54 件
「蛇」を含む町域名
蛇石(へびいし) 福島県白河市
蛇浦(へびうら) 青森県下北郡風間浦村
蛇尾(へびお) 和歌山県日高郡日高川町
蛇口(へびくち) 岩手県九戸郡軽米町
蛇坂(へびさか) 青森県上北郡七戸町
蛇沢(へびさわ) 富山県下新川郡入善町
蛇沢(へびさわ) 福島県田村郡三春町
蛇崎(へびざき) 大分県佐伯市
蛇園(へびその) 千葉県旭市
蛇田(へびた) 富山県魚津市
蛇田(へびた) 宮城県石巻市
蛇塚(へびつか) 静岡県静岡市清水区
蛇野(へびの) 秋田県秋田市
蛇野(へびの) 秋田県湯沢市
蛇之尾(へびのお) 岐阜県下呂市
蛇ノ宮甲(へびのみやこう) 福島県大沼郡会津美里町
蛇溝町(へびみぞちょう) 滋賀県東近江市
前沢蛇ノ鼻(まえさわじゃのはな) 岩手県奥州市
御津町広石蛇塚(みとちょうひろいしくちなわづか) 愛知県豊川市
南方町蛇沼(みなみかたまちへびぬま) 宮城県登米市
南蛇廻間(みなみじゃばさま) 愛知県常滑市
本宮蛇ノ鼻(もとみやじゃのはな) 福島県本宮市
岩作蛇洞(やざこじゃぼら) 愛知県長久手市
山都町蛇崩(やまとまちじゃくずれ) 福島県喜多方市
九頭竜伝承
https://t.co/31V4OktsoW
九頭龍伝承(くずりゅうでんしょう)、九頭龍伝説(くずりゅうでんせつ)は、倭国各地に残る九頭龍(大神)に関する伝承・伝説のことである。九頭龍大神伝承(くずりゅうおおかみでんしょう)、九頭龍大神伝説(くずりゅうおおかみでんせつ)とも。
神社が建立されることとなった事跡や奇瑞事象を、おおよその年代順に説明する。
戸隠の九頭龍伝承
戸隠神社 奥社本殿
戸隠山の九頭龍信仰の源は戸隠神社の九頭龍大神である[1]。鎌倉中期に記された『阿裟縛抄諸寺略記』の中に、西暦800年代の中盤頃の話として、「学門」という名の修行者の法華経の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼がこの地で岩戸に閉じこめられ、善神に転じて水神として人々を助けたという言い伝えが残されている(調伏善龍化伝承)。その後、九頭龍権現として崇められ雨乞いが行われた[2]。雨と水を司る他、歯痛の治療にも霊験があり、好物の梨[1]を供えると、歯の痛みを取り除いてくれるとされている。また、縁結びの神ともされている[3]。
九頭龍川流域の伝承
白山信仰
詳しくは「白山権現」や「白山信仰」を参照。
白山開山の起源は、十一面観音の化身である九頭竜王が泰澄の前に現れたことによる。また、白山権現は、後述の九頭竜出現伝承にもかかわっている。
黒龍大神信仰の創始
雄略天皇21年(477年)、男大迹王(継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行われ、北国無双の暴れ大河であった黒龍川(後の九頭竜川)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され高龗大神(黒龍大神)、闇龗大神(白龍大神)の御二柱の御霊を高尾郷黒龍村毛谷の杜に創祀された[注釈 1]。この儀により現代まで連綿と続く九頭竜湖~九頭竜川流域での黒龍大明神信仰が興ったのだとされる。
その後、黒龍大神と白龍大神のうちの前者は、天地の初めから国土を守護してきた四方位を象徴する4柱の神々「四大明神」の一柱を祀るものとされた。東の常陸国には鹿島大明神、南に紀伊国には熊野大権現、西の安芸国には厳島大明神(神宮創建 推古天皇元年{593年})、北の越前国の当地には黒龍大明神として、倭国の国家鎮護 及び 黒瀬川(後の九頭竜川)流域の守護神として祭祀されてきた[注釈 2]。
第四十三代元明天皇和銅元年(708年)9月20日、高志連村君(こしのむらじ・むらぎみ)が継体天皇の御遺徳を景仰し、高尾郷黒龍村(毛谷の杜)で御霊を合祀。
延暦3年(784年)8月、社殿が火災で焼失し坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ、坂上田村麻呂の父)が再建
九頭竜の出現
寛平元年(889年)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に姿を現して、尊像を川に浮かべた。すると九つの頭を持った龍が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒龍大明神の対岸[注釈 3]に泳ぎ着いたという。以来、この川を「九頭龍川」と呼ぶようになった[注釈 4]。
その後の黒龍大明神信仰の歴史
承平元年(931年)、藤原利行 朱雀帝御宇承平元年越前国黒龍村、毛谷神社神職となる(藤原姓の神職の祖、第一代)。
承平3年(933年)、長者となった生江の世常の宿祢(いくえのよつねのすくね)の夢にお告げがあり、社殿を新しく造りかえた。毎年七度の祭礼が行われてきたという。それが延喜式にある坂井郡毛谷神社で、今の毛谷黒龍神社にあたる。生江の世常の宿祢が長者となる奇跡の物語は、今昔物語集[巻17-47]や宇治拾遺物語[巻15-7]に載っている。
光明院御宇暦応元年5月2日、二十四代藤原行古が左中将義貞に従軍し藤島の里に戦死。暦応元年5月、新田義貞が斯波高経と戦ったとき、 黒龍神社も兵火にかかり燃える。このとき神霊は、白龍となって山上に飛び、木の上にとまった。そこで、このあたりを竜ヶ岡(たつがおか)と呼ぶようになった(『太平記』巻第二十に黒龍明神下での戦いの記載あり)。
鹿野山の九頭龍伝承
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出典検索?: "九頭竜伝承" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · https://t.co/GcyNt233sV · ジャパンサーチ · TWL (2015年10月)
千葉の鹿野山[4]の麓の鬼泪山(きなだやま、鬼涙山)[5][6]には、九頭龍という9つの頭を持つ巨大な大蛇が棲(す)みつき、村人を襲い人々を喰(く)らったという伝承がある[要出典]。
村の長(おさ)が都に使いをたて大蛇退治を願い出たところ、倭国武尊(ヤマトタケルノミコト)が大蛇退治に遣わされた。村人がその恐ろしさをタケルに語ると、タケルは腰の剣を抜き「必ず この草薙剣で大蛇を退治してみせる」と誓い、村人の案内で小川沿いの道を鬼涙山に分け入った。タケルは懸命に九頭龍を探すが一向に見つからない。疲れ果てていつしかタケルは眠ってしまった。するとそこに九頭龍が現れ、タケルを一飲みにしてしまった。
3日ほど経ったある日。村の娘が小川で洗濯をしていると、だんだんと川の澄んだ水が赤く染まっていった。娘はあまりのことに驚き、村人を呼んだ。 「タケルノミコト様が大蛇を退治してくださったからに違いない」 「いやもしかしたら、タケルノミコト様の身に……」 などと話し合っていると、ヤマトタケルノミコトが現れて語った。
「つい油断して9つの頭の蛇に一呑みにされてしまった。幸いにも生きていたので約束どおりこの剣を抜き、奴の腹の中を滅多斬りに切り裂いて、外へ出られた。そして、9つの頭を全部切り落としてやった。」
このとき流れ出た血が、鬼泪山北麓を流れる川を三日三晩染めたので、今でもその川のことを「(血)染川」と呼んでいる。なお、退治された九頭龍の霊魂は長年を通じて供養され、「九頭竜権現」として祀られるに至り、今でも神野寺仁王門に安置されている[7]。また、鹿野山測地観測所[8]の下には「大蛇作」「蛇作」[9]「蛇堀」[10]などの地名がある。かつて大蛇の棲息していた場所だという。
龍ではなく、鬼泪山に篭って倭国武尊と闘ったのは、鬼とされた阿久留王だったという伝承もある。別名、六手王とも言った。また、鬼が泣いて許しを請うたので「鬼泪山」という呼称がついたことにもなっている。阿久留王の墓という祠が江戸期までは実在したと言われている[注釈 5]。
鬼泪山でヤマトタケルと闘ったのは、でいだく坊、だいだあ法師、デーデッポ、だいだらぼっちという巨人であったという伝承もある。
箱根の九頭龍伝承と祭祀
九頭龍神社新宮(箱根神社境内)
九頭龍神社(本宮、ほんぐう)の縁起は、箱根神社(箱根権現)と同じ天平宝字元年(757年)に、箱根神社を開いた万巻上人が、芦ノ湖の龍が暴れているのを調伏し守護神として祀ったとされる神社である[11]。
芦ノ湖がまだ万字ヶ池と呼ばれていた奈良時代以前、箱根の村には、毎年若い娘を選んで芦ノ湖に棲む毒龍に人身御供として差し出すという慣習があった。箱根山で修行中の万巻上人が、このことを知ると、法力で毒龍を改心させて村人たちを救うと決意した[1][11]。万巻上人は湖畔で経文を唱え毒龍に対して人身御供を止めるように懇々と仏法を説いた。ついに毒龍は宝珠・錫杖・水瓶を携えた姿で湖から出現すると、過去の行いを詫びた。それでも万巻上人は毒龍を許さず、鉄鎖の法を修して龍を湖底の「逆さ杉」に縛り付け[1]、仏法を説き続けた。龍は、もう悪事はせず、地域一帯の守り神になる旨を約束をする[11]。万巻上人は龍の約束が堅いことを知り、九頭龍大明神としてこの地に奉ることにした[1][11]。その満願の日とは6月14日(旧暦)。そのため九頭龍神社(本宮)の祭りは、毎年6月13日が例大祭、毎月の13日が月次祭である[11][12]。毎年7月31日には「湖水祭」も行われている[1][12]。また、箱根神社の境内にある九頭龍神社新宮の月次祭は、毎月15日に行われている[12]。箱根の九頭龍大明神は水神であるとともに、商売繁盛や縁結びの御利益があるとされている。
今でも芦ノ湖の湖水祭では、人身御供に代えて赤飯を湖に捧げている[1]。赤飯の入ったお櫃を御供船に載せ、逆さ杉のところで湖底に沈めるのである。このお櫃が浮かび上がってくると、龍神が人身御供を受け入れなかったとされ、災いが起きると言われている。
九頭龍神社新宮(しんぐう)
平成12年(2000年)に九頭龍神社(本宮)の御祭神を分霊してお迎えし、箱根神社境内に建立した[11]。箱根神社拝殿のすぐ隣にある。
神霊的には新宮の御祭神は、本宮と同一である。
安産杉
箱根神社の境内には、九頭龍神社新宮の隣に「安産杉」がある。箱根の九頭龍はこのため安産の神としても有名になった。鎌倉時代に、源頼朝が箱根神社に安産の祈願をしたところ、3代将軍源実朝が無事誕生したとされ、以後、安産の祈願を箱根神社に行う風習が広まったとされる[13]。
平城京の九頭龍伝説
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発掘された平城京の二条大路木簡には、奈良の南山に住む九頭一尾の大蛇に疫病(天然痘)の原因となる鬼を食べて退治してもらい、都での流行阻止を祈願したとされる文が書かれている。ここでは人を害するものではなく、病気を食べる利益をもたらすものとして扱われている。
「
「南山之下有不流水其中有 一大蛇九頭一尾不食余物但 食唐鬼朝食 三千 暮食 八百 急々如律令」 (なお、原文は縦書きである)
」
唐の時代の医学書「千金翼方」にも、熱病治療の時に唱えられていた呪文「禁瘧鬼法」の一つとして同様の呪文が書かれている。しかし、「千金翼方」の文において、二条大路木簡の「一大蛇九頭一尾」に対応する部分は「地中有蟲、赤頭黄尾(地中に住む虫(蛇)有り、赤い頭で黄色い尾を持つ)」となっており、九頭とは記されていない。
「
「書桃枝一尺、欲發即用、噀病人面、誦咒文二七遍、擊著頭底。天姓張、地姓皇、星月字長、日字紫光。南山有地、地中有蟲、赤頭黄尾、不食五穀、只食瘧鬼、朝食三千、暮食八百、少一不足、下符請索、語你速去、即得無殃,汝若不去,縛送魁剛,急急如律令。」
」
三井寺の霊泉と九頭龍大神
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近江国三井寺(園城寺)金堂の近くには天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝が産湯に用いたという霊泉が湧いている。この霊泉は「御井(みい)」と呼ばれ、「御井の寺」から三井寺の通称となった。その霊水は、古より閼伽水として金堂の弥勒菩薩に御供えされてきた。
この御井の霊泉には九頭一身の龍神が住んでおられる、と今に伝わる。その九頭龍神は、年に十日の間、深夜 丑の刻に姿を現して、黄金の御器を用い水花を金堂の弥勒菩薩まで供えに来られるという。そのため、その期間は泉のそばを通らない仕来たりであった。近づいたり、覗いて見るなどの行為は、「罰あり、とがあり」と言われ禁じられてきた。
猪名川・五月山一帯の九頭龍伝承
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川西市の九頭神社
久々知妙見宮は清和源氏の祖、源満仲(または多田満仲 912年? - 997年)が開基したと伝わる妙見宮である。
天徳元年(957年)源満仲が矢文を放ったところ、岩に当たった。その岩を矢文石と名付けて、その地に北辰星(妙見宮)を祀ったと伝わる。その後、天禄元年(970年)摂津の国守に任ぜられたとき、源満仲が新しい館をどこに築こうか思い悩み、同国一の宮の住吉大社に参籠した。参籠して二十七日目、『北の空に向って矢を射よ。その矢のとどまる所を居城とすべし』との神託を受けて、満仲は鏑矢を放った。家来を引き連れた満仲は、空高く五月山を越え放たれた矢を追いながら鼓ヶ滝付近まで来た時、白髪の老人に出会い、矢の落ちた場所を知ることが出来た。この場所は「矢を問うたところ」として、『矢問(やとう)』という地名で残っている。
満仲が老人に教えられた場所に行ってみると、河水をたたえた湖(沼)があり、その湖の主の九つの頭をもった雌雄二頭の大蛇(九頭龍)の内の一頭の大蛇大龍の目に射た矢が刺さり、暴れまわっていた。一頭はこの地で死に血水跡はまるで紅の河のようになって流れた。もう一頭は死に物狂いに山を突き破り飛び出し、湖水は鼓を打つような音をたてて滝となって流れ出た。龍はしばらく鼓ヶ瀧の滝壷の中で生きていたが大水害の度に鶯の森、(川西市)天王宮と下流域に流されて行き、ついに昇天した。後に、その地には12以上も鳥居の立ち並ぶ白龍神社が建立され祀られることとなる。湖沼の水は干き、よく肥えた土地が残り、多くの田畑ができることとなった。そのため 後に「多田」という地名が付けられる。村人らは九頭龍の犠牲の御陰で田畑が拓かれたことをいたく感謝し、九頭龍大明神、九頭龍大権現、白龍大神と崇め御祀りした。満仲は、この地に居城を築き多田源氏を名乗った[注釈 6]。
少なくとも1988年までは、上記の九頭龍が死んだ場所として「九頭死(くずし)」という地名が残っていた。現在は「寿久井の地蔵尊」という地名の付近。
兵庫県川西市の九頭神社は、九つの霊石を御祀りして首から上の病に効く神として信仰され頭痛歯痛眼の病等の平癒に効くと伝えられる。最近は、こっそりと「頭の良くなるように」と祈る若者の御参りもあるという。
猪名川・五月山(能勢~多田~池田市)一帯で「九頭龍大(明)神」その対の「白龍大(明)神」等として祀られている場所
九頭竜権現社(木造祠風) - 大阪府豊能郡能勢町山田(湯小屋神社の北東150mの山中 妙見宮の妙見菩薩信仰の元となる妙見山に祀られている隕石の落下地点「能勢町稲地」から北西1400m程の場所)
九頭神社 - 大阪府豊能郡豊能町余野
九頭神社 - 兵庫県川西市東多田2(住宅街の外れ)
九頭龍神社 - 大阪府池田市建石町と上池田の境界付近(池田城の砦跡地)
白龍神社(小戸神社内) - 兵庫県川西市小戸1-13-17(天王宮、中橋西と呼ばれる辺り)
大正時代頃まで「摂津国能勢郡西郷村大字宿野字九頭森」など、地名にそのまま九頭龍の名が残っていた。
須佐男神社(旧・久々知妙見宮、兵庫県尼崎市久々知1-3-28)に満仲が弓矢を放ったという伝承の残る岩(矢文石)が残る。
阿蘇山 宝池の九頭龍神
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九州・英彦山に伝え残されている書『彦山流記』の原文をここで紹介する。
「
玉屋窟有聖人名臥験、大巌窟中一千日間伏臥修行法、又観諸法皆空之旨如菩提石室、因之其名云臥験。 (中略) 九州斗藪問肥後国阿蘇峰攀登、嶺嶽為体七宝所成峯高峙遥開四門扉、八功徳水池潔澄自畳五色波、四波羅密三解脱門皆備其音。南山之影西日之光悉有異色、金洲之浜敷銀砂、真珠樹々問花交色荘厳如浄土。更非凡夫所見、行者発希有心願拝宝池主信心堅固捧般若宝味、未誦三巻先現鷹形。行者云、鷹是小鳥王非宝池主云。重誦秘密咒現俗形。是行者云、俗形是世間躰全非池主。又誦法花経現僧形。是仏法主不能宝池主。此等皆偽事云。次現小龍形、行者尚不用之。次現十一面観音、光明赫赫、尚以不用之、吾不拝宝池実体不帰云。尽心信砕肝胆誦顕密貴文弥増法味。己及半月敢无見物無、于時従池中有声告云。於宝池正体者汝不能拝、罪障尚重故也云々。爰行者起大嗔恚云、我是大聖明王持者三界摂領有頼、悪魔降伏不疑、十二大夫加護八大童子随形、第六天魔王尚繋縛、何況余者乎云、誦経論章疏要文、秘密真言神咒唱、凝邪正一如観念修真二諦法理之間、山動地騒四方悉如長夜闇。爰九頭八面大龍出現、自山高自嶺長、一面有三目似春日並出、九頭有三目如暁星照耀、口吐大炎同迦楼羅焔、其身満虚空。其気如大風。開眼看之再无見之、行者迷悶既思被呑、数発強盛念、以所持金剛杵正面一眼中打留之、如夢四方悉晴、行者見宝池本主、遂本意速下向路、(中略)于時空中有声告云、我汝法施依妙雖現種々身形、云真実正躰極楽世界被云阿弥陀、娑婆世界被云十一面観音、再登御嶽重可拝宝躰云々。仍昇嶺嶽見彼宝池无徳云、見蓮大知池深見雨盛悟龍瞋云、以此思彼我得見宝池実躰、龍神者彼池顕和光真身施化度利生歟。空中又声云、酬汝法楽示種々身形云、眼根尚有障不能見本地云々。行者重住定印凝无生懺悔、時自霊峯頂十一面観自在尊坐千葉蓮花放大光明照行者頂、彼光明照十方世界三十二相八十種好具足奉拝金容躰畢、所謂先現鷹身、是於霊山会説法花時同聞衆形也、次示俗形者、是彦磐龍命大明神也、次示僧形、比叡山座主良源也、龍身宝池主无契池大龍也、十一面観音是当山峯常住本尊大悲利生実体也、凡眼罪障故令不見云々。行者心中歓喜踊躍作礼而去、此大龍者説法花同聞衆娑伽羅龍王阿那婆達多羅龍王第三王子、是則十一面観音化身歟。
」
この文章は、奥付にあたるところに「建保元年(1213年)癸酉七月八日九州肥前国 小城郡牛尾山神宮寺法印権大僧都谷口坊慶舜」がある。この中でも、仏教的な九頭龍伝承が語られている。
以下、同書よりの意訳はこうなる。
大巌窟で千日の伏臥修行の後、諸法は皆 空である旨をその石室で観じた。かの釈尊が菩提樹で悟ったように。その修めをもって臥験という名となった。
臥験はやがて九州の肥後国は阿蘇の峰に登り、山の嶺嶽をもって法華経にある七宝の(塔の相を顕す)場所となっており、高い峯が四(方に広がる波羅蜜への)門の扉となって開き、そびえていることを理解した。八功徳の水は池に清潔さをもって澄みわたり、自ら五色の波をたて広がっていた。そのさざなみは四波羅蜜、三解脱門を備えており、奏で出されていた。南山に落ちる夕日の光が湖池の浜を金色に染め上げ、銀色の砂が敷詰められる。樹木の間に間に花の色が重なり交わり、極楽浄土の如き荘厳さを呈していた。般若宝珠なる信心堅固な至誠を捧げ、凡夫の決して見ることは出来ないこの宝池の主に拝することを心から願い経を誦した。法華経の第三巻目に達する前に、まず鷹が現れた。しかし、「小鳥の王でこの宝池の主に相応しくない」と言って退けた。更に俗人・僧侶・竜が現れては、その一つ一つを池の主ではないと退けた。そして、十一面観音が現れ光明が赫々と輝くに至った。それでも、池の主ではないと退け、さらに経を唱え続けた。
臥験は半月にも及んであえなく見る物事が無かった。そのとき、修法に従事していた 池の中から声があって 臥験に告げ言う。 「宝池において、主の正体を汝が拝むことあたわず。罪障が重いゆえなり」と言う。 臥験は大いに激して言った。「我は是 三界を領有し治める知識や学問を身につけた聖なる持明者である。悪魔降伏を信じて疑わない。八大童子が随う十二神将よ加護し給え。第六天魔王をなお繋ぎ縛れ。何者が余の状況を評してかように言うか。」と。臥験は経論章疏の要文を誦し、秘密真言や神咒を唱え、邪も正も一如であると念を凝らし観じて真俗二諦の法理を修める間、山は動き地は騒ぎ 四方は悉く長い夜の闇の如くになった。
そして、ついに九頭八面の大龍が出現するに至った。その龍は阿蘇の山のように高く嶺のように長く、それぞれの顔面には三つの目が春の太陽のように出て、あるいは暁の星(金星)の如く照り輝いていた。龍の口から吐かれる大炎は同じく迦楼羅焔の如く照るのだった。その身は虚空をうめて満ち満ちるほどの巨大さだった。
その気迫は大風の如く勢いをもっていた。龍に呑まれると思い、法力を込めて持っている金剛杵を大龍の顔にある三つの眼をめがけて打ち込んだ。すると、龍は姿を消し、四方はあまねく晴れ渡った。
臥験は、池の主に会う願いを達したと思い、山を下りにかかる。すると、蒼天 にわかに かき曇り、大雨となり、川は洪水と化した。臥験は川を渡れなくなったので、山中の他の道を探すことにした。ようやく一軒の小屋が見つかったところ、そこには一人の若い女性がいるのだった。臥験は、泊めてくれるよう頼むと、快く承諾された。 November 11, 2025
1RP
三十三回忌は「弔い上げ」となり、魂が極楽浄土へ往生し子孫を守る存在となるそうな※仏教
法要は最後となるが位牌の供養が待っている...
一般的な寿命で考えたら子供や孫に任せなきゃだしお墓の管理も大変
墓じまいもお金が掛かる
私の中では十三回忌で極楽浄土へ行ってます🙏✨(・ε・)キニシナイ!! November 11, 2025
11/24(月祝)あの極楽浄土が紅葉に染まると絶景金閣に!只々見惚れる外国人観光客でいっぱい https://t.co/aByrnos14p via @YouTube November 11, 2025
まぁおかんの信仰してた宗教では、即日極楽浄土にいく他力本願(もう仏様に全部おまかせ)なので特になにもする必要はないのだが🐷
残された身としては最低限四十九日まではアレよな🐷
昔は1年喪に服してたとか大変すぐる🐷 November 11, 2025
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一般 4,000円
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#ドローン仏 November 11, 2025
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好き…!!拝見しただけでぬっくぬくのほっかほかになった rp
たぬたぬブームで癒されてたところにこんな…こんな可愛いたぬたぬさんと、可愛いくーる可愛いたぬたぬさんと、ほわほわ可愛いきつねさんと、荘厳なる可愛さを放つきつねさんが居たら即成仏しますわ
ここが極楽浄土か… November 11, 2025
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@sae_doma_ 極楽浄土でしょうな…(´- `*)💓
や、ほんまにそれよ、楽しみやけど悲しいお別れが待ってるから辛い😢
でも可能な限りたくさん観に行きたいwww November 11, 2025
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