東京大空襲 トレンド
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2025.12.09 13:00
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山田洋次監督の「TOKYOタクシー」 いい映画でした。
都内を回る最初の場面が言問橋で、たもとの隅田公園の東京大空襲犠牲者追悼碑が。
「あゝ東京大空襲 朋よやすらかに」の碑文もはっきりと。
今年亡くなられた川杉元延さんも喜んでおられるでしょう。 https://t.co/ZljETQObg6 December 12, 2025
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心に染みる奥野卓志氏からの言葉、
最後まで視聴するとガチで泣けるよ!
東京大空襲で2,400万発の焼夷弾!
https://t.co/8TnW8KYvDQ
(母親)「ありがとうって言ったの?ありがたくいただきなさい」「明日その兵隊さんにお礼に行ってくるね」
(奥野氏)「そして自分達も食べるものが無いのに少しのお米と少しの大根を持って、その兵隊さんにお礼に行ったそうです」「これが倭国人なんですね」 December 12, 2025
ドクター・中松の戦後80年所感(その45)
戦中の母
戦争中は例外なく私の家も空襲にあいました。例えば5月27日の海軍記念日を狙って5月25日にB29の東京大空襲がありました。
その前に3月10日の陸軍記念日にもB29の大空襲がありました。
アメリカは倭国が関東大震災で大変な火災に見舞われたことのデータをちゃんと持っていて、いかにしたら、東京全体を燃やすことができるかということで、深川から火をつければ、東京全体に火が回るという関東大震災の実績をコピーして、3月10日に深川に焼夷弾を落としました。そして多くの人が隅田川に黒こげの死体で浮いているのを、私は目の当たりに見ました。
そしてその後、5月25日の空襲は、今度は下町でなく私の家があった山の手に焼夷弾が落とされました。私の母は直参旗本の家として、江戸城、つまり今の皇居にいたわけですが、明治維新の時に篤姫とともに、原宿に移動しました。
そして、先般、徳川家の古いお蔵で確認したのですが、徳川家の帳簿の中にもはっきり、中松という名前と、原宿の家の地図が残っておりました。
そして、原宿から四谷にかけて、中松家は土地を持っておりまして、私の父が病気になったとき、母は慶応大学の非常にお金のかかる教授を、看護婦とともに、原宿の自宅に往診させるという徹底したことを行い、そのために、今の四谷にあった、うちの借家からの収入とか、全てを使い果たして、ほとんどお金がなくなった12月末、途方に暮れた母はどうしたかというと、12月末に「これで行きましょう」と言って、母が求めた薬を差し出しました。それは虫下しでした。
決して、慶応病院の教授が使うものではありません。それによって、父の鼻からゾロゾロと虫が出てきて、父の病状はあっけなく回復したのです。つまり、母は元来医者の娘で、母の父は、アメリカで医者をした有名な医者で、その前は加賀百万石の藩医でした。そういう系統の、医者の系統の母でしたので、このように慶応大学の医者も直せなかった、父の病気をあっという間に治したのです。
そして、その母が、私の小学校、青山師範付属小学校が東横線の世田谷の碑文谷駅のちに青山師範駅という場所に移転しました。そうすると、母は、原宿の家はそのままにして、新たにその学校のそばに大きな土地を買って家を建てたのです。まさに孟母三遷を実際に実行し、家族全体を移動させました。
その設計も母が行ったのですが、それはまた、非常に奇抜なものでした。どういう奇抜かというと、200坪の大きな土地でしたが、その斜め方向しか使わない。つまり、家を完全に斜めに向けるという設計にして、斜めを全部ガラス張りにするという思い切った設計、つまり、200坪の土地を斜めの半分の100坪しか使わなくて、そこに家を建てるという、すごい発想でした。アメリカから倭国に帰ってきた祖父に相談しましたら、祖父はなんて無駄なことをするんだなということを怒っておりましたが、実はこれがさっき述べた5月25日の大空襲の時に役に立ったのです。
つまり、B29は焼夷弾を、土地の形状に沿って落としていったのです。隣の家が山縣有朋の孫の家でしたが、あっという間に全焼しました。そして、その学習院出の奥さんが、ボロボロと涙を流して家にかけ込んできました。そして、B29はうちの土地にも同じように、焼夷弾を落としていったのですが、さっきの母の設計が、土地の2分の1しかないという発想がここで効いて、焼夷弾はその無駄と思われた芝生の庭に全部落ちました。
戦後、ここに新しい家を建てる時に、芝生から、約40発の焼夷弾が見つかりました。母はこの地区の町会長をしていて、武田信玄よろしく、桟敷に座って、そして采配を、消火の采配をしていたのですが、その母が指揮のために桟敷から立ちあがった途端に、その桟敷に焼夷弾が落ちたという幸運で母は命が助かりました。
そして、山縣さんの隣の私の家のひさしも類焼しましたが、母が、手ばたきで、迅速に消化をいたしました。このように、母は戦時中もしっかり家を守ったのです。
(つづく) December 12, 2025
@uruwasinoneko @NtrSeiji へー、じゃあ原爆投下や東京大空襲は?
キミの言う、「大量」虐殺って一体どういう基準?
キミは、本当に本気で、「漏れなく」言う気があるのかな?
https://t.co/4XztKGBV0S
自分は今まで、
・大量虐殺の基準設定
・大量虐殺を漏れなく糾弾
この2点を満たす人を見たことが無いけど。 December 12, 2025
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