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イタリア
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2025.12.08 13:00
:0% :0% (30代/男性)
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(・~・ ).。oO(この、缶詰と瓶詰が面倒じゃね?の所からイタリアと倭国は決別してしまったんですよね。
レトルトパウチのパスタソースを作ってほしいという要望に対して、イタリアメーカーはほぼ全てNoの回答でした。
そして倭国ではほぼ国産のみ(一部瓶詰は輸入継続)となりました) https://t.co/roy01NuSQV December 12, 2025
100RP
「新宿伊勢丹の正面を飾る」
ということが、ファッション業界の人間から見て、どれほどの名誉か語らせてください。
新宿伊勢丹って、百貨店の中でも「倭国のファッションの頂点」ここに広告が出るって、アンバサダーにとって「紅白のトリ」みたいなもの。しかもこの、一年で最も重要で売上が高いクリスマス商戦時期に。
5大ジュエラーの
Cartier / Tiffany & Co. / BVLGARI / Van Cleef & Arpels / Chopard
じゃなくて、倭国ブランドTASAKIを持ってきた伊勢丹。
その意思決定の背景には、間違いなく「この広告なら」という思いがあっただろう。
この場所に立った時、ここは倭国の中心だ!というメッセージを感じた。
パリもイタリアもアメリカも中国もTOPのデパートはクリスマス商戦に向けて、「女性の憧れの存在」を掲げる。
そう、この時期のデパート広告はファッション界のワールドカップ。
そして倭国を代表する存在に選ばれたのが、我らの平井ももなのだ。
彼女がずっと輝き続けた結果であり、ONCEのみんなが彼女を輝かせた結果でもある。
この場所に立った時、みんなと一緒に肩を組みたい気分になった。
2025年もチームONCEは最強だった。 December 12, 2025
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@SANKO_TRADING 食品流通はロングライフとかっこよさ、イタリアで優先だなと現地でしみじみ感じてました。倭国の便利を求めるハードルが無茶苦茶高いですよね、外に出ないと気づかなくても良いとこなんでしょうがw December 12, 2025
3RP
「さあさあ倭国のF1ファンの皆さん、キャディーはお好き?
来年のF1にはキャディーのニューモデルがやってきます。
組織も車も我が国のオリジナルです。エンジンはイタリア製ですがね。でもマセラティじゃないから、そこは安心して。しばし遅れを今や巻き返しの時です。
楽しみでしょう?」
#F1jp https://t.co/3QB9x4OMSL December 12, 2025
2RP
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d'Alba ꒰ダルバ꒱
» @dAlba_japan さま
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@powderroom_jp
#dAlba #ダルバ #スキンケア #ダルバミスト #保湿ミスト #パウダルームプレゼント December 12, 2025
2RP
▫︎欧州の宗教社会学者
イントロヴィニエ論考▫︎
題名: 「山上被告と『悪しき教師』」(🎧AI音声解説)
◾️現代イタリア史で「悪しき教師」とは、暴力を直接教唆しなくても、恨みや不満に“正当化の物語”を与え、社会を(左翼)過激化させてしまう言論人を指す概念だ。
複雑な現実を「敵 vs. 被害者」の単純な物語に書き換え、誰かを“絶対悪”と位置づけ、怒りに政治的意味を与える。
その結果、暴力があたかも“理解できる行為”に見え、道徳的ハードルが下がる——
70年代イタリアでは、まさにこの左翼的な情報環境が多くの若者を過激化させたと総括された。
重要なのは、悪しき教師は「暴力を指示しない」という点だ。
むしろ、言葉によって“暴力を正義に見せてしまう枠組み”を提供すること自体が危険なのである。
言葉は人を動かし、「物語(ナラティブ)は人間の行動を変える。」だからこそ、社会を動かす立場にある者ほど、最大級の責任を負う。
この欧米の歴史的知見をふまえ、イントロヴィニエ氏は、倭国の山上事件を「モラルパニック」「反カルト・テロ」の文脈で読み解く。
恨みそのものではなく、“恨みを正当化する物語(ナラティブ)”が暴力の引き金になる構造、そして倭国の情報空間がいかにして山上被告の心理を後押ししたのか——。
本音声解説では、こうした国際的知見をもとに、暴力をめぐる言論の責任と、社会が直面する危うさを対談形式でAIがわかりやすく解説する。
安倍氏に繋がる事件に「誰が何を語り、どんな物語が山上に共有されたのか」。
それを検証することこそが、再発防止の核心となると信じている。
#ビターウィンター #山上徹也 #テロ #安倍元首相襲撃事件 #14facts
引用元/ 倭国語翻訳版https://t.co/aqxESi4nFA December 12, 2025
1RP
苺🍓のズコット…果実園
イタリアトスカーナ発祥…
大きくて、ケーキ生地は薄く
ま、あまおうのパフェが良かったんだけど、売り切れ、
残念… #スイーツ https://t.co/Ci6WwokO6E December 12, 2025
王道龍臣(VOID)
だらしない昼行灯な枯れたおじさん。軽口を叩き過ぎてどれが本音かわからない。
自分の事があまり好きじゃない。
遠野虹太郎(うろかん)
(いろいろと)だらしなかったおじさん。悪いイタリアじん。
良かれと思って地雷原の中に飛び込む。自分の事はもうどうなってもいいと思っている。 December 12, 2025
その点。。。。昔はさぁ。モンロー、エリザベス・テイラー、グレースケリー、フランス系の有名どころの美女も、イタリア系も有名な女優がいたが。。。ちょっとスラスラと出てこないのだけど。。。みんな、強烈な個性にあふれていた。今は、それがないよね。なんか、怖いなぁと思ってしまった。 December 12, 2025
おい誰かグッチのバンブーサングラス出品してるぞ!
ヴィンテージでイタリア製とか俺のツボすぎてヤバいww 欲しいけど金ねぇ〜!
GUCCI sunglasses グッチサングラスGG 3531 バンブー
https://t.co/UreJX71wrg December 12, 2025
『🚨速報:イタリアのジョルジャ・メローニ首相、EUのウクライナへのイタリア軍派遣提案を拒否:「行ってもいいが、私の兵士と一緒には行かない!」』
EUに合わせたら国が崩壊する。 https://t.co/J9n1zYK5mX December 12, 2025
こんにちべぇ!
いくべぇ in the world
ローマからFRECCIAROSSA(イタリアの新幹線)に
乗って一路ナポリからのポンペイ遺跡へ。
ヴェスヴィオ火山を望むことができましたべぇ!
歴史あるイタリアの旅もこれにておしまいだべぇ!
今回もいろんなとこを旅できて、
楽しかったべぇ🇫🇷🇮🇹 https://t.co/Hnj9PPkajt December 12, 2025
今朝はコストコで買ったイタリアのシチリア製のブラッドオレンジジュースを飲みました。1本あたり3kgのブラッドオレンジを使いストレートにオレンジだけで作っています。
味はめちゃ美味しいです。あと先日よりイトーヨーカドー甲府昭和店(入口付近)でやまなしめぐり冬号の配布が始まっています。 https://t.co/uAAHjdUsRq December 12, 2025
少し前にツイッターで、こんなことを書きました。「聴者がよく言う『手話と出会った』『手話と出会う』『手話に出会って』…ろう者と出会えや。」もう少し説明したいなと思ったので、ここに書いておきます。
https://t.co/ir1x7Pv9eZ
例えば私は「イタリア語と出会った」という人に対して「イタリア人と出会えよ」とか「イタリア語ネイティブ話者と出会えよ」とはあまり思いません。ではなぜ手話についてはそう思うのか。主に以下の四つの理由があります。
1. ネイティブユーザが蔑ろにされてきた歴史があるから
2. 視覚言語なので基本的に「手話との出会い」は「手話ユーザーとの出会い」であるから
3. ネイティブユーザーとの接点に地域差などはないから
4. オーディズム(聴力中心主義)は情報保障だけではなく社会的疎外の問題でもあるから
以下、説明してゆきます。
1. ネイティブユーザが蔑ろにされてきた歴史
ある文化圏において、ある言語がどの程度ネイティブユーザーのコミュニティを蔑ろにしながら使われているか/使われうる状況かを考える時、手話は、私の知りうる限り全ての文化圏においてその度合いが高い傾向にあります。
例えば
- 独自性がないと思われる(その文化圏で覇権的な音声言語の亜種だと思われる)
- 学ぶに値しないと思われる
- 簡単に真似できるものだと思われる
- 使用を禁止されてきた歴史がある
- 使用してる様子を公共の場で笑われたり、侮蔑されることがある
と、およそ思いつくものは全て網羅している感じです。
ここまでであれば書記/音声言語でも同様の迫害を受けてきた言語というのはありますが、手話はさらに、学習者の多くからも軽んじられています。
単語を並べただけだろうとか、表情豊かだねとか(実際は顔の動きも文法です https://t.co/NxBdn5w4sQ)、ましてやろう者に対して「あなたの手話表現は間違えています」と言う聴学習者というのも、信じられないことに実は一定数います。
地域の手話サークルですら疎外感を感じているろう者が多いとも聞きます。
また、聴者が手話ビジネスを立ち上げ、どんなにその内容や手話表現にろう者から批判が集まっても無視し続ける、という事態もここ数年続いています。
手話歌についても、私はここ数年のケースはほぼ全て追っていると思うのですが、私の知る限り1人たりともろう者からの批判に耳を傾けて真摯に対応する人は現れていません。
「聴者による、ろう者不在の手話学習/手話利用」と言うべき状況というのがあまりにも横行しているのです。その上、なぜかしょっちゅう聴者は「手話との出会い」という表現を使っています。
手話には出会ったけど、ろう者には出会ってない(実際には出会っていても、ちゃんと対等な人間として向き合っていない)——そんな様子の聴者に対して、「目の前のろう者を見てくれよ」という気持ちを持つろう者や関係者は少なくありません。
書記/音声言語の少数言語でここまでの扱いを受けているものは私は知りませんし、もし存在するとしたら、その言語についても私は「〇〇(ネイティブコミュニティ)に出会えや」と思うと思います。
2. 「手話との出会い」は基本的に「手話ユーザーとの出会い」である
また、書記/音声言語と手話で事情が違う部分もあると考えています。
手話が視覚言語であることが、大きな違いかと思います。
視覚言語であるということは、書記できる言語と違って、手話表現を見るときには必ずその使用者の姿も見る、ということです。最近はSNS等でろうの発信者を見つけることもあると思います。それでもいいのです。その時その人は、そのろう者に出会ってるんです。
なのに「手話に出会った」と言う聴者があまりにも多い。
(ちなみに私が初めて出会ったろう者は近所の人でしたが、二番目に出会ったのはさとりさんという発信者 https://t.co/VdQcIee4SR で、最初は一方的に動画を拝見するだけでした。私はこの人との出会いを「手話との出会い」とは思っていません。)
もし聴者の役者が演じるろうのキャラクターをテレビで見たとして、確かにそれはろう者との出会いではなく「手話との出会い」と言えるでしょうけれど、その後学習を続ける中で手話講習のろう講師と出会ったりしてるはずです(学習を続けなかった人はそもそも「出会い」について語ることはほぼ無いでしょうから除外してます)。
私の「ろう者に出会えや」という言葉は、テレビで見たキャラクターとの出会いよりもそっちを重要視してくれよ、という気持ちの表れでもあります。
これは先ほどの「あなたの手話表現は間違えています」とろう者に言ってしまう聴者の問題とも地続きです。どこかで見た「これが正しい」という手話表現を信じるあまりに、目の前にいるろう者に対して「間違えています」と言えてしまうのですから。
3. ネイティブユーザーとの接点に地域差などはない
また、他の言語とは異なり、使用者が地域に関係なく存在するという点も指摘しておかなければなりません。
手話を日常的に使うろう者は、世界人口において100人に1人の割合で存在します。一方イタリア語を日常的に使う人は主にイタリアに密集して生活しています。
ろう者と出会うことは、難しいことではないのです。
いや、とは言っても日常生活においてそんな出会いないじゃないですか——と思う人もいるかもしれないけれど、これはそんなふうに処理してよい話ではありません。
そこには、大きな不均衡、非対称性があります。
聴者は、銀行でもコンビニでも駅でも市役所でも学校でも職場でも、ろう者と話す必要がないのです。もし相手がろう者だったら、当然みたいな顔をして「聞こえる人に代わってください」と言う人ばかりでしょう。そしてその要望はほぼ100%聞き入れられます。
一方ろう者は、どこに行っても、日々ずっと聴者と関わり続ける生活を送っています。
私たち聴者は、つまり「ろう者と出会う機会がなかなか無い」のではありません。ろう者と出会わなくて済んでいるのです。言い換えれば、聴力中心主義的な社会に生きる私たちは、得意な音声言語しか使わずに生活上のあれこれをこなすことができるという特権を持っているのです。
手話を学び始めて地域のろう者とつながり始めた時、こんなにも周りにろう者がいたのかと驚いたものです。ろうの知り合いができてからは、街中でかれらに会うことが何度もありました。その人がろうだと知らずにすれ違っているだけで、すでに私たちの生活にはろう者が登場しているのです。
4. オーディズム(聴力中心主義)は情報保障だけではなく社会的疎外の問題でもある
最後に、社会的疎外の話をしようと思います。
(これは決して手話に限ったことではなく、言語マイノリティである移民の音声言語にも当てはまることです。特に移民1世や1.5世の経験する社会的疎外とはかなり共通点があると思います。ですので、そういった移民に使用者が多い言語、例えばネパール語とかクルド語に「出会った」って言ってる人には、少しだけ「いやネパール人/クルド人と出会ってよ」と思う気持ちもあります。手話についてはそれに加えて上記1〜3のような特殊な状況があるので、さらに強く「ろう者に出会えや」と思う、ということです。)
聴覚障害の話は、特に社会問題を語るような文脈(社会運動とか政治とか)においては、情報保障の問題だと思われがちです。
もちろんそれはとても大事なことなのだけれど、それだけで——例えばある程度情報保障をしただけで——解決なのか、それで「もうあとは聴覚障害のことは考えなくてOK」なのかと言うと、全然そんなことはないと思うのです。
先ほど話したように、聴者がろう者と出会わなくても生きていけるような聴力中心主義的社会において、阻害されているのは「情報」だけではなく、「人間関係」でもあるからです。
そんなことを言うと、「かわいそうだから友達になってあげましょう」みたいな話だと思われるかもしれないけど、全然そんな話じゃないです。そういうミクロの話ではなく、もっと社会全体として取り組んだり、企業とか非営利団体とか、あるいはイベントとか何かしら組織的なことやる時にも取り組むべきことがある、という話です。
例えば以前やったイベントで、あべさんがこんなことを言っていました。
> 自分とよく似たような人が登壇しますよってなったら「あ、じゃあ行きたいな」と思ったり、それぞれの人にとって「あぁこの人が自分にとってロールモデルだな」って思えるような人が登壇するとか活躍してる姿が社会の中でたくさん見れるようになったら、自分を肯定できたり、自分も頑張ろうと思えたり……その中に「あ、このイベント行ってみたいな」と思うことも含まれると思います。
> 「私とは関係ない」と思ってしまうような状況だと、どうしてもね、このイベント参加したいなとは思えないと思うので、登壇者・共演者としてどんな人に声をかけるのかということも、やっぱり大事になってくるのかなと思いますね。
聴者ばかりを集めてイベントを企画して、UDトークとかYY文字起こしを使用して「情報保障あるんで聴覚障害のある人もぜひご参加ください」って言うだけ——そういうことを私もやってきたし、私の周りの人もやってきました。
でも、それだけじゃ不均衡は解消されないのですよね。
もちろん情報保障があるのは良いことだし、情報保障をつけるだけだとしてもどんどん多くの人にやってほしいです。でも、私たちはもっと何かできるはず。
あべさんの「登壇者・共演者としてどんな人に声をかけるのか」という言葉を読み返して思うのは、きっとそんなふうに声をかけるほど人間関係があったり、あるいは一方的によく知っているから声をかけてみたいと思えるような相手にろう者の人がたくさんいるよ、という聴者はあまりいないと思う、ということです。
なぜなら多くの聴者は「ろう者と出会わなくて済んでいる」から。この不均衡を解消するには、情報保障だとか、ろう者とろう文化と手話言語を尊重するだとか、そういうことだけでは不十分なのです。
私たちはもっと積極的にろうの発信者について知ろうとしたり、関わりを持ったりして、出会う必要があります。
今のは社会運動の文脈での話でしたが、他の文脈でも同様です。
会社の会議で音声認識の自動字幕を取り入れたところで、普段からろうの社員が孤立していれば、例えば「〇〇部長はこういうプレゼンのやり方を好む傾向がある」とか「自分の企画に似たのを〇〇さんが企画してるらしい」とかの非公式な情報は入ってきません。
学校でも、「あの教授の授業は単位が取りやすい」とか「あの先生四年前に生徒にセクハラして異動してきたらしい」とかの情報は、人間関係がないとなかなか入ってきません。
繰り返しますが、これは「かわいそうだから友達になってあげましょう」みたいな話ではありません(ろうコミュニティの中でめちゃくちゃたくさん友達作って楽しくやってる人もいたりするんで、「友達になってあげます」みたいな態度の聴者の価値なんてほぼ0でしょう)。不均衡を是正するにはどうしたらいいだろうか、という話です。
私たち聴者はこれまで聴者ばっかりで社会を回してきた気になっているから(この聴力中心主義的社会では実際に聴者ばかりが権力のある立場に就きやすいのではあるけれど)、そんな不均衡は温存すればいいじゃないかと思う人もいそうではある。恐ろしい話だけれど。
でも、よく考えてほしいのです。
私たちが聴者以外を疎外するとき、私たちもまた、かれらからの情報へのアクセスを失っているということを。
(例えば、手話通訳は聴覚障害者のためにあるのではなく、双方のために存在します。なぜなら「通訳がいなければ相手の話してる内容がわからないし、自分の話したい内容も伝えられない」という状況は、双方ともに同じだからです。
でも「手話通訳は聴覚障害者のためのもの」という思い込みが社会にはある。イベントなんかで「手話通訳が必要ならご自分でご用意ください」みたいなこと言われる聴覚障害者も多い。確かにかれらも「通訳なしには内容が伝えてもらえなくて困る」かもしれないが、イベントで喋る奴だって「通訳なしには内容が伝えられなくて困る」だろうに。)
「聴者、ろう者に出会わなすぎ問題」まとめ
総じて聴者は、手話に出会ってばかりで、ろう者に出会わなすぎです。
ろう者には都会じゃなくても出会うことができるし、(書記/音声言語と違って)手話を見る時は必ず手話ユーザーの姿も見ているはずなのに、聴者によるろう者不在の手話学習/手話利用は横行しているし、人間関係を結ぼうとする聴者は多くない上に、聴の手話学習者は「手話に出会った」「手話に出会った」としょっちゅう言っている……
そういうわけで、私は「ろう者と出会えや」と言ったのです。
今見たら冒頭の投稿にいいねが500近く付いており、私の存じ上げるろうの発信者さんたちや、プロフィールに "ろう" や "Deaf" と書いてる人も多数そこに名を連ねていることから、おそらく「ろう者と出会えや」という言葉は多くの当事者にとって「だよね〜」って思うものだったのだと思います。
逆に言うと、ろう当事者たちにとっては、私のこの今書いてる解説など読まなくても、これらの背景があっての「ろう者と出会えや」という言葉であることが瞬時に伝わったということもであると思います。
だから私は正しいんだ、と言いたいわけではありません。
ですが、私が今回解説した背景にある現象を日々実感・経験している当事者がたくさんいるということを、聴の読者の皆さんには考えていただきたい。
同じ社会で共に生きるということは、関わらずに尊重だけし合ってバラバラに生きることではありません。
---
以前書いたこちらの記事もぜひよかったら。
末尾にオススメの発信者をたくさん紹介しているので、まだろう者etc.に出会ってないよって人は出会ってみてね。
https://t.co/NxBdn5w4sQ
---
追記
ちなみに今回は手話のネイティブ話者の話なので何度も「ろう者」と書いていますが、箇所によっては聴覚障害者全体に当てはまる場合もあると思います。表現が適切でない部分がありましたらご指摘いただけたら幸いです。
また、「ろう者」の意味をご存じない方のために、Wikipediaの「ろう者」から抜粋しておきます。
> ろう者の意味内容は多義的であるが、主に聾学校卒業者や倭国手話使用者、聾社会に所属している人が、自分のこと(自分のアイデンティティ)を「ろう者」と呼称する。音声言語獲得前に失聴した人が多い。[…] 手話を堂々と使い、聞こえない自分を肯定している聴覚障害者に、自分を「ろう者」と呼ぶ人が多い
---
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https://t.co/6eIYGv16eq December 12, 2025
少し前にツイッターで、こんなことを書きました。「聴者がよく言う『手話と出会った』『手話と出会う』『手話に出会って』…ろう者と出会えや。」もう少し説明したいなと思ったので、ここに書いておきます。例えば私は「イタリア語と出会った」という人に対して「イタリア人と出会えよ」とか「イタリア語ネイティブ話者と出会えよ」とはあまり思いません。ではなぜ手話についてはそう思うのか。主に以下の四つの理由があります。
1. ネイティブユーザが蔑ろにされてきた歴史があるから
2. 視覚言語なので基本的に「手話との出会い」は「手話ユーザーとの出会い」であるから
3. ネイティブユーザーとの接点に地域差などはないから
4. オーディズム(聴力中心主義)は情報保障だけではなく社会的疎外の問題でもあるから
以下、説明してゆきます。
1. ネイティブユーザが蔑ろにされてきた歴史
ある文化圏において、ある言語がどの程度ネイティブユーザーのコミュニティを蔑ろにしながら使われているか/使われうる状況かを考える時、手話は、私の知りうる限り全ての文化圏においてその度合いが高い傾向にあります。
例えば
- 独自性がないと思われる(その文化圏で覇権的な音声言語の亜種だと思われる)
- 学ぶに値しないと思われる
- 簡単に真似できるものだと思われる
- 使用を禁止されてきた歴史がある
- 使用してる様子を公共の場で笑われたり、侮蔑されることがある
と、およそ思いつくものは全て網羅している感じです。
ここまでであれば書記/音声言語でも同様の迫害を受けてきた言語というのはありますが、手話はさらに、学習者の多くからも軽んじられています。
単語を並べただけだろうとか、表情豊かだねとか(実際は顔の動きも文法です https://t.co/NxBdn5w4sQ)、ましてやろう者に対して「あなたの手話表現は間違えています」と言う聴学習者というのも、信じられないことに実は一定数います。
地域の手話サークルですら疎外感を感じているろう者が多いとも聞きます。
また、聴者が手話ビジネスを立ち上げ、どんなにその内容や手話表現にろう者から批判が集まっても無視し続ける、という事態もここ数年続いています。
手話歌についても、私はここ数年のケースはほぼ全て追っていると思うのですが、私の知る限り1人たりともろう者からの批判に耳を傾けて真摯に対応する人は現れていません。
「聴者による、ろう者不在の手話学習/手話利用」と言うべき状況というのがあまりにも横行しているのです。その上、なぜかしょっちゅう聴者は「手話との出会い」という表現を使っています。
手話には出会ったけど、ろう者には出会ってない(実際には出会っていても、ちゃんと対等な人間として向き合っていない)——そんな様子の聴者に対して、「目の前のろう者を見てくれよ」という気持ちを持つろう者や関係者は少なくありません。
書記/音声言語の少数言語でここまでの扱いを受けているものは私は知りませんし、もし存在するとしたら、その言語についても私は「〇〇(ネイティブコミュニティ)に出会えや」と思うと思います。
2. 「手話との出会い」は基本的に「手話ユーザーとの出会い」である
また、書記/音声言語と手話で事情が違う部分もあると考えています。
手話が視覚言語であることが、大きな違いかと思います。
視覚言語であるということは、書記できる言語と違って、手話表現を見るときには必ずその使用者の姿も見る、ということです。最近はSNS等でろうの発信者を見つけることもあると思います。それでもいいのです。その時その人は、そのろう者に出会ってるんです。
なのに「手話に出会った」と言う聴者があまりにも多い。
(ちなみに私が初めて出会ったろう者は近所の人でしたが、二番目に出会ったのはさとりさんという発信者 https://t.co/VdQcIee4SR で、最初は一方的に動画を拝見するだけでした。私はこの人との出会いを「手話との出会い」とは思っていません。)
もし聴者の役者が演じるろうのキャラクターをテレビで見たとして、確かにそれはろう者との出会いではなく「手話との出会い」と言えるでしょうけれど、その後学習を続ける中で手話講習のろう講師と出会ったりしてるはずです(学習を続けなかった人はそもそも「出会い」について語ることはほぼ無いでしょうから除外してます)。
私の「ろう者に出会えや」という言葉は、テレビで見たキャラクターとの出会いよりもそっちを重要視してくれよ、という気持ちの表れでもあります。
これは先ほどの「あなたの手話表現は間違えています」とろう者に言ってしまう聴者の問題とも地続きです。どこかで見た「これが正しい」という手話表現を信じるあまりに、目の前にいるろう者に対して「間違えています」と言えてしまうのですから。
3. ネイティブユーザーとの接点に地域差などはない
また、他の言語とは異なり、使用者が地域に関係なく存在するという点も指摘しておかなければなりません。
手話を日常的に使うろう者は、世界人口において100人に1人の割合で存在します。一方イタリア語を日常的に使う人は主にイタリアに密集して生活しています。
ろう者と出会うことは、難しいことではないのです。
いや、とは言っても日常生活においてそんな出会いないじゃないですか——と思う人もいるかもしれないけれど、これはそんなふうに処理してよい話ではありません。
そこには、大きな不均衡、非対称性があります。
聴者は、銀行でもコンビニでも駅でも市役所でも学校でも職場でも、ろう者と話す必要がないのです。もし相手がろう者だったら、当然みたいな顔をして「聞こえる人に代わってください」と言う人ばかりでしょう。そしてその要望はほぼ100%聞き入れられます。
一方ろう者は、どこに行っても、日々ずっと聴者と関わり続ける生活を送っています。
私たち聴者は、つまり「ろう者と出会う機会がなかなか無い」のではありません。ろう者と出会わなくて済んでいるのです。言い換えれば、聴力中心主義的な社会に生きる私たちは、得意な音声言語しか使わずに生活上のあれこれをこなすことができるという特権を持っているのです。
手話を学び始めて地域のろう者とつながり始めた時、こんなにも周りにろう者がいたのかと驚いたものです。ろうの知り合いができてからは、街中でかれらに会うことが何度もありました。その人がろうだと知らずにすれ違っているだけで、すでに私たちの生活にはろう者が登場しているのです。
4. オーディズム(聴力中心主義)は情報保障だけではなく社会的疎外の問題でもある
最後に、社会的疎外の話をしようと思います。
(これは決して手話に限ったことではなく、言語マイノリティである移民の音声言語にも当てはまることです。特に移民1世や1.5世の経験する社会的疎外とはかなり共通点があると思います。ですので、そういった移民に使用者が多い言語、例えばネパール語とかクルド語に「出会った」って言ってる人には、少しだけ「いやネパール人/クルド人と出会ってよ」と思う気持ちもあります。手話についてはそれに加えて上記1〜3のような特殊な状況があるので、さらに強く「ろう者に出会えや」と思う、ということです。)
聴覚障害の話は、特に社会問題を語るような文脈(社会運動とか政治とか)においては、情報保障の問題だと思われがちです。
もちろんそれはとても大事なことなのだけれど、それだけで——例えばある程度情報保障をしただけで——解決なのか、それで「もうあとは聴覚障害のことは考えなくてOK」なのかと言うと、全然そんなことはないと思うのです。
先ほど話したように、聴者がろう者と出会わなくても生きていけるような聴力中心主義的社会において、阻害されているのは「情報」だけではなく、「人間関係」でもあるからです。
そんなことを言うと、「かわいそうだから友達になってあげましょう」みたいな話だと思われるかもしれないけど、全然そんな話じゃないです。そういうミクロの話ではなく、もっと社会全体として取り組んだり、企業とか非営利団体とか、あるいはイベントとか何かしら組織的なことやる時にも取り組むべきことがある、という話です。
例えば以前やったイベントで、あべさんがこんなことを言っていました。
> 自分とよく似たような人が登壇しますよってなったら「あ、じゃあ行きたいな」と思ったり、それぞれの人にとって「あぁこの人が自分にとってロールモデルだな」って思えるような人が登壇するとか活躍してる姿が社会の中でたくさん見れるようになったら、自分を肯定できたり、自分も頑張ろうと思えたり……その中に「あ、このイベント行ってみたいな」と思うことも含まれると思います。
> 「私とは関係ない」と思ってしまうような状況だと、どうしてもね、このイベント参加したいなとは思えないと思うので、登壇者・共演者としてどんな人に声をかけるのかということも、やっぱり大事になってくるのかなと思いますね。
聴者ばかりを集めてイベントを企画して、UDトークとかYY文字起こしを使用して「情報保障あるんで聴覚障害のある人もぜひご参加ください」って言うだけ——そういうことを私もやってきたし、私の周りの人もやってきました。
でも、それだけじゃ不均衡は解消されないのですよね。
もちろん情報保障があるのは良いことだし、情報保障をつけるだけだとしてもどんどん多くの人にやってほしいです。でも、私たちはもっと何かできるはず。
あべさんの「登壇者・共演者としてどんな人に声をかけるのか」という言葉を読み返して思うのは、きっとそんなふうに声をかけるほど人間関係があったり、あるいは一方的によく知っているから声をかけてみたいと思えるような相手にろう者の人がたくさんいるよ、という聴者はあまりいないと思う、ということです。
なぜなら多くの聴者は「ろう者と出会わなくて済んでいる」から。この不均衡を解消するには、情報保障だとか、ろう者とろう文化と手話言語を尊重するだとか、そういうことだけでは不十分なのです。
私たちはもっと積極的にろうの発信者について知ろうとしたり、関わりを持ったりして、出会う必要があります。
今のは社会運動の文脈での話でしたが、他の文脈でも同様です。
会社の会議で音声認識の自動字幕を取り入れたところで、普段からろうの社員が孤立していれば、例えば「〇〇部長はこういうプレゼンのやり方を好む傾向がある」とか「自分の企画に似たのを〇〇さんが企画してるらしい」とかの非公式な情報は入ってきません。
学校でも、「あの教授の授業は単位が取りやすい」とか「あの先生四年前に生徒にセクハラして異動してきたらしい」とかの情報は、人間関係がないとなかなか入ってきません。
繰り返しますが、これは「かわいそうだから友達になってあげましょう」みたいな話ではありません(ろうコミュニティの中でめちゃくちゃたくさん友達作って楽しくやってる人もいたりするんで、「友達になってあげます」みたいな態度の聴者の価値なんてほぼ0でしょう)。不均衡を是正するにはどうしたらいいだろうか、という話です。
私たち聴者はこれまで聴者ばっかりで社会を回してきた気になっているから(この聴力中心主義的社会では実際に聴者ばかりが権力のある立場に就きやすいのではあるけれど)、そんな不均衡は温存すればいいじゃないかと思う人もいそうではある。恐ろしい話だけれど。
でも、よく考えてほしいのです。
私たちが聴者以外を疎外するとき、私たちもまた、かれらからの情報へのアクセスを失っているということを。
(例えば、手話通訳は聴覚障害者のためにあるのではなく、双方のために存在します。なぜなら「通訳がいなければ相手の話してる内容がわからないし、自分の話したい内容も伝えられない」という状況は、双方ともに同じだからです。
でも「手話通訳は聴覚障害者のためのもの」という思い込みが社会にはある。イベントなんかで「手話通訳が必要ならご自分でご用意ください」みたいなこと言われる聴覚障害者も多い。確かにかれらも「通訳なしには内容が伝えてもらえなくて困る」かもしれないが、イベントで喋る奴だって「通訳なしには内容が伝えられなくて困る」だろうに。)
「聴者、ろう者に出会わなすぎ問題」まとめ
総じて聴者は、手話に出会ってばかりで、ろう者に出会わなすぎです。
ろう者には都会じゃなくても出会うことができるし、(書記/音声言語と違って)手話を見る時は必ず手話ユーザーの姿も見ているはずなのに、聴者によるろう者不在の手話学習/手話利用は横行しているし、人間関係を結ぼうとする聴者は多くない上に、聴の手話学習者は「手話に出会った」「手話に出会った」としょっちゅう言っている……
そういうわけで、私は「ろう者と出会えや」と言ったのです。
今見たら冒頭の投稿にいいねが500近く付いており、私の存じ上げるろうの発信者さんたちや、プロフィールに "ろう" や "Deaf" と書いてる人も多数そこに名を連ねていることから、おそらく「ろう者と出会えや」という言葉は多くの当事者にとって「だよね〜」って思うものだったのだと思います。
逆に言うと、ろう当事者たちにとっては、私のこの今書いてる解説など読まなくても、これらの背景があっての「ろう者と出会えや」という言葉であることが瞬時に伝わったということもであると思います。
だから私は正しいんだ、と言いたいわけではありません。
ですが、私が今回解説した背景にある現象を日々実感・経験している当事者がたくさんいるということを、聴の読者の皆さんには考えていただきたい。
同じ社会で共に生きるということは、関わらずに尊重だけし合ってバラバラに生きることではありません。
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以前書いたこちらの記事もぜひよかったら。
末尾にオススメの発信者をたくさん紹介しているので、まだろう者etc.に出会ってないよって人は出会ってみてね。
https://t.co/NxBdn5w4sQ
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追記
ちなみに今回は手話のネイティブ話者の話なので何度も「ろう者」と書いていますが、箇所によっては聴覚障害者全体に当てはまる場合もあると思います。表現が適切でない部分がありましたらご指摘いただけたら幸いです。
また、「ろう者」の意味をご存じない方のために、Wikipediaの「ろう者」から抜粋しておきます。
> ろう者の意味内容は多義的であるが、主に聾学校卒業者や倭国手話使用者、聾社会に所属している人が、自分のこと(自分のアイデンティティ)を「ろう者」と呼称する。音声言語獲得前に失聴した人が多い。[…] 手話を堂々と使い、聞こえない自分を肯定している聴覚障害者に、自分を「ろう者」と呼ぶ人が多い
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https://t.co/ir1x7Pv9eZ December 12, 2025
イタリアのフィレンツェで、不法移民がガス管に放火して住宅を爆破しようとした事件が発生しました。後に、この人物はパキスタン出身でイタリアに不法入国していたモハメド・アディーブ氏であることが判明しました。報道によると、彼は先週、国外追放されたとのことです。 https://t.co/tHnFj5VY4B December 12, 2025
わたるはママがハーフだから、イタリア風新年の過ごし方なんだね🇮🇹♥️新しい話が聞けて、おもしろかった🥰
おせち得意じゃないから、パスタとピザで新年を始めるのは最高かも🥳✨
私はママが倭国人だから年越しそば、新年はガッツリおせち&お雑煮だったよ🤭
#Vらじ 📻 December 12, 2025
仕草だけで外見は巨人ですよ…😌ジッと麦野くん見たまま「…これは、乳製品かなと思ったけど炭酸だったんだね👀不意を突かれたよ」初めての味だけど美味しいよとパッケージに目を向けてそうで🤣
萌え…👀?萌えます?!巨人ですよ…?
「こんなに美味しいんだものそりゃあ知ってるよね」と頷き「粒あんとこし餡の違いは最近知ったよ、パン屋で食べたあんぱんが、購買のあんぱんと中身が違っていて驚いたけど、実は俺も粒あん派なんだよ☺️」って微笑みのアヴィです✨
麦野くん色々興味持ってくれて優しい😭✨でも確かに写真指しさながら 倭国にないと言われたら「ええ?そうなの?信じられないな…でも逆で言うと、ミノツキには食堂があるけど、イタリアの高校には学食なんてないし、そもそも授業はほぼ午前中で終わるからね」と説明したりしますね🎶 December 12, 2025
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