平将門 トレンド
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2025.12.10
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平将門に関するポスト数は前日に比べ24%減少しました。男性の比率は15%増加し、前日に変わり30代男性の皆さんからのポストが最も多いです。前日は「中国」に関する評判が話題でしたが、本日話題になっているキーワードは「倭国」です。
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
明らかにあやしいというか、生成AIで出した素材。「中国人観光客が平将門の怒りにふれた」という内容でこの画像。都心じゃなくて墓地だし、倭国の墓地ですらないし、持ってる首はテラコッタだし、中国風だし…。どれも映像ではなく、生成AIによる画像をつなげた紙芝居方式で、字幕とAIの読み上げ音声。 https://t.co/zJr3XyPp9b December 12, 2025
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今日はお昼休みに神田明神へ⛩️
うまくいく守り欲しかったけど、売り切れてた🥺でも限定のお花の御守りを授与いただいた🌸🌼弟には平将門の御守りを🏇
2時間前に参拝に行った同僚は授与いただけたの!すごい👀✨
今日のあかりちゃんはお疲れなのかな🐴🎀横になっておりました。 https://t.co/ah6wrl1LIH December 12, 2025
幽霊にもたぶん賞味期限があって、壇ノ浦の戦いの幽霊は普通に怖いし平将門もバリバリの現役だけど、奈良時代あたりになると怖いんだかありがたいんだかよく分からない状態になって、「縄文人の幽霊」まで行くと怖いことは怖いがもう完全に別ジャンルの怖さになっている。 December 12, 2025
今日の朝は
#神田神社
#神田明神
#平将門
#銭形平次
ここに黒田さんに会いに行って来ました。
北庄から江戸に変わりやっと会いに来れました。
隣接するお店の神社声援(ジンジャーエール)とかカフェで軽く朝ごはんが写真の数倍おにぎり大きくて
人のつながり、ご縁に感謝です!
今から上野に向かいます https://t.co/nZpgjU6VQe December 12, 2025
【殿と行く!神田明神初詣⛩️✨】
2026年の殿ナイト始めは1月28日水曜日!
御祭神・平将門公の末裔である「殿」と参拝する、ご利益倍増(かも)の神田明神詣を2026年も開催します!
参拝のあとは、そのまま新年会へGO!🍻 つきたてのお餅に、相馬の絶品郷土料理🤤💕
【詳細】
日時:1月28日(水)
時間:初詣→18時
新年会→19時15分
場所:初詣→神田明神
新年会→いいオフィス上野 by LIGアクセス
(新年会からの参加でも大丈夫です🙆♀️)
2026年の運気、ここで爆上げしちゃいましょう🐉✨
お席埋まる前に急げ~!🏃♀️💨
https://t.co/YcdiAOzG6V December 12, 2025
なおこれもあるので宗教上の理由で成田山はお参りできない(神田明神が祀っているのが平将門であり、それを討伐するための儀式をやったのが成田山新勝寺と言われている)
成田山に行くと将門の加護が受けられなくなると言われているようでして、、、 December 12, 2025
なおこれもあるので宗教上の理由で成田山はお参りできない(神田明神が祀っているのが平将門であり、それを討伐するための儀式をやったのが成田山新勝寺と言われている)
成田山行くと将門の加護が受けられなくなると言われていると言われているようでして、、、 December 12, 2025
筑土八幡神社。新宿区筑土八幡町。
牛込東部鎮守の八幡様。
かなり久しぶりの参拝。いつ以来だろうなと思って履歴を辿ったら平成28年(2016)以来でした。約9年ぶりの参拝です。
御朱印は社務所前に由緒書きの中に挟んでいる形になっていました。書き置きのみのセルフ式です。お代は頂いていないとの案内がありましたがお気持ちを賽銭箱へ。(9年前は宮司さんに書き置きを頂きましたがその時もお代はいらないと言われた記憶があります)現在の御朱印は社殿が印刷された用紙を使ったもの。
そんな筑土八幡神社は嵯峨天皇の御代(809年-823年)に創建と伝わる古社です。
その後、伝教大師(最澄)がこの地を訪れた時に神像を彫刻して祠に祀りました。その時に筑紫の宇佐の宮土を取り寄せて礎としたので「筑土八幡神社」と名づけたと言います。
江戸時代になると当社に並ぶように神社が遷ってきます。遷ってきた神社が平将門公を祀る現在の「築土神社」(現・千代田区九段北)です。
これは江戸城外堀拡張によって遷座してきたものでそれ以来は両社が並ぶようにして鎮座していました。
江戸時代の地誌『江戸名所図会』にも両社が並び立っている境内が描かれています。「筑土八幡宮」「同明神社」として描かれていて二社が並び立つ様子が実に分かりやすく描かれています。(境内にその様子の案内板が立っているのでチェックしてみて下さい)
そちらでは同じ境内にありながらもあくまで別々の神社として機能していた様子も窺えます。その証拠にそれぞれ別々に参道、鳥居、神門などが設けられている事が挙げられ実際に氏子地域も違っていました。
そうした両社が並び立つ姿は昭和二十年(1945)の東京大空襲まで続きます。同年の戦災により社殿など多くが焼失。お隣の築土神社も悉く焼失してしまいます。
戦後になると昭和二十一年(1946)に築土神社は再建にあたり千代田区富士見へ遷座。その後、昭和二十九年(1954)に氏子地域である九段中坂の途中にある現在地は遷りました。こうして戦後の復興の中で、300年以上続く隣に並ぶ形での鎮座の形は終わる事となります。
当社は昭和三十八年(1963)に氏子による寄進もあり再建。当社の氏子地域(新宿区津久戸町)に本社を置く建設会社・熊谷組によって社殿が造営されました。
戦火に遭った当社ですが境内には古い石造物は多く残ります。石段途中の鳥居は新宿区最古。享保十一年(1726)に常陸国下館藩主であった黒田直邦によって奉納されたものです。
更に大変珍しい形の庚申塔も。寛文四年(1664)に作られた古い庚申塔で新宿区指定有形文化財。最上部に太陽と月をあしらい桃の木・桃の実・そして二匹の猿をあしらった珍しいもの。庚申塔というと三猿や青面金剛をあしらったものが一般的。こうした姿の庚申塔は自分も見た事がなくとても珍しいです。
拝殿前の一対の狛犬もは文化七年(1810)に奉納と古いです。江戸尾立て、彫りの深い凛々しい狛犬で首筋のラインが力強く実に良い表情。
ぜひ参拝してみて下さい。
#御朱印 December 12, 2025
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