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吉田郡山城
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2025.12.19
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吉田郡山城に関するポスト数は前日に比べ100%増加しました。男女比は変わりませんでした。本日話題になっているキーワードは「中国」です。
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中国・四国の合戦
天文9年〜天正10年(1540〜1582)
〚1〛吉田郡山城攻め
−毛利、尼子を撃退する−
毛利元就 vs 尼子晴久
◆ 大内・陶の援軍に尼子は撤退
毛利の安芸制覇へと進む
天文9年(1540 )12月3日
大内義隆 の派遣した 陶晴賢・内藤興盛 以下、
1万の援軍は 海路 海田に出ると北上し 郡山の南東3キロメートルの 山田中山に到着します。
この援軍を得た 毛利勢は、
11日に 宮崎長尾で。 翌、天文10年(1541)正月3日に 相合、青山で。6日には
青山で攻撃をしかけます。
11日には 陶晴賢以下の 大内軍は、山田中山を出ると 郡山城・西尾根の 天神山に 陣を移しました。
1月13日未明
元就は毛利のほぼ全軍を挙げて 宮崎長尾の尼子勢を襲撃し、高尾 黒正 を破りますが、吉川興経に くい止められます。
この攻撃を援護していた 陶晴賢軍は 戦況をみて。 尼子本陣襲撃を目論んで 天神山を下り、
青山の東を迂回して 南麓から本陣の背後を襲いました。
混乱する 尼子本陣では 今回の出陣に反対して
“臆病者” と、そしられていた 尼子久幸が 手勢を督戦して 晴久の窮地を救いましたが…中原善右衛門 に射殺され 結果、両軍ともに多数の死者を出しました。
同日夜 大内義隆が大軍を率いて 岩国に出陣したとの報を聞くと、尼子軍は夜半の降雪をついて撤収を開始しました。
翌、14日
大雪の中を 毛利軍は追撃しようとしたが 高尾豊前守は 宮崎に留まって見事な 殿軍を勤めました。
尼子軍は、久幸の首を置き忘れるほどに慌てて引き上げ 退路中にも多くの死者を出しました。
この戦いの後
安芸は 毛利氏 と 大内氏の勢力下に入り 尼子氏は衰えはじめます。
永禄7年(1564) の 富田遠征 の後に 小早川・吉川 両家を乗っ取り 草創期以来の重臣・井上元兼(もとかね)一族を惨殺し、やがて国人衆筆頭から 安芸一国の戦国大名にのし上がっていきます。
—続ー December 12, 2025
中国・四国の合戦
天文9年〜天正10年(1540〜1582)
〚2〛厳島の戦
−元就 陶晴賢を急襲する−
毛利元就 vs 陶晴賢
盟友・毛利元就と陶晴賢が厳島で対峙。
策略家・元就が勝利して中国制覇へ前進した。
天文20年(1551)陶隆房(すえたかふさ)は山口の大内館を襲い 主君・大内義隆 義尊父子を
深川 大寧寺(だいねいじ)にて自刃させた。
隆房は 大友宗麟の弟・晴英(はるひで)に 大内氏を継がせて 義長 と名乗らせ 自身も 晴賢と改名した。
◆ 晴賢に元就が敵対
天文22年(1553)陶晴賢 は、大内義隆の姉婿である 石見・津和野の 吉見正頼(まさより)が挙兵すると、大内義長の名前で毛利氏に出兵を要請しました。
毛利氏は 主家に対する義理で応諾しようとする 元就と、陶を悪人として征伐すべきだとする 長男・隆元(たかもと)との間で 意見が分かれましたが 隆元の意見をとって 陶の要請に応じないことにしました。
このことは 大内・陶氏への敵対を意味し、大内氏と毛利氏の対決へと展開していきました。
翌天文23年(1554)5月12日
吉田郡山城 を出発した 元就は 3000の兵を指揮して南下し、大内氏が 安芸国内に持っていた拠点の 銀山(広島市)己斐(こい) 桜尾(廿日市市)の各城を 即日接収しました。
また 厳島 仁保島 能美島 を押さえ 広島湾を制圧しました。
そして15日には、桜尾城に本営を置きました。
一方の 陶晴賢も 吉見氏と講和して 三本松城(島根県津和野)の包囲を解くと山口に戻り 宮川房長に 8000の兵を与えて 桜尾城攻撃に向かわせました。
9月15日 宮川の部隊は 廿日市西の 折敷畑(おしきばた)山 において、毛利の部隊に攻撃され大敗しました。
元就は、陶軍が次には 海路侵攻すると予測して
本営を 銀山城に後退させました。
晴賢は 岩国まで2万の兵を進めたものの それより先に進軍せず やがて撤収させます。
すると 元就も郡山に引き上げ その年は何事もなく 暮れました。
—続ー December 12, 2025
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