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モンゴル
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2025.12.06
:0% :0% (40代/男性)
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夕食は、内モンゴル式の涮肉(しゃぶしゃぶ)。16人が囲める巨大な円卓の中央では、様々な部位の羊肉や牛肉を盛り合わせた大皿がぐるぐると回っている。各人の前には一人用の小鍋があり、それぞれが好みの鍋底(ベーススープ)を選んで煮るスタイルだ。しかし、宴の冒頭でホストからひと言。「鍋底は『清水(お湯)』をオススメします。肉本来の味を楽しむためには、それが一番です」。さすがの見識だ…と、僕は心の中で拍手をした。 December 12, 2025
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倭国人がイメージするロシア人の姿が偏りすぎて、中央アジア系ロシア人は見た目だけでロシア人扱いしてもらえない。
見た目だけならモンゴル人ぽいから。
ロシア語の名前を名乗ると変な顔されるって。 December 12, 2025
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今回の内モンゴルは遼寧省に近いので、その食文化の影響も感じられる。猪油渣水餃は、水餃子の餡に猪油渣(脂カス、肉かす)入れて、コクを増したもの。東北地方では定番の一品だ。 https://t.co/ZZaPGzvrGc December 12, 2025
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ほぼ20年ぶりの内モンゴル。ご当地小吃・赤峰対挟は、焼き「餅」に豚の燻製肉を挟むのが特徴だ。生地に油酥(ラードとアワの粉を練り合わせたもの)、五香粉、砂糖などを練り込んで「餅」を焼くことで、外はカリッと中はふんわり香ばしい。ジューシーな燻製肉の香りも混じり合い、実に美味しい。 https://t.co/vHzX7nldbj December 12, 2025
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ユーマnote #1|侑磨 @bashi1021
note始めました!
みなさんぜひ読んでみて下さい!
モンゴルでの経験をこれから書いていこうと思います!
よろしくお願いします🙇 https://t.co/PeJC7RMZXq December 12, 2025
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中国(宋)を侵略して征服し、
吐蕃(チベット)を中国の一部にしたのはモンゴル人。
大蒙古可汗家(ボルジギン氏)は吐蕃王家(鮮卑禿髪氏=源氏)の子孫を主張。
鮮卑拓跋氏の分家である禿髪烏孤が397年に大都督・大将軍・大単于・西平王を自称して独立し南涼を建国。
南涼は3代18年で滅んだが、禿髪烏孤の子の禿髪樊尼は、南涼滅亡後に南下してチベットへ逃れ、吐蕃を建国。
他のチベット系国家でも、
吐谷渾可汗は鮮卑慕容部、
西夏皇帝は鮮卑拓跋部。
17世紀の年代記『アルタン・トブチ』によれば、
ボルテ・チノは、チベットの初代フズギュン・サンダリトゥ・ハーンの子孫であるダライ・スビン・アルタン・サンダリトゥ・ハーンの三男。
伝承では第32代チベット君主ナムリ・ソンツェンの
長男が吐蕃初代皇帝のソンツェン・ガンポ。
次男テングリ・ハーンの息子がボルテ・チノという。
ボルテ・チノの子孫であるチンギス汗は、チベット王家の分家である蒙古がチベットを領有するのは正統と主張。
チベット・モンゴルにおける伝承では即位直後のチンギス汗がチベット侵略を企てたとする。
モンゴル帝国は1218年に西遼、1227年に西夏、1234年に女真族の金を侵略し併合。
オゴデイ可汗の時代の1240年からモンゴルはチベットへ侵攻し併合。
1271年にフビライ可汗が大元大蒙古國皇帝となり中国を支配。
1279年に元は宋を滅ぼし中国を統一。
歴史の流れでは、
鮮卑がチベットへ介入しチベット族の支配を確立。
鮮卑宇文部から派生した室韋の一部族である蒙兀室韋が蒙古の母体となり、
鮮卑系のモンゴルが中国を支配することで中国にチベット、東突厥斯坦(東トルキスタン=新疆)、満洲が中国に組み込まれていった。
鮮卑拓跋氏は、拓跋と源流が同一である禿髪氏に源姓を賜姓。
のち拓跋氏は自らを元氏と改姓。
拓跋元氏、禿髪源氏の流れを汲む蒙古可汗家は、
国号を大元とし、
拓跋部子孫である元氏を重用している。
元はチベット仏教を保護し、モンゴルとチベットは一体化する。
モンゴルに支配された女真~満洲族もチベット仏教を信仰。
遊牧民を統率する可汗(ハーン)の称号は、
鮮卑によって確立され、
突厥阿史那氏によって世界最高権威にまで高められ、
モンゴルが引き継いだが、
やがて、
ダライ・ラマの権威によってハーン位が授与されるようになり、
遊牧民政権はチベット仏教の権威を必要とし、
モンゴルとチベットは一層、不可分となっていった。
17世紀に満洲族が同盟したモンゴル諸部族や征服したモンゴル諸部族を八旗体制に編入していくと、
満洲、モンゴル、チベットの一体性は強まり、
満洲族が清朝(王朝名)を樹立し、
正式な国名を「中国(満州語でドゥリンバイ・グルン)」とすると、
チベット、モンゴルは完全に中国の一部となった。
満洲族の清朝はまた、
東突厥斯坦を支配し、中国の新疆省とした。
文献上においては、
既に西周時代の『書経』に
皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中國民と厥疆の土地を先の王に付す)
とある。
東突厥斯坦の沙陀族は、五代王朝のうちのうち後唐、後晋、後漢を建国して中国を支配。
宋の太祖趙匡胤も沙陀族という説がある。
沙陀突厥は、はじめ吐蕃に属していたが、
沙陀族の朱邪赤心が唐の皇帝より、唐室の姓である「李」を賜ると、
「李」姓を嗣ぐ沙陀族は、自らを「唐の正統を継承する者」と位置づけた。
唐皇帝天可汗家の李氏は、
西涼の武昭王李暠の末裔で、隴西郡成紀県を本貫とする隴西李氏と称したが、
鮮卑族である、という説がある。
一方、鮮卑拓跋氏は、隴西李氏の出身で、匈奴右校王となった李陵の子孫という説がある。
堅昆(キルギス)可汗も李陵の子孫と称し、
唐天可汗の中宗は「我と同宗である」と認め、
酒宴を開いて堅昆の使者を歓迎した。
拓跋部が李陵の子孫であるならば、拓跋と唐皇帝家、吐蕃王家、西夏皇帝家、大元可汗家は同族である。
明を滅ぼし大順を建国した李自成は
李継遷(西夏の初代皇帝李元昊の祖父)の末裔(拓跋李氏)であった。
また、高麗太祖の王建の先祖は、唐皇帝の粛宗または宣宗である。
可汗、ハーン、ハーカーンという称号は、遊牧社会を統合する最高権威であり、
隋、唐、元、清は、
世界を統治する可汗であると同時に、
中国の皇帝でもあった。
突厥阿史那氏は匈奴単于の子孫と称し、
新羅王家もまた匈奴休屠王の太子である金日磾(京兆金氏)の子孫であるとした。
こうした“血統の正当性”は、遊牧社会を統治するに必要な“万世一系の権威”であった。
中国(漢族)がチベット、突厥、モンゴル、満洲を侵略し支配したのではない。
遊牧社会が繰り返し中国を侵略し
チベット、突厥、モンゴル、満洲を中国と一体化させたのである。
秀吉や大倭国帝国もまた、中国を侵略し、中国を支配下に置こうとした。
中国(漢族)は常に侵略される側で、侵略する側ではなかった。 December 12, 2025
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抑留者の歌で平和訴え 倭国とモンゴルの友好に
声楽家・田中利幸さんに聞く https://t.co/5WOZh2gIro
倭国がポツダム宣言を受諾し終戦を迎えた1945年8月15日以降も、外地で犠牲になった倭国人は多い。数ある一つがモンゴルの抑留者たちだ。 December 12, 2025
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武器に対して、非武装で中国に挑んだチベットも然り(チベット侵略の歴史:武器を持たぬ民の抵抗)。
チベット高原のチベットは、古くから独自の文化、宗教、統治システムを持つ独立地域だった。13世紀のモンゴル帝国時代から、中国王朝と緩やかな関係を保ちつつ、実質的な自治を維持した。しかし、20世紀中盤、中国の軍事侵略で一変した。1950年、中国人民解放軍(PLA)が侵攻した際、チベット人は効果的な武器や軍事組織を持たず、圧倒的な軍事力に非暴力的抵抗を強いられた。この出来事はチベット史の悲劇的な転換点で、今日まで続く抵抗運動の基盤だ。本稿では、侵略の背景、経緯、チベット人の非武装抵抗を考察する。
1.侵略の背景:平和主義のチベットと中国の拡張主義
チベットは仏教を国教とする平和主義社会で、ダライ・ラマを中心とした政教一致の統治下、軍事力を最小限に抑えていた。1912年の清朝崩壊後、事実上の独立を宣言し、独自の通貨、郵便制度、外交関係を築いた。一方、中国は1949年に共産党が政権を握り、毛沢東の下で領土拡大を推進。中国はチベットを「歴史的に中国の一部」と主張し、「解放」の名で軍事介入を正当化した。これはチベット側から見れば明らかな侵略です。
1950年以前、チベット軍は数千人の兵士しかおらず、近代的な武器や訓練が不足していた。チベット人は伝統的に非暴力を重視し、仏教の慈悲の精神が根付いていたため、軍事強化を積極的に行わなかった。この非武装状態は侵略時の致命的な弱点となった。中国のPLAはソ連製兵器と数万人の兵力を擁し、チベット東部(カムとアムド地域)から進軍。チベット側は外交交渉を試みたが、中国の要求は一方的でした。
2.1950年の侵攻:非武装の民に対する軍事制圧
1950年10月7日、中国軍はチベット東部に侵入し、チャムドを占領した。侵攻は迅速で、チベット軍の抵抗は散発的・限定的だった。チベット軍の多くは古い銃器しか持たず、組織的な防衛ができなかった。結果、チャムド守備隊は短期間で降伏、数千人が捕虜となった。中国軍の進軍はほとんど無抵抗でラサに至った。これはチベット側が軍事格差を認識し、犠牲を最小限に抑えるため非暴力的対応を選んだからだ。
侵攻後、中国は1951年に「17点合意」を強制署名させた。この合意はチベットの自治を認めつつ、中国主権を認める内容だったが、代表団は軍事圧力下で署名を強いられた。チベット人は武器を持たず、国際社会への訴えや外交で抵抗を試みたが、インドや国連は十分な支援を提供しなかった。侵攻ニュースが世界に伝わるまで2年かかった事実も、チベットの孤立を象徴する。
3.非暴力的抵抗の展開:1950年代の蜂起とダライ・ラマの役割
侵攻直後、チベット人は即時の武装蜂起を避け、非暴力的手段で抵抗を開始。寺院や僧侶を中心としたデモ、文化的保存、国際訴えが主だった。しかし、中国の占領政策が苛烈さを増すと抵抗は激化。1956年頃から東部で散発的反乱が発生、一部武装化したものの全体として非暴力原則を維持した。ダライ・ラマ14世は非暴力を提唱し、チベット人を導いた。彼の指導下で平和抗議やボイコットを繰り返した。
1959年のラサ蜂起は抵抗の頂点。3月10日、数万人がダライ・ラマの宮殿を取り囲み、中国軍撤退を要求。当初非暴力的だったが、中国軍の砲撃で暴力的衝突に発展。数千人が犠牲となり、ダライ・ラマはインドへ亡命した。この蜂起はCIA支援の武装グループも関与したが、多数の民衆は武器を持たず身体を張った。中国はこれを「反乱」として鎮圧、以後チベット支配を強化した。
4.継続する非暴力闘争とその意義
侵略以降、チベット人は中国の文化同化政策(チベット語抑圧、漢民族移住、寺院破壊)に対し、非暴力的抵抗を続ける。1987~1989年のラサデモは主に非暴力的で、僧侶や民衆が参加。ダライ・ラマの「中道アプローチ」は真の自治を求める非暴力の道を提案し、国際支持を集める。しかし、中国の弾圧は厳しく、平和抗議者さえ逮捕・拷問される。
チベット人が武器を持たずに侵略されたことは、軍事力不在の脆弱性を示す一方、非暴力精神が長期抵抗の源泉となった。 December 12, 2025
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#文才すごいね👍
文章笑ったよ😊
モンゴルは女1人で
プエルトリコへ修行にいく猛者
明日の鶴見は
ハゲトリオの残り少ない毛が
むしり取られないか心配だ… https://t.co/ycFUYIEwZE December 12, 2025
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@TetsuoArima ??清朝や中華民国より中華人民共和国の方が領土少ないですよ?モンゴルも独立しましたし。チベットに関しては農奴が解放されて良かったんでは? December 12, 2025
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[命令を]受け取って受け入れない者は、目があればつぶれろ、手があればなくなれ、足があれば跛になれ。
(『高麗史』巻23・高宗世家・18年12月壬子)
という、よりストレートな呪い文句が並んでいる。
森平雅彦『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』山川出版社 2001 December 12, 2025
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⚡白亜紀最速⁉️
🦖超スピード恐竜の足跡が発見🐾
#古知累論文紹介
恐竜の「走る速さ」って、どうやって測ると思いますか?
現代に生きている恐竜はいませんから、ヨーイドンで走らせるわけにはいきません。
そのため、普通は骨の頑丈さや筋肉の付き方から計算する「バイオメカニクス(生体力学)」という手法を使ってシミュレーションします。
でも、計算はあくまで計算。
「本当にそんなに速かったの?」という疑問に対する、裏付けを見つけるのは非常に難しいことでした。
その裏付けになり得るのがそう、「足跡」です。
舞台は中国、内モンゴルのオルドス市。 時代は「白亜紀」です。
ここで、ある中型の獣脚類(ティラノサウルスなどの二足歩行の肉食恐竜のグループ)の足跡化石が見つかりました。
この足跡、ただの足跡ではありません。
とんでもない「歩幅」で刻まれていたのです。
この足跡の主、 腰の高さは約1メートル、体長は約2.6メートル、体重は109kg程度と推定されました。
決して巨大な恐竜ではありません。人間より少し大きいくらいの中型恐竜です。
しかし、その走り方は強烈。
なんと、歩幅が「5.3メートル」もあったのです。
想像してみてください。 腰の高さが1メートルの生き物が、一歩で5メートル以上も跳ぶように進んでいる姿を。
このストライドと足の長さから推定される速度は時速45km。
(計算式によっては41km ± 4.9km)
これは、人類最速のウサイン・ボルト選手がトップスピードで記録した約44km/hに匹敵します。
そしてこの推定速度、過去に提唱されたシミュレーションにも一致するんですね。
これまでの骨格を使ったシミュレーションの研究では、次のような仮説が有力でした。
「体重1トンを超えるような大型恐竜(T-レックスなど)は、骨への負担が大きすぎて速く走れない。一方で、中型・小型の恐竜こそがスピードスターである」
シミュレーションで予測されていた「中型恐竜の最高速度」の範囲に実際の足跡から計算された速度合致したのです。
つまりシミュレーションを実際の記録で裏付けられた、ということですね。
この速度は、白亜紀に残された獣脚類の足跡としても「世界最速」の記録になります。
なぜ、この中型恐竜はこれほどの猛スピードを出していたのでしょうか?
ただのジョギングで全力疾走する生き物はいません。
研究チームは、同じ地層から「大型」の獣脚類の足跡も見つかっていることに注目しています。
つまり、この中型恐竜は、もっと大きな捕食者に追いかけられていて、命からがら逃げ出していたのかもしれません。
元論文URL→ https://t.co/kEEqDhqV24 December 12, 2025
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特製ら〜麺 塩
魚介の旨みが特徴的な無化調淡麗和風スープ😊拘りのモンゴル産岩塩のキレの良い味わい👏細麺との相性も◎まろやかな塩味の味玉が美味しい🥚途中卓上の香味唐辛子で味変。スパイス感のある独特な辛味で変化を楽しみつつ完食🙏
#日吉 #ひよし家 https://t.co/Y9GohCyOZ4 December 12, 2025
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まるちゃん、ロシア連邦のヤロスラヴリ州にある町ガヴリロフ=ヤムの「ヤム」は、モンゴル語の「ジャムチ」に由来するんだよ。
モンゴル帝国の影響が残ってて凄いね。 https://t.co/DM7M9jTRTn December 12, 2025
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倭国は戦後1945年から80年間、戦争も動乱も起こしていない。
ロシアはウクライナを侵略中。
建国が昭和24年(1949年)の中華人民共和国🇨🇳の76年間の侵略動乱の歴史を見てみよう!
🇨🇳の攻撃する先は自国だと言うけど自国なら何故、攻撃しないと入れないの?
矛盾してるんだよ。
1949年 新疆(ウイグル地域)への進駐・編入
1950–1951年 チベット進攻・併合
1954–55年 四川・青海などでチベット武装蜂起の鎮圧
1959年 ラサ蜂起(チベット)鎮圧
1962年 中印戦争
1962年 新疆イリ地域で大量越境(イリ事件)
1966–69年 内モンゴルで「内人党」粛清事件
1967年 中印国境衝突(ナトゥラ等)
1974年 西沙諸島(南シナ海)海戦
1979年 中越戦争
1984–88年 中越国境衝突(複数回)
1988年 南沙諸島ジョンソン南礁海戦
1989年 天安門事件で数千人
1990年 新疆バレン事件(武装蜂起鎮圧)
1995年 ミスチーフ礁(南シナ海)占拠
1997年 新疆グルジャ事件(デモ鎮圧)
2008年 チベット騒乱(各地で衝突)
2009年 新疆ウルムチ暴動
2011年 内モンゴル・シリンゴル盟で抗議運動の鎮圧
2012年以降 尖閣諸島海域で中国公船の常態的侵入(倭国との緊張)
2013年以降 南シナ海の人工島建設・軍事基地化
2014年 中越石油リグ対立
2017年 中印ドクラーム高地での軍事対峙
2020年 中印ガルワン渓谷衝突
2020年代 新疆での再教育施設政策の継続
2020年代 内モンゴルでのモンゴル語教育削減(抗議の鎮圧)
2021年以降 南シナ海でフィリピン・ベトナムと断続的衝突
2020年代 香港に国家安全法を導入(高度な自治の実質的消滅) December 12, 2025
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農家の公務員化というと「共産主義の農業の集団化みたいなことするつもりか」という人も出てくるとも思うが、全くもって似て非なるものです。
以下Grokさんに農家の公務員化と共産主義の農業の集団化の違いを調べてもらいました。
所有権と運営の自由度:
公務員化:農家個人が土地所有を維持し、公務員として給与をもらいながら自主的に農業する。作物の選択や方法は基本自由(規制はあるかも)。資本主義内で公的支援を強めるイメージ。欧州の補助金モデル。
集団化:社会主義(例: ソ連のコルホーズ、中国の人民公社)で、農地を強制的に国有化・集団所有にし、農民を集団農場で働かせる。個人の土地所有剥奪、生産計画は国家が決める。自由度低く、強制労働的。
目的と結果:
公務員化:自給率向上、後継者確保、食料安全保障。参政党の提案みたいに、民主主義下で任意参加想定。失敗リスクあれど、市場要素残す。
集団化:マルクス主義の工業化資金源として農業を統制。ソ連や中国で飢饉や生産低下引き起こし、大失敗(例: スターリン時代のウクライナ飢饉)。計画経済の象徴で、個人のモチベ低下。
強制性:
公務員化:選択制で、農家が公務員になるメリット(安定収入)で参加。拒否可能。
集団化:強制。抵抗者は処罰。ベトナムやモンゴルでも脱集団化で市場に戻った。 December 12, 2025
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たのしい☺️
モンゴルの平たい犬が届いて嬉しかったので、まめねこを送ったりしていた https://t.co/cX3DZNzzxW https://t.co/thjZ7l6Igh December 12, 2025
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個包装のボールツォグを発見。個人的にモンゴルで最も美味しくてハマっています。1袋に50個入りで250円前後。
ひとつひとつが小さいからついパクパクいけるし、ばらまき用のモンゴル土産としても良さそう。おすすめです。お試しあれ。 https://t.co/Nl9BvbEKqL December 12, 2025
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倭国が有事になるとすれば、敵国の第一候補は中華人民共和国だろう。彼らがチベット、ウイグル、内モンゴルの民に行ってる残酷な行為を知れば、降伏しても助かることはなく、男は即処刑、女性は強姦に洗脳し民族浄化され、倭国国民は残忍な最期を迎えることになる。降伏などあり得ない。 https://t.co/Sl8rHc0lkA December 12, 2025
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【「明諭琉球国王勅」大連で展示】のポスト
なんか興味深いですね。
でもいわしてもらいますが
中国の歴史観って本当に一貫してるんでしょうか?
琉球王国は確かに明の冊封体制下で朝貢し
1404年以降25回冊封を受けました。
これが「藩属国」の証拠として
展示されるのはわかりますが
当時の琉球は中国と倭国の薩摩藩への
「両属」状態で独自の中継貿易国家として
東南アジアまで行動していましたよね?
独立した王権を維持し
中国の「侵略」なんて歴史的事実は
まったくありませんよ?
これもあなた達中国共産党の嘘偽りです。
1879年の琉球処分は明治政府の国内統治で
清も正式に抗議せず
1895年の下関条約で
清が琉球権益を放棄しています。
歴史は「裏付け」じゃなく複雑ですよ。
で、ここであなた達中国共産党の矛盾が
とても面白い同じ論理を適用するとですよ?
モンゴルのフビライが「大元」を建国し
中国全土を征服統治したのは有名ですね。
モンゴル人があなた達漢人を
四階級制で支配したのに
今の中国は元を「中華王朝の正統」と位置づけと
モンゴルを「侵略者」扱いしていません。
むしろ内モンゴル自治区として
「中華民族」の一部にだったら
元が「中国を侵略」した過去を深く反省すべき?
歴史の都合のいい切り取りは相変わらず露骨ですね。
台湾1683年に清が鄭氏を滅ぼして編入し
台湾省設置は1885年です。
でも1895年の日清戦争で下関条約により
清が自ら台湾・澎湖諸島を倭国に割譲した。
清の公式文書で台湾はあなた達中華思想で言う
「化外の地」扱いだった時代もあり
あなた達の漢族移住は制限されていました。
今の中国が「台湾は不可分の領土」と主張するなら
過去の清の「売却」行為をどう説明するんですかね?
台湾民主国の独立宣言すら無視して
歴史の「重要裏付け」はどこに?
中国共産党のプロパガンダは都合の悪い過去
元寇の倭国侵攻や清の台湾放棄を棚上げして
琉球だけ「侵略史」に仕立てる。
まるで「自分の家系図だけ美化」してるみたい。
笑えますよね?
#琉球史 #中国歴史の矛盾 #台湾問題 #有益情報 December 12, 2025
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