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ニューヨーク
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2025.11.27 07:00
:0% :0% (40代/男性)
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\今週の放送前クイズ🎯/
舞台「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」
追加公演があるとしたら、藤原さんが行きたい都市は?
A ハワイ
B ラスベガス
C ニューヨーク
正解者の中から1名に
純金風タンブラーをプレゼント🎁
〆切⇒11/28(金)18時
フォロー&リポストもよろしく‼️ https://t.co/wnAtqmPhdJ November 11, 2025
37RP
ANAニューヨーク便のビジネスクラス、50席ぐらいあったが倭国人ビジネスマンはほぼ私だけ。
半分が高齢者で、もう半分が外国人旅行客
平日の夜便というのもあるが、これは悲しすぎる。倭国経済は本当に終わっていくんだろう。 https://t.co/Nj75VzeHp3 November 11, 2025
10RP
アメリカのクレジット拒否率が過去最高に。なぜ重要なのか
これは、信用システムが静かに周縁から引き締まり始めていることを示している。ニューヨーク連銀のクレジット申請者の拒否率は、過去10年以上にわたり10%台半ばから20%台前半の間を推移してきた。金融が厳しかった時期でも、概ね23%を超えることはなかった。だが現在は25%に迫っており、調査開始以来の最高水準だ。
そして重要なのは「申請を控えた人」ではなく、実際に申請した人々が対象だという点だ──自動車ローン、クレジットカード、借り換え、利用枠引き上げ、住宅ローンなどを申し込み、却下された人々。その4人に1人が拒否されるという水準は、クレジットサイクルの後半、つまり貸し手が拡大よりも防衛姿勢を優先し始める局面で見られるものだ。
歴史的に見ると、拒否率がこうして上昇し、高止まりする局面は、多くの場合、銀行が次の段階に備え、静かに警戒姿勢へ移行しているサインだ。これは90年代初頭の景気後退、2000年代初頭の減速、そして2007年の危機の前にも見られたパターンである。
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■ なぜ今起きているのか
延滞率はほぼあらゆる分野で上昇している──サブプライム自動車ローン、クレジットカード、学生ローンなどが典型例だ。新卒者は失業と信用スコアの低下に苦しみ、家計は過去2年間ずっとギリギリの状態で、高金利の中カードや長期自動車ローンに依存してきた。貸し手はこの悪化を把握しており、自らの貸出帳簿に反映され始めているのを見ている。
さらに、マクロ環境もある。資金調達コストは依然高止まり、不動産(特に商業用)は償還の壁に直面している。大手・中小金融機関に対する規制が緩和されたのも皮肉なことに「金融の健全さを祝福しているからではなく、ストレスを見越した備え」である。銀行がこのシグナルを読むとき、貸し出しを加速させるのではなく、むしろ審査を厳格化する。
銀行側に立って考えてみるといい──今は境界線ギリギリの借り手を大量に抱え込む時期ではない。そうして基準が引き上げられ、わずかに信用力が劣る申請者が一気に「不承認」の側に落ちる。
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■ 何を示唆しているのか
拒否率が新高値に到達したからといって、それ自体が破局を意味するわけではない。だが今後のサイクルがどのような感触を持つかを示す重要な手がかりになる。
生活費上昇をクレジットで埋め合わせてきた層は、より早く行き詰まるだろう。すでに延滞が増えている層は、借り換えや利用枠拡大といった逃げ道を失う。そしてそれが進むと、家計のキャッシュフローが圧迫され、消費と返済に波及する。
こうした局面はクラッシュのような派手な音を立てて始まるのではない。むしろこのようなチャートに静かに表れる。申請者の4分の1が拒否されているということは、信用システムがすでに拡張から防御へとシフトし始めているサインなのだ。 November 11, 2025
4RP
1:
スティーブ・ウィトコフについて話そう。彼を「利用されているだけの愚か者(useful idiot)」とみなすのは、危険な罠だ。
実際はもっと暗い。
ウィトコフは30年にわたり、ロシア資金、ロシア犯罪組織、ロシア不動産ネットワークの中で泳いできた人物だ。
— スレッド 🧵
2:
彼は単なる「トランプをロシア・ウクライナ問題で助言するMAGA系の男」ではない。
ウィトコフはロシア系の出自を持ち、ポストソ連の犯罪資金が流れ込んだニューヨークのネットワークを通じて財を築き、そして今、クレムリンの“願望リスト”である「和平案」を押し進めている。
偶然ではない。連続性だ。
3:
1990年代、マンハッタンの高級不動産は、ソ連崩壊後に逃亡したロシア犯罪ネットワークのナンバー1のマネーロンダリング場所になった。
FBIはこの時代について議会で証言している。有名な話だ。
そして、その時期に台頭してきたのが誰か?
スティーブ・ウィトコフとドナルド・トランプだ。
4:
80〜90年代のトランプ・タワーは以下で溢れていた:
・ロシアのマフィア
・武器商人
・マネーロンダラー
・セミオン・モギレヴィッチ系の“ビジネスマン”
・現金で買われる匿名会社の物件
トランプはそれを容認しただけではない——積極的に歓迎していた。
5:
トランプの友人ウィトコフは、商業不動産版の同じエコシステムで活動していた。
トランプがスーツケースに詰めた現金で買われるコンドミニアムを扱っていた一方、ウィトコフは不透明なパートナーシップや苦境にある売り手を使い、大型オフィスビルを扱っていた。
二人は同じロシア資金パイプラインの上に立っていた。
6:
そして2024〜25年、
ウィトコフはトランプのロシア・ウクライナ政策の窓口になっている。
彼は:
・外交経験ゼロ
・ウクライナの専門知識ゼロ
なのに、
・巨大なロシア人脈
・露骨な親クレムリンサポーターとしての過去
これがアメリカが突然ロシアの願望リストを掲げ始めた背景だ。
7:
既視感:
2016年、マナフォート(元トランプ選対本部長)はロシア情報機関の工作員コンスタンチン・キリムニクと会い、
・ロシアの侵略を正当化
・モスクワが選んだ指導者をウクライナに据える
・制裁解除
・ウクライナに圧力下で交渉させる
という「和平案」を協議していた。
覚えがないだろうか?
8:
そして滑稽なのは、トランプが何度も「自分が大統領なら戦争は起きなかった」と言っていることだ。
ロシアが2014年にウクライナへ侵攻していたことを、彼はよく知っているのに。
そしてマナフォートが話した“和平案”の内容も、彼が無数に聞いてきたはずだ。
9:
そして今また、ウィトコフが提示した「28項目の和平案」。
同じ無茶苦茶な要求。
同じ歪んだ物語。
これは新しいものではない。
クレムリン政策の再利用だ。
外交の仮面をかぶったビジネスパートナーが運んできただけ。
10:
トランプ政権初期を思い出してほしい。
プーチンとの私的会談は異様だった:
・米政府関係者不在
・記録なし
・説明責任なし
・通訳のメモを押収
・政策結果はロシアの利益に一致
これが現実だった。
11:
そして今も同じ:
・アラスカでのトランプとプーチンの秘密会談
・ウィトコフのモスクワ訪問
・非公開のウクライナ交渉
・「俺を信じろ」以外の透明性ゼロ
なぜウクライナ政策が、ウクライナ不在で密室で決められているのか?
12:
アメリカはウクライナには透明性、声明、監査を絶えず要求しているのに、
ロシアには?
ひとつの要求すらなく、「2週間待て」と言うだけ。
外交ではない。宥和だ。
13:
ウィトコフの発言は、ロシア語問題や「領土は交渉可能だ」など、ロシアのプロパガンダと見分けがつかない。
彼は2018年ですら、クリミア占領後に課されたロシア制裁を批判していた。
14:
そして彼は一貫して以下を無視する:
・ロシアの戦争犯罪
・大量拉致
・民間人へのミサイル攻撃
・核による脅迫
・文書化されたジェノサイドの意図
これは選択的無知であり、ロシアの罪を白洗いし、被害者に譲歩を強いるためのものだ。
15:
多くの人が「ウィトコフやトランプはビジネスマンで、取引を求めているだけだ」と言うが、
彼らのロシアとの取引はとっくに終わっている。
今彼らがやっている“取引”とは:
・モスクワへの迎合
・ウクライナへの圧力
・制裁の骨抜き
・取引を押しつけ
・それを“和平”と宣言することだ。
16:
ウィトコフは、ロシアのマネーロンダリングが「投資家」「パートナー」「買い手」として正当化されてきた世界でキャリアを築いた。
その世界はマナフォートが利用し、トランプが依存し、ロシア情報機関が活動に使ってきた場所だ。
彼らはそこから離れたのではない。それを政治に持ち込んだのだ。 November 11, 2025
3RP
11月27日(木) #ふんわり
🗽名曲遺産「アメリカ横断音楽めぐり」
アメリカ各地の風土や文化から生まれたカントリー、ブルース、ロックなどの多彩なサウンドをたどりながら、ニューヨークからロサンゼルスへの音楽の旅をナビゲート!
🗽メッセージは番組HP「木曜日」へ!
https://t.co/2OubzfE27W November 11, 2025
2RP
ニューヨークの売れっ子アーティスト、KAWSがやってきた。彼の作品とは全くスタイルの違うぼくの作品に興味を持っていて20点以上の作品をコレクションしている。内外のコレクターでまず一番だ。しかも彼は有名なアーティストである。アメリカでは2番にオノ・ヨーコさんが沢山コレクションをしている。 November 11, 2025
2RP
ニューヨーク
インド人観光客がメトロに乗って、
あちこちにう●ちを見つける
以前、行った時は見たことがないが
最近そうなったのか??
https://t.co/zWL8d7ZhlU November 11, 2025
1RP
和歌山県の川湯温泉♨️。
ニューヨークでこの温泉を知ったというカップルが川から湧き出る湯に足を浸している。
倭国人より外国人に会うことが多い
熊野路。 https://t.co/nmCfOgwcCE November 11, 2025
1RP
高市が来年一を目途に帰化制度を厳格化するようですが、
帰化には参政権と被選挙権が伴うので、倭国が第二のロンドンやニューヨークにならない為にも、中途半端ではなく、徹底して早急にやるべきでしょう。
報道では、『居住要件を永住権と同じ10年に延長する』とありますが、それではザル過ぎるし、法制化に時間がかかる事で『今のうちに急いで申請しなければ・・・』と、害国人による帰化申請が増えてしまう危険性があります。
当然、各種税金や社会保障料の不払いに関しては滞納から10年以上遡る事、一定額以上の納税をしている事、犯罪歴(起訴・不起訴に関わらず)・地域での素行調査等も確認する条項を入れなければなりません。同時に、スリーパー対策も考えなければなりません。それだけ、国籍と言うものが重要である事を国民も認識しなければなりません。
また、イスラム・中国を念頭に、『自国(旧国)の法律・制度(慣習)・宗教より、倭国国の法律・慣習を優先(上位概念)する』と言う一文を入れ、宣誓させ、それに対する罰則(帰化の取り消し)が必須になります。
単なる『倭国国に忠誠を誓います』と言った宣誓は何の意味も持ちません。それは、【国際社会は性悪説】で成り立っているからです。【性善説の倭国】は少数派で、性悪説の前で性善説は無力でやられ放題です。
また、参政権ばかり注目されていますが、【被選挙権】にも注意しなければなりません。最低帰化一世の被選挙権は禁止にしなければなりません(出来る事なら三世まで)。実際、保守のツラして帰化人の被選挙権を否定していた帰化一世のスリーパー議員が誕生しましたし、同じく中国から帰化した二世の様なあからさまな反日議員も誕生しています。 November 11, 2025
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ラパルフェ、去年のニューヨークのネタは面白かったけど今年の男性ブランコはまだ出場権がある現役M1戦士の過去の決勝ネタをやるのはどうなんだろうと思ってしまった、シンプルに去年の方が完成度高かったのもあるけど November 11, 2025
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◤イベントレポート◢
23日(日)宮本徹さんにご登壇いただき、トークショーを行いました。
ご来場いただいた皆様ありがとうございました!
宮本さんはまず、作品内で印象に残った場面として、アジェンデ政権の政策「産業の国有化」に触れました。
「“国有化”というと支配的なイメージがあるが、当時のチリでは国有化によって労働者が主体となり、労働環境の改善につながっていた。生産手段を社会の手に移して働く人を幸せにしようという、マルクスの掲げた理念の意味を再確認できた」と述べました。
資本主義社会のアメリカでも、ニューヨークのマムダニ氏のような民主社会主義者の市長が誕生していることについては、「社会主義の復権の動きとして、世界的に“第4次マルクスブーム”が起きている」と示しました。
また、「“民主社会主義”という言葉は世界共通語ではなく、現に倭国では使用されていない。 しかし“社会民主主義”“共産主義”の2つと実際にやろうとしていることは重なっている。マムダニ市長の所得再分配や富裕層課税・福祉施策の進行といった格差是正の取り組みは、社民党・倭国共産党でもほぼ同じ方向性を目指している」と述べました。
さらに、権力者によるメディアコントロールが問題視される現状を踏まえたうえで「有権者は投票の際に何を注意すべきか」と問われ、「真偽不明なネット情報だけでなく、オールドメディア、査読済みの科学論文、政府の公式統計など、“確かな情報”を確認した上で判断することが求められる時代になっている」と回答。冷静に自分の頭で考えたうえで意思決定する重要性を強調しました。
社会主義の今日的な意義から倭国の政治状況まで、多角的に問いを投げかける学びの多いトークショーとなりました。 November 11, 2025
1RP
第1章「影の工場」〔約2000字〕
あの日から、私の周りの世界は少しずつ色を失っていった。というのも、私が追いかけたのは“声の源”だった。ネット上で熱心に支持を示すアカウント群。それらを数珠つなぎにして辿ると、一つの建物が頻繁に浮かび上がった。写真やプロファイルに書かれた“ロンドン”“ニューヨーク”“東京”という表記は、単なる仮面。実際は昼夜問わず同じオフィスの中で、同じセットの台本が繰り返し再生されている。
私は調査をする人間でも専門家でもない。ただの市井のライターで、声を伝えたいだけの人間だ。けれど、網にかかったように次第に見えてくる光景は、映画のように迫ってきた。画面越しの会話が、現実の集合心理を変える。そこには狙いがあった――偽の世論である。
工場は効率的だった。デスクに並ぶ端末にはテンプレートが置かれ、書き込みパターンが用意されていた。ニュースの出どころ、批判の芽、反論の余地。すべて計算されている。もしネガティブな記事が上がれば、速やかに“賛成票”が増える。もし議論が広がれば、別のアカウントが冷静な態度で介入して炎上を削ぐ。まるで劇場の舞台監督のように、誰かが裏で制御していた。
私が最初に感じた怒りは、だんだんと違う種類の痛みに変わった。それは「欺かれた」感覚だ。私たちは自分の感情を“自分のもの”だと信じている。だがもしその感情の多くが外部から投下された“群衆のシナリオ”ならば、私たちの選択はどれほど自由か。私はその問いに居ても立っても居られなかった。
だから私は足を運んだ。匿名で何度か近隣の通りを歩き、工場のあるビルの角を回り、時には不自然な昼休みの列に紛れ込んで観察した。中の人たちは慌ただしく出入りし、名札を胸に下げ、画面の前で仕事をしている。誰もが当たり前のように見えたけれど、その目には演技の痕跡が残っているようにも見えた。
ある夜、ビルの窓越しに見えた光景が忘れられない。数十台のモニターが青白く光り、その前に座る人々が無表情にキーボードを叩く。画面には同じニュースのヘッドラインが並び、異なる国名を使って同じ論調が連鎖していく。誰かがそれを“世界の意見”と呼べるのだろうか。私にはそうは思えなかった。そこには“真実の模造品”があるだけだ。
私はその夜、街の小さなカフェに戻り、手帳にこう書いた。
「顔はそこにあれど、声は借り物。偽りの拍手が灯す仮面の祝祭。」
私はこの言葉を胸に、次に何をすべきかを考えた。暴くのか、告発するのか、あるいは別のやり方で人々の耳を取り戻すのか。選択は私の手の中にあった。ただ一つだけ確かなのは、無関心でいることはできないということだった。 November 11, 2025
第1章「影の工場」
あの日から、私の周りの世界は少しずつ色を失っていった。というのも、私が追いかけたのは“声の源”だった。ネット上で熱心に支持を示すアカウント群。それらを数珠つなぎにして辿ると、一つの建物が頻繁に浮かび上がった。写真やプロファイルに書かれた“ロンドン”“ニューヨーク”“東京”という表記は、単なる仮面。実際は昼夜問わず同じオフィスの中で、同じセットの台本が繰り返し再生されている。
私は調査をする人間でも専門家でもない。ただの市井のライターで、声を伝えたいだけの人間だ。けれど、網にかかったように次第に見えてくる光景は、映画のように迫ってきた。画面越しの会話が、現実の集合心理を変える。そこには狙いがあった――偽の世論である。
工場は効率的だった。デスクに並ぶ端末にはテンプレートが置かれ、書き込みパターンが用意されていた。ニュースの出どころ、批判の芽、反論の余地。すべて計算されている。もしネガティブな記事が上がれば、速やかに“賛成票”が増える。もし議論が広がれば、別のアカウントが冷静な態度で介入して炎上を削ぐ。まるで劇場の舞台監督のように、誰かが裏で制御していた。
私が最初に感じた怒りは、だんだんと違う種類の痛みに変わった。それは「欺かれた」感覚だ。私たちは自分の感情を“自分のもの”だと信じている。だがもしその感情の多くが外部から投下された“群衆のシナリオ”ならば、私たちの選択はどれほど自由か。私はその問いに居ても立っても居られなかった。
だから私は足を運んだ。匿名で何度か近隣の通りを歩き、工場のあるビルの角を回り、時には不自然な昼休みの列に紛れ込んで観察した。中の人たちは慌ただしく出入りし、名札を胸に下げ、画面の前で仕事をしている。誰もが当たり前のように見えたけれど、その目には演技の痕跡が残っているようにも見えた。
ある夜、ビルの窓越しに見えた光景が忘れられない。数十台のモニターが青白く光り、その前に座る人々が無表情にキーボードを叩く。画面には同じニュースのヘッドラインが並び、異なる国名を使って同じ論調が連鎖していく。誰かがそれを“世界の意見”と呼べるのだろうか。私にはそうは思えなかった。そこには“真実の模造品”があるだけだ。
私はその夜、街の小さなカフェに戻り、手帳にこう書いた。
「顔はそこにあれど、声は借り物。偽りの拍手が灯す仮面の祝祭。」
私はこの言葉を胸に、次に何をすべきかを考えた。暴くのか、告発するのか、あるいは別のやり方で人々の耳を取り戻すのか。選択は私の手の中にあった。ただ一つだけ確かなのは、無関心でいることはできないということだった。 November 11, 2025
@mie_pharma 説明を読まなければ英語では理解できません。風さんのことは好きですが、音楽を聴きながらすぐ内容が理解できなければ、ただ曲を楽しむだけになってしまいます。そこが英語が理解できないものの、悲しいところです。私はニューヨークに4年もいましたが、曲を聴いても意味がわからない。残念。 November 11, 2025
ラジオスイス/クラシック
アーサー・サリヴァン - チェロ協奏曲 ニ長調🎼(ジュリアン・ロイド・ウェバー[チェロ]/チャールズ・マッケラス指揮ロンドン交響楽団)
----- Wiki😀
アーサー・シーモア・サリヴァン(Sir Arthur Seymour Sullivan, 1842年5月13日 - 1900年11月22日)は、イギリスの作曲家。ウィリアム・S・ギルバート(劇作家・作詞家、William S. Gilbert, 1836年 - 1911年)と組んでオペラを創った事で知られている。
生涯
音楽の道へ
アーサー・サリヴァンはロンドンのランベスで生れた。父親は軍楽隊の隊長をしており、アーサーは8歳になる頃には父のバンドで使う楽器を器用に操るようになっていた。ベイズウォーター (Bayswater) の私立学校に行った後、王室礼拝堂の合唱隊への加入を認められ、チェルシーのチェイニー・ウォーク (Cheyne Walk) にあるその合唱隊の学校に通うようになった。その頃、彼は賛美歌や歌を作曲し始めている。
1856年、サリヴァンは最初のメンデルスゾーン賞を授与され、王立音楽アカデミーに学生として2年間在籍する。1858年(16歳)に、サリヴァンはライプツィヒへ旅行し、そこで勉学を継続し指揮法を学んだ。彼はこの期間に著しい音楽的な成長を遂げた。
1862年にロンドンに帰り、クリスタル・パレスで演じられたシェイクスピアの「テンペスト」の付随音楽が誕生している。サリヴァンは次第に、英国最高の作曲家として評価されるようになっていった。1866年に「交響曲ホ長調(アイリッシュ)」の演奏会が開かれた。この当時の作品には、「イン・メモリアム (In Memoriam)の序曲」と「チェロ協奏曲」(1866年)、オラトリオ「放蕩息子 (The Prodigal Son)」(1869年)、「失われた琴線 (The Lost Chord)」(1877年)等がある。
20歳代
1866年に、1幕物のオペレッタ「コックスとボックス (Cox and Box)」の総譜を出版する事で収入が増加した。これは歌劇場の為の作曲家として、彼の作品の中でも最も有名で富をもたらす事になった。
1867年の秋、彼はジョージ・グローヴとウィーンへ旅行し、未発見のシューベルトの楽譜という貴重な宝物を持ち帰った。
30歳代
1871年、ジョン・ハリングスヘッド (John Hollingshead) が、ゲイエティ劇場のためにオペレッタ「テスピス (Thespis)」をギルバートと共に創る事を、サリヴァンに委嘱した。この舞台は必ずしも成功とは言いがたく、その楽譜は後に紛失してしまったが、一部分は後に「ペンザンスの海賊 (The Pirates of Penzance)」で使われている。同じ年にセイバイン・ベアリング=グールドが歌詞を書いた『進め、キリスト者の兵士 Onward, Christian Soldiers』(倭国語では「見よや十字架の」として知られている)が作曲されている。
ギルバートとサリヴァンの真の協力体制が始まったのは1875年、リチャード・ドイリー・カート (Richard D'Oyly Carte) が彼等に1幕物の「陪審裁判(Trial by Jury)」を委嘱した時である。これは大成功を収め、3人はその後20年以上にわたり、時には対立する事もあったが協力関係を築き、14作品を残した。その後の作品は「魔法使い (The Sorcerer)」(1877年)、1878年には彼等のそれまででの最大の成功となった『軍艦ピナフォア (H.M.S. Pinafore)』 が生まれた。この作品はアメリカで頻繁に盗用され、ギルバートとサリヴァンは著作権を守るため1879年に大西洋を渡った。ニューヨークでは『ペンザンスの海賊』が生まれた。
次のギルバートとサリヴァンのオペラ『ペイシェンス(Patience)』は、1881年ロンドンのオペラ・コミク劇場で初演、同年末にはオープンしたばかりのサヴォイ劇場へ移りこけら落としを飾った。引き続き『アイオランシ (Iolanthe)』(1882年)、『ミカド (The Mikado)』(1885年)、『古城の衛士 (The Yeomen of the Guard)』(1888年)等が同劇場で上演された。2人の創り出した作品は《サヴォイ・オペラ》と総称されるようになる。「ミカド」は、サン=サーンスのオペラ『黄色い王女』(1872年)やプッチーニの『蝶々夫人』(1904年)など、19世紀末の異国趣味の風潮が舞台に顕著に表れていた時代の産物である。
40歳代
1883年、サリヴァンはヴィクトリア女王からナイトの称号を授かった。同時代の批評家は彼のオペレッタ作曲家としての経歴に終止符を打つものと感じていた。騎士称号を得た音楽家は、オラトリオやグランド・オペラなどより下世話な作品を書いて、身を落とすべきではないと考えられていたからである。サリヴァンもまた、サヴォイ・オペラが与えてくれた経済的な保証はあったが、次第にギルバートとの仕事が自分の技術以下であり重要ではなくなってきたと感じていた。加えてサリヴァンは、ギルバートの意見を取り入れるために自分の音楽のやり方を抑えなければならないと感じていた。
1886年、サリヴァンはカンタータ「黄金伝説 (The Golden Legend) 」を創って批評家達に応えた。この曲は当時の殆どの人々がサリヴァンの最高傑作だと考えていた。結局サリヴァンは1890年、「ゴンドラの船頭達 (The Gondoliers)」の公演後、ギルバートとの共同作業に終止符を打った。その後リチャード・ドイリー・カートと共に、ウォルター・スコットの小説『アイヴァンホー(Ivanhoe)』を題材にした壮大なオペラを創作して、ロイヤル・オペラ・ハウスで上演された。しかし数年後、サリヴァンは2つのオペレッタで再びギルバートと共に仕事をし、他の仲間とは3つの作品を生み出した。
サリヴァンは生涯健康には恵まれず、1900年11月22日ロンドンの自宅で、肺炎により58歳で死亡した。ロンドンのヴィクトリア堤防公園 (Victoria Embankment Gardens) に彼の顕彰碑が建てられた。
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おはようございます。🌤️
ほうじ茶。
フルーツプロテイン(ホエイプロテインコンセントレート・塩・VC・重曹・クエン酸・スギナ・ブルーベリー・バナナ・みかん・りんご)
6時間睡眠。今日も夢はすっかり忘れてしまった。(0ω0) November 11, 2025
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