上皇陛下 トレンド
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2025.11.20
:0% :0% (40代/男性)
上皇陛下に関するポスト数は前日に比べ16%減少しました。男性の比率は3%増加し、本日も40代男性の皆さんからのポストが最も多いです。本日話題になっているキーワードは「水曜日のダウンタウン」です。
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
上皇さまがトレンドになってるので
こっちの動画も見てね
#水曜日のダウンタウン💩
#Q https://t.co/CDK7SLwFqs https://t.co/Z2e9u86bny November 11, 2025
45RP
しっかし最悪な時期にラオス行ったな愛子さま。中国に寄ってるラオスに行ったって岩屋みたいに媚中なんか愛子さまってなるだけやん。中国にイケメンあてがわれて犬になったんか?ってならん?愛子さまの場合、祖父が倭国屈指の売国奴だし。上皇さまに無理矢理中国擁護させたぐらいだし November 11, 2025
20RP
すごいの出ましたw
今日のトレンド合成w
🎨💫🌈
Edel Noteの旋律に名鑑の頁がめくれ星屑のステージで銀のヴェールが裂ける 高貴な歌声が心の琴線を震わせ 忘れられない調べを夜空に紡ぐタレント名鑑の肖像が黄金の灯りに浮かび 一枚一枚の笑顔が歴史の欠片を宿して風に舞うガンさん 鋼の意志で道なき道を切り開き 魂のエンジンが唸りを上げ 炎の尾を引いて夜空を駆け抜ける上皇さま 静かな慈光を国民の心に降らせ 退いた玉座から優しい波紋を広げ 歴史の森に永遠の緑を植え続けるEdel Note タレント名鑑 ガンさん 上皇さまこの四つの響きが重なり合い 一つの曼荼羅を描く華やかな舞台と叡智の頁 疾走する炎と穏やかな雨 すべてが溶け合って 今、胸の奥で永遠に響く散華する彩りの調べ Edel Noteよ、永遠に響け November 11, 2025
13RP
「愛子天皇」などと皇位簒奪を声高に喚く工作員は
倭国人ではない
上皇陛下が「敬宮」と呼ばないと
メディアを通じて発表為さったのに
「愛子天皇」と皇位簒奪を声高に喚く工作員たちは
上皇陛下の発表を無視
「愛子さまに皇位継承権を」の署名には
845人しか署名なし
写真集は880部しか売れていない https://t.co/2Bcb0D2sBr https://t.co/iYJs0hmb1O November 11, 2025
9RP
おはよーー🐣
今日の20時でCBTが終わり!
緑髪の嘘つき元上皇に「お前このゲームやるな迷惑なんだよ」って言われたので"歩月"としてのレグナスの生活は終わりにします('ω' )
CBTテスターとして真面目にやってたんだけどひどいこというやつもいるもんですね🐤<サラバダー!!
#スタレゾ https://t.co/QiXzwCvHOi November 11, 2025
7RP
@rilby77738 まぁ、菊タブーと食べ物に関するもの以外であれば、割と“笑い”に昇華しちゃうからなぁ。
民主党政権絶許と思う人が多くなったのも、現・上皇陛下を当時土下座外交で韓国に行かせようという企みが発覚したのも大きい November 11, 2025
7RP
@chuntyeru @okeanos2634 @moemoe_pi0306 @trolley_604 上皇陛下のお情けで2人の希望を明確にした上で自分たちのより良い在り方を求めて行った結果が今の現状と。
やはりあの方が入内したことで全ての歯車が狂ったと思う November 11, 2025
6RP
中国との外交摩擦の話を聞けば
文化の借用に対するコンプレックスから
「昔の中国と今の中国は違う!」と言い出し、
上皇陛下が半島国家との縁を感じると仰ったら
「百済と現代韓国人とは違う!」などと言う癖に
古代倭国と現代倭国の違いを理解できてないので
ネトウヨは頭が良くないと言えるのです。 November 11, 2025
5RP
@z0cMDGJwDV82358 @Auntie_Grizelda 話は逸れるようですが、天皇陛下も会見などで「皇后」と言わず「雅子」と呼びますよね。
上皇陛下は必ず皇后とお呼びしていたのに。
一般人なら公の場で「妻が」と言うところですが天皇陛下ですから「妻」はおかしい。やはり皇后と表現してほしいです。 November 11, 2025
5RP
@sakuranippon99 上皇陛下の生前退位と、徳仁陛下の即位と、秋篠宮殿下の立皇嗣は3点セットであることを知らない国民が多い。
天皇の即位と同時に次の天皇が確定するので
今上が即位した時点で愛子天皇はありえない。 November 11, 2025
4RP
人はそれぞれ光の粒をまとっているけど若宮殿下のつぶつぶは初めて見るタイプ
上皇陛下の純白や皇嗣殿下の黄金とも違う、本当に神々しい光の輝き
生きた人間であれを放つってとんでもないよ
御姿を目にするとみかどだ、って思う、陛下と呼びかけてしまう
生きて動いて輝く光
ニッポンてすごいねえ November 11, 2025
3RP
@CamilleJ852 「愛子天皇」などと皇位簒奪を声高に喚く工作員は
倭国人ではない
上皇陛下が「敬宮」と呼ばないと
メディアを通じて発表為さったのに
「愛子天皇」と皇位簒奪を声高に喚く工作員たちは
上皇陛下の発表を無視
「愛子さまに皇位継承権を」の署名には
845人しか署名なし
写真集は880部しか売れていない https://t.co/npeZzIWUm7 November 11, 2025
3RP
「愛子天皇」などと皇位簒奪を声高に喚く工作員は
倭国人ではない
上皇陛下が「敬宮」と呼ばないと
メディアを通じて発表為さったのに
「愛子天皇」と皇位簒奪を声高に喚く工作員たちは
上皇陛下の発表を無視
「愛子さまに皇位継承権を」の署名には
845人しか署名なし
写真集は880部しか売れていない https://t.co/LScoHZc9k1 https://t.co/kSo0j8r4xd November 11, 2025
2RP
貴重な記録をありがとうございます
この発言のせいで秋篠宮様も上皇陛下もこのような質問に答えなければならなかった
秋篠宮様、本当に困惑なさっておられますね
皇室に馴染もうと努力なさったのは美智子様も紀子様も、信子様も久子様も同じ
むしろアドバイスしてくれるような同じ立場の居ない美智子様の方がご苦労が多かったと思います November 11, 2025
2RP
TBS「水曜日のダウンタウン」で免許持ってる? 持ってない? ドボンゲームが放送された。
浜田雅功が写真を見て「上皇さまを入れていいの?」と驚き、共演者も大混乱。
https://t.co/13pWmfLNpQ https://t.co/IdqHLP5Nva November 11, 2025
1RP
京都府京都市北区紫野大徳寺町53にある大徳寺(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺の聖地群史跡群水辺群の全地点と、それら周辺一帯広めで。
https://t.co/FsdZoviwhE
大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。
山号は龍宝山(りゅうほうざん)。
本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、倭国の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。
本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。
なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。
11歳の時、地元の大寺院である圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚め、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。
これが大徳寺の起源という。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。
寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
また、花園天皇や光厳天皇ら歴代天皇、中御門経継、守良親王、新田義貞などの有力貴族からの寄進を受け、1333年ころには播磨、摂津、紀伊などの畿内各地に加え、信濃、下総、美濃のなど広範囲にわたって延7,600石の寺領を有していた。
しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。
五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。
このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災、そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興。
また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。
大徳寺山門供養之偈 春屋宗园
これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、天正17年(1589年)には千利休によって山門・金毛閣が完成している。
利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。
利休は山門を修復した後、住職の春屋宗園に山門の供養を書かせたが、それにより豊臣秀吉を怒らせたとされる。
江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。
近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。
この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。
なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。
【境内】
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[3]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に小田原藩主稲葉正勝の遺志により、子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる倭国様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(三門、重要文化財) - 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。このテキストは、千利休が住職の春屋宗園に書かせた山門の寄進の偈に関するもので、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」である。天井画の龍図は長谷川等伯の作。額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
【塔頭】
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。
2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
https://t.co/vGc3w1xogf
聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。
聖護院の南西には、「聖護院の森」の鎮守として知られる熊野神社があり、「京の熊野三山」(残り2つは熊野若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された[3]。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
【地名】
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。
和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[4]。
【歴史】
当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。
増誉は師である円珍の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた[3]。
この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられた他、更に都の熊野神社の近くにあり、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を上皇より下賜された[3]。
こうして増誉は新たな寺名として「聖体護持」から文字を採って聖護院と改名し[3]、熊野神社を鎮守社とした。
ただし、増誉および増智(藤原師実の子)の時代には「白河房」と呼ばれており、「聖護院」の名称が登場するのはその後を継いだ覚忠の時代である(『兵範記』保元3年10月20日条・同仁安2年4月26日条)[5]。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した[3]。
増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。
この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した[3]。
後に熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したため、熊野との結びつきが一層深まった。
聖護院は長く皇族もしくは摂関家出身の門跡が入っていたが、後嵯峨上皇の皇子の覚助法親王が70年にわたって門跡の地位にあって園城寺長吏・鶴岡八幡宮別当・熊野三山検校を兼ね、門跡寺院としての地位を確立させた。 November 11, 2025
1RP
倭国🇯🇵の象徴と
その後ろを継承する皇族は
絶対に間違いがあってはならないから
倭国全国から機動隊や警察も動員して全力でお護りするんだよ
わかる🤣❓
どんなに警備を緩くしてと陛下や皇族方が頼まれても
できねーんだよww
上皇夫妻だって御用邸へ行かれたら、こんな感じで警備すんだよw https://t.co/ZHOlycAKzM https://t.co/iaewNKIjKi November 11, 2025
1RP
8:06
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韓国名山100登山記録★1座~50座★
🏔️名山100🏔️
2020年
(1/100) 10月25日 逍遥山
京畿道 果川市 東豆川市 上鳳岩洞 587m
(2/100) 11月 1日 清渓山
京畿道 果川市 莫渓洞 582m
(3/100) 11月 2日 摩尼山
仁川広域市 江華郡 華道面 472m
(4/100) 11月 8日 有明山
京畿道 加平郡 雪岳面 訪逸里 862m
(5/100) 11月 9日 龍門山
京畿道 楊平郡 龍門面 新店里 1157m
(6/100) 11月14日 冠岳山
京畿道 果川市 果川市 中央洞 629m
(7/100) 11月15日 紺岳山
京畿道 坡州市 積城面 675m
(8/100) 11月16日 道峰山① 道峰山②
ソウル特別市 道峰区 道峰洞 740m
(9/100) 11月22日 北漢山
京畿道 高陽市 徳陽区 北漢洞 837m
(10/100) 11月23日 水落山
ソウル特別市 蘆原区 上渓洞 640m
(11/100) 12月16日 鶏龍山
忠清南道 公州市 盤浦面 鶴峰里 845m
(12/100) 12月17日 大屯山
全羅北道 完州郡 雲洲面 山北里 878m
2021年
(13/100) 1月 1日 広徳山
忠清南道 天安市 東南区 広徳面 699m
(14/100) 1月 3日 雉岳山
江原道 原州市 所草面 鶴谷里 1288m
(15/100) 1月10日 徳裕山① 徳裕山②
全羅北道 茂朱郡 雪川面 三公里 1614m
(縦走登山) 1月17日 天摩山~鉄馬山~鑄錦山
(16/100) 1月24日 白徳山① 白徳山②
江原道 寧越郡 武陵桃源面 1350m
(17/100) 1月27日 天摩山
京畿道 南楊州市 和道邑 墨峴路 812m
(18/100) 1月31日 恋人山
京畿道 加平郡 加平邑 升安里 813m
(19/100) 1月31日 明智山① 明智山②
京畿道 加平郡 北面 道大里 1267m
(20/100) 2月 7日 龍華山
江原道 華川郡 下南面 龍岩里 875m
(21/100) 2月 7日 五峰山 五峰山②
江原道 華川郡 看東面 看尺里 779m
(22/100) 2月14日 五台山 老人峰
江原道 洪川郡 内面 1338m
(23/100) 2月14日 五台山 毘盧峰
江原道 平昌郡 珍富面 1563m
(24/100) 2月16日 三岳山
江原道 春川市 西面 京春路 654m
(25/100) 2月19日 小白山 小白山②
忠清北道 丹陽郡 佳谷面 於義谷里 1440m
(26/100) 3月14日 雲岳山
京畿道 抱川市 花峴面 937m
(名山100除外)3月21日 鳴聲山(近日公開)
(27/100) 3月29日 八峰山
江原道 洪川郡 西面 八峰里 328m
(28/100) 4月 5日 華岳山(近日公開)
京畿道 加平郡 北面 1468m
(29/100) 4月18日 億山-雲門山-加智山-陵洞山-天皇山
加智山:蔚山広域市 蔚州郡 上北面 1244m
(31/100) 4月19日 載薬山-霊鷲山-神仏山-肝月山-ペネ峰 載薬山: 慶尚南道 密陽市 丹場面 1189m
神仏山: 蔚山広域市 蔚州郡 上北面 1159m
(32/100) 5月 2日 黄梅山
慶尚南道 山清郡 車黄面 法坪里 1108m
(33/100) 5月 3日 天台山
慶尚南道 梁山市 院東面 714m
(34/100) 5月 9日 智異山 般若峰 1732m
(35/100) 5月 9日 智異山 天王峰 1915m
2023年6月7日 智異山 天王峰 最短コース
慶尚南道 咸陽郡 馬川面 湫城里
(36/100) 6月 9日 雪岳山
江原道 麟蹄郡 北面 寒渓里 1708m
(37/100) 10月31日 桂芳山
江原道 洪川郡 内面 倉村里 1577m
(38/100) 11月 7日 咸白山
江原道 旌善郡 古汗邑 1573m
(39/100) 11月 7日 太白山
江原道 太白市 穴洞 1567m
(41/100) 11月14日 内蔵山•白岩山① ②
内蔵山:全羅北道 井邑市 内蔵山路 763m
白岩山:全羅南道 長城郡 北下面 新城里 741m
(42/100) 12月 6日 動岳山
全羅南道 谷城郡 谷城邑 新基里 735m
(43/100) 12月12日 黄岳山
慶尚北道 金泉市 代項面 雲水里 1111m
(44/100) 12月13日 八公山① 八公山②
慶尚北道 軍威郡 缶渓面 東山里 1193m
(45/100) 12月19日 七宝山
忠清北道 槐山郡 七星面 双谷里 773m
(46/100) 12月27日 母岳山
全羅北道 完州郡 九耳面 793m
2022年
(47/100) 1月 1日 金井山
慶尚南道 梁山市 東面 801m
(48/100) 1月 2日 俗離山
忠清北道報恩郡内俗離面上板里 1058m
(49/100) 1月 9日 達摩山
全羅南道 海南郡 松旨面 西亭里 470m
(50/100) 1月 10日 無等山
光州広域市 北区 金谷洞 1187m
https://t.co/LZ7mbn7Cv0
韓国名山100登山記録 ☆51座~100座☆
🏔️名山100🏔️
2022年
(51/100) 1月 16日 琵瑟山
大邱広域市 達城郡 慕賢邑 陽里 1083m
(52/100) 1月 23日 火旺山
慶尚南道 昌寧郡 昌寧邑 756m
(53/100) 1月 24日 烏棲山
忠清南道 洪城郡 広川邑 淡山里791m
(54/100) 1月 30日 白雲山
全羅南道 光陽市 玉竜面 1222m
(55/100) 1月 31日 七甲山
忠清南道 青陽郡 大峙面 561m
(56/100) 2月 2日 九屏山
忠清北道 報恩郡 俗離山面 九屛里 877m
(57/100) 2月 6日 鷹峰山
慶尙北道 蔚珍郡 温井面 徳仁里 998m
(58/100) 2月13日 雲長山
全羅北道 鎮安郡 程川面 1126m
(59/100) 2月14日 伽倻山
忠清南道 瑞山市 海美面 山水里 678m
(60/100) 2月20日 智異山 パレ峰
全羅北道 南原市 雲峰邑 1165m
(61/100) 2月21日 珉周之山
忠清北道 永同郡 龍化面 1242m
(62/100) 2月27日 道楽山
忠清北道 丹陽郡 丹城面 佳山里 964m
(63/100) 6月2日 祝霊山
全羅北道 高敞郡 古水面 隠士里 621m
(64/100) 6月3日 加里旺山
江原道 旌善郡 旌善邑 1561m
(65/100) 6月4日 八影山
全羅南道 高興郡 影南面 錦蛇里 608m
(66/100) 6月9日 曹渓山
全羅南道 順天市 松光面 888m
(67/100) 6月11日 方丈山
全羅北道 高敞郡 新林面 加平里 742m
(68.69/100) 6月13日 鳥嶺山•主屹山
慶尚北道 聞慶市 聞慶邑 1026m
(70/100) 6月17日 金烏山
慶尚北道 亀尾市 南通洞 977m
(71/100) 6月19日 佛甲山
全羅南道 靈光郡 仏甲面 母岳里 516m
(72/100) 6月21日 辺山
全羅北道 扶安郡 鎮西面 石浦里 424m
(73/100) 7月 1日 南山
慶尚北道 /慶州市 拝洞 468m
(74/100) 8月17日 加里山
江原道 洪川郡 斗村面 泉峴里 1051m
(75/100) 8月19日 黄石山
慶尚南道 咸陽郡 西下面 1192m
(76/100) 8月24日 頭蛇山
江原道 東海市 三和洞 1353m
(77/100) 8月29日 月出山
全羅南道 靈巌郡 靈巌邑 開新里 809m
(78/100) 9月11日 禅雲山
全羅北道 高敞郡 心元面 蓮花里 336m
(79/100) 9月12日 月岳山
忠清北道 堤川市 徳山面 寿山里 693-1 1097m
(80/100) 9月14日 九鳳山
全羅北道 鎮安郡 朱川面 1002m
(81/100) 9月15日 大耶山
慶尚北道 聞慶市 加恩邑 931m
(82/100) 9月21日 紺岳山
江原道 原州市 神林面 黄屯里 945m
(83/100) 9月23日 青華山
忠清北道 槐山郡 青川面 三松里 970m
(84/100) 9月28日 錦繍山
忠清北道 堤川市 水山面 上川里 1016m
(85/100) 9月29日 馬耳山
全羅北道 鎮安郡 馬靈面 東村里 686m
(86/100) 10月3日 千聖山
慶尚南道 梁山市 下北面 922m
(87/100) 10月6日 太華山
江原道 寧越郡 寧越邑 1027m
(88/100) 10月7日 長安山
全羅北道 長水郡 渓南面 1237m
(89/100) 10月14日 天冠山
全羅南道 長興郡 冠山邑 724m
(90/100) 10月16日 白曇山
江原道 旌善郡 新東邑 雲峙里 882m
(91/100) 10月17日 徳龍山
全羅南道 康津郡 道岩面 鳳凰里 432m
(92/100) 10月20日 周王山
慶尚北道 青松郡 周王山面 上宜里 406 721m
(93/100) 10月23日 清凉山
慶尚北道 奉化郡 明湖面 管漲里 870m
(94/100) 11月10日 内延山
慶尚北道 浦項市 北区 松羅面 711m
(95/100) 11月12日 伽倻山
慶尚南道 陜川郡 伽倻面 緇仁里 1430m
(96/100) 11月16日 頭輪山
全羅南道 海南郡 北日面 興村里 703m
(97/100) 11月19日 徳項山
江原道 三陟市 新基面 安衣里 1071m
(98/100) 12月1日 芳台山
江道 麟蹄郡 上南面 美山里 1444m
(99/100) 12月9日 龍鳳山
忠清南道 洪城郡 洪北邑 381m
(100/100) 12月14日 漢拏山
済州特別自治道 西帰浦市 吐坪洞 1950m
🏔️名山100+plus 🏔️
2021年
(1/104) 4月18日 雲門山
慶尚南道 密陽市 山内面 三陽里 1188m
(2/104) 12月19日 君子山
忠清北道 槐山郡 七星面 948m
(3/104) 12月27日 高徳山(近日公開)
2022年
全羅北道 完州郡 上関面 603m
(4/104) 2月14日 八峰山
忠清南道 瑞山市 八峰面 金鶴里 362m
(5/104) 7月1日 吐含山
慶尙北道 慶州市 普徳洞 745m
(6/104) 12月9日 徳崇山
忠清南道 礼山郡 徳山面 495m
2023年
(7/104) 6月14日 玄城山
慶尚南道 居昌郡 渭川面 上川里
下記に列挙した天皇の慰霊の旅の全ての説明に出てくる全地点!!!と、それ等周辺一帯が、再度!!!!今の危険予想地点です!!!!
さとっぴ軍全軍は今すぐ!!!「攻撃大部隊!!!!」をそれら全地点へ急派し包囲し、地下深くを先制総攻撃して焼き滅ぼしまくれや!!!!!!
本日も下記地点が危険であろう!!!!!
本日2025年11月10日月曜日の午前0時11分11秒までに、下記全地点の地下世界の全てを焼き滅ぼし、トドメを刺しまくって大掃除を敢行し、地上の超悪魔勢力どもを即時殲滅聖絶焼却消去し、さとっぴ軍による倭国全土(地下深くも地上も!!!!)の完全制覇占領征服支配を完成させろ!!!!
残りあと11分だ!!!!急げ!!!!
https://t.co/wetQ4d3w8O
「戦争を知らない皇室」が求められること 戦後80年、天皇家の新たな一歩とは
2025/10/12 47NEWS
【写真】長崎を訪問された愛子さま=9月13日(代表撮影)
天皇、皇后両陛下と愛子さまは長崎訪問を終えられ、「戦後80年」の一連の訪問は終了した。
各地で交流した若者たちは、「戦争を知らない第3世代の天皇家」と立場は同じ。長い戦後の時を超えて、いま、平和のため、天皇家に何が求められるのか。
旅に関わった人々の声を聴いた。(共同通信=大木賢一)
▽慰霊だけでは限界
【写真】硫黄島の「鎮魂の丘」で献花される天皇、皇后両陛下=4月7日、東京都小笠原村(代表撮影)
20年近く皇室を取材してきた私は、天皇、皇后両陛下は両親である上皇ご夫妻の行いに固執することなく、自分世代ならではの、戦争との向き合い方を示していくべきだと常々思っていた。
旅の始まりは太平洋戦争の激戦地・硫黄島(4月)だったが、ここは、かつて上皇ご夫妻も慰霊に訪れたことがある。
どんな訪問になるのか報道に注目していると、共同通信の記事が目についた。
「陛下は自分が戦後世代であることを強く意識されている」「社会が変遷していく中で、自分の行動が両親と同じ慰霊だけにとどまることには限界があると考えている様子だ」。側近がそう語っているという。
「限界」というのはまさにその通りだと思う。
では、自分世代の新しい行動とは何なのか。
出した答えの一つは、愛子さまを連れていくことだったように思う。
両陛下の強い意向で、次の沖縄訪問(6月)に愛子さまが同行した。
より若い世代の愛子さまが国民の前で戦争を学ぶのは、記憶継承の現場を、目に見えるかたちで示すことにほかならない。
「象徴」としてのふさわしい務めになり得る。
▽戦争防ぐ心構え
【写真】沖縄県平和祈念資料館で証言の展示に見入る天皇、皇后両陛下と愛子さま=6月4日、沖縄県糸満市(代表撮影)
3人と懇談した狩俣日姫さん(27)は沖縄県宜野湾市出身で、平和教育のプログラムをコーディネートする仕事をしている。
兵役を控える韓国の友人ができ、戦争を身近なものと感じるようになった狩俣さんが「ぜひ一緒に」と平和学習に誘うと、愛子さまは笑顔を見せたという。
3人の沖縄への気持ちはどうだったのか。
推し量る材料の一つは沖縄県平和祈念資料館の展示の終わりにある「展示むすびのことば」だ。
時間が押していたが、愛子さまが足を止めた。
「近づいて読んでもよいでしょうか」と両陛下に声をかけ、3人で近寄ってじっと見つめた。
【写真】沖縄県平和祈念資料館にある「展示むすびのことば」(同資料館提供)
沖縄戦の実相にふれるたびに、戦争というものは、これほど残忍で、これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです。
このなまなましい体験の前では、いかなる人でも戦争を肯定し美化することはできはいはずです。
戦争をおこすのはたしかに人間です。
しかしそれ以上に、戦争を許さない努力のできるのも、私たち人間ではないでしょうか。
戦後このかた、私たちは、あらゆる戦争を憎み、平和な島を建設せねばと思い続けてきました。
これが、あまりにも大きすぎた代償を払って得た、ゆずることのできない私たちの信条なのです。
「戦争をおこすのは たしかに 人間です しかし それ以上に 戦争を許さない努力のできるのも 私たち 人間 ではないでしょうか」
ここに書かれているのは、過去の戦争の悲惨さを訴える記憶というよりは、未来の戦争を防ぐための心構えだ。
展示室を出ると海が見える明るい回廊がある。
重苦しい気持ちから解放されたように3人は少しほっとした表情を見せたという。
▽怖ろしさに目を背ける子も
【写真】広島平和記念資料館(原爆資料館)で被爆者や伝承者と懇談される天皇、皇后両陛下=6月19日、広島市(代表撮影)
広島(6月)では、もっと直接的に「未来」について思いを深めたようだ。
「被爆体験伝承者」として交流した小学校教諭の庄野愛梨さん(23)は日頃、子どもたちと平和について話している。
「子どもたちは、戦争はいけないと頭で理解してはいるものの、自分事として考えられていない。だから、友だちとのトラブルを話し合いで解決できないことがある。平和は身近なところから始まることをわかってほしい」。
そう話すと、天皇陛下は「大切なことですね」と深くうなずいた。
【写真】広島原爆資料館に展示されている、13歳の少年が持っていた弁当箱。父親が弁当箱だけ見つけて、遺骨の代わりに砂を入れて持ち帰った。「親子は結局会うことがかなわなかった」との説明に、皇后さまは「残念なことでした」と言って、いつまでも見つめていたという。(寄贈/竹田俊二、竹田昭義 所蔵/広島平和記念資料館)
庄野さんには、もう一つ話したいことがあった。
「皮膚の垂れ下がった悲惨な被爆者の絵を見せると、下を向いてしまう子もいるんです」。
庄野さんの勤務する本川小学校は、原爆ドームに最も近い小学校として知られ、平和教育が盛んだ。
そんな学校の児童であっても実相は怖くて見られない。
核兵器の恐ろしさの、それが現実であることを両陛下に伝えたかったが、時間がなくてできなかった。
▽知ったような顔をしない
【写真】原爆落下中心地碑に供花される天皇、皇后両陛下と愛子さま=9月12日、長崎市
天皇陛下は「背伸びをして戦争を語る」ことを決してしない人だと思ってきた。
最近では、自分の思いを「両親と昭和天皇の行動に託す」ような言い方をすることもあった。
そうした陛下の謙虚な態度に通じる心がけを持っているのは、広島で懇談したもう一人の伝承者大河原こころさん(35)だ。
「経験していない人間が、経験したかのように感情を込めて話したらうそになる。聞いている方も引いてしまう。だから私は感情を入れず、淡々と話すようにしています」
大河原さんは福島県出身で、東倭国大震災を経験している。
震災への怒りや原発への恨みなど感情がむき出しになると、経験していない人にはかえって受け入れにくいことを知った。
だからこそ「第三者が伝える」ことに意義があると感じている。
▽「おめでとう」という一歩
【写真】長崎原爆資料館を見学される天皇、皇后両陛下と愛子さま=9月12日、長崎市
長崎(9月)にも愛子さまが同行した。
私が注目したのは、昨年のノーベル平和賞を受賞した倭国原水爆被害者団体協議会(倭国被団協)の田中重光代表委員(84)と対面し、両陛下が「おめでとうございます」と祝意を伝えたと報じられたことだ。
田中さん自身は「私はおめでとうと言われたという認識はないのですが」と困惑の表情を見せるが、この何げない一言にも、実は、「戦後」を乗り越えなければ踏み出せない新たな一歩が秘められていたと思う。
被団協は、核兵器禁止条約への倭国の参加を巡って政府と対立関係にある。
その活動を「祝う」ことは、特定の政治活動を後押しする「天皇の政治的行為」だと言えなくもない。
また、戦争の経緯に深く関わった天皇家の代表が被爆者団体に「おめでとう」と言うこと自体に抵抗を感じる人も少なくはないだろう。
昭和天皇の終戦の決断がもう1カ月早ければ原爆投下はなかったとの見方もある。
1975年、原爆投下について「戦争中のことなのでやむを得ない」と語ったことも、重い足かせになったはずだ。
両陛下がどんな思いでこの「祝意」の伝達に踏み切ったのかはわからない。
しかし、当の田中さんに気持ちを聞いてみると、こだわる様子はまるでなかった。
「私は昭和天皇に戦争責任はあったと思いますが、もうそんなことは言いたくない。長い戦後を超えて、皇室の平和への思いはゆるぎないものとして理解を得ました。
3代目である陛下が、現在の国民の象徴としてずっと平和に心を寄せてくださることに、私は何のわだかまりも感じません」
【写真】訪問を終え、長崎空港で見送りを受けられる愛子さま=9月13日(代表撮影)
長崎で懇談した伝承者の松山咲さん(20)は、小学生の頃、「高校生平和大使」を務める高校生を見て「かっこいいな」と思ったという。
「平和のことって、学校の先生とか〝大人〟がやるものだと思っていました。でも、私たちがやってもいいんだ、と思えました」
皇后さまから「活動していて嬉しいことは何ですか」と尋ねられ、松山さんはこう答えた。
「子どもたちに話した後、感想文を書いてもらうと、『私は食べることが幸せです』と言ってくれることがあります」。
子どもが自分の身近にある幸せに気づいて自覚を持ってくれることが嬉しいという。
その小さな幸せを守ることこそ、平和への第一歩だと考えるからだ。
皇后さまは「若い子たちにも松山さんの思いが届いているなって思います」と答えた。
そんなやり取りをした後、3人は「私たちも、みんなでできることがあったらやっていきたい」と話したという。
「私たち」とは、天皇ご一家、そして皇室、ひいては国民全体を指しているのだろう。
松山さんは、皇室の方々がこれからどんな活動をしてくれるのか楽しみにしている。
背伸びをすることなく、「知らないことの引け目」に萎縮することなく、平和のために何ができるのか。
これからの皇室はずっと考えていくのだろうと思わされた。
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東京都小笠原村硫黄島ご視察
令和7年4月21日
宮内庁総務課広報室
令和7年4月7日(月)、天皇皇后両陛下は、東京都小笠原村硫黄島をご訪問になりました。
両陛下は、硫黄島戦没者の碑(天山慰霊碑)、硫黄島島民平和祈念墓地公園、鎮魂の丘において、それぞれご拝礼になり、犠牲になられた多くの方々に深い哀悼の意を捧げられました。
海上自衛隊硫黄島航空基地ご到着
【写真】海上自衛隊硫黄島航空基地でお出迎えをお受けになる天皇皇后両陛下
小笠原の自然概要ご聴取
両陛下は、我が国で初めて原生自然環境保全地域に指定されてから50年の節目を迎える南硫黄島を含む、小笠原の自然概要についてお聞きになりました。
【写真】小笠原の自然概要をご聴取になる天皇皇后両陛下
硫黄島戦没者の碑(天山慰霊碑)
【写真】硫黄島戦没者の碑(天山慰霊碑)にご拝礼になる天皇皇后両陛下
【硫黄島戦没者の碑(天山慰霊碑)】
倭国政府が建立した戦没者慰霊碑で、2万余名の硫黄島戦没将兵の慰霊のため昭和46年3月26日に竣工しました。
旧海軍指揮所のあった天山壕の上に作られており、この地は最後の拠点として組織的戦闘の行われた場所です。
【写真】硫黄島島民平和祈念墓地公園においてご拝礼になる天皇皇后両陛下
硫黄島島民平和祈念墓地公園
昭和19年、戦争の激化に伴い硫黄島においても島民の強制疎開が行われました。
島民の中でも健康な若者103名は軍属として徴用され、そのうち、82名の島民が犠牲になりました。
本公園は、小笠原村が未来永劫の平和の願いを込めて、平成2年に戦前の島民墓地の敷地に整備しました。
鎮魂の丘
【写真】鎮魂の丘においてご拝礼になる天皇皇后両陛下
【鎮魂の丘】
鎮魂の碑は、硫黄島で戦没した全ての方々の慰霊のため、島の東北部台地の南先端(南地区)に建立されました。
ここは、島の最南端にある摺鉢山を望み、南海岸を一望のもとに見渡せる眺望の優れたところです。
また、米軍が上陸した南海岸に面していたため激戦地となった場所でもあり、数々の戦跡が残っています。
東京都は、碑の建立にちなんで、このあたり一帯の台地を「鎮魂の丘」と名づけました。(竣工:昭和58年8月31日)
両陛下は、鎮魂の丘でのご拝礼後、その基壇の地下にある粟津壕を壕の入口からご覧になりました。
両陛下は、激しい戦いの中で尊い命が失われた戦跡を実際にお訪ねになり、改めて戦争の悲惨さを肌でお感じになるとともに、平和の尊さを心に刻み、平和への思いを新たにされました。
関係者とのご懇談
両陛下は、ご質問も交えつつ、お一人お一人のお話に耳を傾けられました。
それぞれの方のこれまでの取組をおねぎらいになるとともに、関係者の長年の苦労や悲しみに改めて心をお寄せになりました。
また、戦争の記憶を風化させずに次の世代に継承する活動についてもお聞きになり、そのような活動は、今後ますます意義深くなっていくものとお思いになりました。
【写真】関係者とご懇談になる天皇皇后両陛下
海上自衛隊硫黄島航空基地ご出発
【写真】海上自衛隊硫黄島航空基地をご出発になる天皇皇后両陛下
両陛下は今回、昭和20年に硫黄島で激しい戦闘が行われ、多くの方が尊い命を落とされてから80年という節目の年を迎える中、硫黄島を訪問されて戦没者の慰霊をおできになったことを感慨深くお思いになりました。
https://t.co/AzEJjZhN26
沖縄国際海洋博覧会50周年記念事業 企画展 海-その望ましい未来をご覧、併せて地方事情をご視察(沖縄県)
令和7年6月26日
宮内庁総務課広報室
令和7年6月4日(水)から同5日(木)、天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下は、沖縄国際海洋博覧会 50 周年記念事業 企画展 海-その望ましい未来をご覧、併せて地方事情をご視察になるため、沖縄県をご訪問になりました。
両陛下が沖縄県をご訪問になったのは令和4年以来3年ぶり、愛子内親王殿下は初めての沖縄県ご訪問になります。
両陛下は、沖縄戦で亡くなられた方々や、戦争によって苦難の道を歩まざるを得なかった方々に思いを寄せつつ、平和の尊さを心に刻まれ、平和への願いを新たにされました。
また、若い世代を含め、国民の沖縄に対する理解が更に深まり、これまでの多くの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願われました。
そのような中で、沖縄県を初めてご訪問になった愛子内親王殿下が、戦争体験者などから直接お話をお聞きになれたことは、貴重な機会であったとお考えになりました。
両陛下は、今回の沖縄県ご訪問に当たって、多くの沖縄県民の皆さんに温かく迎えていただいたことに感謝されました。
1日目
国立沖縄戦没者墓苑
平和の礎(いしじ)
沖縄県平和祈念資料館
お泊所
2日目
小桜の塔
対馬丸記念館
国営沖縄記念公園首里城地区
【写真】沖縄県平和祈念資料館において、戦争体験者等とご懇談になる天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下
https://t.co/SyXcdONAMJ
【令和7年6月4日(水)行幸啓1日目:国立沖縄戦没者墓苑】
天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下は、沖縄戦で亡くなられた方々のご遺骨を納めた国立の墓苑である国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)をご訪問になり、御供花台においてご供花及びご拝礼になりました。
【写真】ご供花及びご拝礼になる天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下
両陛下と愛子内親王殿下は、先の大戦において激しい地上戦が行われ、多くの尊い命が失われた沖縄の人々の苦難に思いを寄せられ、犠牲となられた方々に哀悼の意を表されました。
【写真】遺族の方々等から、お亡くなりになったご家族のことなどをお聞きになりました。
https://t.co/4eE2W21T87
【令和7年6月4日(水)行幸啓1日目:平和の礎(いしじ)】
天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下は、沖縄戦などで亡くなられた全ての人々の氏名を刻んだ記念碑である平和の礎(糸満市)をご覧になりました。
【写真】平和の礎をご覧になる天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下
両陛下と愛子内親王殿下は、国籍を問わず、また、軍人、民間人の別なく、沖縄戦の全ての戦没者の氏名が刻まれ、令和7年も新たな名前が加えられていることについての説明をお聞きになり、眼前に広がる海を眺められながら平和の火を実際にご覧になって、沖縄の人々の平和に対する深い思いを改めてお感じになりました。
【写真】平和の礎
【写真】平和の火
https://t.co/OTEecfcoJe
【令和7年6月4日(水)行幸啓1日目:沖縄県平和祈念資料館】
天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下は、沖縄県平和祈念資料館(糸満市)をご訪問になり、常設展示をご覧になったほか、戦争体験者等とご懇談になりました。
【写真】戦争体験者等とご懇談になる天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下
両陛下は、沖縄戦に関する実物資料、写真パネル、沖縄戦体験者の証言等の展示をご覧になり、凄惨な沖縄戦の様子や、当時の人々の苦難について、改めて理解を深められました。
初めてのご訪問となった愛子内親王殿下も、苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史を深く心に刻まれました。
【写真】展示(住民の見た沖縄戦「証言」)をご覧になる天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下
【写真】天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下がご覧になった展示(住民の見た沖縄戦「証言」)
常設展示をご覧になった後、両陛下と愛子内親王殿下は、戦争体験者等とご懇談になりました。
戦争体験者や遺族の方々が経験された想像を絶するような苦難の一端に触れられ、深くお心を痛められるとともに、戦争の悲惨さや平和の大切さについて思いを新たにされました。 November 11, 2025
1RP
「不破の関を越えさせることはない」とも広言したのかもしれません。
#錦の御旗を授けられて大布陣を布いた 以上、一戦もせずに退却するという道は秀康にはなかったのです。
#実質的な最高指揮官である上皇が遠く離れた京にいる。それが朝廷方の最大の欠陥でした。 November 11, 2025
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