テープレコーダー トレンド
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2025.12.02
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テープレコーダーに関するポスト数は前日に比べ49%減少しました。男性の比率は2%増加し、本日も40代男性の皆さんからのポストが最も多いです。本日話題になっているキーワードは「壊れた」です。
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【コニタン大人気】
登場するなり、大人気のコニタン。
コメントが既に賑やか笑
• 遺体が損壊していく状況を知らない議員
• やはり海葬だな
• うわあ
• でた
• 亡命しないのかよ
• げぇ~~~~
• 千葉の埃
• クイズ
• 壊れたテープレコーダーだw
• まだ亡命してないの?
• うっわ
• うわでた亡命者w
• 国民の敵
• ニタニタすな
• 早口です
• 千葉の恥
• いらない議員
• 立憲かよ
• ひょっとこ
• 千葉の恥部
• 相変わらずにやにやしとるな
• きっつ
• いつもニヤニヤしやがる
• 第1問
• ひょっとこw
• 読めない
• カタコトか?
• ソマリアにいたんじゃ
• 字も読めない
• クイズ王
• 漢字が読めない
#コニタン
#立憲民主党は倭国にいらない December 12, 2025
67RP
こすげ的ゲーム遍歴 その1
物心ついた頃から家にはたくさんのゲームがあった。
トランプ、将棋、麻雀、花札、カルタ、百人一首、オセロ、ダイヤモンドゲーム、人生ゲーム……。
どれがいつからあったのかは記憶にないが、小さな頃から触っていた記憶はある。特に人生ゲームは大好きだったが、家族があまり一緒にやってくれなかったため、一人で4人分ロールプレイしながら遊ぶということにはまっていた。黙々と昼過ぎから暗くなるまで遊んでいた記憶がある。今思えばなんて暗い幼少期なんだ。
また小学生の低学年の時に引っ越すまでは、月に1度程度ゲームセンターに連れて行ってもらっていた。ただ人がゲームをしているのを見ていただけで、自分がやっていた覚えがあまりない。多分やってはいたのだろうが、下手すぎて記憶に残るほどの時間できなかったんだと思う。
家に電子ゲームが初めて来たのは、多分エポック社の『テレビテニス』だったのではないだろうか。ただ発売当初に買った物ではなく、発売からしばらく後に父が知り合いから借りてきた物だったように記憶している。テレビでゲームができるという夢のような機械ではあったが、今と違って1Pと2Pのコントローラーがくっついていたため、兄とのケンカは必至だった。
次いで家にやってきたのは、喫茶店などに置いてあったテーブル筐体だった。これも父がどこぞから仕入れてきた中古品だった。基板は『スペースインベーダー』と、『与作』の2つ。残念ながら与作の方は基板が壊れていたようでまともに動かなかったが、スペースインベーダーは普通に稼働した。おかげで我が家はゲームセンターになった。小学校の裏に家があったという立地も手伝って、連日我が家にはインベーダーを遊びに来る友だちが絶えなかった。
テーブル筐体は、天板を開けると手前にレバーがついており、そのレバーでクレジットを入れることができる。筐体の中はほんのり温かくて何かふわっとして、それでいてちょっとピリピリするような空気に包まれていた。わたしは、その空気感がとても好きだった。今思えば漏電してたのだと思う。
それに前後して、ゲームウォッチブームがやってきた。わたしが買ってもらったのは、正確には任天堂のゲーム&ウォッチではなく、バンダイのLCDゲームデジタルシリーズの『大地震』というゲームだった。今では到底出せないタイトルだと思う。同じことを延々と繰り返すだけのゲームだったが、家の中だけでなく何処でもゲームができるというその1点だけで偉大すぎた。あの頃のゲームウォッチ系のゲームには、エンディングというものはあったのだろうか?
そして満を持して我が家にやってきたのは、富士通のパーソナルコンピューター『FM-8』。当時の記録メディアは、CD-ROM?ノンノン。3.5インチフロッピーディスク?5インチフロッピーディスク?ノンノン。我が家の記録メディアはカセットテープだった。世の中にはフロッピー自体はすでにあったはずだが、多分外付けのドライブを買うお金がなかったんだと思われる。家にあったカセットテープレコーダーを繋いで使っていた。
当時のパソコン雑誌『マイコンBASICマガジン』にはプログラムが載っていて、それを手打ちすると自分のパソコン上でプログラムを動かすことができた。その中にあったワイヤーフレーム3D迷路のプログラムを一生懸命手打ちして、どうにか遊べるようになった時の感動は一入だった。この経験が、後年HTMLやCGI、JavaScriptなどを触るきっかけになったと思う。 December 12, 2025
4RP
🌟日付変わって明日です🌟
12/3(水)西永福JAM
「MAX NIGHT」
19:00 komori + yusa (from壊れかけのテープレコーダーズ)
19:40 内藤重人
20:20 池田遼+蒼衣
21:00 ザ・ツリーポット
21:45 after20時
前¥3000/当¥3500(+D)
🎫https://t.co/AgcJUnlXj7
こもゆさトッパー🏃🏻🏃🏻♀️
皆様初対バン‼︎楽しみ✨ https://t.co/UkPqificwn December 12, 2025
1RP
SONY 創業者・井深大さんのインタビューが NHK で流れていたけれど、創業以来ずっと「挑戦 → 失敗 → 粘り → 再起」の繰り返しだった。
・工場長時代、仲間と玉音放送を聞き、その後じっとしていられず、翌月には仲間とともに「東京通信工業株式会社(のちの SONY)」を設立。
・創業後、最初に借りた社屋(工場)の屋根には大きな穴が空いており、夕立が来ると工場の中で傘をさして作業していた。
・社員に給料が払えず、『銭形平次』の作者として知られる野村胡堂さんから 3 万円を借りて窮地を脱する。
・そんな状況でも、「誰もやらないこと、世の中に存在しないものを技術で創造し、どんな困難があっても乗り越える」という強い決意だけは決して手放さなかった。
・戦時中倭国で使われていた、針金に音を記録するワイヤーレコーダーに着目し、家庭用として転用しようと試みるが、訪ねた大阪の工場に「鍋やフライパンは作れても、そんな高級品は無理だ」と断られ、落胆して帰る。
・その後、アメリカ GHQ 民間教育情報部で初めてテープレコーダーを目にし、その圧倒的な音質に衝撃を受け、これに社運を賭けると決意。
・しかし、テープ素材となるプラスチックが倭国では入手できない。そこで、紙に鉄粉を塗った独自のテープを開発し、最初の G 型テープレコーダーを製造。
・G 型は重さ約 20kg、価格は数十万円と高価で、発売当初はほとんど売れなかった。
新橋のおでん屋が見かねて最初の 1 台を購入。続いて最高裁が「速記者が足りない」という理由で 20 台を導入してくれたことで、事業はなんとか息を吹き返した。
・テープレコーダー開発で集まった優秀な技術者たちは、研究が終われば仕事がなくなる。彼らのステージを用意するために、「非常に難しいテーマ」としてトランジスタ開発を選択。
・トランジスタ製造に必要な外貨の割当申請を通産省に行うが、「町工場には無理だ」と却下される。
・しかし、特許を持つウェスタン・エレクトリック社から「独自にテープを開発したユニークな会社だから」と特許利用を認められ、突破口が開ける。
・米国で「トランジスタで何を作るのか」と聞かれ「ラジオだ」と答えると、「アメリカの電子メーカーは軒並み失敗している泥沼だ。やめておけ」と強く反対される。
・当時のアメリカでは補聴器用の低周波トランジスタが主流で、ラジオに必要な高周波トランジスタの開発は非常に難しいとされていた。
・それでも他の事業をすべて止め、ラジオ用トランジスタ開発に集中。テープレコーダー事業の利益をすべて投入して続ける。
・数年の試行錯誤の末、数百個つくるうち数個だけ使えるレベルのトランジスタが完成。歩留まりは全然販売できるレベルではないが、見切り発車でトランジスタラジオの製造販売を宣言。
・しかし同じ年、アメリカで他社が世界初のトランジスタラジオを販売。ソニーは世界初こそ逃したが、6か月遅れでなんとか発売にこぎつけた。
・ラジオの小型化には全パーツの小型化が必須で、各メーカーを回って協力を仰ぐが、スピーカーメーカーは当初「小型化は無理」と拒否。
・それでも粘りに粘って小型化を実現し、数年後には月 10 万個以上を生産する体制へと育てた。
・当時の倭国産業は海外製品の模倣が一般的だったが、ソニーは「まだ世界にない領域」に挑み続け、その姿勢が倭国独自の電子部品産業を築く礎となった。
・トランジスタでラジオをつくれたら、次はテレビをつくりたいという大きな夢を抱き……このあとも、挑戦と失敗と突破が延々と続いていく。
挑戦の歴史を振り返ると、偉大な企業の歩みは「成功物語」ではなく、 むしろ誰もやらないことに飛び込み、転びながらも立ち上がり続けた軌跡なんだなーと痛感する。 December 12, 2025
いままで
「壊れた蓄音機」
「テープレコーダー」
「いつも下を向いて棒読み」
「まるでロボット🤖」
とか
言われて……
自分の言葉ではしゃべらない
アンドロイドみたいな
総理大臣だったわけだから……
自分の言葉で
しゃべる総理大臣とか
倭国初じゃないのか???
やはり
総理大臣は
自分の言葉でしゃべらないと
国民は理解しない❗️ December 12, 2025
@hiro300s @Cacophanus 同じくダンバイン最終回をテレビの前でアナログテープレコーダーで音声録音をしていた。
後半チャムファウが米国のヘリから救出されたシーンで買い物から帰った母親が何も言わない息子の挙動を見て「何!どーしたん?」って大声で言う、物言わず手を振って静止しを促す私に向かって↓ December 12, 2025
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