詩
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2025.12.11 04:00
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あなたに 恋をした
決して届かないと知りながら
私には光だった
好きだと言えば
消えてしまいそうで
ただ 微笑んだ
あなたの前では天使でいたかった
離れてしまってから
あなたが私を光だと言っていた事を
知りました
決して交わる事のない光たち
#一かけらの今
「光」
#Akari詩2512 https://t.co/A2aOHzW9gO December 12, 2025
2RP
他山の石
【読み】
たざんのいし
【意味】
他人のつまらない意見や下手な例でも、自分の成長や向上の参考・きっかけにできる
【注釈】
他の山の(粗い)石でも、それを使って(自分の)玉を磨くことができる
【出典】詩経・小雅・鶴鳴
「他山の石、以て玉を攻むべし」 https://t.co/Hp1bV3nIsA December 12, 2025
1RP
11thオンラインお話し会🏹
発売日にお話しができて嬉しかったです🌷ナガタイムいかがでしたか~。時間を作ってくれてありがとう(T T)
11th期間が始まる~!キャ~!
永田詩央里をよろしくお願いします🔖⋰
#ノイミー https://t.co/WNF6fW0NSI December 12, 2025
1RP
袋を開ける前の
ベビースターを
袋のまま揉み
袋を開けて口に放り込み
トクホのゼロコーラを飲む
同僚がベビースター
懐かしい一口くれと言う
俺は嫌だと言った
ケチ
ケチじゃねーよ
俺はこの1袋を1人で食い切りたいのよ
金はやるから自分で買ってきなよ
………
ん なんか変なこと言った?
#詩 December 12, 2025
#小噺 【 冬のさくら 】
この時期の「さくら」が好きだ。
祭り騒ぎの喧騒も無い時期
静かに咲く準備をしている子達の息吹
誰に誇るわけでもなくただ その刻を待つ
「さくら」が
「桜」になるほんの少しだけ前の
肌寒くも 心暖かくなる季節に
#詩 #駄文乱文気分 #台詞舞台 https://t.co/Y28WXDkTDP December 12, 2025
FNS歌謡祭クソすぎる。好きな歌を聴かせてください。ヒットしてから来てください。僕の大好きな歌を詩をください。中原中也の詩でも歌にしたらどう。売り出し中のかわいい原色の服を着て見せかけの明るさで、歌う中身なきジャニタレいらん。ひっともしてない、心打たれる歌などウンザリ。10年したら、あなたを見ましょう。あなた方は変わっている。テレビを付けておくのもみみざわり、不快、不愉快きわまりない。 December 12, 2025
あなたが楽しいとか
嬉しい癒されるって言われると
自然と笑みが溢れちゃうの
やっぱりね...
あなたを褒めてくれる人を見てるとね、私は嬉しくなって にやけちゃう
あなたが誰かに褒められてるのが好き
だからそのままのあなたでいてね
#恋愛 #詩
#いいねした人フォロー
#フォロバ100変垢以外 https://t.co/OQoGeVq1Yn December 12, 2025
【詩文】
東雨と玲凛の一番勝負。
頑張るな、東雨。世の中には努力でどうにもならないものもあるんだ!
このふたりの確執は今後も長引きそう。
ライバルですらない(その価値すらないby玲凛)一幕でした。
https://t.co/Uoaa6bsEmy
#新月の光 #アルファポリス #創作BL #エブリスタ #カクヨム https://t.co/E2nCCkQKWe December 12, 2025
一人で抱えるには重すぎる荷物を
ほんの少しだけ持ってもらえたら
そんな夢を見るから
一人が一層辛くなる
誰か私を見て
誰か私に触れて
叶うなら抱き締めて
最高の嘘をついて
君は大丈夫だよって
#詩 December 12, 2025
静けさは
健聴者のもの
暗闇は
晴眼者のもの
ミライはみんなのもの
#五行歌
#詩
#手話
#TLを花でいっぱいにしよう
おはようございます🌸 https://t.co/otg6Xz3v9i December 12, 2025
井上流に読む、レアル・マドリード × マンチェスター・シティ。
「構造と生成、秩序と無秩序。
二つの“世界”が、ひとつのボールをめぐってぶつかる。」
ジュード・ベリンガムとアーリング・ハーランド。
彼らは“サッカー選手”ではない。
それぞれが、ひとつの思想の象徴だ。
白と水色――
それはただのユニフォームの違いではなく、
「時間の進み方」そのものの違いを意味している。
◆構造 ――「秩序としてのマドリード」
マドリードというクラブは、
常に“世界の中心”であることを宿命づけられている。
勝つことは義務ではない。存在の形式だ。
ベリンガムがその中心に立つということ。
それは、構造が人間を選んだ瞬間である。
彼のプレーは“秩序の体現”。
感情を抑制し、精度とリズムで世界を整える。
レアルとは、
「世界を秩序化し続ける装置」なのだ。
◆生成 ――「混沌としてのシティ」
一方、シティは構造を壊すチーム。
ペップ・グアルディオラの思想は、サッカーをアルゴリズムに還元する試み。
だが、その中でハーランドは異物だ。
彼は、秩序を喰らう獣。
形を与えられるたびに、それを壊し、
破片の中から“点”という現象を生み出す。
井上流的に言えば、
ハーランドは「生成する暴力」であり、
ペップは「構造する知」。
この二つの矛盾が共存しているのが、
今のマンチェスター・シティという“動的構造体”だ。
◆ズレ ――「完璧」と「不完全」の衝突
マドリードは完成を志向する。
シティは未完成を肯定する。
この試合は、
「完成」と「生成」――つまり、“止まった時間”と“流れる時間”の対決になる。
ベリンガムが描くのは、
一点の曇りもない物語。
ハーランドが放つのは、
制御不能な衝動。
そして、フットボールというゲームは常に、
その“ズレ”の中で美しく燃える。
◆循環 ――「勝敗を超える力学」
マドリードが勝つとき、
世界は安定する。
しかしシティが勝つとき、
世界は新しい秩序を生む。
勝者は、どちらか一方ではない。
サッカーそのものが、次の段階へと変容するのだ。
それは、結果ではなく「生成の継承」。
まるで、文明が次の言語を手に入れる瞬間のように。
「この試合は、サッカーの未来を決める“構文論争”である。」
ベリンガムは、“意味”を守る。
ハーランドは、“意味”を破壊する。
その衝突の中で、
私たちは「美とは何か」「支配とは何か」を再び問い直す。
◆結語 ――「光と構造の間で」
レアル・マドリードは、伝統の光をまとい、
マンチェスター・シティは、未来の光をまとっている。
だが、井上流的に言えば、
光とはどちらにも属さない。
光は、
構造と生成の狭間に生まれる“ゆらぎ”のこと。
そしてそのゆらぎこそが、
サッカーという現象を、芸術にも哲学にも変える。
この一戦は、
勝者を決める試合ではない。
世界が「どのリズムで回るのか」を決める試合だ。
白と水色。
秩序と混沌。
記号と詩。
90分の間に、
サッカーという言語が再定義される。 December 12, 2025
井上流に読む、レアル・マドリード × マンチェスター・シティ。
「構造と生成、秩序と無秩序。
二つの“世界”が、ひとつのボールをめぐってぶつかる。」
ジュード・ベリンガムとアーリング・ハーランド。
彼らは“サッカー選手”ではない。
それぞれが、ひとつの思想の象徴だ。
白と水色――
それはただのユニフォームの違いではなく、
「時間の進み方」そのものの違いを意味している。
◆構造 ――「秩序としてのマドリード」
マドリードというクラブは、
常に“世界の中心”であることを宿命づけられている。
勝つことは義務ではない。存在の形式だ。
ベリンガムがその中心に立つということ。
それは、構造が人間を選んだ瞬間である。
彼のプレーは“秩序の体現”。
感情を抑制し、精度とリズムで世界を整える。
レアルとは、
「世界を秩序化し続ける装置」なのだ。
◆生成 ――「混沌としてのシティ」
一方、シティは構造を壊すチーム。
ペップ・グアルディオラの思想は、サッカーをアルゴリズムに還元する試み。
だが、その中でハーランドは異物だ。
彼は、秩序を喰らう獣。
形を与えられるたびに、それを壊し、
破片の中から“点”という現象を生み出す。
井上流的に言えば、
ハーランドは「生成する暴力」であり、
ペップは「構造する知」。
この二つの矛盾が共存しているのが、
今のマンチェスター・シティという“動的構造体”だ。
◆ズレ ――「完璧」と「不完全」の衝突
マドリードは完成を志向する。
シティは未完成を肯定する。
この試合は、
「完成」と「生成」――つまり、“止まった時間”と“流れる時間”の対決になる。
ベリンガムが描くのは、
一点の曇りもない物語。
ハーランドが放つのは、
制御不能な衝動。
そして、フットボールというゲームは常に、
その“ズレ”の中で美しく燃える。
◆循環 ――「勝敗を超える力学」
マドリードが勝つとき、
世界は安定する。
しかしシティが勝つとき、
世界は新しい秩序を生む。
勝者は、どちらか一方ではない。
サッカーそのものが、次の段階へと変容するのだ。
それは、結果ではなく「生成の継承」。
まるで、文明が次の言語を手に入れる瞬間のように。
「この試合は、サッカーの未来を決める“構文論争”である。」
ベリンガムは、“意味”を守る。
ハーランドは、“意味”を破壊する。
その衝突の中で、
私たちは「美とは何か」「支配とは何か」を再び問い直す。
◆結語 ――「光と構造の間で」
レアル・マドリードは、伝統の光をまとい、
マンチェスター・シティは、未来の光をまとっている。
だが、井上流的に言えば、
光とはどちらにも属さない。
光は、
構造と生成の狭間に生まれる“ゆらぎ”のこと。
そしてそのゆらぎこそが、
サッカーという現象を、芸術にも哲学にも変える。
この一戦は、
勝者を決める試合ではない。
世界が「どのリズムで回るのか」を決める試合だ。
白と水色。
秩序と混沌。
記号と詩。
90分の間に、
サッカーという言語が再定義される。 December 12, 2025
井上流に読む、久保建英 × ジュード・ベリンガム。
「二つの“10番”が交わるとき、サッカーは思想になる。」
ウェンブリー。
芝の上に浮かぶ二つの“呼吸”がある。
ひとりは静かに世界を解体する者、
もうひとりは世界を意志の力で支配する者。
久保建英とジュード・ベリンガム。
その対峙は、単なる個の競演ではなく、
「サッカーの文法そのもの」の衝突だ。
◆ズレ ――「静」と「動」の呼吸
ベリンガムは、前へ進む。
空間を割り、感情でゲームを引きずる。
彼のリズムは、まるでマグマのように地中から吹き上がる。
久保は、止まる。
相手と空間の呼吸を読み、ずらし、裏を取る。
その一歩の“遅れ”が、世界を崩す。
この二人の違いは、
まさに「生成の方向」の違いだ。
ベリンガムは、「存在を押し出す」生成。
久保は、「存在を溶かす」生成。
その二つが同じピッチで交わるとき、
時間はねじれ、試合は哲学の場へと変わる。
◆生成 ――「思考のサッカー」と「意志のサッカー」
久保建英のサッカーは、“思考の中にある静寂”だ。
彼のタッチは、時間を止める。
ボールが彼の足元にあるとき、
ピッチの中で唯一、音が消える瞬間がある。
一方、ベリンガムは“意志のサッカー”の体現者。
彼のプレーには「ためらい」がない。
すべてが直線的で、力強く、
まるで未来を先に引き寄せるような推進力。
両者の衝突とは、
「知」と「意志」――つまり、サッカーの両極の衝突である。
◆循環 ――「ウェンブリー」という記憶の場
ウェンブリーとは、サッカーの記憶そのものだ。
英雄の名が染み込み、敗北の涙が残る場所。
その“記号化された歴史”の中に、
アジアの10番が立つということ。
それは、世界のフットボール構造が
新しい位相へとずれるということでもある。
このズレの瞬間にこそ、
井上流が言う「生成の詩」が宿る。
◆変容 ――「文化の戦い」としての一戦
この試合の意味は、
どちらが勝つかではなく、
どちらが世界を変える呼吸を持つか。
ベリンガムが体現するのは、ヨーロッパの“直線的生成”。
久保が持ち込むのは、東洋的な“間の生成”。
つまり、
これは文化の衝突ではなく、時間の重ね方の衝突。
速さと静けさ。
力と余白。
二つの“生成の速度”が交わるところで、
サッカーは新しい形を得る。
「彼らが向き合うのは相手ではない。
“世界の呼吸”そのものだ。」
◆結語 ――「生成としての10番」
井上流的に見れば、
この試合の本質は「10番」という数字そのものの再定義にある。
かつて“10”は王の象徴だった。
しかし今、10番は“生成する者”の番号になっている。
指示ではなく、流れを生む人間。
久保建英も、ベリンガムも、
すでに自国のシステムの中に閉じない。
彼らはピッチ上で、
存在のあり方そのものを問い直している。
ウェンブリーの夜。
二つの「10」が交わるとき、
スコアではなく、
サッカーという思想が動く。
そしてきっと、
その中心には「倭国」という新しい文法が、
静かに、確かに、立ち上がっている。 December 12, 2025
井上流に読む、久保建英 × ジュード・ベリンガム。
「二つの“10番”が交わるとき、サッカーは思想になる。」
ウェンブリー。
芝の上に浮かぶ二つの“呼吸”がある。
ひとりは静かに世界を解体する者、
もうひとりは世界を意志の力で支配する者。
久保建英とジュード・ベリンガム。
その対峙は、単なる個の競演ではなく、
「サッカーの文法そのもの」の衝突だ。
◆ズレ ――「静」と「動」の呼吸
ベリンガムは、前へ進む。
空間を割り、感情でゲームを引きずる。
彼のリズムは、まるでマグマのように地中から吹き上がる。
久保は、止まる。
相手と空間の呼吸を読み、ずらし、裏を取る。
その一歩の“遅れ”が、世界を崩す。
この二人の違いは、
まさに「生成の方向」の違いだ。
ベリンガムは、「存在を押し出す」生成。
久保は、「存在を溶かす」生成。
その二つが同じピッチで交わるとき、
時間はねじれ、試合は哲学の場へと変わる。
◆生成 ――「思考のサッカー」と「意志のサッカー」
久保建英のサッカーは、“思考の中にある静寂”だ。
彼のタッチは、時間を止める。
ボールが彼の足元にあるとき、
ピッチの中で唯一、音が消える瞬間がある。
一方、ベリンガムは“意志のサッカー”の体現者。
彼のプレーには「ためらい」がない。
すべてが直線的で、力強く、
まるで未来を先に引き寄せるような推進力。
両者の衝突とは、
「知」と「意志」――つまり、サッカーの両極の衝突である。
◆循環 ――「ウェンブリー」という記憶の場
ウェンブリーとは、サッカーの記憶そのものだ。
英雄の名が染み込み、敗北の涙が残る場所。
その“記号化された歴史”の中に、
アジアの10番が立つということ。
それは、世界のフットボール構造が
新しい位相へとずれるということでもある。
このズレの瞬間にこそ、
井上流が言う「生成の詩」が宿る。
◆変容 ――「文化の戦い」としての一戦
この試合の意味は、
どちらが勝つかではなく、
どちらが世界を変える呼吸を持つか。
ベリンガムが体現するのは、ヨーロッパの“直線的生成”。
久保が持ち込むのは、東洋的な“間の生成”。
つまり、
これは文化の衝突ではなく、時間の重ね方の衝突。
速さと静けさ。
力と余白。
二つの“生成の速度”が交わるところで、
サッカーは新しい形を得る。
「彼らが向き合うのは相手ではない。
“世界の呼吸”そのものだ。」
◆結語 ――「生成としての10番」
井上流的に見れば、
この試合の本質は「10番」という数字そのものの再定義にある。
かつて“10”は王の象徴だった。
しかし今、10番は“生成する者”の番号になっている。
指示ではなく、流れを生む人間。
久保建英も、ベリンガムも、
すでに自国のシステムの中に閉じない。
彼らはピッチ上で、
存在のあり方そのものを問い直している。
ウェンブリーの夜。
二つの「10」が交わるとき、
スコアではなく、
サッカーという思想が動く。
そしてきっと、
その中心には「倭国」という新しい文法が、
静かに、確かに、立ち上がっている。 December 12, 2025
かたのちからをぬいて
やすむのもよいだろう
けれども冬はやすめない
立ち止まることは出来るが
眠ってはいけないようだ
冬枯れた景色の中にも
きっと芽吹く春がある
その緑に宿る命のこえ
どれほど遠くても
生きてさえいれば叶う
永遠の春が奇跡のように
深まれば深まるほどに
春の声が近づいてくる
冬は眠ってしまいたかった
夢だって見たかったのだ
空の雲が流れるように
冬はゆっくりと歩み始める
#詩 「冬眠」 December 12, 2025
哲学詩878「沢庵忌」
本心
水の如く
一所に
留らず
妄心
氷の如し
氷にては
心身
洗われ申さず
氷融かして
水となし
何処へも
流れるようにして
心身
洗うべし
人の真実
何にて知りぬや
涙の外
あるべからず
草木の
苦しみ
悲しみ
人知らず
本心
水の如くなれど
水に流せず https://t.co/hAlN9hJHxf December 12, 2025
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