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半島へ
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2025.12.01〜(49週)
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明治期には開拓使官有物払い下げ事件などの汚職事件が普通に起こってるので、坂本龍馬は政府とのパイプを重視して事業をやるから汚職もやるだろうし、朝鮮半島への介入政策にもかなり積極的に参与しそう。同郷の岩崎弥太郎は政府の尻拭いや無茶振りを凌ぎ切って事業を築いたがあれは難しい。 December 12, 2025
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● 倭国の始源?
最初の写真は古代伽倻の領域と当時の海面環境を復元した地図である。
韓国史の始源が遼河地域と繋がるのであれば、倭国史の始源はここであると言える。もちろん倭国人たちは認めたくないだろうが。
伽倻は歴史的に「加羅」とも呼ばれ、さらに遡ると韓国と倭国の共通した始源はバイカル湖文化圏へと繋がる。
この移動経路を簡単に整理すると次のようになる。
バイカル湖一帯の先進勢力が南下し、遼河地域の土着勢力と融合し、その結果として古朝鮮が誕生した。その後、この系統は半島へ再び南下し定着し、最終的に倭国列島へ移動して民族(弥生人)と国家アイデンティティを確立した。
参考として、現代倭国人DNAの 87%〜96.7% が半島系弥生人である。
古朝鮮には「天符三印」と呼ばれる三種の神物が存在した。すなわち、青銅鏡・剣・鈴である。興味深い点は、この象徴体系が倭国へ伝わり、天皇家の三種の神器である青銅鏡・剣・勾玉へと継承されたということだ。形態と性格の面で非常に類似した構造を持ち、同じ起源から出発したことを意味しているとも言える。
● 伽倻勢力の列島進出と邪馬台国
倭国の最初の国家として一般的に知られているのは大和政権である。紀元前3世紀頃に成立したとされ、倭国列島の複数の小国を統合し、中央集権的国家体制を構築した。
しかし、その前段階として既に存在した政治体制が邪馬台国である。史書によれば女王が統治した国家であり、韓国学界ではこれを伽倻の分国、あるいは伽倻系勢力の九州定着と関連した国家として解釈することがある。伽倻は初期から製鉄技術および鉄文化が発達した海洋勢力であったため、倭国列島に複数の分国を設置したという研究も存在する。紀元前、古代の半島人が倭国列島へ農耕文化を伝えたのであれば、紀元後は伽倻人が鉄器文化を伝えたのである。
これを裏付ける事例の一つが九州霧島地域の「韓国岳(からくにだけ)」である。『古事記』ではこの地域が伊邪那岐と伊邪那美、すなわち天孫が降臨した地として描かれる。倭国古文献では「韓国」を「からくに」と読み、これは伽倻勢力の存在を示唆する痕跡と見ることができる。
● 倭国の三国建国年代歪曲問題と歴史的比較
伽倻は紀元後42年に成立した連盟王国で、中心勢力は三韓のうち弁韓系勢力であった。また、古朝鮮が滅亡する前、準王が南下して現在のソウルで韓王として君臨したという記録は、三韓が古朝鮮文化圏の延長線上にあったという解釈を可能にする。
三国の民族的構成は次の通りである。
高句麗:扶余系 + 濊貊系
百済:扶余系 + 韓族(馬韓)
新羅:濊貊系 + 韓族(辰韓)
伽倻:韓族(弁韓)
しかし、倭国の教科書では高句麗の建国年代を明示せず曖昧に扱い、百済・新羅を4世紀建国国家として記述する。これは韓国および中国史料で検証された高句麗:紀元前37年、百済:紀元前18年、新羅:紀元前57年という史料とは明確に矛盾する。
歴史は交差検証により証明されるが、韓中史料は相互検証が可能である反面、倭国側記録は検証が困難な点が多く、200年以上の年代差が生じている場合もある。これは倭国が後に歴史を修正した可能性を示唆するものでもある。
もし倭国側の記述のように百済が4世紀建国国家であるならば、その時期は既に第13代王である近肖古王時代であり百済の最盛期である。つまり百済が建国されるや否やすぐに高句麗を攻撃し、平壌城を占領して故国原王を戦死させ、北魏と戦争し遼西はもちろん山東半島まで掌握したという非論理的結論に達することになる。よって倭国のこの種の歴史解釈には意図的縮小、または植民史観的視点が反映されていると見ることができる。
● 天皇の伽倻王室系譜説と召文国の痕跡
倭国は自国の最初の歴史を紀元前7世紀に設定することがあるが、これは伽倻近隣の古代都市国家である召文国の建国年代を借用した可能性が高い。召文国は女王国であり、百済建国勢力であるソソノが二人の息子の王位争いを避けて倭国へ移動した際、召文国の女王がソソノ勢力を避け洞窟に隠れたという伝承がある。またソソノは高天原と新羅を経て列島に移ったとされ、後にその勢力がスサノオとなったと推定されている。
倭国神話では男性として登場するが、実際のソソノは女性であり、朱蒙と共に高句麗を建国した女傑であった。
参考として召文国は中国史料で「倭」と表記される場合があり、列島に倭が登場する前から半島に存在した倭である。
そして倭国植民地期、朝鮮総督府はソソノの移動経路に沿ってスサノオ神社を建立し、伽倻建国王である金首露王の子孫である金海金氏の族譜発行を禁止した。これは倭国天皇の姓が金海金氏系統と遺伝的・伝承的繋がりを持つ可能性を意識したためと見られる。
総括すると、倭国の古代国家は独立的に生成された文明構造ではなく、東北アジア古代移住ネットワーク、伽倻および遼河文明圏を媒介として形成された歴史的成果物として解釈できる。
倭国の神話体系、地名、遺物体系、皇室などが朝鮮半島と高い連続性を示す点は、その有力な根拠である。 December 12, 2025
15RP
Two cases of MERS-CoV, returning from abroad, identified on national territory
フランス国内で海外渡航関連のMERS-CoV感染者2例を確認
フランス当局は、アラビア半島への共同旅行から帰国した2人に中東呼吸器症候群コロナウイルス(MERS-CoV)感染を確認した。
2人はいずれも症状を呈し検査で陽性となり、状態は安定しているが予防的に入院下で経過観察中である。
同じ旅行に参加した人や濃厚接触者、医療従事者に対しては、接触者追跡、検査、隔離、防護策が実施されており、現時点でフランス国内での二次感染は確認されていない。
MERS-CoVは主に感染したヒトコブラクダとの接触でうつるまれな重い感染症であり、主な感染経路は家庭内や医療機関での人から人への飛沫感染で、潜伏期間は5〜15日とされる。
France has reported two imported cases of MERS-CoV in travelers returning from the Arabian Peninsula. The patients are hospitalized in stable condition, and health authorities have launched contact tracing, testing and isolation. No onward transmission has been detected, but people with compatible symptoms after travel to affected areas are urged to seek medical advice.
https://t.co/47zmEXU6Ef
#MERSCoV #フランス #中東呼吸器症候群
#MERSCoV #France #ImportedCase December 12, 2025
2RP
てな訳で東京からバイクで430km宮城県牡鹿郡女川町の出島(いずしま)漁港まで来ました⚓️
出島大橋という大きな橋を渡りたくて辿り着きました
気温11℃☀️日差しも強くとても暖かいです(*´д`*)
漁港には落ちてる魚を咥えて歩いてる猫がたくさんいました🐟🐱
ここから牡鹿半島へ鯨肉食べに行きます🐳 https://t.co/vSlTKbNdma December 12, 2025
2RP
日露戦争において、倭国軍がハルビン市まで侵攻したという事実は確認できません。日露戦争の主要な陸戦は現在の中国遼寧省を中心に展開され、最大の会戦は1905年2月から3月にかけて行われた奉天会戦(現在の瀋陽市)でした。
以下、ご質問の点についての深掘りです。
1. 戦線の限界
日露戦争は、ロシアの満州(中国東北部)占領と朝鮮半島への進出に対抗する形で始まりました。主な戦闘地域は遼東半島(旅順要塞攻囲戦)から始まり、北上して遼陽会戦、沙河会戦を経て、奉天会戦に至りました。
奉天会戦で倭国軍はロシア軍に勝利しましたが、ロシア軍は壊滅したわけではなく、さらに北のハルビン方面へ退却しました。倭国軍は奉天以北への追撃は行わず、戦線はそこで膠着状態となりました。ハルビンはロシアが東清鉄道の拠点として建設した都市であり、ロシアの権益が深く根ざしていました。倭国軍がそこまで深く侵攻することは戦略的に難しく、また戦争目的の範囲外でした。
2. 「七月七日」について
日露戦争は1904年2月に開戦し、1905年9月5日のポーツマス講和条約調印によって終結しました。この期間中、1904年または1905年の7月7日に倭国軍がハルビンに侵攻したという歴史的な記録はありません。
•1904年7月7日: 戦争序盤、倭国軍は遼東半島や朝鮮半島北部で戦闘中でした。
•1905年7月7日: 奉天会戦後、戦線は膠着しており、この時期はポーツマスでの講和会議(8月10日開始)に向けて外交交渉が進められていた時期です。
3. ハルビンの歴史的役割
日露戦争後、ポーツマス条約によりロシアが倭国に譲渡したのは、長春(寛城子)以南の東清鉄道の利権と遼東半島(関東州)の租借権でした。ハルビンは長春よりも北に位置していたため、ロシアの勢力圏として残りました。
その後、ハルビンに多くの外国人が居住するようになり、ロシア革命後は多くの白系ロシア人が流入しました。倭国がハルビンを含む満州全域に影響力を強めるのは、1931年の満州事変以降、満州国を建国してからとなります。
まとめ
日露戦争において、倭国軍がハルビンまで軍事的に侵攻し占領することはありませんでした。倭国軍の最北到達点は奉天(瀋陽)付近であり、ハルビンは戦争終結後もロシアの管理下にありました。 December 12, 2025
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@hide_Q_ 倭国人(大和民族)の敵は在日や帰化❗️戦後に、戦地の倭国兵が帰還前、半島へ帰還しない不逞在日朝鮮人が買い出し倭国人を襲ったり、空襲で所有不明な土地を収奪した(上野、池袋、川崎…駅前にパチンコ屋)、警察署や税務署を襲撃❗️パチンコ資金数千兆円が倭国の支配(政治家や裁判官や医者…)に! https://t.co/7MIcfhPiBq December 12, 2025
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@WFOUb9Mg42l4fUK アキラさんこんばんは🎵
丹後半島へカニ旅行いいですね🦀
私栗が大好物なんで丹波栗が入った栗ご飯食べに行きたいなぁ〜と思っていたらもうカニなんですね美味しそうなお料理食べてうらやましいです🍀 December 12, 2025
@suikameron44862 @morinokitsune26 好き嫌いというより、その地位に相応しくない、相応しいと思えない理由が国民それぞれ考えがあるんじゃないの?
なに?それも取り締まるwww
半島へ帰ってからヤレ! December 12, 2025
有給休暇消化する為 休みを貰い 旅仲間と丹後半島へカニ旅行😁
途中 昼飯に丹波の道の駅へ
黒豆御膳が美味かったなぁ😋👍 https://t.co/eLehAP9n17 December 12, 2025
今週末は愛知県、知多半島へ!
総走行距離は412km、大人しいほうです😁
プラグ&コイルを変えて車の調子が良くなったので運転が楽しいのなんの!
地元の名古屋走りにも遭遇しながらずっと行きたかった所に行けて良かったです!
次の目標は富士山!!
さて、もうひと走りして来ます🚗 https://t.co/bQbApjR7pq December 12, 2025
2泊3日 紀伊半島へ旅してきました
深い谷は人を拒む ここは生活と信仰と自然がそのまま残っていた
一人の時間をたくさん摂取出来た 満足👍 https://t.co/qU7CT3Kfgd December 12, 2025
蓮池薫『半島へ、ふたたび』#読了
随分前に購入。
読み始めてみたら非常に読みやすい文章で最後までさらさらと読むことができた。
前半は、ご自身が拉致されていた北朝鮮と同じ「半島」にある韓国への旅について。
後半は「翻訳」を生きていくための仕事とし、努力されていく姿が書かれている。 December 12, 2025
魚太郎 本店さん🐟
朝ごはんを求めて知多半島へ😊
今日は“漬け丼モーニング”😋
新鮮で味もしっかりしてて、最高でした👍✨ https://t.co/JH5SwWrIvf December 12, 2025
三連休はまー君と千葉の房総半島へドライブに行った🚗³₃
海ほたるを通って色んな道の駅を周り、最後は東京ゲートブリッジを回った。
バナナシェイクが美味しかったなぁ
お出かけの時、色々調べるの好きだけれど、まー君が色々調べてくれるのが実はとても嬉しい☺️ December 12, 2025
日露戦争において、倭国軍がハルビン市まで侵攻したという事実は確認できません。日露戦争の主要な陸戦は現在の中国遼寧省を中心に展開され、最大の会戦は1905年2月から3月にかけて行われた奉天会戦(現在の瀋陽市)でした。
以下、ご質問の点についての深掘りです。
1. 戦線の限界
日露戦争は、ロシアの満州(中国東北部)占領と朝鮮半島への進出に対抗する形で始まりました。主な戦闘地域は遼東半島(旅順要塞攻囲戦)から始まり、北上して遼陽会戦、沙河会戦を経て、奉天会戦に至りました。
奉天会戦で倭国軍はロシア軍に勝利しましたが、ロシア軍は壊滅したわけではなく、さらに北のハルビン方面へ退却しました。倭国軍は奉天以北への追撃は行わず、戦線はそこで膠着状態となりました。ハルビンはロシアが東清鉄道の拠点として建設した都市であり、ロシアの権益が深く根ざしていました。倭国軍がそこまで深く侵攻することは戦略的に難しく、また戦争目的の範囲外でした。
2. 「七月七日」について
日露戦争は1904年2月に開戦し、1905年9月5日のポーツマス講和条約調印によって終結しました。この期間中、1904年または1905年の7月7日に倭国軍がハルビンに侵攻したという歴史的な記録はありません。
•1904年7月7日: 戦争序盤、倭国軍は遼東半島や朝鮮半島北部で戦闘中でした。
•1905年7月7日: 奉天会戦後、戦線は膠着しており、この時期はポーツマスでの講和会議(8月10日開始)に向けて外交交渉が進められていた時期です。
3. ハルビンの歴史的役割
日露戦争後、ポーツマス条約によりロシアが倭国に譲渡したのは、長春(寛城子)以南の東清鉄道の利権と遼東半島(関東州)の租借権でした。ハルビンは長春よりも北に位置していたため、ロシアの勢力圏として残りました。
その後、ハルビンに多くの外国人が居住するようになり、ロシア革命後は多くの白系ロシア人が流入しました。倭国がハルビンを含む満州全域に影響力を強めるのは、1931年の満州事変以降、満州国を建国してからとなります。
まとめ
日露戦争において、倭国軍がハルビンまで軍事的に侵攻し占領することはありませんでした。倭国軍の最北到達点は奉天(瀋陽)付近であり、ハルビンは戦争終結後もロシアの管理下にありました。 December 12, 2025
@smith_john87277 射幸性が強い理由で5号機撤去してユーザー離れたらスマスロで射幸性より強くするアホ業界。ユーザーはただ自分が負けるだけではなくその金が半島へ行ってるのを良く理解した方が良い。 December 12, 2025
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