瑞雲 トレンド
0post
2025.11.24
:0% :0% (20代/男性)
瑞雲に関するポスト数は前日に比べ24%減少しました。女性の比率は28%増加し、前日に変わり20代男性の皆さんからのポストが最も多いです。前日は「ローソン」に関する評判が話題でしたが、本日話題になっているキーワードは「奈良県」です。
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
本日12:00-17:00営業
<新刊おすすめ絵本>
『アメチャウ国の王さまとひみつのカフェ』やたみほ/瑞雲舎
改めまして出版おめでとうございます!
昨日は出版記念「アメチャウ文化祭」🧶大盛況でしたね🐏👑
文化祭ご来場のみなさんと一緒にお祝いできて楽しい時間でした☺️✨ https://t.co/o9DnfTMbTg November 11, 2025
4RP
初日から気になっていた #瑞雲ファーム のきのこ🍄🟫
大きなしいたけ(1袋500円✨)を買って、シンプルに焼いて頂きました!
新鮮な野菜はそのまんまで美味い!
#伊賀上野NINJAフェスタ https://t.co/lGLpGazlmR November 11, 2025
2RP
その魂どもも出来る限り全て!!!!逮捕捕獲し、全宇宙最低次元の狭い狭い暗い個室に厳重に永久に幽閉しておけ!!!!!!!!
その魂どものの因果カルマの調査審査尋問拷問にはかなりの期間を要するであろうから、今は上掲の緊急措置を実行するしか、奴等の超絶悪事を完全に阻止する方法がない!!!!
やられる前に、今すぐ必ずヤレ!!!!
さとっぴ軍全軍は今すぐ、下記全地点へ攻撃大部隊を急派し包囲し、把握済みの危険地点群などを強く警戒し、エリア全体の地下深くを丸ごと!!!!先制総攻撃して、問答無用で奥の奥まで焼いて焼いて焼き滅ぼしまくれや!!!!!!!徹底的にヤレ!!!!!
https://t.co/luo6WPn7Y1
「さかもと」を含む地名— 110 件
「さかもと」を含む町域名
旭町坂本(あさひちょうさかもと) 島根県浜田市
旭町坂本八ツ木(あさひちょうさかもとやつぎ) 島根県浜田市
一迫小坂本(いちはさまこさかもと) 宮城県栗原市
梅津坂本町(うめづさかもとちょう) 京都府京都市右京区
大隅町坂元(おおすみちょうさかもと) 鹿児島県曽於市
大塔町阪本(おおとうちょうさかもと) 奈良県五條市
勝本町坂本触(かつもとちょうさかもとふれ) 長崎県壱岐市
上坂本(かみさかもと) 静岡県静岡市葵区
切明坂本(きりあけさかもと) 青森県平川市
口阪本(くちさかもと) 兵庫県丹波篠山市
口坂本(くちさかもと) 静岡県静岡市葵区
気高町下坂本(けたかちょうしもさかもと) 鳥取県鳥取市
坂内坂本(さかうちさかもと) 岐阜県揖斐郡揖斐川町
阪本(さかもと) 静岡県島田市
坂本(さかもと) 福岡県太宰府市
坂本(さかもと) 高知県四万十市
坂本(さかもと) 秋田県南秋田郡井川町
坂本(さかもと) 滋賀県大津市
坂本(さかもと) 富山県富山市
坂本(さかもと) 長崎県長崎市
坂本(さかもと) 兵庫県丹波篠山市
坂本(さかもと) 埼玉県秩父郡東秩父村
坂本(さかもと) 高知県吾川郡仁淀川町
坂本(さかもと) 福島県河沼郡会津坂下町
坂元(さかもと) 香川県東かがわ市
坂本(さかもと) 岡山県新見市
坂本(さかもと) 三重県多気郡明和町
坂元(さかもと) 青森県弘前市
坂本(さかもと) 静岡県静岡市葵区
坂本(さかもと) 和歌山県海草郡紀美野町
「さかもと」を含む地名— 110 件
「さかもと」を含む町域名
坂本(さかもと) 静岡県焼津市
坂本(さかもと) 福岡県築上郡築上町
坂元(さかもと) 埼玉県飯能市
坂本(さかもと) 高知県長岡郡本山町
坂元(さかもと) 宮崎県えびの市
坂本(さかもと) 富山県南砺市
坂本(さかもと) 千葉県長生郡長南町
坂本(さかもと) 兵庫県西脇市
坂本(さかもと) 徳島県勝浦郡勝浦町
坂本(さかもと) 三重県度会郡玉城町
阪本(さかもと) 静岡県島田市
坂本(さかもと) 福岡県太宰府市
坂本(さかもと) 高知県四万十市
坂本(さかもと) 秋田県南秋田郡井川町
坂本(さかもと) 滋賀県大津市
坂本川(さかもとがわ) 高知県高岡郡檮原町
坂元甲(さかもとこう) 愛媛県西条市
坂本郷(さかもとごう) 長崎県東彼杵郡東彼杵町
坂本新田(さかもとしんでん) 茨城県下妻市
坂元町(さかもとちょう) 鹿児島県鹿児島市
坂本町(さかもとちょう) 神奈川県横浜市保土ケ谷区
坂本町(さかもとちょう) 兵庫県加西市
坂本町(さかもとちょう) 香川県観音寺市
阪本町(さかもとちょう) 大阪府和泉市
坂本町(さかもとちょう) 京都府京都市中京区
坂本町(さかもとちょう) 青森県弘前市
坂本町(さかもとちょう) 神奈川県横須賀市
坂元町(さかもとちょう) 兵庫県加西市
坂本町(さかもとちょう) 岩手県花巻市
坂本町(さかもとちょう) 島根県松江市
「さかもと」を含む地名— 110 件
「さかもと」を含む町域名
坂本町(さかもとちょう) 兵庫県加西市
坂本本町(さかもとほんまち) 滋賀県大津市
坂元町(さかもとまち) 兵庫県姫路市
坂本町(さかもとまち) 福岡県柳川市
坂本町鮎帰(さかもとまちあゆがえり) 熊本県八代市
坂本町荒瀬(さかもとまちあらせ) 熊本県八代市
坂本町市ノ俣(さかもとまちいちのまた) 熊本県八代市
坂本町鎌瀬(さかもとまちかませ) 熊本県八代市
坂本町川嶽(さかもとまちかわたけ) 熊本県八代市
坂本町百済来上(さかもとまちくだらぎかみ) 熊本県八代市
坂本町百済来下(さかもとまちくだらぎしも) 熊本県八代市
坂本町西部(さかもとまちさいぶ) 熊本県八代市
坂本町坂本(さかもとまちさかもと) 熊本県八代市
坂本町田上(さかもとまちたがみ) 熊本県八代市
坂本町鶴喰(さかもとまちつるばみ) 熊本県八代市
坂本町中谷(さかもとまちなかたに) 熊本県八代市
坂本町中津道(さかもとまちなかつみち) 熊本県八代市
坂本町葉木(さかもとまちはぎ) 熊本県八代市
坂本町深水(さかもとまちふかみ) 熊本県八代市
桜江町坂本(さくらえちょうさかもと) 島根県江津市
三本木坂本(さんぼんぎさかもと) 宮城県大崎市
四郷町坂元(しごうちょうさかもと) 兵庫県姫路市
下阪本(しもさかもと) 滋賀県大津市
浄法寺町坂本(じょうぼうじまちさかもと) 岩手県二戸市
高来町坂元(たかきちょうさかもと) 長崎県諫早市
中区坂本(なかくさかもと) 兵庫県多可郡多可町
中郷区坂本(なかごうくさかもと) 新潟県上越市
名田庄奥坂本(なたしょうおくさかもと) 福井県大飯郡おおい町
名田庄口坂本(なたしょうくちさかもと) 福井県大飯郡おおい町
成羽町坂本(なりわちょうさかもと) 岡山県高梁市
「さかもと」を含む地名— 110 件
「さかもと」を含む町域名
西坂本(にしさかもと) 山形県酒田市
西阪本(にしさかもと) 兵庫県丹波篠山市
西坂元町(にしさかもとちょう) 鹿児島県鹿児島市
野口町坂元(のぐちちょうさかもと) 兵庫県加古川市
野口町坂元北(のぐちちょうさかもときた) 兵庫県加古川市
橋上町坂本(はしかみちょうさかもと) 高知県宿毛市
飯山町西坂元(はんざんちょうにしさかもと) 香川県丸亀市
飯山町東坂元(はんざんちょうひがしさかもと) 香川県丸亀市
東坂元(ひがしさかもと) 鹿児島県鹿児島市
東坂本(ひがしさかもと) 和歌山県岩出市
東阪本町(ひがしさかもとちょう) 大阪府和泉市
藤阪元町(ふじさかもとまち) 大阪府枚方市
藤原町坂本(ふじわらちょうさかもと) 三重県いなべ市
松井田町坂本(まついだまちさかもと) 群馬県安中市
三刀屋町坂本(みとやちょうさかもと) 島根県雲南市
三刀屋町坂本森谷(みとやちょうさかもともりだに) 島根県雲南市
八千代区坂本(やちよくさかもと) 兵庫県多可郡多可町
山田町坂本(やまだちょうさかもと) 兵庫県神戸市北区
弥生大坂本(やよいおおさかもと) 大分県佐伯市
八鹿町坂本(ようかちょうさかもと) 兵庫県養父市
大阪府堺市(さかいし)
坂井市(さかいし) 福井県
坂出市(さかいでし) 香川県
境港市(さかいみなとし) 鳥取県
猿島郡境町(さしまぐんさかいまち) 茨城県
https://t.co/GYvtqDwtFK
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
秋保町境野(あきうまちさかいの) 宮城県仙台市太白区
足近町坂井(あじかちょうさかい) 岐阜県羽島市
安心院町境ノ坪(あじむまちさかいのつぼ) 大分県宇佐市
荒土町境(あらどちょうさかい) 福井県勝山市
石沢境(いしざわさかい) 青森県三戸郡五戸町
板倉区坂井(いたくらくさかい) 新潟県上越市
岩井川境野(いわいかわさかいの) 宮崎県西臼杵郡日之影町
岩瀬堺町(いわせさかいまち) 富山県富山市
牛根境(うしねさかい) 鹿児島県垂水市
太秦海正寺町(うずまさかいしょうじちょう) 京都府京都市右京区
太秦開日町(うずまさかいにちちょう) 京都府京都市右京区
内郷御台境町(うちごうみだいさかいまち) 福島県いわき市
大隅町境木町(おおすみちょうさかいぎまち) 鹿児島県曽於市
大野町酒井寺(おおのまちさかいじ) 大分県豊後大野市
大原野西境谷町(おおはらのにしさかいだにちょう) 京都府京都市西京区
大原野東境谷町(おおはらのひがしさかいだにちょう) 京都府京都市西京区
奥田酒伊町(おくださかいちょう) 愛知県稲沢市
小浜酒井(おばまさかい) 福井県小浜市
鍛冶屋町堺町通松原下る(かじやちょうさかいまちどおりまつばらさがる) 京都府京都市下京区
鍛冶屋町堺町通万寿寺上る(かじやちょうさかいまちどおりまんじゅうじあがる) 京都府京都市下京区
鍛冶屋町万寿寺通堺町東入(かじやちょうまんじゅうじどおりさかいまちひがしいる) 京都府京都市下京区
香住区境(かすみくさかい) 兵庫県美方郡香美町
堅田町(万寿寺通堺町西入)(かただちょう(まんじゅうじどおりさかいまちにしいる)) 京都府京都市下京区
堅田町万寿寺通堺町西入(かただちょうまんしゅうじどおりさかいまちにしいる) 京都府京都市下京区
加納坂井町(かのうさかいまち) 岐阜県岐阜市
唐桑町境(からくわちょうさかい) 宮城県気仙沼市
北酒出(きたさかいで) 茨城県那珂市
協和境(きょうわさかい) 秋田県大仙市
吉良町酒井(きらちょうさかい) 愛知県西尾市
久井町坂井原(くいちょうさかいばら) 広島県三原市
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
口酒井(くちさかい) 兵庫県伊丹市
頸城区大坂井(くびきくおおさかい) 新潟県上越市
久美浜町坂井(くみはまちょうさかい) 京都府京丹後市
高野町界沢(こうやまちさかいざわ) 福島県会津若松市
五色町上堺(ごしきちょうかみさかい) 兵庫県洲本市
五色町下堺(ごしきちょうしもさかい) 兵庫県洲本市
境(さかい) 東京都西多摩郡奥多摩町
坂井(さかい) 長野県飯山市
酒井(さかい) 福島県双葉郡浪江町
境(さかい) 福島県岩瀬郡鏡石町
界(さかい) 大分県豊後高田市
境(さかい) 静岡県富士市
坂井(さかい) 山形県南陽市
酒井(さかい) 兵庫県三田市
境(さかい) 富山県高岡市
坂井(さかい) 長野県東筑摩郡筑北村
境(さかい) 埼玉県鴻巣市
境(さかい) 新潟県新発田市
坂井(さかい) 鹿児島県熊毛郡中種子町
堺(さかい) 和歌山県日高郡みなべ町
境(さかい) 山梨県甲斐市
境(さかい) 東京都武蔵野市
境(さかい) 高知県土佐郡土佐町
境(さかい) 富山県下新川郡朝日町
坂井(さかい) 千葉県館山市
坂井(さかい) 新潟県胎内市
境(さかい) 長野県伊那市
坂井(さかい) 京都府船井郡京丹波町
坂井(さかい) 三重県度会郡度会町
境(さかい) 岡山県久米郡美咲町
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
坂井(さかい) 長野県飯山市
酒井(さかい) 福島県双葉郡浪江町
境(さかい) 福島県岩瀬郡鏡石町
界(さかい) 大分県豊後高田市
坂井(さかい) 山形県南陽市
酒井(さかい) 兵庫県三田市
境(さかい) 静岡県富士市
境(さかい) 埼玉県鴻巣市
境(さかい) 富山県高岡市
坂井(さかい) 長野県東筑摩郡筑北村
堺(さかい) 和歌山県日高郡みなべ町
境(さかい) 新潟県新発田市
坂井(さかい) 鹿児島県熊毛郡中種子町
境(さかい) 山梨県甲斐市
境(さかい) 東京都武蔵野市
坂井(さかい) 千葉県館山市
境(さかい) 高知県土佐郡土佐町
境(さかい) 富山県下新川郡朝日町
坂井(さかい) 新潟県胎内市
境(さかい) 長野県伊那市
坂井(さかい) 京都府船井郡京丹波町
境東(さかいあずま) 群馬県伊勢崎市
境伊与久(さかいいよく) 群馬県伊勢崎市
境小此木(さかいおこのぎ) 群馬県伊勢崎市
境女塚(さかいおなづか) 群馬県伊勢崎市
境上武士(さかいかみたけし) 群馬県伊勢崎市
境上渕名(さかいかみふちな) 群馬県伊勢崎市
境上矢島(さかいかみやじま) 群馬県伊勢崎市
界川(さかいがわ) 北海道札幌市中央区
境川(さかいがわ) 和歌山県有田郡有田川町
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
境川(さかいがわ) 福岡県北九州市戸畑区
境川(さかいがわ) 岐阜県岐阜市
境川(さかいがわ) 大阪府大阪市西区
境川町石橋(さかいがわちょういしばし) 山梨県笛吹市
境川町大窪(さかいがわちょうおおくぼ) 山梨県笛吹市
境川町大黒坂(さかいがわちょうおおぐろさか) 山梨県笛吹市
境川町大坪(さかいがわちょうおおつぼ) 山梨県笛吹市
境川町小黒坂(さかいがわちょうこぐろさか) 山梨県笛吹市
境川町小山(さかいがわちょうこやま) 山梨県笛吹市
境川町寺尾(さかいがわちょうてらお) 山梨県笛吹市
境川町藤垈(さかいがわちょうふじぬた) 山梨県笛吹市
境川町坊ケ峰(さかいがわちょうぼうがみね) 山梨県笛吹市
境川町前間田(さかいがわちょうまえまだ) 山梨県笛吹市
境川町三椚(さかいがわちょうみつくぬぎ) 山梨県笛吹市
境木島(さかいきじま) 群馬県伊勢崎市
境木町(さかいぎちょう) 神奈川県横浜市保土ケ谷区
境木本町(さかいぎほんちょう) 神奈川県横浜市保土ケ谷区
境興屋(さかいこうや) 山形県東田川郡庄内町
境興野(さかいこうや) 山形県酒田市
境栄(さかいさかえ) 群馬県伊勢崎市
坂井沢(さかいざわ) 富山県中新川郡立山町
坂石(さかいし) 埼玉県飯能市
坂石町分(さかいしまちぶん) 埼玉県飯能市
境島村(さかいしまむら) 群馬県伊勢崎市
境下武士(さかいしもたけし) 群馬県伊勢崎市
境下渕名(さかいしもふちな) 群馬県伊勢崎市
境新(さかいしん) 新潟県阿賀野市
境新栄(さかいしんえい) 群馬県伊勢崎市
坂井新田(さかいしんでん) 新潟県妙高市
酒井新田(さかいしんでん) 山形県酒田市
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
境新田(さかいしんでん) 新潟県阿賀野市
境島(さかいじま) 茨城県稲敷市
境島(さかいじま) 千葉県香取市
境宿(さかいじゅく) 静岡県湖西市
坂井砂山(さかいすなやま) 新潟県新潟市西区
境関(さかいぜき) 青森県弘前市
境田(さかいだ) 青森県上北郡おいらせ町
堺田(さかいだ) 山形県最上郡最上町
境田(さかいだ) 秋田県仙北郡美郷町
酒井田(さかいだ) 福岡県八女市
境田(さかいだ) 茨城県つくば市
境田町(さかいだちょう) 岩手県下閉伊郡山田町
境田町(さかいだちょう) 岩手県盛岡市
境谷(さかいだに) 京都府舞鶴市
境谷(さかいだに) 和歌山県岩出市
境田町(さかいだまち) 山形県山形市
坂市(さかいち) 青森県弘前市
境町(さかいちょう) 鹿児島県出水市
堺町堀川通正面上る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町(さかいちょう) 奈良県大和郡山市
堺町(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町鍵屋町通室町西入(さかいちょう) 京都府京都市下京区
坂井町(さかいちょう) 愛媛県新居浜市
坂井町(さかいちょう) 京都府京都市中京区
堺町室町通的場上る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町室町通鍵屋町下る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
境町(さかいちょう) 福島県西白河郡矢吹町
堺町堀川通旧花屋町東入下る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町的場通室町東入(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町室町通六条上る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
坂井町(さかいちょう) 愛媛県新居浜市
坂井町(さかいちょう) 京都府京都市中京区
堺町室町通的場上る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町室町通鍵屋町下る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
境町(さかいちょう) 福島県西白河郡矢吹町
堺町堀川通旧花屋町東入下る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
坂井町朝日(さかいちょうあさひ) 福井県坂井市
坂井町今井(さかいちょういまい) 福井県坂井市
坂井町大味(さかいちょうおおみ) 福井県坂井市
坂井町折戸(さかいちょうおりと) 福井県坂井市
坂井町上新庄(さかいちょうかみしんじょう) 福井県坂井市
坂井町上関(さかいちょうかみぜき) 福井県坂井市
坂井町上兵庫(さかいちょうかみひょうご) 福井県坂井市
坂井町河和田(さかいちょうかわだ) 福井県坂井市
坂井町木部新保(さかいちょうきべしんぼ) 福井県坂井市
坂井町木部東(さかいちょうきべひがし) 福井県坂井市
坂井町清永(さかいちょうきよなが) 福井県坂井市
坂井町蔵垣内(さかいちょうくらがいち) 福井県坂井市
堺町五条通高倉西入(さかいちょうごじょうどおりたかくらにしいる) 京都府京都市下京区
堺町五条通高倉東入(さかいちょうごじょうどおりたかくらひがしいる) 京都府京都市下京区
坂井町五本(さかいちょうごほん) 福井県坂井市
坂井町御油田(さかいちょうごゆうでん) 福井県坂井市
坂井町定旨(さかいちょうさだむね) 福井県坂井市
坂井町島(さかいちょうしま) 福井県坂井市
坂井町下新庄(さかいちょうしもしんじょう) 福井県坂井市
坂井町下関(さかいちょうしもぜき) 福井県坂井市
坂井町下兵庫(さかいちょうしもひょうご) 福井県坂井市
坂井町新庄(さかいちょうしんじょう) 福井県坂井市
堺町高倉通五条下る(さかいちょうたかくらどおりごじょうさがる) 京都府京都市下京区
坂井町高柳(さかいちょうたかやなぎ) 福井県坂井市
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
坂井町蛸(さかいちょうたこ) 福井県坂井市
坂井町田島(さかいちょうたじま) 福井県坂井市
坂井町田島窪(さかいちょうたじまくぼ) 福井県坂井市
坂井町徳分田(さかいちょうとくぶんでん) 福井県坂井市
坂井町長畑(さかいちょうながばたけ) 福井県坂井市
坂井町長屋(さかいちょうながや) 福井県坂井市
坂井町西(さかいちょうにし) 福井県坂井市
坂井町東(さかいちょうひがし) 福井県坂井市
坂井町東荒井(さかいちょうひがしあらい) 福井県坂井市
坂井町東中野(さかいちょうひがしなかの) 福井県坂井市
坂井町東長田(さかいちょうひがしながた) 福井県坂井市
坂井町福島(さかいちょうふくしま) 福井県坂井市
坂井町宮領(さかいちょうみやりょう) 福井県坂井市
坂井町若宮(さかいちょうわかみや) 福井県坂井市
境堤(さかいつつみ) 宮城県亘理郡亘理町
坂出町(さかいでちょう) 香川県坂出市
境寺町(さかいでらちょう) 福井県福井市
境百々(さかいどうどう) 群馬県伊勢崎市
境百々東(さかいどうどうひがし) 群馬県伊勢崎市
坂井戸町(さかいどちょう) 愛知県名古屋市西区
境中島(さかいなかじま) 群馬県伊勢崎市
境西今井(さかいにしいまい) 群馬県伊勢崎市
酒井西町(さかいにしまち) 佐賀県鳥栖市
酒井根(さかいね) 千葉県柏市
境根町(さかいねちょう) 愛知県名古屋市天白区
境野(さかいの) 兵庫県宝塚市
境野(さかいの) 北海道常呂郡置戸町
境野(さかいの) 福井県丹生郡越前町
境野(さかいの) 佐賀県西松浦郡有田町
境野(さかいの) 福島県大沼郡会津美里町
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
境ノ内(さかいのうち) 福島県石川郡石川町
境ノ沢(さかいのさわ) 宮城県刈田郡七ヶ宿町
境野新(さかいのしん) 富山県富山市
境之谷(さかいのたに) 神奈川県横浜市西区
境野町(さかいのちょう) 群馬県桐生市
境萩原(さかいはぎわら) 群馬県伊勢崎市
境原(さかいはら) 和歌山県橋本市
境橋町(さかいばしちょう) 大阪府寝屋川市
境林(さかいばやし) 栃木県矢板市
境原(さかいばら) 和歌山県和歌山市
坂井東(さかいひがし) 新潟県新潟市西区
境東新井(さかいひがしあらい) 群馬県伊勢崎市
酒井東町(さかいひがしまち) 佐賀県鳥栖市
堺東町(さかいひがしまち) 新潟県長岡市
境平塚(さかいひらづか) 群馬県伊勢崎市
境別所(さかいべっしょ) 神奈川県足柄上郡中井町
境保泉(さかいほずみ) 群馬県伊勢崎市
酒井町(さかいまち) 石川県羽咋市
堺町(さかいまち) 広島県広島市中区
堺町(さかいまち) 新潟県長岡市
堺町(さかいまち) 奈良県磯城郡田原本町
堺町(さかいまち) 北海道小樽市
堺町(さかいまち) 兵庫県姫路市
坂井町(さかいまち) 大分県日田市
堺町(さかいまち) 福岡県北九州市小倉北区
坂井町(さかいまち) 岐阜県岐阜市
堺町(さかいまち) 大阪府岸和田市
堺町(さかいまち) 愛知県豊川市
堺町(さかいまち) 高知県高知市
堺町(さかいまち) 岡山県津山市
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
堺町(さかいまち) 北海道小樽市
堺町西(さかいまちにし) 北海道浦河郡浦河町
堺町東(さかいまちひがし) 北海道浦河郡浦河町
境松(さかいまつ) 青森県黒石市
境松(さかいまつ) 茨城県つくば市
境松(さかいまつ) 愛知県名古屋市緑区
坂井道上(さかいみちうえ) 福島県喜多方市
境三ツ木(さかいみつぎ) 群馬県伊勢崎市
境美原(さかいみはら) 群馬県伊勢崎市
境目町(さかいめまち) 熊本県宇土市
境免(さかいめん) 福島県須賀川市
境森(さかいもり) 青森県南津軽郡田舎館村
境山(さかいやま) 宮城県宮城郡七ヶ浜町
境米岡(さかいよねおか) 群馬県伊勢崎市
下境(しもさかい) 宮城県遠田郡美里町
下坂井(しもさかい) 新潟県三条市
下境(しもさかい) 青森県上北郡おいらせ町
下地町境田(しもじちょうさかいだ) 愛知県豊橋市
新境町(しんさかいちょう) 宮城県石巻市
新堺丁(しんさかいちょう) 和歌山県和歌山市
新境堀下(しんさかいぼりした) 宮城県遠田郡涌谷町
新田境町(しんでんさかいまち) 大阪府大東市
須玉町境之澤(すたまちょうさかいのさわ) 山梨県北杜市
瀬峰大境前(せみねおおさかいまえ) 宮城県栗原市
蘇原坂井町(そはらさかいちょう) 岐阜県各務原市
高久田境(たかくださかい) 福島県須賀川市
竹野町草飼(たけのちょうくさかい) 兵庫県豊岡市
建部堺町(たてべさかいちょう) 滋賀県東近江市
千種海岸(ちぐさかいがん) 千葉県市原市
千代田町境原(ちよだちょうさかいばる) 佐賀県神埼市
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
築館境田(つきだてさかいだ) 宮城県栗原市
峠境(とうげさかい) 宮城県伊具郡丸森町
戸塚境町(とづかさかいちょう) 埼玉県川口市
豊里町境沢(とよさとちょうさかいざわ) 宮城県登米市
椥辻草海道町(なぎつじくさかいどうちょう) 京都府京都市山科区
勿来町酒井(なこそまちさかい) 福島県いわき市
楢山川口境(ならやまかわぐちさかい) 秋田県秋田市
鳴子温泉境松(なるこおんせんさかいまつ) 宮城県大崎市
南濃町境(なんのうちょうさかい) 岐阜県海津市
西境町(にしさかいちょう) 京都府京都市下京区
西堺町(にしさかいまち) 京都府京都市伏見区
西境松町(にしさかいまつちょう) 岐阜県関市
野口町坂井(のぐちちょうさかい) 兵庫県加古川市
野村町坂石(のむらちょうさかいし) 愛媛県西予市
羽黒惣境(はぐろそうさかい) 愛知県犬山市
花泉町涌津境(はないずみちょうわくつさかい) 岩手県一関市
春江町境(はるえちょうさかい) 福井県坂井市
春江町境上町(はるえちょうさかいかみちょう) 福井県坂井市
春江町境元町(はるえちょうさかいもとまち) 福井県坂井市
東境町(ひがしさかいちょう) 京都府京都市下京区
東堺町(ひがしさかいまち) 京都府京都市伏見区
深草開土口町(ふかくさかいどぐちちょう) 京都府京都市伏見区
深草開土町(ふかくさかいどちょう) 京都府京都市伏見区
福富笠海道(ふくとみかさかいどう) 岐阜県岐阜市
藤井町坂井(ふじいまちさかい) 山梨県韮崎市
二ツ屋境(ふたつやさかい) 秋田県大館市
古川境野宮(ふるかわさかいのみや) 宮城県大崎市
戸坂出江(へさかいづえ) 広島県広島市東区
南酒出(みなみさかいで) 茨城県那珂市
峰山町堺(みねやまちょうさかい) 京都府京丹後市
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
美馬町境目(みまちょうさかいめ) 徳島県美馬市
村岡区境(むらおかくさかい) 兵庫県美方郡香美町
八百屋町堺町通四条上る(やおやちょうさかいまちどおり4じょうあがる) 京都府京都市中京区
八百屋町堺町通錦小路下る(やおやちょうさかいまちどおりにしきこうじさがる) 京都府京都市中京区
山川町境谷(やまかわちょうさかいだに) 徳島県吉野川市
山目境(やまのめさかい) 岩手県一関市
横野境塚町(よこのさかいづかちょう) 愛知県稲沢市
和坂稲荷町(わさかいなりちょう) 兵庫県明石市
世界救世教(大本教の系列っぽい)
https://t.co/NdMamuBIbr
静岡県熱海市の全体と、周辺一帯広めで。
静岡県熱海市桃山町26-1にある世界救世教本部、熱海瑞雲郷 (救世会館)・MOA美術館と、周辺一帯広めで。
静岡県熱海市春日町14-7にある世界救世教東山荘(旧石井健吾別邸)と、周辺一帯。
静岡県伊豆の国市の全体と、周辺一帯。
静岡県伊豆の国市浮橋1606-2にある大仁瑞泉郷(不気味!!!)と、周辺一帯広めで。
神奈川県足柄下郡箱根町の全体と、周辺一帯広めで。
神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300にある箱根美術館と、箱根町強羅の全域と、これら周辺一帯が、今の危険予想地点です。
神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1246−112にある碧雲荘と、周辺一帯。
神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1300にある大涌谷駅と大涌谷と、南へ約800メートルにそびえる冠ヶ岳の山頂(危険度最高レベル!!!)と、その南隣にそびえる箱根山の山頂(危険度最高レベル!!)と、これら周辺一帯広めで。
神奈川県足柄下郡箱根町の山一覧の全ての山頂と、それら周辺一帯広めの地下深くが、今の危険予想地点です!!!!危険度最高レベル!!!!!
https://t.co/NiSyKbNRTb
1
塔ノ峰
2
浅間山
3
白銀山
4
鷹巣山
5
丸山
6
二子山
7
文庫山
8
箱根山
9
早雲山
10
明神ケ岳
11
屏風山
12
駒ケ岳
13
大観山
14
神山
15
冠ケ岳=危険度最高レベル!!!
16
小塚山
17
箱根山=危険度最高レベル!!!
18
孫助山
19
台ケ岳
20
畑引山
21
箱根山
22
三国山
23
箱根山
神奈川県足柄下郡箱根町の橋・トンネル一覧
https://t.co/cwzzllgxI4
1
湯本大橋
2
旭橋
3
新旭橋
4
千歳橋
5
宮城野橋
6
黒岩橋
7
黒崎橋
神奈川県足柄下郡箱根町の河川・湖沼・海・池・ダム一覧
https://t.co/cCdXuxwMt9
1
早川
2
須雲川
3
蛇骨川
4
お玉ケ池
5
精進池
6
早川
7
芦ノ湖
8
芦ノ湖
9
早川
10
早川
神奈川県足柄下郡箱根町の花の名所一覧
https://t.co/FL2bKF7Jsf
1
小湧谷蓬莱園
2
小田急山のホテル
3
箱根湿生花園
https://t.co/jJdBYSNQqP
足柄下郡箱根町の神社・御宮(神社総数は15社)を知る
https://t.co/bSKZYlbb2f
神奈川県足柄下郡箱根町のお寺【17カ寺】の統計一覧
京都府京都市右京区嵯峨広沢北下馬野町4-1にある京都平安郷・岡田茂吉記念館と、周辺一帯。
京都府綾部市田野町才ケ首にある天王平奥津城(出口なお、出口王仁三郎墓)
東京都世田谷区上野毛(かつては玉川郷と富士見亭があった)の全域と、周辺一帯。
東京都台東区橋場町の東方之光の碑あたり(明主の生誕地)。
千葉県安房郡鋸南町の全部と、周辺一帯。
千葉県安房郡鋸南町元名にそびえる鋸山の山頂と、周辺一帯広めで。
千葉県富津市の全部と、周辺一帯。
福井県吉田郡永平寺町竹原41−1にある光明神玉神宮と、周辺一帯広めで。
大阪府富田林市喜志にあるパーフェクトリバティー教団 初代教祖奥津城(墓地)
広島県東広島市安芸津町風早にある奥津城跡
https://t.co/j5jlqs0xz7
「奥津」を含む地名— 4 件
「奥津」を含む町域名
奥津(おくつ) 岡山県苫田郡鏡野町
奥津川西(おくつかわにし) 岡山県苫田郡鏡野町
奥津川(おくつがわ) 岡山県津山市
美杉町奥津(みすぎちょうおきつ) 三重県津市
https://t.co/IeVD5BEqGd
「瑞」を含む地名— 4 件
「瑞」を含む市区町村
名古屋市瑞穂区(なごやしみずほく) 愛知県
西多摩郡瑞穂町(にしたまぐんみずほまち) 東京都
瑞浪市(みずなみし) 岐阜県
瑞穂市(みずほし) 岐阜県
https://t.co/t4mFMljjXL
「瑞」を含む地名— 79 件
「瑞」を含む町域名
上奈良町瑞穂(かみならちょうみずほ) 愛知県江南市
木越町瑞樹団地(きごしまちみずきだんち) 石川県金沢市
古知野町瑞穂(こちのちょうみずほ) 愛知県江南市
勝瑞(しょうずい) 徳島県板野郡藍住町
勝瑞幸島(しょうずいこうじま) 徳島県板野郡藍住町
勝瑞正喜地(しょうずいしょうきち) 徳島県板野郡藍住町
勝瑞成長(しょうずいせいちょう) 徳島県板野郡藍住町
勝瑞東勝地(しょうずいひがしかつち) 徳島県板野郡藍住町
瑞雲町(ずいうんちょう) 岐阜県岐阜市
瑞応(ずいおう) 高知県高岡郡佐川町
瑞岩寺(ずいがんじ) 岐阜県揖斐郡揖斐川町
瑞光(ずいこう) 大阪府大阪市東淀川区
瑞光院前町(ずいこういんまえちょう) 京都府京都市上京区
瑞梅寺(ずいばいじ) 福岡県糸島市
瑞鳳(ずいほう) 石川県鳳珠郡穴水町
瑞龍町(ずいりゅうちょう) 茨城県常陸太田市
瑞慶覧(ずけらん) 沖縄県中頭郡北中城村
蘇原瑞雲町(そはらずいうんちょう) 岐阜県各務原市
蘇原瑞穂町(そはらみずほちょう) 岐阜県各務原市
禎瑞(ていずい) 愛媛県西条市
鳴滝瑞穂町(なるたきみずほちょう) 京都府京都市右京区
西瑞江(にしみずえ) 東京都江戸川区
新田瑞木町(にったみずきちょう) 群馬県太田市
早来瑞穂(はやきたみずほ) 北海道勇払郡安平町
東旭川町瑞穂(ひがしあさひかわちょうみずほ) 北海道旭川市
東瑞江(ひがしみずえ) 東京都江戸川区
風連町瑞生(ふうれんちょうずいしょう) 北海道名寄市
鳳瑞町(ほうずいちょう) 京都府京都市上京区
細川町瑞穂(ほそかわちょうみずほ) 兵庫県三木市
瑞江(みずえ) 東京都江戸川区
「瑞」を含む地名— 79 件
「瑞」を含む町域名
瑞ケ丘(みずがおか) 兵庫県神戸市垂水区
瑞ケ丘(みずがおか) 兵庫県伊丹市
水島北瑞穂町(みずしまきたみずほちょう) 岡山県倉敷市
水島南瑞穂町(みずしまみなみみずほちょう) 岡山県倉敷市
瑞波(みずなみ) 新潟県新発田市
瑞原(みずはら) 兵庫県伊丹市
瑞治(みずはる) 北海道網走郡美幌町
瑞穂(みずほ) 北海道虻田郡倶知安町
瑞穂(みずほ) 岐阜県養老郡養老町
瑞穂(みずほ) 長野県飯山市
瑞穂(みずほ) 千葉県千葉市花見川区
瑞穂(みずほ) 北海道浦河郡浦河町
瑞穂(みずほ) 北海道空知郡奈井江町
瑞穂(みずほ) 栃木県宇都宮市
瑞穂(みずほ) 北海道名寄市
瑞穂(みずほ) 石川県鳳珠郡能登町
瑞穂町(みずほちょう) 兵庫県伊丹市
瑞穂町(みずほちょう) 神奈川県横浜市神奈川区
瑞穂町(みずほちょう) 岐阜県岐阜市
瑞穂町(みずほちょう) 山口県下松市
瑞穂町(みずほちょう) 愛知県豊田市
瑞穂町(みずほちょう) 北海道富良野市
瑞穂町(みずほちょう) 愛知県半田市 November 11, 2025
1RP
京都府京都市北区紫野大徳寺町53にある大徳寺(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺の聖地群史跡群水辺群の全地点と、それら周辺一帯広めで。
https://t.co/FsdZoviwhE
大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。
山号は龍宝山(りゅうほうざん)。
本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、倭国の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。
本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。
なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。
11歳の時、地元の大寺院である圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚め、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。
これが大徳寺の起源という。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。
寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
また、花園天皇や光厳天皇ら歴代天皇、中御門経継、守良親王、新田義貞などの有力貴族からの寄進を受け、1333年ころには播磨、摂津、紀伊などの畿内各地に加え、信濃、下総、美濃のなど広範囲にわたって延7,600石の寺領を有していた。
しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。
五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。
このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災、そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興。
また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。
大徳寺山門供養之偈 春屋宗园
これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、天正17年(1589年)には千利休によって山門・金毛閣が完成している。
利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。
利休は山門を修復した後、住職の春屋宗園に山門の供養を書かせたが、それにより豊臣秀吉を怒らせたとされる。
江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。
近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。
この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。
なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。
【境内】
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[3]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に小田原藩主稲葉正勝の遺志により、子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる倭国様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(三門、重要文化財) - 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。このテキストは、千利休が住職の春屋宗園に書かせた山門の寄進の偈に関するもので、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」である。天井画の龍図は長谷川等伯の作。額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
【塔頭】
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。
2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
https://t.co/vGc3w1xogf
聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。
聖護院の南西には、「聖護院の森」の鎮守として知られる熊野神社があり、「京の熊野三山」(残り2つは熊野若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された[3]。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
【地名】
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。
和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[4]。
【歴史】
当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。
増誉は師である円珍の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた[3]。
この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられた他、更に都の熊野神社の近くにあり、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を上皇より下賜された[3]。
こうして増誉は新たな寺名として「聖体護持」から文字を採って聖護院と改名し[3]、熊野神社を鎮守社とした。
ただし、増誉および増智(藤原師実の子)の時代には「白河房」と呼ばれており、「聖護院」の名称が登場するのはその後を継いだ覚忠の時代である(『兵範記』保元3年10月20日条・同仁安2年4月26日条)[5]。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した[3]。
増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。
この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した[3]。
後に熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したため、熊野との結びつきが一層深まった。
聖護院は長く皇族もしくは摂関家出身の門跡が入っていたが、後嵯峨上皇の皇子の覚助法親王が70年にわたって門跡の地位にあって園城寺長吏・鶴岡八幡宮別当・熊野三山検校を兼ね、門跡寺院としての地位を確立させた。 November 11, 2025
1RP
坂井(さかい) 長野県東筑摩郡筑北村
堺(さかい) 和歌山県日高郡みなべ町
境(さかい) 新潟県新発田市
坂井(さかい) 鹿児島県熊毛郡中種子町
境(さかい) 山梨県甲斐市
境(さかい) 東京都武蔵野市
坂井(さかい) 千葉県館山市
境(さかい) 高知県土佐郡土佐町
境(さかい) 富山県下新川郡朝日町
坂井(さかい) 新潟県胎内市
境(さかい) 長野県伊那市
坂井(さかい) 京都府船井郡京丹波町
境東(さかいあずま) 群馬県伊勢崎市
境伊与久(さかいいよく) 群馬県伊勢崎市
境小此木(さかいおこのぎ) 群馬県伊勢崎市
境女塚(さかいおなづか) 群馬県伊勢崎市
境上武士(さかいかみたけし) 群馬県伊勢崎市
境上渕名(さかいかみふちな) 群馬県伊勢崎市
境上矢島(さかいかみやじま) 群馬県伊勢崎市
界川(さかいがわ) 北海道札幌市中央区
境川(さかいがわ) 和歌山県有田郡有田川町
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
境川(さかいがわ) 福岡県北九州市戸畑区
境川(さかいがわ) 岐阜県岐阜市
境川(さかいがわ) 大阪府大阪市西区
境川町石橋(さかいがわちょういしばし) 山梨県笛吹市
境川町大窪(さかいがわちょうおおくぼ) 山梨県笛吹市
境川町大黒坂(さかいがわちょうおおぐろさか) 山梨県笛吹市
境川町大坪(さかいがわちょうおおつぼ) 山梨県笛吹市
境川町小黒坂(さかいがわちょうこぐろさか) 山梨県笛吹市
境川町小山(さかいがわちょうこやま) 山梨県笛吹市
境川町寺尾(さかいがわちょうてらお) 山梨県笛吹市
境川町藤垈(さかいがわちょうふじぬた) 山梨県笛吹市
境川町坊ケ峰(さかいがわちょうぼうがみね) 山梨県笛吹市
境川町前間田(さかいがわちょうまえまだ) 山梨県笛吹市
境川町三椚(さかいがわちょうみつくぬぎ) 山梨県笛吹市
境木島(さかいきじま) 群馬県伊勢崎市
境木町(さかいぎちょう) 神奈川県横浜市保土ケ谷区
境木本町(さかいぎほんちょう) 神奈川県横浜市保土ケ谷区
境興屋(さかいこうや) 山形県東田川郡庄内町
境興野(さかいこうや) 山形県酒田市
境栄(さかいさかえ) 群馬県伊勢崎市
坂井沢(さかいざわ) 富山県中新川郡立山町
坂石(さかいし) 埼玉県飯能市
坂石町分(さかいしまちぶん) 埼玉県飯能市
境島村(さかいしまむら) 群馬県伊勢崎市
境下武士(さかいしもたけし) 群馬県伊勢崎市
境下渕名(さかいしもふちな) 群馬県伊勢崎市
境新(さかいしん) 新潟県阿賀野市
境新栄(さかいしんえい) 群馬県伊勢崎市
坂井新田(さかいしんでん) 新潟県妙高市
酒井新田(さかいしんでん) 山形県酒田市
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
境新田(さかいしんでん) 新潟県阿賀野市
境島(さかいじま) 茨城県稲敷市
境島(さかいじま) 千葉県香取市
境宿(さかいじゅく) 静岡県湖西市
坂井砂山(さかいすなやま) 新潟県新潟市西区
境関(さかいぜき) 青森県弘前市
境田(さかいだ) 青森県上北郡おいらせ町
堺田(さかいだ) 山形県最上郡最上町
境田(さかいだ) 秋田県仙北郡美郷町
酒井田(さかいだ) 福岡県八女市
境田(さかいだ) 茨城県つくば市
境田町(さかいだちょう) 岩手県下閉伊郡山田町
境田町(さかいだちょう) 岩手県盛岡市
境谷(さかいだに) 京都府舞鶴市
境谷(さかいだに) 和歌山県岩出市
境田町(さかいだまち) 山形県山形市
坂市(さかいち) 青森県弘前市
境町(さかいちょう) 鹿児島県出水市
堺町堀川通正面上る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町(さかいちょう) 奈良県大和郡山市
堺町(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町鍵屋町通室町西入(さかいちょう) 京都府京都市下京区
坂井町(さかいちょう) 愛媛県新居浜市
坂井町(さかいちょう) 京都府京都市中京区
堺町室町通的場上る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町室町通鍵屋町下る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
境町(さかいちょう) 福島県西白河郡矢吹町
堺町堀川通旧花屋町東入下る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町的場通室町東入(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町室町通六条上る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
坂井町(さかいちょう) 愛媛県新居浜市
坂井町(さかいちょう) 京都府京都市中京区
堺町室町通的場上る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
堺町室町通鍵屋町下る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
境町(さかいちょう) 福島県西白河郡矢吹町
堺町堀川通旧花屋町東入下る(さかいちょう) 京都府京都市下京区
坂井町朝日(さかいちょうあさひ) 福井県坂井市
坂井町今井(さかいちょういまい) 福井県坂井市
坂井町大味(さかいちょうおおみ) 福井県坂井市
坂井町折戸(さかいちょうおりと) 福井県坂井市
坂井町上新庄(さかいちょうかみしんじょう) 福井県坂井市
坂井町上関(さかいちょうかみぜき) 福井県坂井市
坂井町上兵庫(さかいちょうかみひょうご) 福井県坂井市
坂井町河和田(さかいちょうかわだ) 福井県坂井市
坂井町木部新保(さかいちょうきべしんぼ) 福井県坂井市
坂井町木部東(さかいちょうきべひがし) 福井県坂井市
坂井町清永(さかいちょうきよなが) 福井県坂井市
坂井町蔵垣内(さかいちょうくらがいち) 福井県坂井市
堺町五条通高倉西入(さかいちょうごじょうどおりたかくらにしいる) 京都府京都市下京区
堺町五条通高倉東入(さかいちょうごじょうどおりたかくらひがしいる) 京都府京都市下京区
坂井町五本(さかいちょうごほん) 福井県坂井市
坂井町御油田(さかいちょうごゆうでん) 福井県坂井市
坂井町定旨(さかいちょうさだむね) 福井県坂井市
坂井町島(さかいちょうしま) 福井県坂井市
坂井町下新庄(さかいちょうしもしんじょう) 福井県坂井市
坂井町下関(さかいちょうしもぜき) 福井県坂井市
坂井町下兵庫(さかいちょうしもひょうご) 福井県坂井市
坂井町新庄(さかいちょうしんじょう) 福井県坂井市
堺町高倉通五条下る(さかいちょうたかくらどおりごじょうさがる) 京都府京都市下京区
坂井町高柳(さかいちょうたかやなぎ) 福井県坂井市
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
坂井町蛸(さかいちょうたこ) 福井県坂井市
坂井町田島(さかいちょうたじま) 福井県坂井市
坂井町田島窪(さかいちょうたじまくぼ) 福井県坂井市
坂井町徳分田(さかいちょうとくぶんでん) 福井県坂井市
坂井町長畑(さかいちょうながばたけ) 福井県坂井市
坂井町長屋(さかいちょうながや) 福井県坂井市
坂井町西(さかいちょうにし) 福井県坂井市
坂井町東(さかいちょうひがし) 福井県坂井市
坂井町東荒井(さかいちょうひがしあらい) 福井県坂井市
坂井町東中野(さかいちょうひがしなかの) 福井県坂井市
坂井町東長田(さかいちょうひがしながた) 福井県坂井市
坂井町福島(さかいちょうふくしま) 福井県坂井市
坂井町宮領(さかいちょうみやりょう) 福井県坂井市
坂井町若宮(さかいちょうわかみや) 福井県坂井市
境堤(さかいつつみ) 宮城県亘理郡亘理町
坂出町(さかいでちょう) 香川県坂出市
境寺町(さかいでらちょう) 福井県福井市
境百々(さかいどうどう) 群馬県伊勢崎市
境百々東(さかいどうどうひがし) 群馬県伊勢崎市
坂井戸町(さかいどちょう) 愛知県名古屋市西区
境中島(さかいなかじま) 群馬県伊勢崎市
境西今井(さかいにしいまい) 群馬県伊勢崎市
酒井西町(さかいにしまち) 佐賀県鳥栖市
酒井根(さかいね) 千葉県柏市
境根町(さかいねちょう) 愛知県名古屋市天白区
境野(さかいの) 兵庫県宝塚市
境野(さかいの) 北海道常呂郡置戸町
境野(さかいの) 福井県丹生郡越前町
境野(さかいの) 佐賀県西松浦郡有田町
境野(さかいの) 福島県大沼郡会津美里町
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
境ノ内(さかいのうち) 福島県石川郡石川町
境ノ沢(さかいのさわ) 宮城県刈田郡七ヶ宿町
境野新(さかいのしん) 富山県富山市
境之谷(さかいのたに) 神奈川県横浜市西区
境野町(さかいのちょう) 群馬県桐生市
境萩原(さかいはぎわら) 群馬県伊勢崎市
境原(さかいはら) 和歌山県橋本市
境橋町(さかいばしちょう) 大阪府寝屋川市
境林(さかいばやし) 栃木県矢板市
境原(さかいばら) 和歌山県和歌山市
坂井東(さかいひがし) 新潟県新潟市西区
境東新井(さかいひがしあらい) 群馬県伊勢崎市
酒井東町(さかいひがしまち) 佐賀県鳥栖市
堺東町(さかいひがしまち) 新潟県長岡市
境平塚(さかいひらづか) 群馬県伊勢崎市
境別所(さかいべっしょ) 神奈川県足柄上郡中井町
境保泉(さかいほずみ) 群馬県伊勢崎市
酒井町(さかいまち) 石川県羽咋市
堺町(さかいまち) 広島県広島市中区
堺町(さかいまち) 新潟県長岡市
堺町(さかいまち) 奈良県磯城郡田原本町
堺町(さかいまち) 北海道小樽市
堺町(さかいまち) 兵庫県姫路市
坂井町(さかいまち) 大分県日田市
堺町(さかいまち) 福岡県北九州市小倉北区
坂井町(さかいまち) 岐阜県岐阜市
堺町(さかいまち) 大阪府岸和田市
堺町(さかいまち) 愛知県豊川市
堺町(さかいまち) 高知県高知市
堺町(さかいまち) 岡山県津山市
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
堺町(さかいまち) 北海道小樽市
堺町西(さかいまちにし) 北海道浦河郡浦河町
堺町東(さかいまちひがし) 北海道浦河郡浦河町
境松(さかいまつ) 青森県黒石市
境松(さかいまつ) 茨城県つくば市
境松(さかいまつ) 愛知県名古屋市緑区
坂井道上(さかいみちうえ) 福島県喜多方市
境三ツ木(さかいみつぎ) 群馬県伊勢崎市
境美原(さかいみはら) 群馬県伊勢崎市
境目町(さかいめまち) 熊本県宇土市
境免(さかいめん) 福島県須賀川市
境森(さかいもり) 青森県南津軽郡田舎館村
境山(さかいやま) 宮城県宮城郡七ヶ浜町
境米岡(さかいよねおか) 群馬県伊勢崎市
下境(しもさかい) 宮城県遠田郡美里町
下坂井(しもさかい) 新潟県三条市
下境(しもさかい) 青森県上北郡おいらせ町
下地町境田(しもじちょうさかいだ) 愛知県豊橋市
新境町(しんさかいちょう) 宮城県石巻市
新堺丁(しんさかいちょう) 和歌山県和歌山市
新境堀下(しんさかいぼりした) 宮城県遠田郡涌谷町
新田境町(しんでんさかいまち) 大阪府大東市
須玉町境之澤(すたまちょうさかいのさわ) 山梨県北杜市
瀬峰大境前(せみねおおさかいまえ) 宮城県栗原市
蘇原坂井町(そはらさかいちょう) 岐阜県各務原市
高久田境(たかくださかい) 福島県須賀川市
竹野町草飼(たけのちょうくさかい) 兵庫県豊岡市
建部堺町(たてべさかいちょう) 滋賀県東近江市
千種海岸(ちぐさかいがん) 千葉県市原市
千代田町境原(ちよだちょうさかいばる) 佐賀県神埼市
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
築館境田(つきだてさかいだ) 宮城県栗原市
峠境(とうげさかい) 宮城県伊具郡丸森町
戸塚境町(とづかさかいちょう) 埼玉県川口市
豊里町境沢(とよさとちょうさかいざわ) 宮城県登米市
椥辻草海道町(なぎつじくさかいどうちょう) 京都府京都市山科区
勿来町酒井(なこそまちさかい) 福島県いわき市
楢山川口境(ならやまかわぐちさかい) 秋田県秋田市
鳴子温泉境松(なるこおんせんさかいまつ) 宮城県大崎市
南濃町境(なんのうちょうさかい) 岐阜県海津市
西境町(にしさかいちょう) 京都府京都市下京区
西堺町(にしさかいまち) 京都府京都市伏見区
西境松町(にしさかいまつちょう) 岐阜県関市
野口町坂井(のぐちちょうさかい) 兵庫県加古川市
野村町坂石(のむらちょうさかいし) 愛媛県西予市
羽黒惣境(はぐろそうさかい) 愛知県犬山市
花泉町涌津境(はないずみちょうわくつさかい) 岩手県一関市
春江町境(はるえちょうさかい) 福井県坂井市
春江町境上町(はるえちょうさかいかみちょう) 福井県坂井市
春江町境元町(はるえちょうさかいもとまち) 福井県坂井市
東境町(ひがしさかいちょう) 京都府京都市下京区
東堺町(ひがしさかいまち) 京都府京都市伏見区
深草開土口町(ふかくさかいどぐちちょう) 京都府京都市伏見区
深草開土町(ふかくさかいどちょう) 京都府京都市伏見区
福富笠海道(ふくとみかさかいどう) 岐阜県岐阜市
藤井町坂井(ふじいまちさかい) 山梨県韮崎市
二ツ屋境(ふたつやさかい) 秋田県大館市
古川境野宮(ふるかわさかいのみや) 宮城県大崎市
戸坂出江(へさかいづえ) 広島県広島市東区
南酒出(みなみさかいで) 茨城県那珂市
峰山町堺(みねやまちょうさかい) 京都府京丹後市
「さかい」を含む地名— 308 件
「さかい」を含む町域名
美馬町境目(みまちょうさかいめ) 徳島県美馬市
村岡区境(むらおかくさかい) 兵庫県美方郡香美町
八百屋町堺町通四条上る(やおやちょうさかいまちどおり4じょうあがる) 京都府京都市中京区
八百屋町堺町通錦小路下る(やおやちょうさかいまちどおりにしきこうじさがる) 京都府京都市中京区
山川町境谷(やまかわちょうさかいだに) 徳島県吉野川市
山目境(やまのめさかい) 岩手県一関市
横野境塚町(よこのさかいづかちょう) 愛知県稲沢市
和坂稲荷町(わさかいなりちょう) 兵庫県明石市
世界救世教(大本教の系列っぽい)
https://t.co/NdMamuBIbr
静岡県熱海市の全体と、周辺一帯広めで。
静岡県熱海市桃山町26-1にある世界救世教本部、熱海瑞雲郷 (救世会館)・MOA美術館と、周辺一帯広めで。
静岡県熱海市春日町14-7にある世界救世教東山荘(旧石井健吾別邸)と、周辺一帯。
静岡県伊豆の国市の全体と、周辺一帯。
静岡県伊豆の国市浮橋1606-2にある大仁瑞泉郷(不気味!!!)と、周辺一帯広めで。
神奈川県足柄下郡箱根町の全体と、周辺一帯広めで。
神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300にある箱根美術館と、箱根町強羅の全域と、これら周辺一帯が、今の危険予想地点です。
神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1246−112にある碧雲荘と、周辺一帯。
神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1300にある大涌谷駅と大涌谷と、南へ約800メートルにそびえる冠ヶ岳の山頂(危険度最高レベル!!!)と、その南隣にそびえる箱根山の山頂(危険度最高レベル!!)と、これら周辺一帯広めで。
神奈川県足柄下郡箱根町の山一覧の全ての山頂と、それら周辺一帯広めの地下深くが、今の危険予想地点です!!!!危険度最高レベル!!!!!
https://t.co/NiSyKbNRTb
1
塔ノ峰
2
浅間山
3
白銀山
4
鷹巣山
5
丸山
6
二子山
7
文庫山
8
箱根山
9
早雲山
10
明神ケ岳
11
屏風山
12
駒ケ岳
13
大観山
14
神山
15
冠ケ岳=危険度最高レベル!!!
16
小塚山
17
箱根山=危険度最高レベル!!!
18
孫助山
19
台ケ岳
20
畑引山
21
箱根山
22
三国山
23
箱根山
神奈川県足柄下郡箱根町の橋・トンネル一覧
https://t.co/cwzzllgxI4
1
湯本大橋
2
旭橋
3
新旭橋
4
千歳橋
5
宮城野橋
6
黒岩橋
7
黒崎橋
神奈川県足柄下郡箱根町の河川・湖沼・海・池・ダム一覧
https://t.co/cCdXuxwMt9
1
早川
2
須雲川
3
蛇骨川
4
お玉ケ池
5
精進池
6
早川
7
芦ノ湖
8
芦ノ湖
9
早川
10
早川
神奈川県足柄下郡箱根町の花の名所一覧
https://t.co/FL2bKF7Jsf
1
小湧谷蓬莱園
2
小田急山のホテル
3
箱根湿生花園
https://t.co/jJdBYSNQqP
足柄下郡箱根町の神社・御宮(神社総数は15社)を知る
https://t.co/bSKZYlbb2f
神奈川県足柄下郡箱根町のお寺【17カ寺】の統計一覧
京都府京都市右京区嵯峨広沢北下馬野町4-1にある京都平安郷・岡田茂吉記念館と、周辺一帯。
京都府綾部市田野町才ケ首にある天王平奥津城(出口なお、出口王仁三郎墓)
東京都世田谷区上野毛(かつては玉川郷と富士見亭があった)の全域と、周辺一帯。
東京都台東区橋場町の東方之光の碑あたり(明主の生誕地)。
千葉県安房郡鋸南町の全部と、周辺一帯。
千葉県安房郡鋸南町元名にそびえる鋸山の山頂と、周辺一帯広めで。
千葉県富津市の全部と、周辺一帯。
福井県吉田郡永平寺町竹原41−1にある光明神玉神宮と、周辺一帯広めで。
大阪府富田林市喜志にあるパーフェクトリバティー教団 初代教祖奥津城(墓地)
広島県東広島市安芸津町風早にある奥津城跡
https://t.co/j5jlqs0xz7
「奥津」を含む地名— 4 件
「奥津」を含む町域名
奥津(おくつ) 岡山県苫田郡鏡野町
奥津川西(おくつかわにし) 岡山県苫田郡鏡野町
奥津川(おくつがわ) 岡山県津山市
美杉町奥津(みすぎちょうおきつ) 三重県津市
https://t.co/IeVD5BEqGd
「瑞」を含む地名— 4 件
「瑞」を含む市区町村
名古屋市瑞穂区(なごやしみずほく) 愛知県
西多摩郡瑞穂町(にしたまぐんみずほまち) 東京都
瑞浪市(みずなみし) 岐阜県
瑞穂市(みずほし) 岐阜県
https://t.co/t4mFMljjXL
「瑞」を含む地名— 79 件
「瑞」を含む町域名
上奈良町瑞穂(かみならちょうみずほ) 愛知県江南市
木越町瑞樹団地(きごしまちみずきだんち) 石川県金沢市
古知野町瑞穂(こちのちょうみずほ) 愛知県江南市
勝瑞(しょうずい) 徳島県板野郡藍住町
勝瑞幸島(しょうずいこうじま) 徳島県板野郡藍住町
勝瑞正喜地(しょうずいしょうきち) 徳島県板野郡藍住町
勝瑞成長(しょうずいせいちょう) 徳島県板野郡藍住町
勝瑞東勝地(しょうずいひがしかつち) 徳島県板野郡藍住町
瑞雲町(ずいうんちょう) 岐阜県岐阜市
瑞応(ずいおう) 高知県高岡郡佐川町
瑞岩寺(ずいがんじ) 岐阜県揖斐郡揖斐川町
瑞光(ずいこう) 大阪府大阪市東淀川区
瑞光院前町(ずいこういんまえちょう) 京都府京都市上京区
瑞梅寺(ずいばいじ) 福岡県糸島市
瑞鳳(ずいほう) 石川県鳳珠郡穴水町
瑞龍町(ずいりゅうちょう) 茨城県常陸太田市
瑞慶覧(ずけらん) 沖縄県中頭郡北中城村
蘇原瑞雲町(そはらずいうんちょう) 岐阜県各務原市
蘇原瑞穂町(そはらみずほちょう) 岐阜県各務原市
禎瑞(ていずい) 愛媛県西条市
鳴滝瑞穂町(なるたきみずほちょう) 京都府京都市右京区
西瑞江(にしみずえ) 東京都江戸川区
新田瑞木町(にったみずきちょう) 群馬県太田市
早来瑞穂(はやきたみずほ) 北海道勇払郡安平町
東旭川町瑞穂(ひがしあさひかわちょうみずほ) 北海道旭川市
東瑞江(ひがしみずえ) 東京都江戸川区
風連町瑞生(ふうれんちょうずいしょう) 北海道名寄市
鳳瑞町(ほうずいちょう) 京都府京都市上京区
細川町瑞穂(ほそかわちょうみずほ) 兵庫県三木市
瑞江(みずえ) 東京都江戸川区
「瑞」を含む地名— 79 件
「瑞」を含む町域名
瑞ケ丘(みずがおか) 兵庫県神戸市垂水区
瑞ケ丘(みずがおか) 兵庫県伊丹市
水島北瑞穂町(みずしまきたみずほちょう) 岡山県倉敷市
水島南瑞穂町(みずしまみなみみずほちょう) 岡山県倉敷市
瑞波(みずなみ) 新潟県新発田市
瑞原(みずはら) 兵庫県伊丹市
瑞治(みずはる) 北海道網走郡美幌町
瑞穂(みずほ) 北海道虻田郡倶知安町
瑞穂(みずほ) 岐阜県養老郡養老町
瑞穂(みずほ) 長野県飯山市
瑞穂(みずほ) 千葉県千葉市花見川区
瑞穂(みずほ) 北海道浦河郡浦河町
瑞穂(みずほ) 北海道空知郡奈井江町
瑞穂(みずほ) 栃木県宇都宮市
瑞穂(みずほ) 北海道名寄市
瑞穂(みずほ) 石川県鳳珠郡能登町
瑞穂町(みずほちょう) 兵庫県伊丹市
瑞穂町(みずほちょう) 神奈川県横浜市神奈川区
瑞穂町(みずほちょう) 岐阜県岐阜市
瑞穂町(みずほちょう) 山口県下松市
瑞穂町(みずほちょう) 愛知県豊田市
瑞穂町(みずほちょう) 北海道富良野市
瑞穂町(みずほちょう) 愛知県半田市
瑞穂町(みずほちょう) 愛知県津島市
瑞穂町伊福乙(みずほちょういふくおつ) 長崎県雲仙市
瑞穂町伊福甲(みずほちょういふくこう) 長崎県雲仙市
瑞穂町川澄(みずほちょうかわすみ) 愛知県名古屋市瑞穂区
瑞穂町古部乙(みずほちょうこべおつ) 長崎県雲仙市
瑞穂町古部甲(みずほちょうこべこう) 長崎県雲仙市
瑞穂町西郷乙(みずほちょうさいごうおつ) 長崎県雲仙市
「瑞」を含む地名— 79 件
「瑞」を含む町域名
瑞穂町西郷己(みずほちょうさいごうき) 長崎県雲仙市
瑞穂町西郷甲(みずほちょうさいごうこう) 長崎県雲仙市
瑞穂町西郷庚(みずほちょうさいごうこう) 長崎県雲仙市
瑞穂町西郷辛(みずほちょうさいごうしん) 長崎県雲仙市
瑞穂町西郷丁(みずほちょうさいごうてい) 長崎県雲仙市
瑞穂町西郷丙(みずほちょうさいごうへい) 長崎県雲仙市
瑞穂町西郷戊(みずほちょうさいごうぼ) 長崎県雲仙市
瑞穂町西藤塚(みずほちょうにしふじつか) 愛知県名古屋市瑞穂区
瑞穂町山の畑(みずほちょうやまのばた) 愛知県名古屋市瑞穂区
瑞穂通(みずほとおり) 愛知県名古屋市瑞穂区
瑞穂豊(みずほとよ) 長野県飯山市
瑞穂通(みずほどおり) 兵庫県神戸市垂水区
瑞穂通(みずほどおり) 愛知県春日井市
瑞穂野町(みずほのちょう) 栃木県足利市
瑞穂東(みずほひがし) 北海道天塩郡豊富町
瑞穂町(みずほまち) 福岡県大野城市
瑞穂町(みずほまち) 富山県高岡市
瑞穂南(みずほみなみ) 北海道天塩郡豊富町
留辺蘂町瑞穂(るべしべちょうみずほ) 北海道北見市
出羽三山
https://t.co/lmuPDd0rba
山形県鶴岡市羽黒町川代にそびえる月山の山頂(標高1984メートル)と、山頂南隣に建つ月山神社本宮(修験道聖地)と、月山頂上小屋とトイレと、三県の境界点あたりと、これら周辺一帯広めで
山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山にそびえる羽黒山の山頂(標高414メートル)と、山頂に立つ出羽神社と、出羽三山神社と、これら周辺一帯の聖地群史跡群水辺群と、これら周辺一帯。
山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山33−14にある羽黒山五重塔(国宝)と、周辺の聖地群史跡群水辺群と、これら周辺一帯。
山形県西村山郡西川町志津にそびえる活火山である湯殿山の山頂(標高)と、北方向へ約1キロに位置する湯殿山神社本宮と、これら周辺一帯広めで。
山形県東田川郡庄内町立谷澤字本澤31にある月山神社と、その由緒関係地点群と、それら周辺の聖地群史跡群名所群水辺群山岳群山頂と、それら周辺一帯が、今の危険予想地点です。
山形県西村山郡西川町岩根沢にある岩根沢三山神社と、その由緒関係地点群と、それら周辺の聖地群史跡群名所群水辺群山岳群山頂と、それら周辺一帯が、今の危険予想地点です。
今日も、九頭竜の関係地点群も、超危険であろう!!!!まさにまさに極悪クズども!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
逆に!!!!!九頭竜ども全員とその関係者全員!!!を今すぐ皆殺し焼殺せよ!!!!!!即時殲滅焼殺聖絶消去せよ!!!!!!!!!
奴等を一匹たりとも一人たりとも生かしてはならぬ!!!!!!!!!!!
極悪クズどもの肉体も生命も魂も!!!!焼いて焼いて焼き滅ぼせや!!!!!!!必ず!!!!! November 11, 2025
1RP
@FrozenFrogSuwa1 瑞雲は、弱い艦爆くらいの認識でいいかもですね。一応対空があるので制空争いに参加できます。が、瑞雲自体の性能は低いので未帰還が多くなってしまいます。しかし、制空権を失って敵戦艦らに連撃されるくらいなら瑞雲ガン積みして最低でも制空拮抗くらいに留めておきたいところですね November 11, 2025
@FrozenFrogSuwa1 確か2-5の場合だと、例えば鈴谷ならば瑞雲×3とドラム缶の装備で良かったような気がしますね。うろ覚えですが・・・なお、搭載数が少ないスロットにドラム缶を装備することを忘れずに November 11, 2025
アッ...
ランランのCIあるから瑞雲載せて広角砲抜いたつもりが、徹甲弾抜いてた...
けっこうこれで行ってたヨ...... https://t.co/SxGcfIaS68 November 11, 2025
がんと、人間関係すごい似てる
タイミングを見計らってやる
私は、一見ぼーっとしているが、頭の中では全部計算しながら動いている
だから、わざと言われないために、私にかかった費用は、全額親に返金した
それと、必ず傲慢妹が、失敗するのを予測し、待っていた
案の定失敗した
そのタイミングで一気にこっちのほうでやった
計算してる、いつも
頭を使うゲームが子供の頃から大好きで
これがすごい強かったんです。
毎回必ず勝つ
これは、遺伝なのか?
タイミングってあって、そのタイミングを
うまく利用する
じゃ、親の介護大変となるが
それも考えて、だから、おかんの子分看護師親子に
色々、送ったり、雇ったりしてる
大変でも仕事と両立ができるようにこれまた
設定している
全部計算済みなんです。
一見、ボケーっとしてるが、頭の中では
全て計算して動いてる
肝腎要は、勝つまでは、絶対に相手に見せない
それで負けたことないのよねー
今回完全に決定したから、あえて書いた
だからと言って、親の財産は、親が好きに使ったらいい
親に頼らなくても、医療の世界で
私はやっていけるから
王瑞雲先生のおかげです。
王瑞雲先生は、今は診療してないと思うよ
海外にいると聞いたし
私の代で王瑞雲先生の教えは終了したんじゃないかな
あの時、医学を勉強してなかったら今はなかった
全て手に入れたが、1つミスったのが
私に似た女の子が欲しかった。
男の子は使えないからいらない
強くて、計算できる女の子が欲しかった
これが、唯一の私のミスである November 11, 2025
@qkotoyh 最上には夜間瑞雲で2連撃撃って欲しいのが本音ですけど、計算すると50%ぐらいで瑞雲全滅してるんですよね
代案で僚艦突撃させるもの良いけど夜戦迄に金剛榛名が両方生き残ってる姿が浮かばないw
矢矧連撃でもボスと随伴の装甲抜くから数減らしに2番艦に置こうかしら マジで一撃分足りない November 11, 2025
うわ〜瑞雲堂の銅くつわ花留め出てた!未使用でこの綺麗さ羨ましすぎて震える♡
茶道具 瑞雲堂造 銅製 くつわ 轡 共箱花留め 共箱
https://t.co/e8tYt5RHbY November 11, 2025
少し設置準備に予定より時間が掛かっているようですが、呉鎮守府エリアでのあの1/1原寸大「瑞雲」の展開準備が進んでいます。
そんな中、あの素敵なコンビニ #ローソン の皆さんが #呉鎮守府 に来訪する瑞雲提督及び瑞雲ファンに向けて、秋冬の支援アイテムを投入予定です!
こちらも、ぜひ!
#瑞雲
瑞雲提督、四航戦提督、そして全ての提督の秋冬の普段使いにも最適……かもです!晩秋の今月末、投入予定!
期間限定のローソン&C2機関【「艦これ」呉鎮守府波止場主力泊地・呉宝町店 】や提督御用達【呉宝町店】にて!
詳しくはこちらからっ!
https://t.co/0kigexjVYk November 11, 2025
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。
大徳寺山門供養之偈 春屋宗园
これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、天正17年(1589年)には千利休によって山門・金毛閣が完成している。
利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。
利休は山門を修復した後、住職の春屋宗園に山門の供養を書かせたが、それにより豊臣秀吉を怒らせたとされる。
江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。
近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。
この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。
なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。
【境内】
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[3]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に小田原藩主稲葉正勝の遺志により、子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる倭国様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(三門、重要文化財) - 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。このテキストは、千利休が住職の春屋宗園に書かせた山門の寄進の偈に関するもので、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」である。天井画の龍図は長谷川等伯の作。額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
【塔頭】
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。
2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
https://t.co/vGc3w1xogf
聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。
聖護院の南西には、「聖護院の森」の鎮守として知られる熊野神社があり、「京の熊野三山」(残り2つは熊野若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された[3]。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
【地名】
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。
和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[4]。
【歴史】
当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。
増誉は師である円珍の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた[3]。
この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられた他、更に都の熊野神社の近くにあり、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を上皇より下賜された[3]。
こうして増誉は新たな寺名として「聖体護持」から文字を採って聖護院と改名し[3]、熊野神社を鎮守社とした。
ただし、増誉および増智(藤原師実の子)の時代には「白河房」と呼ばれており、「聖護院」の名称が登場するのはその後を継いだ覚忠の時代である(『兵範記』保元3年10月20日条・同仁安2年4月26日条)[5]。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した[3]。
増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。
この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した[3]。
後に熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したため、熊野との結びつきが一層深まった。
聖護院は長く皇族もしくは摂関家出身の門跡が入っていたが、後嵯峨上皇の皇子の覚助法親王が70年にわたって門跡の地位にあって園城寺長吏・鶴岡八幡宮別当・熊野三山検校を兼ね、門跡寺院としての地位を確立させた。
ところが、門跡を継がせる予定であった弟子(皇族)が次々と師に先立って死去したために覚助の没後は南朝と北朝間もしくは北朝内部において門跡の地位を巡る争いが発生する、この争いは覚助法親王を継いだ覚誉法親王(花園天皇の皇子)[6]が後光厳天皇の皇子である覚増法親王を後継者に指名した[7]ものの、その覚増法親王が明徳元年(1390年)に急死したことで聖護院は一時断絶の危機に見舞われた[5]。
朝廷や室町幕府では聖護院の後継者選考にあたっていたが、園城寺の院家である常住院門跡で熊野三山検校を兼ねていた良瑜が自身の弟子で実の姪孫でもあった道意(二条良基の子)を推挙して認められた。
この際、良瑜は熊野三山検校を道意に譲り、以降常住院に代わって聖護院が熊野三山検校の地位を務めるようになった[5]。
これによって聖護院は熊野の修験組織を束ねて、最盛期に修験道の山は120余り。
全国に2万5千ヵ寺の末寺を持ったという。
現在は明治初期 神仏分離令 修験廃止令により山も強制的に神社に併合、寺院も江戸幕府の令号に伴い修験道法度にて天台 真言に分け隔て純血の修験寺院は130ヵ寺まで減り慶長18年から今 平成の世迄 色濃く残る《本山派 当山派 参照(幕末 神兵隊により社殿 寺院 本尊 破壊により廃寺)[3]。
道意の没後、年の離れた弟である満意が継承した。
満意は良瑜の没後衰退した常住院を傘下に収めている。
ところがその後継を巡って室町幕府が介入し、既に後継者に内定していた近衛房嗣の子・道興を排除して、足利義教の子である義観が後継者とされた。
ところが、義観が突如隠居を表明して程なく没し、結局は道興が後継者とされた。
応仁の乱においては火災による焼失に加え、門跡である道興が足利義視との親交から西軍への内通が疑われて美濃国へ亡命するなど困難を迎えるが、乱の終結後に赦免された道興が洛北の長谷(現・京都市左京区岩倉長谷町)に移転して再興を図った。
その後は、戦国時代を通じて道興と同じ近衛家出身の門跡が継承(例外である伏見宮貞常親王の子道応も近衛政家の猶子)し、足利将軍家と諸大名とのパイプ役を務めた[5]。
しかし、長谷の仏堂は文明19年(1487年)4月に盗賊の放火によって焼失した。
その後、豊臣秀吉の命により烏丸今出川に移転するが、江戸時代の延宝の大火で延焼してしまう。
こうして延宝4年(1676年)に創建の地である現在地に再興され、現在みられる寺院の姿となった[3]。
享保19年(1734年)11月16日、 聖護院の森にて、呉服商の井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の遊女お俊との心中事件が起きた[3]。
近松半二は、この事件をまとめ、『近頃河原達引』(「お俊・伝兵衛」)という浄瑠璃作品を発表し、現在も上演されている[3]。
天明8年(1788年)の天明の大火の際には光格天皇が宸殿に入り、ここを仮御所としている。
また、安政元年(1854年)の内裏炎上に際しては孝明天皇が一時期仮宮として使用した。
当時の聖護院門跡は光格天皇と同母弟の盈仁法親王であり、当院と皇室は深い関係であった。
元治元年(1864年)2月、京都守護職が当寺寺領の聖護院村に練兵場を置いた[8]。
その関係から、京都守護職・新選組に関連する京都の3か寺で結成した「京都守護職 新選組巡礼会」に加盟している。
慶応4年(1868年)1月8日に聖護院門跡雄仁法親王が還俗して聖護院宮嘉言親王となり、海軍総督等を務めた。
嘉言親王の死後は異母弟で同じく聖護院に入っていた智成親王が継嗣として「聖護院宮」の宮号を継承したが、これが旧門跡との区別が判然としないとして北白川宮に改称された。
嘉言・智成両親王は共に子に恵まれず、二人の兄弟であった元輪王寺門跡の能久親王が北白川宮家を継承したため、皇室に両親王の血統は残らなかった。
しかし能久親王の子孫により、北白川宮家は皇籍離脱後2018年(平成30年)現在に至るまでその血筋が続いている。
1868年(明治元年)の神仏分離令に続き、1872年(明治5年)には修験道廃止令が発布されたため、天台寺門宗に所属することになったが、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、修験宗を設立[9]して天台寺門宗から独立した。 November 11, 2025
おはようございます☀
重大発表!
水曜からTikTokの配信イベント
ゲームスターズに参加!
50位以上入賞で賞金ゲット!
賞金は1分の1瑞雲を見に行く為の
遠征費にします!
#いずも提督 #ゲームスターズ https://t.co/wL6ene13tD https://t.co/fUHRBFzgvO November 11, 2025
あかね噺読了。新章開始のストレス回。一生師匠のハラスメントで一見すると真打になる下地はありそうな魁生が上にあがれなかった話。えー、またストレス溜まりそうな話するんだ。正直、瑞雲大会のリザルトでストレス払拭されていないし、こうなんというかプラスになる要素が欲しいよね。 November 11, 2025
思い出した
確か、今まで紹介してた、お寺の人もみんな同じこと言ってた
不思議とお金が入り、大富豪にはなれないが
普通に生活できるから、神様が助けてくれてるのかなー
と言っていた
しかし、それ、私がたくさんのかたにお寺紹介したからお金が入っただけでは?
とも思うのだ
私は、昔、王瑞雲先生から医学をとにかく学びなさいと言われて4、5年かけて言われたのは全部把握した
それでも納得いかなくて、倭国全国のクリニック、しまいにはお寺の祈祷まで調べたのだが
医学を学んで、患者さんが次々きて、お金には困らなくなった
口コミもたくさんあり、お客様の7割は医療
従事者だから、ますます口コミで人がくる
あの時、医学を勉強してよかったと思うが、勉強てかなりお金がかかるんです。
湯水のごとくお金が出ていくがそれでも勉強しないといけない
大変なんです。
医療は、日々進歩している
前も書いたように、腰痛、肩こり、足の痛み等は
接骨院、整体に通ったら悪化します。
ストレスから昔は胃が痛くなっていた方がたくさんいたが、今は、腰痛、肩こり、足の痛み、がん、あらゆるとこに症状出すことがわかったのです。
アフリカの部族は一日中歩いているが
腰痛の人は、一人もいなかった
倭国のど田舎でも、やはり同じ現象があって
みんな健康なんです
山奥に住んでる人達です。
ストレスは、ものすごい怖い。 November 11, 2025
<ポストの表示について>
本サイトではXの利用規約に沿ってポストを表示させていただいております。ポストの非表示を希望される方はこちらのお問い合わせフォームまでご連絡下さい。こちらのデータはAPIでも販売しております。



