現代社会 トレンド
0post
2025.12.11 02:00
:0% :0% (-/女性)
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
【何もしなくて良いプレイベ】
(多少のチャットは可)
みたいな方がよほどわかりやすい
部屋に入って挨拶した後は自由
読書するもよし、ハウジングを眺めるも良し、主催に質問するも良し
何かしなくちゃと駆られる現代社会の中で、たまにはゆったりと優雅な時間を共に過ごしてみませんか?
みたいな December 12, 2025
〈補足して再掲〉
他意はなしに、素朴な哲学的な疑問として以下の問いを思いつきました。
たとえば、大人が子どもと性的な関係をもつことが法律や倫理により許されない理由として、一般に子どもは判断・同意の能力が未熟だという点が挙げられるけれど、
もしも仮に子どもが大人と同じく成熟した能力を持っている世界線なら、そういう関係は許されるのか?
ここで一つの哲学的問いが浮かびあがる。
子どもの権利は、年齢に付随した権利なのか、発達過程に付随した権利なのか、という本質にかかわる問いだ。
もし前者であるなら、発達の成熟さに関係なく、大人と子どもの間に性的な関係をもつことは許されないとなるが、発達過程に付随する権利なのであれば結論は変わる事になる。
それに、年齢に付随する権利とみる場合、その国・地域で成人年齢になった場合、個々の発達や状況に関係なしに、子どもの権利は消滅することになる排他性を帯びる。
また、年齢に付随する権利とみる場合は「国・時代・文化」などの相対的価値によって成人年齢が変動することがあるので、子どもの権利が年齢に付随する権利とみる場合、大人と子どもの間に性的な関係をもつことが法律的・倫理的に許されないという規範は、普遍的・絶対的なものにはならず、相対的な価値にとどまる。
もちろん、先述した仮定の世界線においても、発達の成熟さに関係なしに、大人と子どもの身体的な力の差をもって否定できるという説も提案されうると思うのだけど、もし身体的な力の差をもって性的関係を結ぶことを否定できるのであれば、そもそも男性と女性の間で性的関係を結ぶこと自体を否定せねばならなくなる。
そもそも、現代社会の性的関係にかかわる議論は、身体的な力の差より、内的な同意の問題が論点にされやすいので、このレベルで議論を交わすことは時代遅れかもしれない。
だから、身体的な力の差という論点は、文脈依存的であり、性的関係の是非を決定づける絶対的な論拠にはならない。そこで、"依存対象となる文脈はなんだろうか?"という問いが浮かびあがる。それが、子どもの権利の本質にかかわるこの問いだ。
ちなみに、子どもの権利の本質を"年齢か発達か"という二項対立におさめず、先述した仮定の世界線においても、子どもが社会内で脆弱的・依存的な存在である説を"子どもの権利の本質"として提案する立場も予想されるのだけど、それは「どうして子どもは脆弱で依存的なのか?」という問いに回答している事を前提とする。しかし、子どもが社会内権力構造において「脆弱で依存的」であるのは、子どもの発達の成熟さを淵源とする課題なのであって、その説は私が最初に述べた「発達説」の域を出ない。
なぜなら、子どもは発達の成熟さが未熟であるから、労働して収入を得ることはできないし、ゆえに経済的にも依存する。とはいえ、経済的な依存という権力構造は、さっきの身体的な力の差という論点と同じく、文脈依存的であり、性的関係の是非を決定づける絶対的な論拠にはならない。もしもこれが絶対的な論拠だというのであれば、たとえば専業主婦や親のすねをかじるニートは性的関係を持つことが許されなくなる。ゆえに、この点を検討してもなお、淵源が発達の成熟さにあることを否認できず、この説の提案は、私が最初に述べた「発達説」の域を出ない。
だから、依然として子どもの権利の本質が"年齢か発達か"という2つの提案は残り続ける。
また、子どもの権利が発達に付随する権利とみる場合、身体は大人だけど発達は6歳児程度などといった障害の当事者は、健常者とは異なり、生涯にわたって子どもの権利を保持できることになる。
もちろん、障害の当事者には、"障害者の権利"という概念はあるものの、子どもの権利と完全に同一な概念なわけでもないし、障害の当事者にはあたらないグレーゾーンの人には難しい問題となる。
これは、子どもの権利の本質に関する問いだ。
それすなわち、もし子どもの権利が発達に付随する権利とみるのなら、先述した例のような知的障害の当事者などは、理論上だと、生涯にわたり、障害者の権利に加え、子どもの権利も併存して保持できることになる。
ところで、政治的・法律的な実務においては、私が最初に提示した「年齢説」と「発達説」をどちらも部分採用して複合的に運用している事が現状なのだけど、それは「子どもの権利はなにを本質に還元しているのか?」の問いに対する答えにはなっておらず、あくまでも実務上の便宜に過ぎないという事に注意が必要だ。
ゆえに「子どもの権利がなにを本質とするのか?」という議論は依然として重要であり、この本質を理論的に明らかにする事ができない限り、普遍的ではない相対的で便宜的な概念に過ぎないことになる。
であるから、子どもの権利という概念が、なにを本質に還元するものなのかは、必ずしも明白ではないようだ。 December 12, 2025
僕の自然由来の重曹クエン酸ソーダの摂取開始日は2020年11月12日💡
1日も欠かさず1日『数回』補って5年以上経過✌️
退職した2022年07月1日から不安な人に安心して『補って』頂けるように心を込めて『毎回』撮影させて頂いてます♥️
2025年12月10日寝る前
撮影5810回目←全てXに掲載
おじひろ49歳、現在1日5回補っています‼️
※体重差や年齢差がありますので摂取成分量はそれぞれ体調と相談しながら決めていきましょう😉
朝・夕・寝る前→重曹クエン酸ソーダ
昼→雪塩クエン酸水
夜→ぬちまーすクエン酸水
⚠️クエン酸は『酸』なのでうがいしてます
※純黒糖は朝・晩に一欠片を口にほりこむ
重曹クエン酸ソーダに雪塩かぬちまーすや、純蜂蜜等3~4つ混ぜて効果を感じておられる人も沢山いらっしゃいます💡
良い報告を沢山頂いているお勧めの商品達♥️
🟠楽天🟠
https://t.co/t21R0UgUc0
🟢アマゾン🟢
https://t.co/zFcfnmO6yp
僕や山ちゃんそして沢山のフォロワーさんが飲んでいるお水について💡
https://t.co/jJtFr3U02O
※コメント欄に続く画像もご覧下さい
僕が動画内で使っているビタミンについてのお問い合わせは、ほんものさがしゆみちゃんへ
⬇️⬇️
@honmonosagasu
血液検査改善
⬇️⬇️
https://t.co/WTnJpneGJd
#おじひろ回復院 ←クリックして『更に最新ボタンをクリック』して自然治癒力を高めた他の事例も沢山ご覧ください🙏
皆さんからの愛が溢れる発信①♥️
⬇️⬇️
https://t.co/5XTfRaswrI
皆さんからの愛が溢れる発信②♥️
⬇️⬇️
https://t.co/pPZS0tumoZ
好転反応事例🤔
⬇️⬇️
https://t.co/vm1oXm40Gt
僕はほぼ外食のみの生活をを継続していても健康🎵
⬇️⬇️
https://t.co/uCbTbqru21
おじひろの身長は169㎝
本日の体重は6kg
※夕方の摂取動画のみ記載します💡
科学に寄りすぎた現代社会加工・遺伝子組み換えや農薬問題(ビタミンミネラルを豊富に含んだ作物が育たない)調理問題(洗いすぎる・茹でるで重炭酸イオン+ナトリウムイオン=重曹やクエン酸にビタミンミネラルか流出)では体液のpH調整がしっかりできない💔
一般の人や病院に通われる人の尿のpHは5~6😢
https://t.co/9ZX0KRWm67
僕含め理解して継続されている人達は、上記問題等が解決するまでは一生補い続けていきます😉✨
https://t.co/XZAAdf7zkP
だって補う事を止めたらこうなっちゃう💔
https://t.co/EAo7sCPWgz
続く
⬇️⬇️ December 12, 2025
〈補足して再掲〉
他意はなしに、素朴な哲学的な疑問として以下の問いを思いつきました。
たとえば、大人が子どもと性的な関係をもつことが法律や倫理により許されない理由として、一般に子どもは判断・同意の能力が未熟だという点が挙げられるけれど、
もしも仮に子どもが大人と同じく成熟した能力を持っている世界線なら、そういう関係は許されるのか?
ここで一つの哲学的問いが浮かびあがる。
子どもの権利は、年齢に付随した権利なのか、発達過程に付随した権利なのか、という本質にかかわる問いだ。
もし前者であるなら、発達の成熟さに関係なく、大人と子どもの間に性的な関係をもつことは許されないとなるが、発達過程に付随する権利なのであれば結論は変わる事になる。
それに、年齢に付随する権利とみる場合、その国・地域で成人年齢になった場合、個々の発達や状況に関係なしに、子どもの権利は消滅することになる排他性を帯びる。
また、年齢に付随する権利とみる場合は「国・時代・文化」などの相対的価値によって成人年齢が変動することがあるので、子どもの権利が年齢に付随する権利とみる場合、大人と子どもの間に性的な関係をもつことが法律的・倫理的に許されないという規範は、普遍的・絶対的なものにはならず、相対的な価値にとどまる。
もちろん、先述した仮定の世界線においても、発達の成熟さに関係なしに、大人と子どもの身体的な力の差をもって否定できるという説も提案されうると思うのだけど、もし身体的な力の差をもって性的関係を結ぶことを否定できるのであれば、そもそも男性と女性の間で性的関係を結ぶこと自体を否定せねばならなくなる。
そもそも、現代社会の性的関係にかかわる議論は、身体的な力の差より、内的な同意の問題が論点にされやすいので、このレベルで議論を交わすことは時代遅れかもしれない。
だから、身体的な力の差という論点は、文脈依存的であり、性的関係の是非を決定づける絶対的な論拠にはならない。そこで、"依存対象となる文脈はなんだろうか?"という問いが浮かびあがる。それが、子どもの権利の本質にかかわるこの問いだ。
ちなみに、子どもの権利の本質を"年齢か発達か"という二項対立におさめず、先述した仮定の世界線においても、子どもが社会内で脆弱的・依存的な存在である説を"子どもの権利の本質"として提案する立場も予想されるのだけど、それは「どうして子どもは脆弱で依存的なのか?」という問いに回答している事を前提とする。しかし、子どもが社会内権力構造において「脆弱で依存的」であるのは、子どもの発達の成熟さを淵源とする課題なのであって、その説は私が最初に述べた「発達説」の域を出ない。
なぜなら、子どもは発達の成熟さが未熟であるから、労働して収入を得ることはできないし、ゆえに経済的にも依存する。とはいえ、経済的な依存という権力構造は、さっきの身体的な力の差という論点と同じく、文脈依存的であり、性的関係の是非を決定づける絶対的な論拠にはならない。もしもこれが絶対的な論拠だというのであれば、たとえば専業主婦や親のすねをかじるニートは性的関係を持つことが許されなくなる。ゆえに、この点を検討してもなお、淵源が発達の成熟さにあることを否認できず、この説の提案は、私が最初に述べた「発達説」の域を出ない。
だから、依然として子どもの権利の本質が"年齢か発達か"という2つの提案は残り続ける。
また、子どもの権利が発達に付随する権利とみる場合、身体は大人だけど発達は6歳児程度などといった障害の当事者は、健常者とは異なり、生涯にわたって子どもの権利を保持できることになる。
もちろん、障害の当事者には、"障害者の権利"という概念はあるものの、子どもの権利と完全に同一な概念なわけでもないし、障害の当事者にはあたらないグレーゾーンの人には難しい問題となる。
これは、子どもの権利の本質に関する問いだ。
それすなわち、もし子どもの権利が発達に付随する権利とみるのなら、先述した例のような知的障害の当事者などは、理論上だと、生涯にわたり、障害者の権利に加え、子どもの権利も併存して保持できることになる。
ところで、政治的・法律的な実務においては、私が最初に提示した「年齢説」と「発達説」をどちらも部分採用して複合的に運用している事が現状なのだけど、それは「子どもの権利はなにを本質に還元しているのか?」の問いに対する答えにはなっておらず、あくまでも実務上の便宜に過ぎないという事に注意が必要だ。
そうした問いが浮かんだのだ。ゆえに、子どもの権利という概念が、なにを本質に還元するものなのかは、必ずしも明白ではないようだ。 December 12, 2025
現代社会で乙女ゲームの悪役令嬢をするのはちょっと大変 - デェタ/二日市とふろう / 第23話「小さな騎士たち」(3) | コミックガルド [ https://t.co/QM0y3NuZrM ]先行課金。平成初期の大蔵省接待汚職のノー◯◯しゃぶしゃぶ。覚えてる。前藤警部がキー。次回楽しみ。
#現代社会で悪役令嬢 #拓銀令嬢 December 12, 2025
よく聞く話だと思うんだけど
実家に帰ると母親、ばーちゃん、親戚の叔母さんが
恋人できた?
結婚いつするの?
子供はいつ頃?
しつこく聞いてくるのは
本能の衝動から来る恋愛感情の延長線にある行動なのよ
事務職、経理職に女性が多いのも本能の仕組みから男性よりこう言う職種に向いているから
こんな風に本能は現代社会の中にも溶け込んでいて
制度や文化などの理性で押さえようとしてもなんだかんだ切っても切り離せないんだよね
そんな身近な男女の違いも織り交ぜながらやって行きます December 12, 2025
『運命を変えるには
人生を懸けよ🙏 ①/3』
「大自然」は言う。
「大自然に、どのように実践するか
どのような意図があるのかを
ご神示・絵姿をいただいてお伺いする。
そして、そのことで
実行する、実行しない
どちらを選択したとしても
「大自然」によってさせられている」
そこではっきり言えるのは
「実行しなければ
『業』の通り生きていく事になる」
運命を「変える」
「変えない・変わらない」
それは自分自身の生き方であって
どのように生きるは
すべて自分自身の責任です。
なぜなら選択肢は
自分の心の中(考え)にあり
「その心を使っているのは
誰であるか?」
ということだけなのです。
....
『運命を変えるには
人生を懸けよ🙏 ②/3』に続く🔜🔜
・
・
・
///////////////////////////////////////
「心」が失われつつある現代社会に
必要なものこそが、『#大自然の法則』です
『大自然の法則(決まりごと)』を知ることで
あなたの #運命 を変えて行くことができます!
--------
#業
#形而上学
#心を救う学び
#魂磨き
--------
大自然・ 宇宙の法則 を毎日発信中!!
運命を変えたい方は、フォロー必須◎◎
/////////////////////////////////////// December 12, 2025
自分の心が疲弊していく』
目に見えない様々な人間関係のしがらみで対立の火種やストレスが多い現代社会におて、自分の心をすり減らすことなく、周りとの関係性を築き自然と協力者が増えていく。
チャンスが巡り仕事の成果が最大化されていく。
敵を作らない人は、ただ衝突を避けて弱いのではなく、自分の念を大切にしながらも相手を尊重し受け入れる。
関係を柔軟にしなやかに調整する。
世代や価値観が多様化する現代に「 December 12, 2025
〈補足して再掲〉
他意はなしに、素朴な哲学的な疑問として以下の問いを思いつきました。
たとえば、大人が子どもと性的な関係をもつことが法律や倫理により許されない理由として、一般に子どもは判断・同意の能力が未熟だという点が挙げられるけれど、
もしも仮に子どもが大人と同じく成熟した能力を持っている世界線なら、そういう関係は許されるのか?
ここで一つの哲学的問いが浮かびあがる。
子どもの権利は、年齢に付随した権利なのか、発達過程に付随した権利なのか、という本質にかかわる問いだ。
もし前者であるなら、発達の成熟さに関係なく、大人と子どもの間に性的な関係をもつことは許されないとなるが、発達過程に付随する権利なのであれば結論は変わる事になる。
それに、年齢に付随する権利とみる場合、その国・地域で成人年齢になった場合、個々の発達や状況に関係なしに、子どもの権利は消滅することになる排他性を帯びる。
また、年齢に付随する権利とみる場合は「国・時代・文化」などの相対的価値によって成人年齢が変動することがあるので、子どもの権利が年齢に付随する権利とみる場合、大人と子どもの間に性的な関係をもつことが法律的・倫理的に許されないという規範は、普遍的・絶対的なものにはならず、相対的な価値にとどまる。
もちろん、先述した仮定の世界線においても、発達の成熟さに関係なしに、大人と子どもの身体的な力の差をもって否定できるという説も提案されうると思うのだけど、もし身体的な力の差をもって性的関係を結ぶことを否定できるのであれば、そもそも男性と女性の間で性的関係を結ぶこと自体を否定せねばならなくなる。
そもそも、現代社会の性的関係にかかわる議論は、身体的な力の差より、内的な同意の問題が論点にされやすいので、このレベルで議論を交わすことは時代遅れかもしれない。
だから、身体的な力の差という論点は、文脈依存的であり、性的関係の是非を決定づける絶対的な論拠にはならない。そこで、"依存対象となる文脈はなんだろうか?"という問いが浮かびあがる。それが、子どもの権利の本質にかかわるこの問いだ。
ちなみに、子どもの権利の本質を"年齢か発達か"という二項対立におさめず、先述した仮定の世界線においても、子どもが社会内で脆弱的・依存的な存在である説を"子どもの権利の本質"として提案する立場も予想されるのだけど、それは「どうして子どもは脆弱で依存的なのか?」という問いに回答している事を前提とする。しかし、子どもが社会内権力構造において「脆弱で依存的」であるのは、子どもの発達の成熟さを淵源とする課題なのであって、その説は私が最初に述べた「発達説」の域を出ない。
なぜなら、子どもは発達の成熟さが未熟であるから、労働して収入を得ることはできないし、ゆえに経済的にも依存する。とはいえ、経済的な依存という権力構造は、さっきの身体的な力の差という論点と同じく、文脈依存的であり、性的関係の是非を決定づける絶対的な論拠にはならない。もしもこれが絶対的な論拠だというのであれば、たとえば専業主婦や親のすねをかじるニートは性的関係を持つことが許されなくなる。ゆえに、この点を検討してもなお、淵源が発達の成熟さにあることを否認できない。
子どもは、社会・家庭・経済とあらゆる側面において権力構造に依存するものの、それは「どうして権力構造に依存しやすいのか?」という問いの回答が、発達の成熟さを前提とするからである。
極論、もしも大人と子どもの発達の成熟さが同等であるという世界線があるのなら、子どもでさえ一国の首相になることさえできる。
いわゆる、"子どもは依存を避けられない"とする説は、往々にして発達の成熟さにかかわる前提をはらんでいるので、発達説の域に回収される説になる。
したがって、権力構造的な脆弱性という説の提案は、私が最初に述べた「発達説」の域を出ない。
また、子どもの発達の成熟さという立場から一旦離れて、私たち人間がそもそも誰かに依存する存在であるからという説も提案されうるのだけど、
もちろん私たち人間は社会的動物として誰かに依存することが必然なことは当然として、それだけではそもそも「大人/子ども」という区分や「子どもの権利」という概念を生じさせる動機が不明になり、なんらかの文脈に依存しなければならず、これらが必要となる絶対的な論拠ではない事がわかる。
よって、子どもの発達の成熟さという立場から一旦離れた説の提案も、文脈依存的であり、それが子どもの権利にかかわる絶対的な論拠にはならない。
たとえば、子どもという社会的地位を理由とした説も提案されうるのだけど、それには「どうして"子ども"という社会的地位が成立したのか?」という問いに対する回答が前提となる。
そもそも、私たちは同じ人間であるのに、法律が「大人/子ども」で分けているのは、現実として発達の成熟さに差異があるからという前提がある。
ゆえに、"子ども"という社会的地位が設定されているのは、発達の未熟さという前提に対する手段的回答の一つに過ぎないのであって、これもまた「発達説」の域を出ない。
いかなる本質もなしに、社会的役割は勝手に生じたりしない。だから、子どもの権利がなにを本質とするのかという議論は、依然として重要である。
ゆえに、依然として子どもの権利の本質が"年齢か発達か"という2つの提案は残り続ける。
また、子どもの権利が発達に付随する権利とみる場合、身体は大人だけど発達は6歳児程度などといった障害の当事者は、健常者とは異なり、生涯にわたって子どもの権利を保持できることになる。
もちろん、障害の当事者には、"障害者の権利"という概念はあるものの、子どもの権利と完全に同一な概念なわけでもないし、障害の当事者にはあたらないグレーゾーンの人には難しい問題となる。
これは、子どもの権利の本質に関する問いだ。
それすなわち、もし子どもの権利が発達に付随する権利とみるのなら、先述した例のような知的障害の当事者などは、理論上だと、生涯にわたり、障害者の権利に加え、子どもの権利も併存して保持できることになる。
ところで、政治的・法律的な実務においては、私が最初に提示した「年齢説」と「発達説」をどちらも部分採用して複合的に運用している事が現状なのだけど、それは「子どもの権利はなにを本質に還元しているのか?」の問いに対する答えにはなっておらず、あくまでも実務上の便宜に過ぎないという事に注意が必要だ。
ちなみに性的関係の例は、話をわかりやすくするための例示であり、そもそもこの問いは「子どもの権利がなにを本質とするのか?」という問題提起であることに留意していただきたい。
ゆえに「子どもの権利がなにを本質とするのか?」という議論は依然として重要であり、この本質を理論的に明らかにする事ができない限り、普遍的ではない相対的で便宜的な概念に過ぎないことになる。
であるから、子どもの権利という概念が、なにを本質に還元するものなのかは、必ずしも明白ではないようだ。 December 12, 2025
<ポストの表示について>
本サイトではXの利用規約に沿ってポストを表示させていただいております。ポストの非表示を希望される方はこちらのお問い合わせフォームまでご連絡下さい。こちらのデータはAPIでも販売しております。



